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「若葉の目覚め」

 

         佐 藤 悟 郎

 

 

 私の生家は、新潟の蒲原平野である。越後の米所で、昔は、その農村も思いもよらぬ程、貧富の差が大きいものだった。私の家は、近隣近郷に名も轟いた大地主だった。目の届かない程の田畑や山林を持ち、数え切れない程多くの小作人を抱えていた。屋敷には石垣が巡らされ、庭は遠州造りで名石や銘木を集めた、見事な庭だった。大広間も幾つもあり、小部屋は数え切れない程ある、豪壮な屋敷だった。

 私と妹の若葉は、そんな環境の中で育った。その頃私の家では、祖父が家長として家を仕切っていた。祖父は、使用人や小作人に対し厳しい人だったが、私と妹には優しい人で、願い事があれば必ずと言ってよいほど聞き入れてくれた。そんな中で、私や妹の戯れごとや、勝手な振る舞いのために、私の家を追われた人が多くいた。自ずと、私と妹は我儘に育った。祖父は、特に妹の若葉を可愛がっていた。

 

 私の父も厳しい人だった。使用人に対しても、私や妹に対しても、厳しい態度だった。その一方で、私の母は無能だった。子供に煌びやかな衣装を着せて微笑み、自分の髪の手入れには時間をかけていた。金持ちの娘だった母のやることだった。

 祖父は、私と妹の教育のために家庭教師を招き、教育をしていた。その家庭教師は、無能な人で祖父の言いなりになって、遊び相手と同じだった。私の父は、それを快く思っていなかった。私がこのような閉鎖的な家から外に向かって出たのは、間もなくのことだった。世の中に学校というものがあって、大勢の子供が集まり、一緒に勉強をしていることを知った。好奇心もあり、私は学校へ行きたいと言った。祖父は余り良い顔をしなかった。母は反対をしていた。

「お前は、本当に町の学校で勉強をやり通す気があるのか。」

父の書斎で、私は父に問い質された。

「はい、町の学校へ行きたいし、やり通します。」

私は、はっきりと父に返事をした。私の返事を聞いて、父は急に微笑んで、私の頭を撫で回した。

 

 私は、町の学校へ行って驚いた。詰襟の学生服を着ているのは、私だけだった。単衣合わせの者、袴を穿いている者がいるだけだった。授業についても、既に家で習ったものが多く、詰まらないものだった。私が、一番嫌だったのは、貧乏人たらしい子供達と一緒にいることだった。もし、島影君がいなかったら、私は町の学校をやめていたと思う。

 私の学校への行き帰りは、いつも車だった。梅雨時のある日、車が迎えに来なかったことがあった。私は仕方なく、脇目も振らず走った。町から大きな川の橋を渡り、土手伝いに走った。私の集落が見える頃、土手の上で佇んでいる一人の少年の姿を見た。その少年は、傘を持っていたが、傘を閉じて雨に濡れながら土手下の方を見つめていた。

「君、その傘を貸してくれないか。」

私は、その少年の傍で立ち止まり、そう言った。袴穿きの少年は、帽子を被ったまま、私に一瞬目を投げたが、また土手下の方を見つめた。

「君、傘を貸してくれないか。私は、澤田の伊部の家の者だ。後からお礼をするから、貸してくれないか。」

私は、伊部の名前を出せば、誰もが言いなりになることを知っていた。でも、その少年は、私に傘を貸す様子もなく、ただ雨の中で濡れていた。

「澤田の伊部君、君は、雨に濡れるのがそんなに嫌か。」

私は、その言葉を聞いて憤慨した。言いなりにならない人がいることは、不愉快で堪らなかったのである。物静かなその少年に、私は返す言葉がなかった。

「雨に濡れているのは、君だけではない。勿論、私だけでもない。あの田圃で働いている人達を見なさい。誰が濡れていない者がいる。畔に働いている女の人、ご老人、私達と同じ年頃の子供たち、皆が濡れているんだ。」

