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「丘の花畑」

 

                   佐 藤 悟 郎

 

 

 彼は、五年振りにその駅に降りた。彼の生家は、その駅から小一時間も歩いたところにあった。農村の集落で、戸数は五十戸もある。比較的小さな集落だったが、歴史のある集落だった。その集落外れに、彼の生家があった。

 

 彼は、駅前の街道を歩き、昔と余り変わったところがないと思った。駅前の通りの食堂に入って、蕎麦を食べた。古い食堂で、格子窓からの明かりも少ない、暗い食堂だった。その食堂で蕎麦を食べたことがある彼は、以前と味は変わっていないと思った。テーブルで残りの汁を啜りながら、奥の方で彼を見てひそひそと話している数人の人を横目で見た。彼がテーブルから立つと、急に静まり返った。彼は坊主頭だった。笑顔を見せ、金を支払った。

「お前、克也だろう。そうだろう。」

店の若い男が、震えた小さな声で、彼に向かって言った。彼は、軽く頷きを見せると食堂を出て、通りをゆっくりと歩き始めた。

 

 彼は、町の通りを抜けて、ようやく田畑の見えるところに出た。畦を歩き、川の堤に向かって歩いた。春の風が、彼の頬を撫でた。遠くの山々に霞がたなびいているのを見つめ、川の堤を登り、堤の道を歩いた。橋を渡りながら、遠くの山の裾野にある集落が見えた。彼は、厳しい生活が待っていることを思った。

 

 橋を渡って堤を歩き、暫くして集落に通ずる舗装路に下りた。道路は大きく右に曲がり、集落へ通じていた。道路の左は山になっており、右は田圃が広がり川の堤で止まっていた。田圃には、水が張られ、若い苗の薄緑色が柔らかな光を与えていた。彼は、左の山の方を見上げた。林があった。その奥は、集落の墓地である。車が彼の脇を通ると、間もなく急停車した。そして、急に走り出し、スピードを上げて集落の中に消えていった。彼は、五年前のことを思い出した。目を細めて林と向かい合った。

 

 彼は、五年前、この場所で村の旦那様の娘を襲い、そして辱めたのだ。当時、彼は二十一歳で、二歳年下のその娘が好きだった。娘は、思いを寄せる男はいなかったし、ましてや彼に特に思いを抱いてはいなかった。彼は、襲うことを思いついた。勤め帰りを狙って、胸の内を打ち明け、聞き入れられない時は、力づくでも思いを遂げようと思った。この林から、そして墓地からは、大声を出しても集落までは届かないだろう。思いを遂げれば、娘は黙って付いてくるだろうと、彼は思った。

 

 彼は、幾日もこの山の林に隠れ、娘の帰りを見送った。春も浅い夜だった。娘の他に誰の姿もない。彼は、娘の前に立ちはだかった。

「由美ちゃん、俺だ、克也だ。」

彼は、震える声で娘に話しかけた。娘は、警戒する様子もなく彼を見つめていた。

「俺、由美ちゃんを好きだ。由美ちゃん俺と結婚してくれないか。一生懸命働いて、困らせたりはしないから。」

娘は、彼が余りにも緊張し、思いつめた声で話すのに、恐れを感じた。

「何よ、いきなりそんなことを言って。嫌よ、そんな話。」

彼は、その言葉を、拒絶と感じた。その後のことは良く覚えていなかった。力づくで山の方に引っ張っていった。そして抱きかかえ、跪く娘を林の奥の方に連れていった。

「何をするのよ。私を駄目にするの。」

娘が、そう言ったのを思い出した。その言葉が、はっきりと彼の脳裏に浮かんできたのだ。

 

 彼は、ふと我に帰った。そして集落の方を見た。集落を通り抜けた外れに、彼の家があるはずだった。娘の家は、集落の中央、鎮守様の前にある大きな屋敷だった。娘は泣いた。泣きながら、はだけた姿で逃げ出していった。彼は、その姿を呆然として見送ったのだった。

「拭い切れない罪を犯してしまった。」

彼は、歩く気力さえなかった。彼が警察に捕まるまで、一時間とはかからなかった。犯行現場で、茫然として座り込んでいるところを捕まってしまったのだった。

 

