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「薮入り」

 

                佐 藤 悟 郎

 

 

 長太郎の村の村人は、梅雨のころを見計らって田植えをします。一面に張り巡らされた水面に、村人の手で苗が植え付けられるのです。そして間もなく梅雨がやってきます。村の近くを流れる荒川は、土砂で底の浅い川でした。荒川の丁度曲がり角にある長太郎の村は、毎年のように水害に遭っていました。村人が毎日、村の鎮守様に祈りを捧げて暮らしているうちに、本格的な雨が降り出すのです。雨で荒川の水が、堤を壊して川の水がすっかり田圃を流してしまいます。村人は、祈るだけ祈り、その後は自分の寝るところだけは流されまいと、家を太い木に縛り付けていました。それでも村の半分の家は流されてしまいました。雨が止むと、目を覆いたくなるように、白砂と流木の広がりが見えるばかりになるのです。

 

幸いにも、村の裏山は崩れそうもない硬い岩でした。村人は、山の穴倉に山の幸を蓄えていました。村人は、夏から秋にかけて、土砂や木の根の片付け、家の建て直しなどで月日を費やしておりました。破れた堤もある程度修復するのですが、秋の嵐が襲ってくると堤が切れて、また田圃に土砂が運ばれるのでした。それでも梅雨の時より、荒れ方はまだ増しだったのです。

秋の嵐が過ぎると、村の男衆が本格的な土地の修復に取りかかり、堤の修復は冬の間も続きました。山の畑で採れた蔬菜は、城に納めなければならなかったので、修復作業の合間を見て、男衆は狩りに出かけ獲物を捕っていました。秋や春には、村の女衆が山に入っていきました。一年中の食物を集めるため、遠くの山々まで出かけ、山の幸を得なければならなかったのです。それでも正月になると、村人は笑顔で明るくなるのです。今年こそは、米が穫れるようにと村の鎮守様に祈っていたからでした。

殿様は、長太郎の村で、長い間米が穫れなかったことから、米を要求しませんでした。村人は、一生米も食えず、餅も食えず、正月に粥が膳につく有様だったのです。近くの村で、多くの山の幸と僅かな米と交換して得たもので、粥を作って食べていました。村の人々は、貧しい生活をし、年老いて死んでいきました。他の土地へ移り住むことは、殿様から固く禁じられていたのです。いつかこの村でも米が穫れるようになる、その願いが村を滅びさせなかったのです。

 

長太郎の家は、庄屋の家柄でした。長太郎が二十歳の時、父が首を括って自殺して果てました。

「この村の先祖は、昔、神様が乞食に化けて来たとき苛めたから、子々孫々まで祟りがあるのだ。今まで、違うと思っていたが、三十年庄屋をしていて、本当だと分かった。この村は、神様に呪われていることが分かった。神様は、村人を苦しませ、その上、村が滅びないように、村の人達を地獄の中に陥れたのだ。わしは、神様に詫びを言いに、あの世に行くことにした。」

そう書いた後に、名前書き血判を押した遺書を残し、納屋で首を括ったのです。庄屋である長太郎の父と共に、村の長老達も全て

「庄屋殿と一緒に、神様に謝りに行く。」

と書き置きを残し、首を括りました。村人達は、二〜三日は悲しみの中にいましたが、それが喜びに変わったのです。

「もしや、今年こそは、稲が実るのではあるまいか。庄屋様始め、村の長老衆が神様の所へ行ったのだから、きっと稲が実る。」

そんな噂が村中に流れ、活気さえ見られました。村人は、毎日、神頼みに明け暮れていたのです。

 

 冬も明ける頃、長太郎は、庄屋の跡継ぎとなることを言い渡されました。庄屋となった長太郎は、村人の神頼みをよそに、城下の町に出かけ、浪人真壁平九郎一家を連れて村に帰ってきました。それは、春風が快く荒川の堤を渡る頃でした。

 長太郎は、平九郎のために高台に新居を建てさせ、平九郎を先生と呼ぶように村人に告げたのです。平九郎は、その時長太郎より十歳ほど年上でした。学問に優れた武士だったにもかかわらず、仕官がかなわず、城下の長屋で貧しい生活をしていたのです。長太郎は、村で仕事をしてくれるのであれば、住居も食物も、その他できる限りの品々を捧げると約束をして連れてきました。

 

 村人の狂信的な神頼みが盛んな中、長太郎は平九郎に言いました。

「村の人は、今年こそは米が穫れると思っているんだ。それは、私の父や村の長老衆が首を括って、神様にお詫びに行ったからだ。でも、私の爺さんも首を括って死んだとき、その年は希にみる荒れようだった。村の衆が神頼みをするのは、気持ちは分かるが、良くないことだ。」

庄屋と言っても長太郎は、小作人と変わらない継ぎ目だらけの厚ぼったい服を着ていました。その服は、汗と泥が滲んだものだったのです。

「で、拙者は何をすればよいのだ。」

平九郎は、静かな眼差しを長太郎に向け、尋ねました。

「この村の土地に、米が穫れるようにしていただきたい。」

長太郎は、平九郎に向かって両手を着いて頭を下げました。平九郎は、長太郎の頭を下げている姿を見つめ、両腕を組んで暫く考えていました。

「でもなあ、この村のことは、全然分からない。」

平九郎がそう答えると、長太郎は頭を上げ頷きました。

「それは尤もでございます。先生はお侍様です。賢くていらっしゃいます。今年一年、じっくり村で起こることを見てください。そして、どうやったら米ができるのか教えてください。」

平九郎は、長太郎に頷きを見せました。長太郎は、また深々と頭を下げたのです。

 

 平九郎は、実直な武士だけに、約束を果たすために行動を始めました。土地を歩き回り、先ず土地が肥えていること、山には硬い石があること、山の幸が様々であることを知ったのです。梅雨を迎えると、村人の祈りをよそに、洪水が訪れました。農民は、田圃を元に戻すために一生懸命に働いていました。平九郎の目に、村人が勤勉な働き者で、長太郎の下でよく纏まっているように写ったのです。長太郎は、毎日のように、どこで手に入れたのか分からないのですが、米と野菜と魚を平九郎の元に運んでおりましだ。また、衣類や書物を城下で買い求め手渡したのです。

 村人は、今年こそは米が食べられると期待していただけに、落胆が大きかったのです。その様子を見て、長太郎は村人に言いました。

「神様は手伝ってくれない。だから村の者の手で何とかするのだ。神頼みだけは、止めてくれ。」

村人は、長太郎の言ったことを受け入れました。

 

そして村人は、洪水が残していった流木の火で、その年を暮らしたのです。年が明けて、年に一度の芋が村人の手に入りました。村人が芋に舌鼓を打っているとき、長太郎は平九郎の家を尋ねていたのです。

「どのようにしたら、米が穫れるでしょうか。」

平九郎は、長太郎に答えました。

「昔の諺に、国を治める者は、先ず水を治めよ、というのがある。庄屋殿は、幾年かかっても、どうしても荒川の水を防がなければならない。いいかね、よく聞きなされ。洪水を防がなければ駄目なんじゃよ。」

長太郎は、その意味を十分承知していました。

「はい、承知しました。如何様にしたらよいのでしょうか。」

長太郎は、平九郎に尋ねました。

「荒川に、堅固な堤を築くことだ。洪水に負けないような堅固な堤だ。」

正月で長太郎は、羽織袴姿で平九郎の前で頭を低くしていました。

「あのように長い堤を、どのようにしたらよいのでしょうか。」

そう長太郎が問い掛けると、平九郎はすぐさま答えました。

「あの「く」の字に曲がっているところが、一番切れやすい。あそこだけは、永久に破れないように、しっかりと造らなければならない。それを中心として、二町ほどはしっかりと土を固めておかねばなるまい。裏山にある、あの硬い岩を、そう三尺四方くらいにして幾つも造り、それを堤に入れて堤を強くしなければならない。堤の下の方は深く強く、水際は、お城の石垣のように、石を敷き詰めて動かぬようにしなければならない。そして川の曲がっているところは、川の中の方へ広く堤を取るのがよいだろう。」

そして平九郎は、堤の修築方法の要点を記した書き物を長太郎に手渡しました。

 

長太郎は、四町という堤の修築に、途方もない空しさを感じました。一方、子々孫々のために、やれるだけのことをやらなければならないとも思ったのです。堤を築けば、それは考えて可能であると思いました。考えて可能なことは、やらなければならないと思ったのです。