その時になって初めて、その少年が何を見ているのかが分かった。

「伊部君、村まで濡れて行こう。恥ずかしいことじゃないんだ。」

私はそう言われるがまま、その少年と並んで歩いて帰った。

 私が家に帰ると、家の中では大騒ぎが始まった。私が濡れて帰って来たことに、誰に責任があるのかと騒いだのである。私は、騒ぎを傍目にして部屋に入った。私が濡れたことについて、誰にも責任はないと思った。私は、少年に言われ、濡れて帰ってきたのが、ごく当たり前のように思った。

 

 翌朝、私は早く起きた。美しい朝だった。鞄を持つと家を飛び出し、村外れで彼を待っていた。雨が降っていたので、私はコウモリを差し、松の大木の下で長い時間を過ごした。雨で煙る村の道から、袴に白い単衣合わせを着た、昨日の少年が歩いてきた。

「お早ようございます。昨日はどうも。」

私が少年に声をかけると、少年は私に微笑を返した。

 私は、彼と一緒に学校まで歩いた。初めて友達を得た日で、その道中は、実に楽しいものだった。その少年の名前は、島影正吾君であることを知った。学校では、島影君は一年上級の生徒だった。落ち着いた考えの深い人だった。彼に対して、誰もが少年だとは思っていないほどだった。私は、彼を知ってから学校に通うのに、歩く日が多くなった。彼が先に行ったと気付いたときは、車で追いかけていく始末だった。

 島影君は、よく農村社会のことを知っていた。そして問題があることについて、いつも考えていることが多かった。学校へ通う大きな川の堤は、私達二人の社会勉強の場となった。私が島影君の家を尋ねたことがあった。彼の家も私の家ほどの豪壮さはなかったが、相当立派な家だった。

 私の家と違って、和やかな空気が漂っていた。やはり島影の家も地主だったが、小作人や使用人が明るい顔で出入りし、島影の家の人も明るく小作人たちの挨拶に対し、労をねぎらうかのように返礼を尽くしていた。私は、最初、地主としてそのような態度をとるのに不思議さを感じた。それを見ているうちに、人として快い行いだと感ずるようになった。私の家では、小作人が挨拶をしても、軽口で返事をするか、ふんぞり返ったり、知らない振りをしたり、甚だしいときは汚らわしそうにそっぽを向いてしまうのだった。

 私は、家に帰って、母に島影君の家の事を尋ねた。

「島影の家はね、昔の庄屋の筋の家なんだよ。」

私は意外に思った。それまで庄屋筋の家は、一番裕福な伊部の家だとばかり思っていた。私は、島影君の家を知ってから、使用人や小作人を諌めなくなった。

 

 ある日、日曜日の日の高い頃、私と妹が隠れん坊をして遊んでいた。広い私の家で人を探すのは一苦労だった。台所で私が妹を見付けたとき、一瞬妹は逃げようとした。そのとき丁度板の間にあった手桶に躓き、ひっくり返って尻餅を着いた。

「お嬢様、済みません。」

物音に気づいたお島という下女が、驚いた表情で妹の側に駆け寄った。妹は、下女が抱き起こそうとする手を荒々しく払いのけた。

「お島、お前が悪いのよ。お爺様に言いつけてやるから。」

大声で言いながら、妹は立ち上がった。妹は立ち上がると、わざとらしく痛々しそうに自分の膝や尻の辺りを摩っていた。

「大旦那様にだけは言わないでください。」

「駄目よ、私が転んだのは、お前のせいなのだから。」

妹は、お島の前に立ち、盛んに首を横に振っていた。お島が床に頭をつけて謝っているのに、妹は私の方に顔を向けて笑っているのだった。私は、その時の妹の姿が、卑しい者に見え、情けなかった。

