リンク:TOPpage 新潟梧桐文庫集 新潟の風景 手記・雑記集 「橋詰君」
佐 藤 悟 郎
授業中のことである。彼女は、じっと前の席に座っている彼の姿を、頬杖をしながら見守っていた。彼を見つめていると、何故か目の裏が熱くなるのだった。彼は成績の良い、明るく優しい高校生だった。高校を卒業すれば別れることになる。もう、卒業間近だった。彼女は熱い思いを抱いていたが、彼と親しく話したことはなかった。 卒業すれば、彼女はこの土地に残ることが決まっていた。彼は、東京の大学に行くことになるだろう。そして彼女は決心した。自分の気持ちを、彼に打ち明けようと思った。ある日、彼女は校門で彼が帰って来るのを待っていた。寒い中で、暗くなってきたが、彼を待ち続けていた。彼がやって来たが、彼女は声を掛けることもできず、彼は彼女の前を通り過ぎて行った。彼女は、彼を見失わないように歩いた。時折、小走りで追いかけたが、結局、彼女は彼に声を掛けることはできなかった。
翌日、彼女は珍しく早く登校した。教室に入ると、彼の姿が目に飛び込んだ。教室には、彼一人しかいなかった。彼は、ストーブに当たりながら、本を読んでいた。彼女は、机の上に鞄を置くと、ストーブの傍へ行った。 「おはようございます。橋詰さんは、いつも早いのですか。」 彼女は、思い切って明るい声を掛けた。橋詰君の笑顔が、彼女に返ってきた。彼女の動悸が昂ぶった。 「橋詰君、卒業したらどこの大学へ行くの。」 彼は、彼女の顔を見つめた。彼は、彼女を美しい女性と思った。 「私は、この土地に残ります。貴女は。」 それを聞いて彼女は驚いた。そして嬉しくも思った。彼女は弾んだ声で言った。 「私も残ります。父の会社で働くことになったの。」 彼は、明るい微笑を見せた。 「私は、君の父の会社に勤めることが決まったんだ。よろしくお願いします。」 彼の思いがけない言葉を聞いて、彼女は目を大きく開き、深い呼吸をした。お互いに手を差し伸べ、手を柔らかく握った。 「本当ですか。私とても嬉しい。一緒だなんて。」 静かに微笑んでいる彼を、彼女は目を細めて見つめていた。他の生徒が教室に入ってくると、二人は手を素早く離し、向かい合ったまま俯いていた。
彼女は、それまで東京に出たいと両親に言っていた。両親は、一人娘を東京にやることに反対だった。父の会社は、この地方都市の中でも中堅企業だった。彼女の両親は、心の中で将来の構図を描いていた。某社の社長の次男坊と娘を結婚させて、会社を継がせる。そんな話は、親同士で了解がされていた。 彼女は、某社の社長の次男坊が、よく家を尋ねて来るのを知っていた。時々、話し合うこともあり、嫌っていた訳ではなかった。そんな状況の中で、突然のように彼女が両親に宣言したのだった。 「私、会社に勤めるわ。よろしく。」 それを聞いた両親の喜びは大きかった。彼女が、どうして急に心変わりをしたのか知る由もなかった。
春の訪れと共に、彼は彼女の父の会社に入社した。彼は、彼女と距離を置き、真面目に働いた。彼女は、彼に近付いた。会社が終わると、傍目を憚ることなく彼を待ち受け、喫茶店へと誘った。そこで彼女は、熱い視線を彼に投げかけた。柔らかに輝く彼の瞳を見ていると、彼女は一層好きになっていった。 休日になると、彼女は彼の家を訪れた。郊外にある彼の家は、垣根のある古い大きな家で、集落でも豊かな家だった。広い庭に、木々の緑が広がり、二人で庭を巡り歩き、裏木戸をくぐり、丘に向かって歩いた。彼は、その家の長男だった。弟と妹は、中学生と小学生だった。丘の上に登ると、町が良く見えた。晴れた日、二人で寄り添って町を見つめた。彼女は、急に振り返った。 「橋詰君、私、以前から、ずっと前から好きでした。」 「ありがとう。私も好きでした。」 二人は、お互いの心を確かめると、清々しい気持ちになった。全てが楽しく思えるようになった。 楽しく清らかな交際が続いた。それは主に彼の意思からだった。彼女は、全てを彼に任せる気持ちとなっていた。夏の暑い日に、二人は海へも出かけたし、山へも出かけた。 そんな彼女の姿を見ている彼女の父親は、心配だった。一人娘の彼女が、家を捨てて出て行くことを極度に恐れ、何も言わなかった。ただ、彼女の父は、二人を引き離す必要があると考えていた。間違っても、彼女を彼の家に嫁としてやることはできなかった。彼の家は、事業家ではないこと、彼が高校しか出ていないことなど、物足りなさを感じていた。彼女の母は、人格的な点については、彼を認めていた。彼の父のことも良く知っており、尊敬できる力のある人間ということも知っていた。