「では、明日から早速仕事にかかりましょう。」

長太郎は、躊躇いもなく平九郎に言いました。平九郎は、待てと言わんばかりに、右手の掌を出したのです。

「それはならぬ。川の改修となると、殿様のお許しを賜らなければならない。そして幕府の許しを得なければ、殿が罰せられる。」

平九郎がそう言うと、直ぐさま長太郎は言いました。

「では、私が直にお城に行って、お許しを願い出ましょう。」

平九郎は、腕を組んで思案をしていました。殿に願い事をする際、農民が理由もなく罰せられることがあったからでした。しかし平九郎は、こんなことも思ったのです。幕府が土地開拓に必死になっている。だから庄屋も罰せられることがない。そう思って、運を天に任せることだと思ったのです。

「そう、誰かしら堤を築かなければならない。そうしなければ村は、本当に滅びてしまうだろう。許しが出るまでは、山の石を切り、運んで用意しておきなされ。庄屋殿、できたら拙者も仕事の指図をしたいのだが。」

平九郎の言葉に、長太郎は微かに涙を浮かべました。

「本当でございますか。先生のような賢くて立派な方に、先に立っていただければ、村人も勇気を出します。」

そして長太郎は、平九郎に深くお辞儀をしました。長太郎は喜びと勇気で溢れ、平九郎は大きな仕事に臨む気持ちよさで、二人は固く手を握り合ったのです。

 

 その月の内に長太郎は、許しを得るため城に出かけました。幾度も城に出かけ、願い入れを行いました。とうとう願いは受け取られ、追って沙汰があるとのことだったのです。沙汰があったのは、梅雨のころも過ぎて、村人が洪水の土砂を払い除けているときでした。その一方で、村の裏山では槌の音が響いておりました。沙汰の内容は、おおよそ次のとおりでした。

…この度の請願は尤もなことであるから、荒川改修のことを許す。ただし、庄屋は責任を持って次のことを守ること。

一 改修は、早々に始め、十年以内に終わること。

一 改修が終わるまで年貢を免除する。その後の年貢は収穫物の四割とする。

一 改修工事に当たって、物資及び人足は山地村で賄うこと。

以上のことを厳重に守ること。この度の改修には、お上も成功を祈っている。特別の配慮はしないが、宜しく成し遂げることを申しつける。…

書状は、家老から山地村庄屋の長太郎宛でした。

 

 田圃の整理は、秋の嵐の後にすることとして、長太郎は村の男衆の全てを改修工事のために集めました。長太郎は思うがまま村人を動かし、村人も必死に働きました。平九郎も、生活の貧しさに不平を言わず、知恵を絞りながら改修工事全体の指図をしておりました。

 荒川の曲がり角を中心に、両脇二町の所から、堤の幅を広げることや土の打ち固め、植樹、水際の処理を実行しました。荒川の曲がり角は永久的に持ち堪えるようにするため、最後に仕上げることとし、そのための石は絶えず切り割かれて運ばれました。

 秋になって、一応荒れた田圃の整理をさせました。毎年のように破れる堤、翌年もまた翌年も破れました。しかし改修工事は、その中心部に向かって段々と狭まっていったのです。三年目の正月には、僅かでしたが米が食べられるようになりました。改修工事も中心部近くになっていくと、段々と難しくなっていきました。

 七年目の夏に、今まで切り出した莫大な量の石を、その中心部に使うことになったのです。大きな石が、堤の下深くから堤の高さまで積み上げられました。そして溶けにくい土を使って、石壁を二重に重ねたのです。その年の秋の嵐には、とうとう荒川の水が長太郎の村に入ることがなくなりました。そして更に二年をかけて、平九郎の指図の下で補強工事かなされたのです。水際を石と土を更に重ね、最後に岩で水際を多くの岩で固め、四町の堤は岩肌となって、とても強固となりました。

 

 村人は庄屋長太郎に深く感謝をし、長太郎は平九郎にこの上もないほど感謝をしました。長太郎は、その証として平九郎のために立派な屋敷を建てました。また、村人のために村を見下ろす山の松林の中に、壮麗な鎮守様を建造しました。

 平九郎は、堤を築き米が穫れるようになっても、それで十分だと思っていませんでした。幾世代も農民として過ごしながら、村人が仕事を知らなかったのです。俵を編める者もおりませんでした。平九郎は、長太郎を招いて、より豊かな村にするために相談をしました。

「庄屋殿、堤ができたからと言って、喜んでばかりおられぬ。他の村よりも豊にするのだ。」

平九郎は、長太郎に言った。長太郎は、頷き

「先生、どのようにしたらよいのですか。」

と尋ねました。平九郎は、書き物を長太郎に示しながら言ったのです。

「用水を造るのだ。それに田圃はなるべく大きく、四角に畔を作る。村の家には、木を植え、庭を造らせて花を咲かせ、川の近くの砂地には桑畑を作り、村外れに共同で牛や馬、食べられる動物を飼うのがよかろう。桃や柿など実のなるものを植えるのがよい。」

平九郎は、そう言うと書き物を長太郎に手渡しました。長太郎は、もう三十歳の半ば近くになっておりました。

 

 村人の生活は、年を追うごとに豊かで楽になってきました。米の収穫の四割の年貢も重いと感じませんでした。庄屋の家は、檜張りの屋根の大きな屋敷となり、広い庭には花が咲き乱れ、白石が敷かれておりました。長太郎の母は、白い米を毎日仏前に供え、手を合わせておりました。使用人も多くなりましたが、長太郎は使用人を隔てることなく、豊かになった膳を共に囲んでいました。

 それから三年が過ぎました。長太郎は、平九郎が言ったように用水を開き、稲架木になるように、多くの木を植えました。蚕から絹がとれ、村の中にも機織る音が聞こえるようになりました。

 

 そのように村が豊かになってきた頃、長太郎の所へ平根村の庄屋から使いが来たのです。使いの者は、礼儀の限りを尽くして挨拶をし、ようやく座敷の座布団に座りました。長太郎は、母親と一緒に話を聞いたのです。

「山地村と言えば、神から見放された村と聞いておりました。ところが今来てみれば、私らの平根村より豊かのように見えます。何と言っても、庄屋様のお力でございます。」

平根村庄屋の使いは、重大な用件らしく、紋付き羽織姿でした。

「して、平根村の庄屋様から、何かお言い付けでも。」

長太郎は、使いの者に尋ねたのです。

「はい、平根村の庄屋様が、山地村をこのように立派にされた庄屋様をいたく気に入りまして、是非、娘との縁談を進めてくるように言いつかって参りました。」

長太郎は、寝耳に水といった有様で、大変驚きました。平根村と言えば、領内でも大きな村で、山地村の何十倍もある村でした。その庄屋といえば、領内の有力な旦那様でした。

 

 長太郎は、米が穫れるようにと思い、平九郎の指図の下で精魂を込めて働いてきたのです。祝言を挙げることなど、考えたこともなかったのです。年も三十の半ばを越え、突然と大旦那からの縁談に、長太郎の顔は青ざめたのです。使いの者は、返答を待っているらしく、畳に顔をつけるように畏まっていたのです。長太郎は、顔を強張らせて母親の顔を見ました。母親は、了解したように頷いて見せました。

「平根村の庄屋様の娘御さん達は、皆んな嫁いでいるのではないかい。」

長太郎の母親は、我が子の縁談となれば落ち着いて、使いの者に尋ねたのです。

「いえ、末娘の初音様でございます。」

長太郎の母親は、驚きました。

「本当かね。あの初音様が、ここに来てくれるというのかね。」

長太郎の母親は、念を押すように言った。長太郎は、初音という名を聞いて、尚のこと青ざめてしまいました。

…平根の庄屋の初音様、いつも笑顔の器量よし…

初音が、流行歌で歌われているのを長太郎も知っていました。丁度二十歳になったばかりの、平根村の庄屋の宝の一つだったのです。

「確かに、平根村の庄屋様は、そう言われたのですね。」

再び、確かめるように長太郎の母親は、使いの者に言ったのです。

「はい、初音様を側に置いて、確かに言われました。間違いございません。」

平根村の使いの者は、伏したまま答えました。長太郎は、幾らか落ち着き、母親に嬉しそうな顔を見せました。長太郎の顔を見た、母親は承知したように使いの者に言いました。

「平根の庄屋様が言ってくれるのです。承知いたしました。三十も越えている男ですが、宜しくお願いします。平根の庄屋様にも、初音様にも宜しくお伝え下さい。」

長太郎の母親は、丁寧に使いの者に言いました。使いの者は、ようやく顔を上げ、丁寧な挨拶をして帰っていきました。

 