「若葉、それくらいにして許してあげなさい。」

私は、妹を諭すように言ったが、妹は口を横に結んで、首を横に振っていた。

「いやよ。だって、お島が悪いんだもの。」

妹は、そう言い捨てるように言うと、向きを変えて座敷の方へと走っていった。私は、ただそれを見送るだけだった。

「お坊ちゃま、いいんです。お坊ちゃまが、優しく言ってくれただけ、私は良かったんです。」

私が慰めようとすると、お島は涙ながらにそう言って、私を見つめた。お島は、下女の中でも、古くから奉公していた一人だった。私が生まれる前から、私の家の炊事場を良く見てくれた下女だった。

 

 翌日、私は、朝早く家を出た。門から出ると、霧の中をお島が歩いて行くのが見えた。大風呂敷に荷物をまとめ、背負って歩く寂しそうな姿が、霧の中へとだんだんと消えていき、私の胸は悲しさで一杯となった。やはり妹は、祖父に告げ口をしたのかと思うと、情けなく思った。私は、足音がしないように消え入りそうなお島の影を追い、歩き始めた。お島が振り向けば、悲しくなって私はその場におられないような気がした。でも、お島は遠くで振り返り、私に向かって深くお辞儀をしていた。私は、その場で立ちすくみ、お島の姿が見えなくなるのを待っていた。

「お島さんの思い出は忘れていけない。それで君はいいんだ。さあ、いつまでも暗い気持ちでいては、君が惨めになるだけだ。」

いつの間に来たのか、私の背後に島影君が立っていた。島影君は、使用人から事のあらましを聞いたと言っていた。

「でも、私の力で何とかできたはずです。」

「でも、もう終わったことだ。それとも君が、これからお島さんを連れ戻すことができるか。」

島影君は、静かに私を慰めるように言った。私は自分の意思が余りにも弱いことを知った。私は悲しくなって、独りになりたかった。

「伊部君、君は、今日学校を休んだほうがいい。」

島影君は、私の心を測ったように言ってくれた。その日、私は気分が悪いからと言って、夜まで部屋に閉じ籠もっていた。床の中で、お島のこと、以前小作人や使用人にしてきた、私の行動を思い浮かべた。無情の思いが込み上げ、涙となって頬に流れた。

 

 間もなく、夏の蒸し暑い夜が訪れた。月が朧に出ており、私は、縁側の戸を開け放ち、縁側で涼んでいた。庭の奥から、快く虫の音が聞こえてきた。庭の潅木に、部屋の明かりが差し、仄かな姿を見せていた。下女が、私の部屋に島影君を案内してきた。島影君が、私の家を訪ねて来たのは初めてだった。私は、下女に冷たい飲み物とお菓子を持ってくるように言った。島影君は、部屋に入ると、私の部屋を見渡した。そして私の棚の蔵書を注意深く見つめ、褒めてくれた。

「縁側に出よう。」

島影君は、何の屈託もなくそう言うと、自分で座布団を片手に持ち、縁側に座った。除虫菊の香が流れていた。世間知らずの私にとって、屈託もなく振舞ってくれる島影君は、大切な友達だった。

 飲み物とお菓子を妹が運んできた。ソーダー水とカステラだった。妹は、物を運ぶ作法は知っていた。

「お母様が、お兄様のお友達に持っていきなさいと言いました。」

妹は、優しそうな声で軽やかに言って、私と島影君の前に、コップとお菓子を並べた。

「私の物も持ってきたの。一人じゃ詰まらないもの。」

私は、妹が部屋の隅にある座布団を取りにいく少しの間に、島影君に妹の若葉であることを紹介した。

 島影君は、妹が部屋に入ってきてから、露骨に妹に目を向け、見つめていた。妹が、座布団に座ってソーダー水を一口飲むのも、島影君は黙って見つめていた。

「お兄様のお友達って、嫌らしい方です。私のことばかり、じろじろ見つめています。私、目のやり場がなくなってしまいます。」

妹のその言葉に、島影君は我に帰った様子だった。慌ててカステラを頬張り、ソーダー水を一口飲んだ。

 