 そして五年が経ったのだった。彼は、集落の中の道を歩いた。多くの人が生垣から、そして家の窓から、通りの端から顔を出した。彼は、しっかりと顔を前に上げて歩くように努めた。

「碌でなし、どうして帰ってきた。」

そんな声が彼の耳に入った。彼は、悲しかった。言われて当然のこととも思った。でも、俯いて歩きたくないと思った。彼は、娘の家の門の前に差しかかった。彼は門に正対すると、深々と頭を垂れた。長い間、頭を低くし、涙を流していた。

「お前のために、娘が台無しになったわ。」

奥から走ってきた娘の母は、竹箒を手にしていきなり彼を殴りつけた。何回も殴りつけると、竹はバラバラになり棒だけになった。狂ったように娘の母は、彼を叩きつけた。彼は、娘の母の前に土下座をして、叩かれるがままになっていた。彼は、止めどもなく涙を落としていた。娘の母は、彼の頭を打ち、頬を激しく叩きつけた。

 

 彼は、少し顔を上げ、娘の家の奥を見つめた。茫々とする意識の中に、娘の姿が見えたような気がした。

「良かった。生きていてくれた。」

彼は、少なくとも救われたような気がした。彼は、眉間に激しい打撃を感じ、意識を失ってしまった。彼は、血塗れになって倒れていた。

 

 彼が気付いた時は、もう暗くなっていた。痛みが全身を走り、体がバラバラに感じた。彼は、よろめきながら歩いた。垣根にもたれ、転んでは起き上がり、休んでは苦しみを抑えていた。通り抜ける者は、走るように彼から離れていく。誰も声をかけず、手を延べてくれる者もいなかった。

「当たり前のことだ。もっと苦しみが来るだろう。」

彼は、そう心に言い続けた。彼が刑務所の中で思い続けたこと

「生きながら、罪を贖うんだ。」

彼は、そう言い続けていた。罪を背負い、苦しみの中で生涯を終わっていくこと。彼は、贖いが、生から死への定めだと思った。だから死を恐れてはいなかった。死を与えられても、彼には不平はなかった。それは全て自分の犯した罪の結果でしかないと思った。老いゆく祖父母、父と母、彼はそのことも考えた。身を捧げ、滅んでゆく自分の姿を思った。

 

 彼は、ようやく我が家にたどり着いた。戸を開き、土間に転がり込んだ。家は古く、傾きかけていた。そして土臭い、湿った臭いが彼の鼻をついた。土間から茶の間が見える。集落では、もう見られない古い家である。そして貧乏な家でもあった。父が出てきて無言で彼の前に立ち、彼を見つめていた。彼は、茶の間に目を巡らせた。祖母の顔があった。母の顔もあった。祖父の顔は見当たらなかった。

「爺ちゃんはどうした。」

彼は、父に向かって悲しそうに尋ねた。父は首を横に振りながら、冷たい言葉で言った。

「首をくくって死んだよ。お前のためにな。」

父の目は濡れていた。彼は泣き崩れた。祖父は、彼を心から理解し、愛してもいた。彼は、長く泣き続けた。

 

 彼は、体の痛みがとれず、二週間もの間床に臥していた。その間、彼は、静かに体の痛みが取れるのを待っていた。祖母と母は、それでも彼に親切だった。父は、彼の床には顔も見せなかった。体が治ると、彼は父の前に呼ばれた。

「お前はここにいる訳にはいかんだろうな。由美子は、家にいるから、お前がいたんじゃ住めなくなるだろう。お前の方から出て行くのが当たり前だ。」

彼は、そう言う父に、何も答えなかった。彼は、刑務所にいるとき、出所後のことも十分に考えた。彼は、家を去りたくはなかった。自分が集落におれば、娘が集落にいづらくなることも知っていた。自分が他の土地で暮らせば、素性も明かすことなく、豊かに暮らしてゆけることも知っていた。全てを考えても、家にいたかった。そして家が絶えるまで、親の面倒を見て、最後に死んでいきたかった。彼は、父に返答はしなかった。父も、彼から強いて返答を求めようとはしなかった。

 