彼の耳に、某社の次男坊と彼女の噂が入ったのは、秋になってからだった。将来は二人が結婚し、某社の次男坊が彼女の父の会社を継ぐ、このことは以前から決まっている話で、某社の次男坊がよく彼女のところへ遊びに行くということだった。 彼の小さな胸は、一瞬の内に暗くなった。それとともに、彼女との間を清らかに保っていて良かったと思った。彼女が選ぶなら、それはそれで仕方がないと思った。 彼には心当たりがあった。彼女が、彼を自分の家に招いたことは、滅多になかったことだった。そこには、彼女と親との折り合いの悪さを感じていた。
秋の夜、彼と彼女は、連れ立ってスナックに入った。二人で向かい合って、軽い洋酒を飲んでいた。そこに某社の次男坊が現れた。品のある好青年で、それを追うように彼女の父も店に入ってきた。彼は、某社の次男坊に、自分の席を譲った。その次男坊と彼女の父は、彼女の向かいに席を取った。彼は椅子を持ってきて、傍らに座った。某社の次男坊は、彼女に踊ろうと言った。彼女は彼を見つめ、同意を求めているようだった。彼は、軽く頷いた。 彼女と次男坊は、踊り始めた。楽しそうで、彼女の顔は明るかった。彼は、彼女が同意を求めたとき、彼女との別れが決定的に思えた。同意を求めるべきことではなく、彼女自身が決めるべきことだと思った。彼女の父が、彼に言った。 「来年になったら、君には東京の営業所に行ってもらうことになる。将来、君は我が社の中堅社員となってもらうからな。東京を是非、よく知ってもらうためでもあるんだ。」 彼女の父から、そんな話を聞いても、別段驚きもしなかった。東京勤務は営業係が二年目に行くことが慣行になっていたからである。 彼女と某社の次男坊が踊り終わって、彼の目の前で話し合っているのを、彼は聞いていた。彼は、彼女が実に不思議な女性だと思った。多分、彼女は男の気持ちを知らないのだろう。話の内容が彼に聞こえないように、顔を近寄せて小さな言葉で話し合っている。彼はそれでも笑顔を絶やさず過ごしていた。彼女の父は、彼に優しかった。勝ち誇るように、愉快な目で彼を見つめ、そして彼女を見つめていた。
秋が深くなってから、彼女は彼の家をよく訪れた。彼の父や母は、彼女を大切に応待していた。特に、彼の父の人柄は、彼女の心を捉えた。明るい眼差しで、彼に従う彼女の姿を見ると、彼は彼女が何を考えているのか分からなくなった。 会社の創立祭があり、祝賀の後に、彼は彼女の家を訪れた。彼は、応接室で暫くの間待たされた。彼と彼女の二人は、ウイスキーを飲み始めた。彼女の父と母は、姿を見せなかった。 「御免なさい。父や母は忙しいものだから来られないの。」 彼女の姿は、寂しそうだった。今にも泣きそうで、目に涙を浮かべていた。 「いいよ、二人の方が。少ししたら外に出よう。私の家に行こうよ。」 明るく言う彼の言葉に、彼女は黙って頷いた。その時、ドアーが開き彼女の父が顔を覗かせた。彼は立って訪問していることを告げ、一礼をした。彼女の父は、彼に一瞥を投げた。 「夕子、こっちへ来るんだ。お客様が待っている。」 彼女の父は、そう言うなり、荒々しくドアーを閉めた。彼は座るなり、苦笑した。彼女は、俯いて啜り泣いていた。 彼は、彼女をそのまま置いて帰る訳にいかないと思った。彼女を好きだったし、慰めることが必要だと思った。彼女の父が、彼を蔑ろにしたことは気にならなかった。彼女の気が収まるのをじっと待っていた。彼女の黒髪、そして耳、襟元、首筋が美しく見えた。目を落とすと、柔らかい手が見えた。彼は微笑んで言った。 「顔を上げてごらん。キスしてあげるから。」 彼女は、両頬に涙を流している顔を上げた。彼は、優しく両手で顔を包むように当てるとキスをした。彼女の唇が僅かに震え、何かを言っているのを彼は感じた。長い間、唇を重ねていた。彼が静かに唇を離すと、そこに彼女の明るく微笑む姿が見えた。彼は、彼女を残して家へ帰った。彼女は、もう大丈夫だろうと思った。いずれにしても、彼女が決断を迫られていることは確かであるとも思った。
秋の社員旅行には、彼女は行かなかった。冬の訪れと共に、彼の家を訪れることも少なくなった。それでも二人は、会社の帰りにしばしば喫茶店に入って語り合った。 「私の父は、貴方を嫌っているようです。私は、それが心苦しいのです。」 口癖のように彼女は言った。 彼女は、彼が東京営業所へ行くらしいことを知り、それを止めるように父に言った。正月に入って、彼は、彼女の父に家に来るように言われた。彼女の家を訪れ、応接間で彼女の父が言った。 「私は、好き好んで、君と争っているのではない。君が東京営業所へ行くのは慣例なんだ。君の営業成績を見れば、将来、会社の幹部の中枢となる人物であること位のことは知っている。」 彼女の父は、素直に彼に対する評価を述べた。 「私は、別に東京へ行くことを嫌ってはいません。行くものだと思っています。」 彼がそう答えた時、応接間のドアーが開き、彼女が血相を変えて入ってきた。 「お父さん、酷いことをなさるわ。橋詰さんを呼んだこと、何故、私に話してくれないの。」 言い終わらないうちに、彼女は彼の手を引いて外に連れ出そうとした。彼女の父は立ち上がると、荒々しく彼女の頬を平手で叩いた。彼女は彼の側に泣き崩れ、彼は彼女の肩に手を置いた。