 その日から長太郎は、初音を迎えることで心が浮き立つ思いでした。これも全て平九郎のお陰だと思うと、平九郎の屋敷を訪れ、お礼を述べました。平九郎もその妻、そして子息の晋太郎も口々にお祝いの言葉を述べました。

 祝言は弥生の吉日に行う段取りがつきました。長太郎の山地村では、長い間他の村との祝言は行われず、祝言の正しい作法を知る人はおりませんでした。長太郎は、平九郎から作法を教えてもらったのです。式の段取り、結納、そして客のもてなし方などです。平九郎の妻を嫁に見立てて、式の練習を幾度もしたのです。座る場所や仕草、杯の持ち方や飲み方、挨拶の仕方、果ては歩き方、手の置き方など、長太郎はまるで初めて習う子供のようでした。側にはいつも男盛りの平九郎の子息の晋太郎が、物珍しそうに見ておりました。

 

 山にまだ白い雪が残っている頃、平根村の庄屋の娘、初音が駕籠に揺られて長太郎の村へと出発しました。近隣近在の人々は、その嫁入り行列を見るため、道端に集まり見送りました。近隣の村に聞こえた美しい娘が、綿帽子をかぶり顔は見えませんでしたが、その豪勢な織物に目を見張りました。金銀の千羽織り、都から取り寄せた帯、花嫁は俯き加減に座っておりました。花嫁と共に送られる、紫紺の布に包まれた小箱、大箱の列が続きました。

 長太郎の村人は、庄屋長太郎の花嫁を迎えるため、村境まで迎えにでました。村人は、老若男女を問わず、新しい装いをして出迎えたのです。花嫁は、長太郎の村の手前で駕籠から下り、仲人の後から母親に手を曳かれて歩き出しました。その後から満足そうな身内や親族などの人々が連なって歩いておりました。長太郎の村人は、花嫁行列が過ぎると、その後から長い行列となってゆっくり歩きました。村人は、口々に花嫁の衣装や持ち物に驚きの声で話しながら歩いていたのです。

「さすがは、平根の庄屋様の娘さんだ。」

「かぶり物の中の初音様は、さぞ綺麗じゃろう。」

「そりゃそうよ。前に平根の庄屋様の屋敷の前で見たことがある。白くて紅を差したような口してよ、髪がとても綺麗な人だよ。」

「荒川の水を治めた、我らの庄屋様にお似合いだよ。」

「そうよ。うち等の庄屋様だって、立派だからな。」

そんな話をする村人は、初音という器量よしの嫁が長太郎の所に来てくれることを喜んでいました。

 

 その頃、長太郎は屋敷の部屋を熊のように歩き回っておりました。平根の庄屋の娘が、自分の妻となると思うと落ち着かなかったのです。長太郎の落ち着きのない姿を見て、母親も平九郎夫婦も気がきではありませんでした。式で何も失敗しないで、平根の庄屋に気に入られるように、そればかり思っていたのです。

「長太郎殿、長太郎殿。庄屋殿。」

平九郎は、長太郎を落ち着かせようと声を掛けましたが、長太郎は何知らぬ風に行ったり来たり、畳をギュウギュウと音を立てさせていたのです。

「これ、長太郎。」

母親が叱りつけるように言いますと、長太郎は慌てて母親を見ました。

「今、何か言いましたね。」

母親は呆れたように

「何かではありません。もっと落ち着きなさい。先生が呼んでいるのですよ。」

と言いました。長太郎は、平九郎に向かって済まなそうに一礼をしました。平九郎は、長太郎に念を押すように言ったのです。

「いいですか。式で庄屋殿が座るのは右の席ですぞ。三三九度の杯を落とさないように願いますぞ。それに式の時は伏し目にしているのが良かろう。見知らぬ人が大勢おります。キョロキョロしてはなりませぬ。」

平九郎は、長太郎が頼りない返事をしたので、堪りかねて妻を呼びつけ、最後の練習をしたのです。

 長太郎の手代が、少し慌てて長太郎の所に来ました。

「ただいま、平根村の庄屋様と花嫁様がお着きになります。」

長太郎は、落ち着き払って頷きました。

「そうか、来たか。では手筈通り花嫁方のお部屋にお通ししなさい。」

手代にそう言って長太郎は、ゆっくり縁側の方に歩き、障子戸を開けました。

「来てくれたか、初音様が。また新しい村ができていく。」

長太郎は、雪が残る裏山に問い掛けるように、そう呟きました。長太郎の母親と平九郎は、広い庭の木々の前に立っている長太郎の姿に頼もしさを感じたのです。そして自分たちが心配するほど、長太郎が狼狽えていないことを知ったのでした。

 

 仲人の言葉が述べられ、失敗も見苦しさも見せずに式は終わりました。花嫁の初音は、化粧直しで席を外しました。長太郎も緊張が続いたことから、席から離れ部屋に戻りました。長太郎は縁側に腰を下ろし、空を仰ぎました。静かに時を過ごしていたのです。

「長太郎、どうしたのだい。席を外したりして、嬉しいのかい。」

暫くして母が部屋に訪れ、長太郎の側に座って言いました。長太郎は、母親に向かって

「それは嬉しいです。俺は、一生嫁を貰うことなんかできないと思っていたんだ。それでもいいと思っていたんだ。縁談があっても受け付けないつもりだったんだ。でも、初音様なら話が違う。」

と、嬉しそうに言いました。

「どうしてだい。」

母親は、心外だった。今迄、長太郎が嫁を貰うつもりがなかったことを聞くと、我が子が恐ろしいことを考えていたと、不思議でならなかったのです。

「私は、庄屋の役目が重荷だったのです。何の術も知らないで村を治めることなどできません。でも、初音様は大旦那様の娘御で、道理を弁えた賢い娘御と聞いております。初音様と一緒なら、上手に村の庄屋が勤まる自信ができました。」

長太郎のそう言う言葉を聞いて、母親はそれ以上のことは聞くまいと思いました。祝言のお目出度い日だったからです。

「どうだい、長太郎、初音様の器量は。」

「そりゃ困る。下ばかり向いて、初音様は目に入らなかったわ。」

「そろそろ宴の支度もできたであろう。お前も早く嫁御の顔がみたいじゃろう。さあ行きましょう。」

親子は静かな話を止めて、部屋を出て行きました。庭は鮮やかな緑が萌えだし明るくなりました。襖を外した広間に長太郎は座りました。そこには、桃割りが似合いそうな娘が、高髷を白い顔に豊に際立たせて座っておりました。初音は、長太郎が座ると直ぐ長太郎を見返し、顔を赤らめて丁寧にお辞儀をしました。

「待たせて、本当に悪かったね。」

長太郎は、初音に声を掛けました。初音は

「いいえ、そんなことありません。」

と答えました。長太郎と初音が交わした最初の言葉だったのです。尚更、頭を低くして答えた初音に長太郎は賢さを感じました。

 

 宴は夕方まで続きました。二人を祝い、祝い言葉や唄、踊りなどが続きました。長太郎と初音は、時々顔を見合わせ、仲睦まじいところを皆なに見せました。宴が終わり、新郎新婦は平根村の人たちを見送りました。駕籠をしつらえ、歩く人には提灯を手渡しておりました。

初音の父親は、長太郎の屋敷に奉公人として、お竹と言う四十過ぎの女と加根と言う十五歳位の少女を置いて帰りました。皆を送り終わると、奥座敷で長太郎とその母親、初音はくつろぎました。

後片付けが終わると長太郎は、奉公人を囲炉裏のある部屋に集め、平九郎一家を招き、ささやかな宴を開きました。座る場所や言葉遣いなどお構いなしで、屈託のない宴でした。そんな中で一番はしゃいでいたのは、お竹と加根でした。初音は、お竹や加根がこんなにもはしゃぎ回っている姿を見るのは初めてでした。何の屈託もない雰囲気の中で、囲炉裏火を見ながら初音は、言いようもない朗らかな喜びを感じていたのでした。

 