 彼の家は貧しかった。良い田圃は、彼の罪の代物として、全て娘の家に支払われていた。山の方の、日陰になっている田圃が、少し残っているだけだった。山も大半が無くなっていた。荒れた山が残っているだけだった。娘の家に、多くの財産が支払われていた。しかし、娘の家ではそれでも満足はしていなかった。集落の人は、彼の家には寄り付かなかった。親類縁者の家からも縁を切られ、細々と自給自足の生活を送っているだけだった。

 

 彼は、朝早く山に登る日が多くなった。山の中で荒地を開く仕事は、集落の人に見られることはなかった。とにかく彼は、集落の人々に目に付かないように、生活をすることに心がけた。人目に付きやすい田畑には、朝早い時と夜遅い時でなければ出かけることはなかった。他の家よりも遅れてはいたが、四反の田圃の手入れも終え、苗も植えた。用水の水は貰うことができず、山の湧き水を使った。水は冷たく、苗の育ちも悪かった。彼は考えた。あまり水温が下がらないように、水の流れを少なくし、田圃の一部を割いて溜池を造った。そして、溜池の中には川で捕らえた鯉を入れた。

 

 彼の父も、集落の中には、ほとんど出歩かなかった。町へ行く時は、川の堤の方に向かって畦道を歩き、その堤を川下に向かって歩いた。彼の家では、現金は大切なものだった。現金の収入がほとんどなかったからだった。

 

 彼は山を開いて、最初に花壇を造った。そして遠い町に出かけ、山の物を売り、花の種を求めては、それを植えたのである。彼は、いつも花が絶えないようにしようと思った。刑務所生活での一番の心の慰めは、花を眺め、心を美しくすることだった。花の美しさと裏腹の苦しみを、いつまでも忘れまいと思った。

 

 彼は、集落の者の嫌がらせも覚悟していた。その嫌がらせも、彼等の不当な仕打ちとも思わなかった。だから田圃の稲が抜かれても、花壇が荒らされても、怒る気は毛頭なかった。ただ、時々悲しく、寂しい気持ちになるだけだった。自分自身は、決して許される人間だとは思っていなかった。

 

 彼の山には、少し高く上ると、一か所だけ集落を見下ろすことができる場所があった。彼は、そこを切り開いた。そして休憩する場所を造った。山の地を掘り下げると泉も出てきた。小さな池を造り、山の畑へと泉の水を流した。その休憩場所に、集落に向けた腰掛を作り、屋根を作って東屋とした。夏の暑いときは、風通しの良い所だった。彼はいっそうのこと、その山に住む所を造ろうと思ったが、自分が苦しみを逃れる卑劣さを感じ思い止めた。少なくとも、祖母や父と母を埋めるまで、我慢をしなければならないと思った。

 

 彼の父は、彼に家を出るようにとは言わなかった。却って、力はなかったが

「どうなってもいい。こうして家族で、揃って生きていければ。私達は、できる限りの償いをやっているのだから。」

と言ったことがあった。父のその言葉を聞いて、彼の胸は痛んだ。父の厳しい愛が、耐えがたかったのだった。以前の彼は、内向的な、見栄を張る人間だった。そういうことはもう彼にはなかった。考え深い人間になっていた。自分のこと、家のこと、娘のこと、娘の家のことを考えていた。他の人のことを考えると、とても辛い思いがした。その辛さから逃れることは、卑しいことだと思った。

 

 床に入ると、彼は、娘のことを思った。母から娘のことについて、ある程度の話は聞いていた。事件の後、娘は仕事を辞め、家に閉じ篭もりっぱなしになって、滅多に外に顔を出さないとのことだった。集落の噂では、娘は、気が触れてしまったという話だった。事件のときの娘の叫び声が、彼の脳裏から離れることはなかった。

 

 冬の訪れとともに、彼は出稼ぎに出かけた。一番辛い季節に、彼は山奥のダム工事現場へと出かけた。彼に辛い仕事はなかった。体の疲れは、却って彼に喜びを与えた。体の疲労は、彼に深い休息を与えるからだった。多くの現金を手にして、彼は家に戻った。彼は、できるだけ現金を蓄えることにしていた。何かあった場合、急場を凌げるのは、現金であることを知っていた。山奥に入り、珍重な山菜を取り、町の料亭に売り、現金に換えていた。