 私の妹は、私以上に世間知らずだったが、私にとっては可愛い妹だった。髪は座ると足元に届くほど豊かで、少し赤み帯びた健康そうな肌をしていた。容姿といえば誰よりも良かった。私は、恋とか愛とかを本を通して少しは知っていた。不自由もなく、思いのまま育ってきた私には、そんな感情が何故湧くのか、不思議でならなかった。妹も私と同じだった。恋だとか愛だとか、恥らぎなど、全然知らなかった。

「若葉さんと言いましたね。私は、島影の家の正吾と言います。宜しく。」

島影君が、妹にかけた最初の言葉だった。日ごろ言葉の少ない人だった。

「伊部のお嬢様であれば、毎日が楽しいでしょう。」

島影君は、妹に問いかけた。妹は、笑みを浮かべて答えた。

「とても楽しいわ。今日だって新しく来た、お梅という女中がいたんです。まだ、とても子供なの。両手に水桶を持たせて台所に立たせたの。一時もしたら、痛い、痛いと言って泣き出すの。もっと、もっと持っていなさいと言うと、泣き止んで唇を噛んで持っていたわ。」

私は、島影君に、妹に対して良い感情を持つことを期待していた。妹の話を聞くと、島影君は急に厳しく暗い表情を見せた。そして妹から目を反らし、庭を見つめた。妹を見つめる気がなくなったようだった。

「私が見つめているものですから、他の女中たちも手が出せず、頑張りなさいとしか言えないの。」

妹は話を続けていた。島影君は、妹の話を中断するように言った。

「若葉さん。お兄さんに大切な話があるんだ。少し席を外してくれないか。秘密の話なんだ。」

私は、島影君の態度は、妹に対して不躾だと思った。それは、そっぽを向きながら言ったからだった。

 妹は、折角の話が台無しになったと言って、怒りながら部屋を出て行った。もとより島影君には、私に大切な話がある訳ではなかった。島影君は一時間ほど、無言のまま寂しそうに庭を見詰めて、何かを考えているようだった。考えがまとまったらしく、明るい顔になった。

「若葉さんって、いい名前だね。失礼をしたこと謝っておいてください。」

私は、広い前庭を歩き、門まで島影君を見送った。私は長い時間、島影君が寂しそうな姿を見せていたこと、妹が言ったことを思うと寂しく思った。私は、妹が島影君を好きになってくれたら、そして彼から多くの物を学んでくれたらと、真剣に思った。素直さに欠けている妹には、望めそうもなかった。妹は、単純で恋や愛など、知るほどの心はないと思っていた。

 

私は、町の学校で常に優等だった。島影君は、私以上に優秀だった。

「勉学は、自分で進んでやる気さえあれば、年齢なんぞ関係ないものだ。」

島影君は、度々私にそう言った。そのとおり、彼は上級生の誰よりも勉学に優れていた。試験近くになると、島影君はよく私の家を訪れ、私の在庫の小説を読み耽っていた。妹は、彼の姿を見ると、必ずといってよいほど私の部屋を訪れた。島影君は、妹に振り返りもしなければ言葉もかけず、静かに本を読んで時を過ごしていた。

 

 冬が訪れ、雪が積もり、庭は美しい雪景色となった。雪は、また降り、多く積もった。庭は、雪のために野原のようになった。そんなある日、妹が馬鹿なことをしてしまった。自分の部屋先の庭の雪に、下女に穴を掘らせ、その穴の中に下女を入れてしまった。下女は断る術も知らず、その穴の中に屈み込んだ。妹は小悪魔のように笑いながら、その穴の隙間に雪を投げ入れたのだった。妹は縁先で、火鉢を持ってきて暖を取りながら見つめていたという。時が経つにつれて下女はみるみる顔の色を失っていった。もしそこに島影君が通りかからなかったら、下女は死んでしまっただろう。