荒川の堤が強固になり、長太郎の村はこれから発展していこうとする村でした。村人は、自由に暮らしていました。それだけに厳しいしきたりの平根村から来たお竹や加根は喜び、屋敷の奉公人とも直ぐに仲が良くなり、一生懸命に働きました。初音も、全てが開け放たれた長太郎の村を快く思っておりました。毎日のように囲炉裏を囲んで、家の者と奉公人が勝手気儘に口にする言葉、熱い吸い物に舌鼓を打つ明るい顔、誰とも構わず入る風呂、時折訪れる村人の朗らかな挨拶、初音には見たことがない様子でした。

長太郎は、朝早く仕事に出掛けます。初音も朝早く起き、奉公人と一緒に水掃除や掃き掃除をし、姑と縫い仕事もしました。それでも余った時間は、自分の時間に使いました。たいていは土蔵の中の書物を出して読んでおりました。また、鮮やかな着物に、緋色の襷を掛けて鍬を持つこともありました。鍬を持って、春の畑に出掛けるとき、奉公人と一緒に歩きながら村人に声を掛けられるのに、愉しさを覚えたのです。

 

 桜も散り始めた春日和に、村人達は奥山へ桜見に出掛けました。山桜の白い花が咲いている山の頂に、村人と共に長太郎の家の者達と平九郎の家の者達も連れ立って行きました。賑やかな集まりの中、酒もふんだんに配られました。初音は、琴が弾きたいと言って、家の者達に琴を持たせてやってきました。歌う者、踊る者、それは楽しい桜見でした。幼い娘は柔らかい手をなよなよさせ、腰の曲がった年寄りは手を高く上げ、声自慢の若者は景気良く、囃子や手拍子が乱れ飛び、宴は段々と高まっていきました。

 初音が琴の手前に座ると、和やかな静けさが漂いました。初音の弾く琴の音は、山桜の花びらを駆け巡り、山間に響き渡りました。村人は、繊細優美な琴の音色を聞いたことがなかったのです。調べが終わると拍手が起きました。幼子や娘達は、琴を珍しそうに見に寄ってきました。初音は、それを微笑みながら明るく迎えました。平九郎の妻が、側に寄って初音に言いました。

「初音様は、大層お琴が上手でいらっしやること。」

初音は、恥ずかしそうに長太郎を見ました。

「上手だなんて、そんなことありません。」

微笑んで平九郎の妻を見つめ、初音はそう言いました。長太郎と平九郎は、満足そうに頷いておりました。その時、平九郎の子息の晋太郎は片手に横笛を持って、初音の前に座ったのです。

「私の横笛と一緒に、お手合わせをお願いします。」

晋太郎は初音に頼みました。初音は、嬉しそうに両手をついて

「お願いします。」

と上がり調子の声で返事をしました。二人は、二言三言調べの打ち合わせをした後、奏で始めました。春の陽に軽やかな調べが、横笛と琴の音が解け合って青空に流れました。二人の調べが終わると、村人の拍手喝采が湧き起こりました。

 珍しく平九郎も羽目を外し、何か難しそうな詩を詠じておりました。平九郎の妻も一人で謡いながら舞を村人に見せました。初音は、何もしない長太郎に少し寂しさを感じました。美しい夕空の訪れと共に宴は終わり、村人は家に帰っていきました。

 

その桜見の酔いも醒めやらぬ夜、村の半鐘が鳴り響きました。村外れの地主の長兵衛の家が炎に包まれたのです。幸い村の軒並みに飛び火しませんでしたが、長兵衛の家と近くにあった長兵衛の小作人の家は焼け落ちてしまいました。それでも村人の手で、家の箪笥や土蔵にある家宝などは運び出されました。長太郎は、すっかりしょげ返っている長兵衛の家の者や小作人を自分の家に連れてきました。

「長兵衛さん、そうがっかりしなさるな。昼の残った酒があります。それを飲んで気晴らしでもしなさい。」

長太郎は、そう言って側にいた加根に酒を持ってこさせました。長兵衛は、気が抜けたように頭をコックリコックリさせていました。

「さあ、長兵衛さん、お飲みなさい。さあさあ、無くなったものは仕方ないでしょう。長兵衛さんが頑張らにゃ駄目ですよ。」

長兵衛は、入れるでもなしに酒を口の中に流し込んでおりました。長兵衛の家族の者達も、初音に励まされておりました。酒で少し気を取り戻した長兵衛を連れて、長太郎は土間から皆なのいる囲炉裏端に行きました。

「庄屋様、わしら親子を今日一日でも泊めてください。」

長兵衛は、両手をついて長太郎に頼んだのです。

「手なんかつきなさるな。幾日でもいいですよ。家が建つまでいなさい。」

長兵衛は、頭を垂れて小さな声で言いました。

「家を建てると言っても、何時のことやら。山を持っていないし。」

長太郎は、笑顔を見せて頷きました。

「長兵衛さん、そんな心配しなさるな。山地村の山があるじゃないか。それに明日にでも大工を呼び寄せますよ。」

長太郎は、長兵衛を慰めました。長太郎の言ったことは、単なる慰めではありませんでした。村人の賛同と働きを得て、翌日から地主長兵衛の家の再建が始まりました。田植えが始まる前に、焼け跡に長兵衛の家が立派に建てられました。その間、長兵衛一家と小作人達も、長太郎の屋敷で厚くもてなしを受けたのです。田植えも始まり、長兵衛も村人に気兼ねなく明るい生活を送るようになりました。

 

 十数年前まで貧困に喘いでいた村から、これほど豊かになった村に変わったのは、村人達の力があったからでした。庄屋は地主を信頼し、地主は小作人と共に歩いたからでした。初音には、村の自由が本当に素晴らしく思いました。

 平九郎一家が、長太郎の屋敷によく訪れるように、初音も自由に平九郎の屋敷を尋ねました。桜見以来、平九郎の子息晋太郎は、初音の琴と横笛を合奏することがよくありました。長太郎や奉公人、聞き付けた村人の見守る中で合奏をしました。長太郎の屋敷の晩方は、それは楽しいものでした。初音は、日中暇な時など平九郎の屋敷を訪れたのです。平九郎に学問や書、その妻から舞や茶の湯、花などの芸事や行儀作法などを習いました。長太郎は、初音が色々と芸事や習い事に熱心になっているのを大変喜んでおりました。

 長太郎は、人を疑うような心を持ち合わせておりませんでした。初音が平九郎の屋敷に通って、賢くなっていくのを手放しで喜び、初音の心に波風が立っているのを見抜くことができませんでした。格式張った平根の庄屋で育った初音は、この長太郎の村では何でも自由にできると思っておりました。年も二十歳の初音は、自分の知らない風に曝されていたのです。

 初音は、平九郎の子息晋太郎と調べを重ねることがあるほか、隣り合って平九郎から学問や書を習い、時には、晋太郎から学問を教えて貰うこともありました。芸事の練習も一緒にしていたのです。上手になるのに、そうするのが良いと初音は思っておりましたる。初音は、習ったことを長太郎の前で見せると、手放しで喜んでくれるのを恥ずかしいほど嬉しかったのです。殊に、初音は晋太郎と屋敷で合奏するとき、時折顔を上げて姑と長太郎の顔を見、感心している頷きを見ると嬉しかったのです。毎日のように長太郎がいる時を見計らって合奏をしていたのです。

 

 梅雨の頃は繁る若葉を背にし、夏になると涼しい風を共に、初音と晋太郎は琴と横笛を重ねておりました。お盆も過ぎ、夏の涼風が袂を流れる頃、庭との簾越しに大きな日が沈み始めました。長太郎は何とも言えぬ寂しさを感じました。目の前に居並ぶ、若い二人を見たからでした。二人は、合奏が終わると長太郎に向かって綺麗にお辞儀をしました。そして初音が座を立とうとすると、長太郎は言いました。

「初音、もう少しそこに座っていなさい。」

初音は、怪訝そうな顔をして言いました。

「でも、お酒をお飲みになるのでしょう。」

長太郎は、初音のその言葉に答えず、じっと二人の姿を見ておりました。

「実に見事だ。この庭とあの山、この部屋の光に揺らめく二人の姿、まるで絵巻物のようだ。横笛とお琴の音が快く重なり合って、とても美しく思える。」

長太郎の褒め讃える言葉に、初音と晋太郎は顔を見合わせ、微笑みを交わしたのです。それは一瞬のことでしたが、二人の間には深い喜びでした。

 長太郎は、初音の注いだ酒を仰ぎ、酔うほどに言ったことを忘れてしまいました。しかし初音は、長太郎の言葉を心に秘めてしまったのです。そして初音は、思ってはならないことを思ったのです。村人が自由であるように、初音も自由の戯れに陥ってしまいました。それは初音一人ではありませんでした。平九郎の子息晋太郎も同じ思いを抱いたのでした。二人は、それぞれ小さな胸に閉じ籠めておりました。