「克也、本当によく働いてくれるね。本当に、よい男になったよ。」

母は、時々、安堵した気持ちで、彼にそう言った。彼は、母に優しく声をかけられると、とても嬉しかった。彼は、心から改心の念を抱き、敢えてそれを更に鍛錬しなければ、本当の改心ができないことを知っていた。素直に良心を受け入れられる人間になろうと思っていた。それだけに、母の優しい、喜ぶ顔を見るのは嬉しかったのだった。

 

 彼は、春になって、蓄えた花の種を家の周りにも播き、花壇を造った。四季の花は、彼の家から絶えることはなかった。崩れそうな家の縁に出て、祖母は花を見つめて日々を送っていた。溜池の鯉も大きくなって、時折、水面に姿を見せていた。稲もよく手入れされ、よく育つようになった。山の畑も枯葉を集め、よく肥えていた。山の木々の手入れも行き届き、彼の山は花が乱れ、畑は揃い、木陰の美しいものに変わった。

 

 初夏の頃、彼はいつものより遅く山に登って行った。畑を通ったところ、畑が掘り返され、荒らされていた。彼は、走って東屋へと行った。そこに中年の男が、シャベルを持ち上げて東屋を壊すところだった。

「おい、待ってくれ。止めてくれ。」

彼は、声をかけた。その男は、振り返ってシャベルを下ろすと、手を腰に据えて彼を見つめた。

「何か、文句があるのか。」

その男は言った。彼の背筋に、冷たい汗が流れた。彼の前で凶暴に振舞った男は、娘の兄だった。彼は、返す言葉もなかった。彼は、じっと娘の兄を見つめた。娘の兄は、せせら笑うように、シャベルを振り上げると、東屋を壊し始めた。それが終わると、次に泉を埋め、池を荒らし、シャベルで花壇の花を薙ぎ倒していった。彼は、ただ見つめる他なかった。娘の兄は、集落の人々の信望の篤い人だった。その人が凶暴になっている。彼は、自分の犯した罪が救い難い、卑劣な罪であることを改めて思い返した。壊された物は再び造ることはできるが、娘はもう再び元に戻ることはないのだと思った。

「おい、克也、幸せになろうなんて、思うんじゃないぞ。」

娘の兄は、シャベルを肩にして、彼の前に来て言った。彼は黙っていた。娘の兄も黙って彼を見つめた。

「妹さん、お元気でしょうか。」

「元気な訳、ないだろう。お前に悪戯をされてからな。元気な言葉すら出てこないよ。」

彼は、急に悲しくなった。残った花を、腕一杯になるまで切った。濡れた顔を見せて言った。

「私は、心の腐った男だ。どうしょうもない碌でなしだ。この花を持っていってやってください。私はどうなってもいいし、何をされても構わない。この花を、妹さんに持っていってくれ。暖かい香りのする花だ。」

そう言って彼は、花を娘の兄に押し付け渡すと、花壇の側に屈んで、荒れた花を選り分け始めた。娘の兄は、彼の肩がひどく震えているのを見つめていた。

 

 秋が来て、また春が訪れた。彼と彼の家族は、集落の人々から隠れるように過ごしていた。それでも、彼の家は、確実に裕福になっていった。彼は、親に尽くした。彼が家に戻ってから、四年目の梅雨が、激しくその土地を襲った。大きな川が氾濫し、田畑が流され、家に泥が流れ込み、水が全てを覆い尽くした。

 

 そればかりではなかった。堤防にいた集落の水防団員の八名が、濁流に流されて死亡したのだった。渦巻く濁流は、水嵩を増し、一気に水防団員のいる堤防を乗り越えた。十名の水防団員の中には、娘の兄もいた。大きな川は、下流の集落をも呑み込んで流れていた。娘の兄は、濁流に呑まれ、流木に打たれ、気を失ったのだった。娘の兄が気付いた時、濁流の中で人の小脇に抱えられていた。流木にしがみつき、娘の兄を助けていたのは彼だった。彼もやはり川の堤を案じて、人から離れたところにいたのだ。彼は、娘の兄が濁流に沈むころ、助けるために、もうその近くまで泳いでいったのだった。