 島影君は、雪に埋もれている下女を見るや、すぐさま掘り返して救い出した。下女の唇は紫色に変わっており、意識も失いかけていたとの事だった。島影君は、駆けつけた下男下女に、その哀れな女を引き渡すと、妹の前に立ち、妹の頬を殴りつけたという。

 私は、妹の悲鳴で何か起きたと思い、妹の部屋に駆けつけた。丁度私が妹の部屋の前に行ったとき、妹は頬を手で抑えながら振り向きもせず、部屋から飛び出して行くところだった。部屋の中には、妹の肩掛けが一本乱れて落ちており、縁側には握り拳をして、深い呼吸をしている島影君が立っていた。

「若葉さんは、余りにも勝手過ぎる。放っておくと人間じゃなくなる。」

島影君は、私に向かって激しく責め立てるように言った。そして裸足のまま私の家を去った。

 

 この件があってから、妹は急に考えるようになった。部屋に篭りがちになり、本を読むことが多くなった。私の目からすれば、暗い感じのする娘になっていった。

 島影君は、それからもよく私の家に遊びに来ていた。妹は、別段彼を避けようとはしなかった。必ず私の部屋に訪れ、沈んだ顔であるが、彼が帰るまで部屋の隅にじっと座り、彼を見つめていた。そんな状態で春を迎えた。

 最初、島影君は、沈んだ妹を見向きもしなかった。長い日が、妹にとって流れたのだろう。春の雪解けと共に、彼は妹を見つめるようになった。黙って、一瞬見つめ合うだけだった。妹は、それまで見せたことのないような、華のような微笑を島影君に返していた。

 庭に春の花が咲き綻び、私と島影君は庭を歩いた。庭の木々を通して、私の部屋に妹が立って、私たちを見つめているのが分かった。耐えかねたように妹は、庭草履を穿いて私達を目がけて走ってきた。私たちの後ろまで来ると、歩き始めた。そして、独り言のように妹は言った。

「私、今まで、悪いことを一杯してきたみたいです。でも私、今まで何が悪いことか知らなかったの。」

島影君は、妹の言葉に何も答えなかった。

 それから以後、妹は本を読み、庭を散策することが多くなった。明るい表情だったが、以前とは違って落ち着いたものとなっていた。私は、妹が生まれ変わってきたと感じた。

 

 その年の夏は暑さが続き、不作の年となった。夏の終わり頃、島影君が夜になって遊びに来た。妹は、部屋の隅に座ろうとすると、島影君は妹に声をかけた。

「若葉さん。さぁ、こちらの方に来たらどうです。」

島影君は、そう言うと妹に手招きをした。妹はうれしそうに座布団を持ち、三つ巴になるように座った。

「若葉さんは、美しい上に良い人なんだ。」

島影君はそう言いながら話を始めた。

「人には、それぞれ立場があって、やらなければならないことがあるんだ。良い人であれば、自分以外の人のことを考えて上げなくてはならないんだ。お爺様のこと、お父様のこと、お母様のこと、お兄様のこと、伊部で働いている人のことを考えなくてはならないんだ。そればかりではない、村の人のこと、国の人のことも考えて、物事をしなければならないんだ。」

更に、島影君は、ゆっくりと言った。

「自分が悲しむのが嫌だったら、他の人にも悲しみを与えてはならない。自分が苦しむのが嫌だったら、他の人にも苦しみを与えてはならない。自分が喜びを欲しいと思えば、他の人も喜びを欲しがっている。こんなことを忘れないようにしたいと思う。」

島影君は、当たり前のことを話した。それも考えながら、言葉を選びながら話していた。妹は、島影君の瞳をじっと見つめながら、頷きながら聞いていた。私は気が付いた。妹は、当たり前のことを知らなかったのだと。島影君の話は、続いた。

「少なくとも、私も若葉さんも生きたいと思っていることに変わりがない。人にとって一番大切なものは、生命なんだ。人の生命を奪ったり、人の生命を奪おうとしたりしてはいけないんだよ。人の生命を奪うということか、若葉さんも考えたり、勉強したりすれば分かってくる。人が知らないうちに、他の人を困らせ、生命を奪うこともあるんだよ。」