 

 長太郎は、畑仕事で忙しい毎日でした。奉公人や小作人と一緒に汗を流し、野端でご飯を食べるのも好きでした。そんな気持ち良さが、長太郎に鍬を持たせていたのです。初音は、そんな長太郎の姿を見ていましたが、少し考えるようになったのです。

「長太郎さんが鍬を持つことは、立派であるけれど庄屋のすることではない。この村を豊かにした庄屋であるけれど、晋太郎さんにはかなわない。男前といい学才と言い、芸事、侍として筋の入った晋太郎さんは、長太郎さんよりも幾らも偉い。」

そんな考えが初音の心に浮かびました。そして一方では

「考えてはいけないことなのだ。長太郎さんだって良い方だ。村の人を大切にするし、私にも、お加根やお竹にも優しくしてくれる。こんなに情け深い方が、どうして人に裏切られてよいものでしょうか。」

と思ったのです。そして嫁入り前の祖母の言葉を思い起こしました。

「嫁ぐ前の日、お婆様が言ったのではないか。「これからは、山地の庄屋様の妻なんだから、みだりにこの家に戻ったり、長太郎様に面倒をかけたりしてはなりませんよ。」私は、お婆様の言葉を心して受けたのではないか。」

そんな祖母の言葉を思いましたが、初音の熱い胸の内は揺れ動いておりました。

「晋太郎様、どうなのですか。この初音をお慕いください。初音は、お慕い申しております。どうかお慕い下さい。」

祖母の言葉には厳しさがあった。祖父からは優しい言葉があったのです。

「初音、この爺が生きている限り、初音は私の宝だ。苦しいことがあったら、この爺に言ってきなさい。たとえ、どのような疚しいことでも良いから。」

そんな祖父の笑顔が大きく頭に浮かんだのです。

 

 初音は、悩みのため沈みがちな日を送っておりました。十五夜が訪れました。その日中、月見の宴造りで初音と晋太郎とその母が花飾りを備えていたのです。奥座敷の花飾りをしている際、晋太郎の母が手桶を持って土間の方へ行った間に、晋太郎は懐から手紙を取り出し初音に手渡しました。

「初音様、懐におしまいください。後で読んで下さい。」

宴造りも終わり、晋太郎は夜の宴に来ると告げて帰りました。帰っていく晋太郎の後ろ姿を初音は嬉しげに見送りました。初音は、晋太郎の手紙を懐に隠し、辺りを憚るように自分の部屋へ行きました。戸をしっかり閉め切ってしまうと部屋は暗くなり、初音は行灯をつけてその明かりの近くで手紙を取り出し、暫く手紙を開きもせず見ておりました。夢の中で幾度か晋太郎の姿を見たのを思い出しました。誰の気兼ねもなく、勇気さえあれば、そう思うと初音の心は高鳴りました。初音は、そっと手紙を開きました。

…初音様、愛しい初音様、初音様の姿を見るのが辛くなって参りました。私は、何よりも初音様をお慕い申しております。そして何時の日か、毎日の住居を共にしたいと心に思っております。初音様、お幸せを選んで下さい。…

初音は手紙を読み、幸せな心になりました。そして晋太郎と夫婦になることができると思いました。その手紙を幾度も読み返した後、手文庫にしまいました。そして自分の髪を撫で上げ、ふと白壁に映る自分の影を見たのです。その淡い影に、急に祖母の言葉が初音を襲いました。

「初音や、若いお前が嫁いでしまったら、考えてはいけないことがあるんだよ。いいかい、幾ら苦しくても心に閉じこめておくんだよ。」

その言葉を思うと、初音の頬に涙が流れました。短いようで長い長太郎との生活を思い出しました。

「お婆様、初音は何もしませんわ。」

初音は、そう言葉を洩らすと忍び泣きをしました。袖を濡らし、喉が鳴っておりました。そして気を取り直し、初音は自分の影に語りかけました。

「心に閉じておくわ。きっと心に閉じておくわ。」

十五夜の夜の月見の宴に、初音は晋太郎にそれらしい素振りは見せませんでした。その日以後、初音は平九郎の屋敷を訪れなくなったのでした。

 

 その年の秋は、村始まって以来の豊作でした。長太郎は、初音を前庭に連れて行き、高く積み重ねられた俵を指差し、誇らしげに言いました。

「どうだい、山地にもこれだけの米が穫れるようになった。これも皆な平九郎様のお陰だ。本当に有り難いことだ。」

長太郎の村は小さかったけれど、秋の収穫が多かったことは近隣の村にも聞こえました。庄屋長太郎の名前は知られても、平九郎の名前は広がることはなかったのです。でも、初音の生まれた平根の庄屋の家では、平九郎の賢才振りは伝わっておりました。よく、使いで加根やお竹が平根の庄屋の屋敷に行った際、祖父に話したからでした。

 その年の年貢を納める際、城から長太郎の元へ使いが来ました。殿様が長太郎に会いたいと言うことでした。長太郎は、その知らせを早速平九郎に言いました。平九郎は、喜びましたが、何か寂しそうでした。長太郎の登城は、秋祭りが終わってからの日でした。

 

 秋祭りには、村では地主や小作人を問わず、酒に酔い痴れておりました。長太郎の屋敷には、朝からひっきりなしに人が訪れ、そのもてなしに忙しい中、底抜けの明るさと喜びが満ちておりました。長太郎は、鎮守様の太鼓の遠鳴りを聞きながら、少し酔いながら初音に言いました。

「初音、平九郎様の屋敷にお酒とご馳走を届けてきておくれ。私は、昼に行ってきたばかりだし、これから鎮守様に行ってお祈りの音頭をとらなくてはならない。それに初音は、近頃平九郎様の屋敷に少しご無沙汰だろうから、行ってきなさい。」

初音は断る理由もなく、お竹を連れて平九郎の屋敷に行きました。初音は、平九郎に長年の働きの礼を長太郎に代わって述べました。平九郎は、初音に用があると言って、お竹を先に帰させました。

 平九郎夫妻は、初音と晋太郎を並べて言いました。

「庄屋殿は、殿様直々のお招きを受けたとのこと、誠に目出度いことです。」

初音は、平九郎に頭を下げました。

「いいえ、これも平九郎様ご一家のお陰でございます。」

初音は、下げた顔をそっと晋太郎の方に向けました。晋太郎の思い詰めた目が見えました。暫く沈黙が続いた後、平九郎の妻が初音に言いました。

「十五夜の月見の日、晋太郎が初音様に手紙を寄せたそうな。」

初音は、即座に答えました。

「そんなことはありません。覚えがありません。」

初音は偽って答えたのです。晋太郎は慌てて、初音に問い質したのです。初音は俯いて首を横に振っておりましたが、いつしか涙が流れていました。

「初音様、晋太郎は泣いていたんですよ。貴女に嫌われたと言って。」

追い打つように、平九郎の妻が言いました。初音は俯いたまま

「そんなこと、嫌っている、そんなことありません。」

と言い、平九郎の妻の言葉を否定しました。平九郎が重い口を開きました。

「初音殿、お聞きくだされ。私らは、このように浪人の身であるが、初音殿が気に入っている家だと思っている。晋太郎は、貴女と夫婦にならなければ死ぬと言っている。不義と言うことは重々承知している。でも、初音殿が、庄屋殿より晋太郎を選んでくださるというならば、私も力を尽くしましょう。恥を忍んで庄屋殿を納得させましょう。初音殿には不自由をさせまいと思っている。」

平九郎の言葉を聞き、初音は答えました。

「私は、恥なんか構いません。平根村の初音であるならば、晋太郎さんをお慕いすることができます。でも、私は、今となってはできないことです。」

初音は、そう言うことで精一杯でした。平九郎は言いました。

「私は侍だ。しかし、侍を捨ててもよい。初音殿と晋太郎が夫婦になれるなら。私が侍として仕官できれば、それに越したことはない。そんな話なんか、夢にもおぼつかないことだ。この山地村を豊かにしたと言っても、全てが庄屋殿の力とされる。初音殿に来てもらえるというのであれば幸せであり、侍を捨ててもよい。」