「大丈夫ですか。この流木に掴まっておれば助かります。大方、あの家の庭木に引っかかります。」

彼は、娘の兄にそう言った。娘の兄は、無言だった。

 

 近くを、溺れかかった者が、浮き沈みして早瀬に巻かれていくのが見えた。彼は素早く、その流木から離れた。娘の兄は、相当下った集落の杉の木に、流木とともに流れ着いた。流れの淀んだところで、安全なところだった。彼は、その場所に、もう一人沈みかけていた者を助けて連れてきた。安全なところに連れて行き、娘の兄に介抱を任せて、彼はまた遠くを流れる人に向かって泳いでいった。

 

 この洪水で水防団員八名が死亡し、二名が助かった。助かったのは、いずれも彼が助けた二名だった。まる一日、娘の兄達は耐え、救助隊に発見され集落に戻った。彼が、集落にたどり着いたのは、その二日後だった。彼は疲れ切って、屋根裏に上り、泥のように眠った。彼の集落は、それでも水が床の上まであがるだけで済んだ。下流の集落では相当の被害が出ていた。

 

 梅雨が去ると、良い天気が続いた。水防団員の葬儀が行われた。悲しく野辺送りの鐘が響いた。彼と彼の家族は、庭先で心から冥福を祈っていた。彼は、洪水のとき、二人の男を助けたことは、家族の者にさえ黙っていた。集落では、二人が助かったのは奇跡のように話されていた。彼は、洪水の後始末についても、実に良く働いた。家の中のこと、田圃のこと、山のことなど、全て元に戻るように働いた。

 

 洪水の後は、誰でも人手が欲しかった。先ず、隣の人が彼に手助けを申し入れた。彼と彼の父は、隣の家のために身を粉にして働いた。集落中の家々が片付くまで、彼と彼の父は、五軒分もの家の働きをした。しかし、その忙しさも終わると集落は、また元の感情を呼び戻した。彼の家は、誰からも相手にされなかったし、彼も当然のように隠れるような生活をしていた。

 

 夏の暑い日差しの中、彼は山に行った。畑を見て、花壇を巡り東屋に行くと、浴衣姿の娘が座っていた。彼は、暫く花の中に立っていた。

「どうしていらっしゃらないの。自分のところでしょう。」

彼は、娘の明るい声を聞いた。彼は、熱い涙が心から溢れてくるのを感じた。苦しみではなかった。娘に声をかけられること、以前にもなかったことだった。あるとすれば、昔、暗い部屋で考えた空想でしかなかった。彼は、二〜三本の花を色とりどりに折って、東屋の方へと歩いた。彼が、腰掛けている娘に手渡すと、娘は明るく微笑みを返して、その花束を受け取った。

「ここの眺め、とてもいいわ。私の部屋からも、この山が見えるの。部屋から見ていると、とても色鮮やかに見えるの。そう、とても綺麗にね。」

彼も、集落の方を望んでいた。こんなに和やかに娘に会えたことを、彼は天に感謝をした。  

「由美さん、私は謝っても謝り切れないことをしてしまった。貴女を台無しにしてしまった。」

彼は、心から詫びた。娘は、暫く黙って答えようともせず、集落の方を見ていた。

「いいのよ。過ぎ去ったことですもの。私忘れるわ。克也さんも苦労したでしょう。村に帰ってきて、村の人に冷たくされて。」

落ち着いた静かな声で、娘は彼に言った。

 

