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「少 年」

 

                佐 藤 悟 郎

 

 

 夏の一日は長い。東の山は、日が傾くと真っ黒になる。山の端の黒さに比べ、空は紅に染まり、その中に細い筋雲が流れている。山と空に、そして町に清々しい風が吹き渡る。そんな夕暮れだった。

 四方山に囲まれた町、その町の丁度真ん中を川が南北に貫くように流れている。川の水は澄んでおり、底は深く、堤には木々が生い茂っている。学校帰りの博信少年は、美しい町の景色を見ている暇などなかった。一目散に大きな橋の上を走っていた。彼の家は貧しかった。だから走って時間を多く作ることも、生活の重要な心得だった。

 

 町の中心部に、欅の大木が群がって茂っているところがあった。暑い夏の日には、風が木々の葉の繁りに渡り、水の流れのような澄んだ音を立てていた。木々の葉の間から、こもれる明かりの美しい風景の中に、図書館があった。この町の人は教育熱心で、小さな町なのに立派な図書館を持っていた。図書館には、若い女性の係員がカウンターにいて、本の貸出の受付や館内の規律を守るための看守の役目をしていた。

 博信少年は、木立の間を駆け抜け、ようやく図書館にたどり着いた。急いでスリッパーを履く間もなく、図書館のカウンターの前に飛んでいった。カウンターの中の若い女性係員は、少年を見つめた。息を弾ませ、カウンターに本を置いて軽く会釈をした。

 

 若い女性係員は、その少年が図書館によく本を借りに来るので、名前を覚えていた。また、少年が本を返納日まで返したことがなかったことも知っていた。

「返す日を守らなければ駄目ですよ。」

少年は、その言葉に意外な戸惑いを感じて俯いてしまった。

…ご苦労さん。一生懸命ね。少しくらい遅れてもいいのよ。…

今まで少年は、その若い女性係員から本を返す時に、いつでも聞く言葉だった。それが何か叱られているように聞こえたのだった。

「守ってくれなきゃ、貸出はしてやれないんですよ。そうでしょう、本は皆の物なんですよ。今度から、ちゃんと守ってね。」

そういう若い女性係員の言葉に、少年は

「はい。どうも済みませんでした。」

と俯いた頭を更に下げて答えた。そして、少年は俯いたまま、本棚の方へと歩いて行った。

 

 少年の耳には、若い女性係員から言われた言葉が強く残っていた。自分が、決められた日に本を返すことができるかを考えていた。本棚から本を取り出し、ページをめくり、表紙を見てその本を棚に納めた。また、同じ本を取り出し、同じ動作を二〜三回繰り返した。少年には、若い女性係員の言葉が余程厳しく、悔しく聞こえたのだった。

 若い女性係員は、カウンターの中から少年の行動をじっと見つめていた。少年は、また同じ本の表紙を見つめた。そして、ふと若い女性係員の方を力なく見つめた。若い女性係員は、カウンターに訪れた中年の男性と話をしていた。少年は、若い女性係員が自分を嫌って、そっぽを向いたと思った。そう思うと、急に何か空しい心持になってしまい、その本を元の位置に戻すと、静かにその部屋から姿を消してしまった。

 

 若い女性係員は、話が終わると少年がいた本棚の方を見つめた。そこには少年の姿がなく、若い女性係員の心に何か嫌な思いが走った。部屋の中を隈なく見つめたが、少年の姿はどこにもなかった。

 若い女性係員は、カウンターから出て、さっきまで少年が立っていた本棚の前まで行った。そこには、少年が手に取って躊躇していた青表紙の本があった。若い女性係員は、少年がどうしてその本を借りていかなかったのか不思議に思った。

 

  それから数か月経っても、あれ程よく通ってきた博信少年の姿は見ることができなかった。若い女性係員は、もうじき結婚をして図書館を辞めることになっていた。それだけに、博信少年が来なくなったのは、自分の対応が悪かったのではないかと心配していた。図書館の係員として勤め、博信少年への気がかりが唯一つの汚点のように思われた。

その博信少年が図書館に姿を見せたのは、秋も過ぎ冬のことだった。雪が積もり、風が冷たく吹く日だった。開館して間もなく、風呂敷包みを小脇に抱えて入ってきた。若い女性係員の目には、博信少年の姿が異様に写ったが、それにも増して嬉しい気持ちで一杯になった。