それ程の言葉が平九郎の口から出たのですが、初音ははっきりとした返事をしませんでした。そこには、平根のお婆様の厳しい言葉があったからです。

 

 長太郎が、殿様に会う日がやってきました。長太郎は、城下に宿を取っておりました。初音は気が進まないと言って、村に残っておりました。長太郎が殿様に会い、褒美を貰い、長太郎から願い事をして、喜びを抱いて宿に帰ったその晩、初音は平九郎に呼ばれ、平九郎の話を聞いておりました。

「初音殿、今日私は、そなたのお爺様に会ってきた。そして晋太郎と初音殿のことについて、どうか聞いてきた。お爺様は、暫く様子を見て、初音殿と晋太郎の心が変わらなければ、平根の村に来るがよいと言っていた。どうかね、初音殿は気変りをするかね。」

初音は、静かに首を横に振りました。

「お爺様がそう言われましたか。お婆様はどうでしたか。」

平九郎は、一瞬ためらったが、即座に答えました。

「お婆様か、それはお爺様と同じだよ。喜んでくだされてな。初音殿の幸せを考えてな。」

しかし、平九郎は初音のお婆様に会っていなかったのです。

「そうですか。お婆様もそう言ってくれましたか。」

平九郎は、初音に念を押すように言ったのです。

「初音殿、承知してくれますね。」

初音は、俯いたまま

「承知しました。でも、もう長太郎さんに会えない。長太郎さんには悪いことです。」

と答えたのです。平九郎は、その心配を打ち消すように言ったのです。

「そうとばかり言えまい。長太郎殿は、殿様からお引き立てを受け、侍として迎えられるだろう。正月明けに、城から迎えの使者が来るだろう。私の所に来たら良さそうなものだが。そうすれば、初音殿も一緒に城下で暮らせるのだが。」

初音は、平九郎の言葉を聞いて少し心が軽くなりました。長太郎から離れても、長太郎に新しい幸せが来ると思ったからです。

 初音は、晋太郎と自分のことを長太郎に話さなければならないと思いました。許されることではないけれど、黙っていることができなかったのです。翌日の夕方、長太郎は殿様からいただいた品々を大切に持って帰ってきました。その幸せそうな顔を見て、初音は何も言うことができなかったのでした。

 

 大晦日の夜、長太郎の家族と平九郎一家は揃って鎮守様に二年参りに出かけました。いつの年になく寒い大晦日でした。大きな蝋燭が境内の各所で灯され、村の人々が二年参りで群がっておりました。その明るさは、貧しい時代に見られなかった風景でした。明かりは、晴着姿の人々を明るくし、松の緑も鮮やかに映えておりました。神官が、年を越えた合図を送り、村の人々は新しい年を良い年であることを祈りました。

「初音、お前は何を祈ったのかな。」

長太郎は、にこやかな笑顔見せて初音に言葉をかけました。

「はい、もっと幸せになりたいと祈りました。」

初音は長太郎の顔を見てから、少し俯き加減に答えました。

「そうかい。初音はもっと幸せになりたいのか。初音が幸せになるのだったら、何をしたらよいのか、私に言っておくれ。私でできることなら、何でも適えてあげよう。」

長太郎は初音にそう言って、更に言ったのです。

「私は、村の多くの人が、もっと幸せになるように祈った。村中の人が、豊かな心と健やかな体を持ち続けることを祈ったんだ。」

初音は、村を治める長太郎がそう言っているのを聞いて、とても尊い人だと思いました。奉公人と長太郎が持つ提灯の明かりに導かれ、初音は屋敷に帰りました。

 

 夜明け近く、長太郎は初日を見るからと言って、初音を庭に誘いました。東の空が明るくなって、彩り豊かに雲が黄金色に光りました。二人は並んで空を見上げていました。

「今年は、本当に良い年になるだろう。村の人々には一層多くの富が、真壁様には喜びが絶えないような出来事が、初音には本当の幸せが来るだろう。」

空を見上げながら、長太郎はそう言いました。

「それで、長太郎様の幸せは。」

初音は、長太郎の言葉を聞いて、そう尋ねたのです。

「私の幸せは、村の人達が幸せであることだよ。それに真壁様ご一家、母様、平根様、そして初音の幸せを願っている。」

初音は、長太郎が自分自身のことを考えず、他の人々の幸せを考えている尊敬する人だと思いました。初音は、長太郎が初音自身のことをどう思っているか知りたかったのです。

「初音の本当の幸せって、どのようなものなんでしょう。」

初音は、そう長太郎に問い掛けました。長太郎は、空を見上げながら言いました。

「初音は、この村の庄屋の長太郎の妻だから、私と心を一つにして貰いたい。村の人々と共に過ごし、村の人々を一層心豊かにして貰いたい。遠い昔は、この村は良い村で、住んでいる村人も良い人だと聞いている。殿様も、領地の中の町や人々を良くするために熱心でおられる。そのためにも、私は一生懸命にならなければならない。初音は、私と一緒に、二人が生き長らえている間に、できることはしっかりやっていくんだ。」

長太郎は、更に言葉を続けました。

「初音は、私よりも賢い。村の人々に書や芸事を教えてやって欲しい。礼儀作法も、そして良い心を作るための習わしも教えて貰いたい。村が十数年ほど前まで、荒れ果てた土地だったのは、荒川の所為だけでなかったのだと思っている。村の人に本当の勇気と知恵がなかったからだと思っている。蔵の中には古い本がある。新しい本は町から買い求めてくる。村の皆なが、もっと利口にならなくてはならない。賢く礼儀ある人にならなければならない。私は、初音のように賢く優しい人が好きだ。礼儀ある人は、本当に気持ちがよい。村の人達は馬鹿正直であるが、その上に物事を弁える人になったらよいと思っている。私は、そんなことが分かっていても、それだけの力がない。初音には、その力がある。初音には、村の人達と一緒に歩いて欲しい。去年、村の人達を見て分かっただろう。無垢な人ばかりだ。本当の賢さではない。本当に強い心が、末永く続くように、そのために努めるのが私と初音の本当の幸せだと思っている。」

初音は、長太郎の言葉を聞いて庄屋の嫁になり、自分がこの村で何をすればよいのか分かったのです。長太郎の幸せというものが、村人の幸せであり、とても大きな幸せだったことも分かりました。しかし、初音は村人を教え導く力は、平九郎一家に及ばないことを知っていました。

「はい、初音は長太郎様と一緒に歩いていきます。でも、平九郎様がおられます。」

初音は、平九郎一家の力を無視できないと思い、長太郎に言いました。

「平九郎様には本当に世話になった。でも、この村に来てから十数年が経っている。平九郎様は侍だ。何れ、この村から出て行かれる方だ。」

初音は、内心驚きました。平九郎一家が、平根村に移り住むことを知っていると思ったからです。

「真壁様ご一家は、どちらへ行かれるのでしょう。」

長太郎は、初音に優しい目を向けて言いました。

「真壁様がどこへ行かれるか、それは知らないが、近い内に喜んで行かれるところがあるだろう。真壁様が行かれても、この村に初音がいてくれるから心配はしていない。」

二人が語り合っている間に、山の端から初日が出てきました。長太郎は、一歩前に進み出て初日に向かって合掌をしました。初音も長太郎の後で、初日に向かって両手を合わせました。

 

初音は、長太郎の心の広さや考え深さが、平九郎以上にある人だと思いました。それは長太郎が村のことを思い、浪人平九郎を村に招いたことではっきりしていると思ったのです。村に招くのは平九郎でなくなくとも、侍であれば誰でも良かったとも思えました。村を良くするための筋道を長太郎は知っており、その筋道を確認するために、侍の考えを求めたのではないかと思ったのです。

初音は、長太郎が浪人平九郎に遠慮しながら物事を進めているが、平九郎の知識を越えた偉大さを、初日の前ではっきりと感じたのです。また、長太郎が心を許して話し合える人もなく孤独で、村人のために自分自身に厳しく生きていることを知ったのです。真剣に一生を共にする相手が、自分であることを自覚しました。初音は、そこに生きることの貴さを知り、遊び事ではなく善悪の分別をしなくてはならないと思いました。