島影君は妹を見つめ、妹が話を飲み込んでいるか、確かめるように話しているのが分かった。妹は、困った顔付きとなった。考えが分からなくなったようだった。

「本をよく読み、勉強するんだ。分からないことが分かるようになってくる。そして、心というものを美しくしていくんだ。人は、生命の次に、大切なものとして心というものがあるんだ。何を、人として持つべき心なのか、考えなければならない。心は、自分の生命の支えとなるんだ。その人、全ての支えとなるんだ。若葉さんも、お兄さんを好きだという心がある。自分が良い人になりたいという心も生まれてきた。心は、全て若葉さんの希望や生命の支えとなるんだ。」

妹は、心の問題となると、幾度も口で島影君の言葉を繰り返していた。島影君が帰った後、妹はノートを持ち込み、島影君の言った一言一句を間違えないように書いていた。そして幾日も経たない日に、妹は、父に女学校に入って勉強がしたいと言った。父は、まだ時期が早いからと言って、翌年に入学させることを約束した。

 

 秋の良い日和だった。伊部の家では、恒例の阿賀野川堤での茶会を開いた。村の田圃では、稲刈りが忙しい時だった。私と妹は、小舟に乗って川遊びをしていた。少し沖に出て、小舟は流れに流されそうになった。舟の自由がきかなくなり、私は大声で助けを求めた。堤では人々が集まり、騒いでいた。舟は沖に流され、揺れ動いていた。暫くして、私と妹が立ち上がり、舟は安定を失って転覆してしまった。

 私は、無我夢中で岸に向かって泳いだ。泳ぎながら服を脱ぎ捨て、ようやく岸にたどり着いた。妹がどうなったか、私は岸から見つめた。一人の男が妹の頭を抱え、岸辺近くに向かって泳いで来るのが見えた。私は妹が助かると思うと、心から嬉しく、救われたと思った。妹を見捨てたことを、恥ずかしくも思った。

 妹は、岸に上げられ、うつ伏せに置かれた。妹を助けた半身裸の男は、紛れもなく島影君だった。稲刈りをしている最中に、私の声を聞きつけ、直ぐに川に飛び込んだのだった。舟の近くまで島影君が来ているのも知らず、私たちは舟を転覆させてしまったのだった。

 

 妹は、苦しそうだった。島影君は、妹の顔を横に向け、両腕を頬の下にすると背中を押し始めた。妹は、少し痙攣を起こしながら川の水を吐いた。暫く、島影君は同じ動作を繰り返した。静かに妹の口元を見つめていた。二〜三度、妹は口から水を吐いていたようだった。島影君は、妹が吐いた水が妹の口に戻らないように、自分の手を使って掬い上げていた。半時もして島影君は、もう一度妹の背中を摩っていた。そして妹が水も吐かず、規則正しい呼吸をしているのを確かめた。私に妹の着替えをさせ、体を温めるように言った。

 茶会は、何事もなかったように続けられた。天幕の裏に作られた控えの場に火が炊かれ、妹は慣れた仕草をする島影君の介抱を受けたのだった。私は、ただ震えて、何をしてよいか分からなかった。私と島影君は、後ろを向いて妹の着替えが済むのを待っていた。

「もう仰向けにしても大丈夫だ。」

そう島影君は言った。着替えが終わった妹は、火の近くで仰向けに眠っていた。

「おい、自分を責めるなよ。全てが上手くいったんだから。」

そう言い残して島影君は立ち去った。暫くして妹は目を覚ました。

「助けに来てくれたのは、正吾さんだわ。私分かったわ。正吾さんありがとう。正吾さんは、私の命です。」

妹が目を覚まして最初に言ったのは、島影君に対する感謝の言葉だった。妹の目は明るく輝き、それは眠りから目覚めた、新しい輝きでもあった。