「久し振りね。」

若い女性係員が声を掛けると、博信少年は明るい笑顔を見せ軽く会釈をして、カウンターの前を通り過ぎて行った。

博信少年は、図書室の片隅の机に座った。風呂敷を解いてノートを出し、本棚から本を取り出し、勉強を始めた。昼近くになって外は吹雪となり、図書館の中はガラーンとして、訪れる人の気配はなかった。

 

若い女性係員は本を読んでいたが、時々博信少年の方に目をやった。博信少年は、熱心にノートに鉛筆を走らせたり、本に目を投げかけ考え込んだり、ページをめくり返し読み返したりしていた。そんな博信少年の姿を美しいものと見つめていた。今まで貸出した本も、そのように大切に使われていたのかと思うと、嬉しくもあった。

昼時になって若い女性係員は、カウンターで弁当を食べ始めた。博信少年は、風呂敷から握飯を取り出し、喰らいつきながら本に目を投げていた。女性係員は、それほど真剣に勉強をする博信少年が、数か月も図書館に来なかった理由を考えない訳にはいかなかった。自分が何か悪いことをしたのではなかったかと思ってみた。

 

 午後になって、館長がカウンターに現れ、吹雪だから早く閉館するように若い女性係員に告げて行った。

「今日は、吹雪でもありますし、午後三時に終わらせていただきます。皆さん、ご協力してください。」

若い女性係員が、数える程しか人がいない部屋の中の人に、そう告げた。すると博信少年は、急に顔を上げ、鋭い眼差しを若い女性係員に投げかけた。その眼差しを見て若い女性係員は、博信少年が何か怒っているように思え、目を伏せてしまった。再び博信少年を見た時、既に博信少年は、本に貪りついていた。

 若い女性係員は、反抗的のように見えた博信少年の眼差しを理解することが困難だった。博信少年の身形は、見るからに貧しそうだった。本を買えないのかもしれない。本を読む時間も、余り自由にならないのかもしれない。そう思うことが自然のように思った。だから、本を決まった日に返しに来られない。本を借りずにすむ方法、それは図書館で読むしかなかったのだと思った。

 

 若い女性係員は、博信少年についてそう思うと、自分が今までやってきたことが余りにも思い遣りがなかったと思った。図書館員として、勤め人としての意味のない人間でしかなかったように思った。図書館の意義と目的、それから遠くかけ離れていたと思った。

 時計が午後三時を打った。博信少年は、時計を見て重々しそうに席を立った。その部屋には、博信少年と若い女性係員のほか、誰もいなくなっていた。若い女性係員は、博信少年の動きを見つめていた。博信少年は、本棚の前に立って、惜しむように本を読んでいた。

 

 若い女性係員は、黙って博信少年に近付いていった。博信少年は、若い女性係員がくるのを見るや否や、その本を本棚に押し入れると、座っていた机に戻り、風呂敷にノートを包んで立ち去ろうとした。

「待ちなさい。」

若い女性係員が声を掛けた。博信少年は、身動きを止め黙って俯いて立っていた。若い女性係員は、博信少年が押し込んだ本を取り出した。

「この本を借りていかないの。」

そう言って、その本を博信少年の前に差し出した。

「いいんです。」

博信少年は、俯いたまま力なく答えた。若い女性係員は、博信少年がとても勉強好きであることを知った。いじけた心のまま帰させたくなかった。

「いつ返しにきてもいいのよ。」

博信少年は顔を上げた。そして疑うように、若い女性係員の顔を見つめた。

「本当よ。いつでもいいのよ。暇な時に返しにいらっしゃい。」

若い女性係員は、優しく諭すような口調で言い聞かせた。すると、博信少年の顔が急に明るく、嬉しそうに目が輝いた。

「本当ですか。済みません。借りていきます。」

博信少年は、若い女性係員の手から本を取ると、急いで風呂敷を小脇に抱えカウンターの方へ駆けて行った。

 

 若い女性係員もカウンターに戻ると、貸出カードを書いている博信少年の姿を見ながら、心から嬉しい気持ちになった。それからというもの、博信少年は、借りた本を必ず返納日までに必ず返しに来るようになった。また、その若い女性係員は、結婚した後も、長く図書館に勤めていたという。