初音は、長太郎と一生共に生きることを決心したのです。そう決心すると、人が一人の人にだけ約束する言葉を、二人の人に約束してしまったことを悔やみ、涙が流れてきました。

「初音、泣いているのか。今日は元日だぞ。泣くな。今日は、初音のお爺様に会ってくる。この家のこと、よろしく頼んだよ。」

そう言って、長太郎は初音を小脇に抱え屋敷に入りました。

 

 長太郎は、朝飯を食べ少し休んでから、平根村庄屋の屋敷へ年始の挨拶に出かけました。ところが夕方にもならない内に、帰ってきたのです。不機嫌な顔をして、炉端に腰を下ろしました。力無い声で初音を呼び寄せ、他の者を所払いしたのです。

「初音、お爺様からの手紙だ。開いて読みなさい。」

初音は、長太郎から手紙を受け取り、読み始めると見る見るうちに顔が青ざめました。手紙の内容は、長太郎が粗相をしたので、そのような男に初音を一生預ける訳にはいかないというものでした。そして、藪入りには初音が平根に帰ってくるように、二度と山地村に帰さないと記されていました。

「山地村での暮らしは、長いようで短かった。藪入りには、私が初音をお爺様の所へ送ってあげよう。」

長太郎は、静かに初音に向かって言いました。初音は、驚きを隠すこともなく問い質したのです。

「何をやったのですか。どのような粗相をしたのですか。私がお詫びできるものなら、お爺様にお詫びをします。」

長太郎は何も答えず、首を横に振るばかりでした。まるで憤りを沈めている様子でした。初音は少し荒々しい声で言いました。

「どうしても私は、平根へ帰らなければならないのですか。何か、私に許せないことでもお聞きになったのですか。」

長太郎は、右手を上げて振りながら初音に落ち着くように言いました。

「初音の疚しいことなど、何も聞いていない。初音に疚しいことがあるはずが無かろう。私が粗相をしたのだ。私を恨むが良かろう。」

初音は、長太郎が晋太郎の話を聞いたのであれば、素直に詫びを言って長太郎の元に置いて貰おうと思っていたのです。長太郎の話から、そのようなことは窺えませんでした。

「私が平根から戻らなかったら、今朝、貴方が話していたことはどうなるのですか。」

初音は、確かめるように長太郎に尋ねました。長太郎は答えました。

「初音、人には、そう良いことばかり続くものではない。山地村で米が穫れるようになったことで満足している。大満足じゃ。心配せずに平根へ帰りなさい。」

初音は、長太郎の少し怒ったような言葉を聞き、空々しい様子にそれ以上言葉をかけることができませんでした。初音は、疚しさを感じていたからでした。

 

 藪入りの日が近くなってきました。長太郎は、二日には憤りも治まったのか、明るく振る舞っておりました。初音は、自分が平根へ帰されるのに、自由で屈託のない長太郎の元にいるのが心苦しく思っておりました。

「どうして、初音に親切にしてくれるのです。」

初音が問いかけると、長太郎はにこやかに頷いて答えました。

「初音は、藪入りまで私の妻だ。山地村の正月を楽しみなさい。」

そして、いつも初音の側にいて、初音の心を覆うように何かと気を遣いました。初音は、夜床に臥すと悲しくなりました。ほのめく行灯を見つめては、涙が溢れてきたのです。

 初音は、祖父の言い付けに従わねばなりませんでした。それは祖父の力を知っていたからでした。祖父は、村や町、それに城の人々を動かすこともできる力を持っていたのです。初音は、長太郎の言葉を聞いている内に、山地村の人々を愛するようになっていたのです。祖父の言い付けに背いて、山地村に災難が降りかかるのを怖れておりました。

 初音は、平根に帰ったら仕方がありませんから、祖父の言うことに従うことに決めました。真壁の家に嫁に行けと言われれば、そうしなければならないと思いました。日が経つにつれて、初音は長太郎への恋しさが大きく募っていきました。

 

 藪入りの二日前の夜のことです。夜も更けて、屋敷は静まり返っておりました。初音の悲しみは一層大きく、長太郎の面影を追って忍び泣きをしていたのです。そんな時、部屋の前に足音がするのが聞こえました。足音は二人の者で、足音から長太郎と姑であることが分かりました。

「よく眠っている。じゃお母さん、炉端に行こう。」

小さな声で長太郎が言っているのを初音は聞きました。

「初音に聞かれたくない話なのかね。」

長太郎の母も、小さな声で言っておりました。

「いゃ、初音は、もうとうに知っています。」

初音は、二人がひそひそ話すのを聞いていました。何か内密の話をしているようなので、初音は寒い夜でありましたが、炉端の話が聞こえる土間に下り、物陰に隠れて二人の話を聞いておりました。

「お母さん、明後日は藪入りだ。」

長太郎が、そう話を切り出した。

「そうだねぇ、初音も里帰りするんじゃろう。」

母は、長太郎が大切な話をするのを知っていた。

「そうじゃ、俺が初音を里のお爺様の所まで、送っていくことにした。」

長太郎は、木っ端を囲炉裏の枠に叩き、ぽいっと火の中に入れました。母の目に、それが寂しそうに見えたのです。

「初音は、帰ってこないのか。」

母の問いかけに、長太郎は黙って俯いていました。

「そうなんか。本当なんか。寂しくなるの。長太郎、どうしてなんじゃ。」

長太郎の母は、心配そうに尋ねました。長太郎は、最初は首を横に振って答える様子もありませんでした。暫く黙った後、漸く長太郎は言ったのです。

「それはな、俺が平根のお爺様、そればかりではない、平根の父や家の人が勧める酒を口にしなかったからだ。持っていった物も、筵と草履だけだった。そしたら平根の皆なが怒り出したんだ。」

それを聞いて、母は怪訝そうな顔をして

「それは当たり前じゃろう。初めての年始に杯を受け取らぬとは、お前が悪いんじゃ。」

と言った。長太郎は、合いを打つように頷いていました。何か、諦めているようにも見えたのです。

「それにしても長太郎、行く前に私が言っただろうが。杯だけは、喜んで受けなさいと。色々と初音が礼儀を教えたのではないか。どうして手前勝手にしたのじゃ。」

長太郎は、母の顔を見つめて、情けなさそうに言いました。

「それは言えないよ。言ってはならないことなんだ。」

そう言ったなり、二人は俯いて黙ってしまいました。

 

 初音は、そっと寝床に戻りました。床に入って体を温めながら、長太郎が言う「言ってはならないこ」について考えました。

「もしや、長太郎様は、私と晋太郎様のことを知って、泣き寝入りをしているのではないか。」

しかし、長太郎がそんなことまで知っている訳がないと思いました。その時、ふと長太郎が平根に行く前に平九郎の家に立ち寄り、それから平根に出かけたことを思い出しました。

「おそらく、その時に…。」

初音は、そう思うと心苦しくなりました。平九郎の親子は、共に村を甦らせた友を裏切ったのではないかと思ったのです。そう思うと、平九郎一家が情けなく、憎しみさえ感じたのです。

「いゃ、そうじゃない。長太郎様は、そんなにまで馬鹿ではない。」

そう思うと、長太郎が自分と晋太郎のことを聞いて、わざと祖父の怒りを買うことをしたのだと思いました。その憶測は、いやと言うほど初音を苦しめました。いずれにしても、初音は自分自身が至らなかったことが源になったと思いました。

 

 その夜半から降り出した雪は、近年になく積もりました。藪入りの日になって、庭の冬景色といい、庭から見える山々も銀世界となっておりました。昼過ぎになって、漸く晴れ間が覗き、初音は里帰りすることになりました。初音は、庭に面した座敷で長太郎と姑と食事をとりました。初音は、しばしば長太郎の顔を覗き込んでおりました。長太郎の出で立ちは、紋付き羽織袴姿で髪を結い上げ、立派な姿でした。初音を見返す長太郎の眼差しは、本当に優しい徳を備えた目だと、初音は思いました。