 娘は立ち上がると、彼に畑を案内するように言った。彼は、娘の前に立って歩き、色々な花を見せて回った。そして苔で落ち着いた泉や池を見せた。畑の畝も一緒に歩いた。

「とても立派にしているのね。どの山より立派なんでしょうね。」

彼は、心地よく空を仰いだ。そして東屋に戻った。事件から、もう十年が過ぎていた。

「夏になって、兄が連れてきてくれたの。とてもよい山があるからって。私は、ここが気に入ってしまったの。」

「じゃ、この少し高いところに、お茶を飲めるところを造りましょう。いつも楽に休めるように。」

「兄ったら、ここに連れてきてから、克也さんが造ったところだと教えてくれたの。私は、貴方に会えるかなと思いながら、時々ここに来ていたの。」

彼は、熱い涙を目に浮かべ、啜り泣いていた。一生の苦しみを与えた人に、これ程優しい言葉と態度を示されたことに、深く心が震えていた。

「私は苦しみました。本当に苦しみました。貴方を憎んでもいました。本当に憎みました。」

彼は、娘が語りかけているのを、黙って聞いていた。

「でも、貴方は、朝早く、そして夜遅くまで、一生懸命に生きているのを見ました。私も、隠れ身の方でしたが、貴方の行いをよく見ておりました。昔の面影、あの見栄の張った暗さは、一欠片も見られませんでした。」

娘は、少し間を置いて、また語り継いだ。

「最初、集落の人は、貴方のこと、貴方の家のことを悪く言っておりました。でも、それは短い間のことです。一年も経つと、誰もが良くは言わなかったのですが、悪くも言わないようになったのです。」

集落の鎮守の社と娘の家の高屋根が、ひと際高くなって彼の目に映った。

「村外れの貴方の家は暗くならず、それでいて垣根も造らず、明け透けのままにして、花や木々で明るくしました。集落の人は、最初羨んだのです。それから、集落の中は花が多く咲くようになりました。垣根も低く、明るくするようになりました。」

「働く者は、早く起き、必要があれば、喜びを抱いて遅くまで仕事をやるようになったのです。田に水を引く工夫もし、魚を飼うことも覚えたのです。」

娘は、集落の移り変わりを語っていた。そして、その移り変わりが正しく変わっていること、全て彼が齎したことだと語った。

「私は、本当は兄に案内される前に、この貴方の山のことは知っていました。そして、貴方を見つめておりました。最初は、貴方に恨みを返そうと思っていたのです。貴方は、よくこの場所で泣いておりました。集落に向かって、土下座をして皆に詫びている姿も見ておりました。そんな貴方の姿を見ていると、貴方を恨みに思う気持ちなど、とっくの昔に消えてしまったのです。どうか、もう私に気兼ねをせずに生きてください。私も、他人に気兼ねなどしないで生きていきます。」

彼は、心から嬉しいと思った。罪から解き放たれたとも思った。しかし、彼は、娘の幸福がなければ、罪から逃れることはできないと思った。間もなく、娘の兄が姿を見せた。娘の兄は、微笑を浮かべていた。

「お兄さん、私、今までの気持ちを全部話しました。私の気持ちも、すっかり良くなりました。」

娘はそう言うと、明るい顔を彼に向け、小首を少し傾けていた。

 

 その日の夜、娘は、彼のところに嫁に行きたいと、突然言い出した。母は、真っ向から反対をした。父は黙っていたが、反対の気持ちを持っていた。

「今の克也さんは、立派な方です。もう人が変わるようなことはないでしょう。私も女として、結婚をしたいのです。私が嫁ぐことに、何の不都合もないでしょう。」

娘の兄は、賛成をした。行く末のことについても、請合うと言った。

「今まで黙っていたが、洪水のとき、俺は克也に助けられたんだ。もう一人助かったのも、克也が救ってくれたんだ。私の家としても、恩があるんだ。由美が選んだんであれば、何の不都合もないはずだ。」

娘の兄は、洪水のとき、彼に助けられたことを話した。そのことで話は落ち着いてしまった。娘は、晴々とした気持ちになった。娘は、別に結婚式もいらないと思ったし、改めて名乗り合う仲でもないと思った。

 

 その日の夜の内に、娘は、彼の家に出向いた。娘は、唖然とする彼と彼の家族の中を通り抜けると、彼の家の仏壇の前に座り、彼の祖父の位牌に手を合わせた。

「お爺様、すみません。由美は、ここの家の嫁になりたいと思います。許してください。」

娘の後ろに、彼と彼の家族が並んでいた。そんな中で娘は、祖父の位牌にそう語りかけたのだった。娘の声は、静かに彼と彼の家族の耳に入った。娘の言葉には、良かれ悪しかれ、彼の家は従わなければならなかった。彼にとって、その娘に尽くすことによって、娘に対する罪が、本当に償われていくことになるのだろう。