彼女は、彼に抱かれるように寄り添って立ち上がった。応接間を二人で出て行き、暫くして彼が一人で応接間に戻ってきた。彼女の父は、サイドボードからウイスキーを取り出し煽っていた。応接間に戻ってきた彼を意外そうな顔で見つめた。 「お嬢さんを、部屋に連れて行ってきました。まだお話があると思い、戻ってきました。」 静かに見つめている若者の顔を見て、彼女の父は不思議さを感じた。そして彼が、それまで思っていたような思慮の浅い若者でないことを感じた。 「君に話すことは、あれを君の嫁にやれないということだ。」 彼は少し顔を曇らせた。悲しげな目を彼女の父に投げかけ、黙って聞いていた。 「以前から、娘にはこれと決めた人がいるんだ。君も知っている某社の次男だ。一度は娘も承知した。しかし君への思いを断ち切れないのだ。これは私からのお願いだ。身を引いてくれ。そして君の口から、君を諦めるように説得してくれないか。」 彼女の父は、途切れ途切れに話している。彼は黙っていた。 「君が黙っているということは、大方不承知ということなのだろう。仕方があるまい。少なくとも君には、会社を辞めてもらうし、娘が君と会わないように監視をすることにしよう。」 彼は、目を曇らせた。彼女も、その父も哀れに思えてならなかった。 「お話は、要するに私がお嬢様と交際をしないようにということなのですね。」 彼はそう言うと暫く黙った。そして考えてから言った。 「私は、お言葉をお返しします。私は、私の意志を押し殺してまでも、曲がった人生を過ごしたくはありません。そのお話は、お嬢様の意思次第だと思います。お嬢様が判断されれば、そのように事は進んでいくでしょう。私の家に向かって来られれば、私はいつでもお迎えしますし、幸福にしてあげます。」 彼はそう言い残して、静かに立ち去った。
翌日、彼は会社に出向くと社長室に入り、黙ったまま社長に辞表を提出した。秘書をしていた彼女の前に立ち彼は言った。 「高校を卒業する時、私は貴女が好きだった。そしてこの土地に残ったのです。私は脅迫されるような中に、身を置くのは好きでないので、この会社は辞めます。でも、私は貴女が好きです。いつでも良いです。気が向いたら、私の家にお出かけください。お互いの人生です。私は、貴女を忘れるようなことはありません。私は貴女のためなら、人生を変えても良いと思ってきましたから。」 彼女は、しっかりとした彼の言葉を聞いた。そして心から彼に愛されていることを確かめた。その様子を見ていた彼女の父は、自分の家を守るという夢が音を出して崩れていくのを知った。
彼は、その年の春に、東京の大学へ入学した。彼女は、大学に入るまでの間、よく彼の家を訪れ、大学に入ってからも、休みになると決まって東京へ出かけた。彼女の父は、なす術もなかった。彼との接触の場もなかったし、娘に話し掛けても何も返事がなかった。 「お父さん、本気で橋詰さんと喧嘩をされては駄目ですよ。お父さんが思っているより、橋詰さんのお父さんは、力を持っておいでの方ですよ。」 彼女の母は、夫に向かって言った。彼女の母は、彼女について余り心配していなかった。彼女の母自身、時折、橋詰の家へ出かけて行ったからである。 彼女の母が言うように、突然、某社の社長が彼女との結婚話を丁重に断ってきた。彼女の父は寂しかった。酒を飲む日が続いた。そんな日が暫く続いたある夜、彼女が東京から帰ってきた。 「彼からの土産よ。酒のつまみにどうぞって。」 彼女は、魚の干物の詰め合わせを、投げるように父の前に出した。彼女の父は、苦笑いを浮かべると、拘りもなくそれをつまんだ。
彼が大学二年の夏休みになって、彼は彼女の家を訪れた。憶目もなく、彼は彼女の父と酒を酌み交わした。二人の間には、何も拘りもなかった。 彼女の父は、幸福というものを感じた。自分の思い通りに娘を動かしていたら、この楽しい幸福は訪れなかったと思った。 「大学を卒業したら、盛大な結婚式をやろう。」 彼女の父は、彼に向かって明るく言った。そう言ってしまうと、彼女の父は底抜けに明るく元気になった。
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