「お母さん、このように雪が多く降るのは初めてじゃの。」

長太郎は、庭の方に目をやり言いました。母は、頷きながら

「そうじゃのう。天にあるものは、全部綺麗じゃのう。」

と言いました。初音は、長太郎に向かって言いました。

「長太郎様は、この汚れのない雪のような人じゃ。暖かい雪のような人じゃ。野も山も家も暖かく包んでくれる人じゃ。」

長太郎は、初音の言葉を受けると、照れるように言った。

「初音は、溶けていく雪のようじゃ。」

初音は、長太郎の言葉を聞き、何故か弱々しさを感じました。

「長太郎様は、何か平九郎様に気兼ねをなさっているのではないのですか。」

初音は、思い切りよく長太郎に尋ねたのです。長太郎は首を振りました。

「初音、そんなことを言ってはいけないよ。二度と口にするんじゃないよ。山地村に米が穫れるようになり、豊かになったのは、全て平九郎様のお陰なんだ。この村が、こんなにも良くなったのは、平九郎様のお導きがあったからだ。平九郎様は、この村の神様なんだ。その神様が、どのように村を造ろうが、村の人々をどのように操ろうが、私らはそれに従うのだ。少なくとも、私がこの村の庄屋をしている限りは、そうするのだ。」

初音は、長太郎の言葉に水を差すように言いました。

「平九郎様が、見えない糸で何をされているのか知りたくありませんか。」

長太郎は、初音の言葉を打ち消すように、弱々しく言いました。

「そんな話は、知りたくもない。そのために平九郎様が満足されるのであれば、それはそれでよいと思っている。」

長太郎の言葉を聞いて、初音は長太郎が如何に平九郎を敬慕し、信頼しているか。そして平九郎の幸せを考えているか、計り知れないほど深い物があるのを感じたのです。一昔前の山地村の貧しさを思えば、初音にも納得いくことでした。長太郎の母は、外の雪を見続け黙っておりました。

 

 長太郎の母に見送られ、長太郎と初音、そしてお竹と加根の四人は山地村の庄屋の屋敷を出ていきました。雲の切れ間から、日差しが差して眩いほど野を照らしていました。長太郎は、平根村へと道を急ぎました。その途中、侍衆と出会いました。長太郎は、道を開けながらも、その侍衆と二言三言話をしました。長太郎と初音は、深いお辞儀をして、暫く侍衆を見送りました。初音は、静かな口調で長太郎に話しかけました。

「長太郎様、屋敷に戻らなくてもよいのですか。」

長太郎は、頷きながら

「いいんだよ。」

と答えました。初音は、山地村に向かっている侍衆が、城からの使いだと思ったのです。

「今、行ったお侍様、城からの使いの人でしょう。長太郎様のところに行くのでしょう。」

長太郎は、首を横に振り、初音に答えました。

「私の所ではない。今迄黙っていたが、真壁様への使いの人だ。真壁様は、城の学問所の先生として行かれることになった。口止めされていて言えなかった。平九郎様には、この上もない喜びが訪れた。」

初音は、平九郎が召し抱えとなるのは、長太郎の力添えであることを知りました。長太郎の喜びを見ていると、初音には平九郎一家が見窄らしく思えたのです。

初音は、急に寂しさを感じ、先だって歩き出しました。時々、濡れた瞳を山地村の方に巡らし、初音は涙を落としたのです。長太郎は、初音の後ろ髪を見つめ唇を噛み締めていました。無言のまま、四人の人影が雪の中を進んでいきました。

 

長太郎と初音、そしてお竹と加根の四人は、平根の庄屋の屋敷まで来ました。物見に出ていた者の知らせで、庄屋の蒼門に一家が迎えに出てきました。そして、初音の祖父が銀髪を靡かせ、喜び勇んで初音に近寄ってきたのです。

「初音、よく帰って来てくれた。もう、何も心配は要らないぞ。この爺が付いているわい。さっ、早く屋敷に入って暖まりなさい。」

初音は、冷めた心で祖父の言葉を聞きました。初音は迎えの人達の前に立ち、動こうとはしませんでした。そして迎えの人を一人ひとり見つめました。皆なが喜んでいるようでしたが、たった一人祖母だけは険しい顔付きをしておりました。初音は、祖母に向かって一礼をしました。

「お婆様、初音は帰って来ました。」

祖母は、不機嫌な顔を見せながら、初音に言ったのです。

「汚らわしい。初音、お前は汚らわしい。」

祖母は、卑しい物を見下すような目を初音に向けました。初音は、祖母の言葉聞き、厳しい目を見ると俯いてしまい、とても屋敷に入ることができませんでした。初音の祖父は、祖母を叱りつけました。すると祖母は、初音に一瞥を投げて屋敷に入っていったのです。   

その様子を見ていたお竹と加根は、初音がもう山地の屋敷に帰らないことを知り、肩を落とし俯いてしまいました。

 

初音の祖父は長太郎に言いました。

「山地村の庄屋さん、わざわざご苦労じゃった。用も済んだことだし、もうお帰りになるがよかろう。」

長太郎は、頷いて答えました。

「はい、そういたします。お爺様には、いつまでもお達者でありますように。初音様には、いつまでも幸せでありますように。お荷物は、明日にでも全て持ってこさせますから、ご安心くださいますように。」

そう言って、長太郎は、祖父と初音、それに出迎えの一同に深々とお辞儀をしました。初音は、荷物まで送られてくると思うと悲しく思いました。

「どうぞ、長太郎様、私の使った物だけは山地の屋敷に置いてください。長太郎様、本当にお願いです。」

初音は、哀願するように言ったのです。初音の祖父には、初音の言うことが理解できませんでした。長太郎に対する義理で、色々な素振りを見せているのだと思っていました。

 長太郎は、平根の屋敷に背を向けて歩き始めました。すると年若い加根が、堪りかねたように言いました。

「お嬢様、私は山地の屋敷で、お帰りをお待ちしております。」

年増のお竹は、涙を流しているばかりで、加根のようにはっきり物言いもできませんでした。長太郎は、加根を従えて歩き始めました。

 

 初音は、祖父に抱えられるように平根の屋敷の門をくぐりましたが、祖父の手を払い除けると長太郎の後を追いました。長太郎は、後の方で騒ぎが起こったのを感じ、立ち止まりました。長太郎が振り返ると、そこに青白い顔で立っている初音の姿を見たのです。その後から、初音の祖父が駆けてきました。

長太郎は、初音が長太郎を見つめ体を震わせて、硬直していくのが分かりました。初音は、人形のように表情が無くなって、目が虚ろになっていきました。長太郎は、初音の心が壊れ、気が触れていくのではないかと心配したのです。そして初音は、祖母がいる限り平根の屋敷に入ることができない、初音の居場所がなくなったと感じました。

長太郎は、初音の過ちを責める気持ちはありませんでした。平九郎一家と初音が暮らしを共にする、それが平九郎一家と初音の幸せであれば、そうしたいと思っていたのです。本当は、初音を人一倍愛しく思い、失いたくないと思っておりました。初音の心を確かめなければならないと思いました。村や平九郎のことばかり思い、初音を蔑ろにしていた自分ではないかと思ったのです。

「初音、私と一緒に山地村に帰ろう。長太郎は、初音が好きだ。だから一緒に帰ってくれないか。」

長太郎は、初音に笑顔を見せながら言い、幾度も頷きを見せました。それを聞いて、無表情の初音の顔が綻び、長太郎の頷きに合わせるように頷きました。そして急に目をはっきり開いて、深い呼吸したのです。初音の顔に赤味が差し、微笑みが戻りました。

 

追いかけてきた、初音の祖父は初音に向かって言いました。

「初音、どういうことじゃ。そうまですることはなかろう。」

初音は、祖父と向き合い、はっきりと言ったのです。

「お爺様、初音は、山地村庄屋の長太郎様の妻でございます。長太郎様が追い返されるのに、初音がどうして屋敷に入ることができましょう。初音は、長太郎様と一緒に、山地村へ帰ります。」

そう言い終わると、初音は祖父に背を向け、晴々とした笑顔を長太郎に見せました。長太郎は、初音の祖父に言いました。

「初音は、私の妻です。連れて帰ります。真壁様は、本日、仕官されることが決まりました。急遽、城下に移られましょう。誠に喜ばしいことです。これからは、初音と二人で豊かな村を造っていきます。」

そう言い終わると、初音の祖父に向かって丁寧なお辞儀をしました。長太郎と初音は向きを変えて、山地村を目指して歩き始めたのです。

加根は、走って平根の屋敷にお竹を呼びに行きました。お竹と加根は、お互い顔を見合わせ、笑い声を上げながら二人の後を小走りに追いかけていきました。こうして藪入りの日、豊かな山地村を築くのに大きな働きをすることになる四人が、山地村に向かっていきました。