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「ある中年社員」

 

         佐 藤 悟 郎

 

 

 彼は、平凡なサラリーマンで、欲求の満たされない男だった。思いのまま生きたいと思っていたが、金もなく地位もなかった。家庭では、いつも不機嫌そうな顔をした妻がいる。家に帰れば、晩酌を煽り、床に入って寝てしまう毎日だった。

 

 ある夏の暑い日、彼は遅くなって駅を降りた。街のネオンを見ながら、歓楽街を避けるように、川の堤へと歩いていった。川の堤に出ると、夜の灯りや空に星が見え、風も眉を掠め、快い思いがするのだった。何故、自分が馬鹿馬鹿しい人生を歩く羽目になったのか、時々考えた。自分の学歴、資産、家柄など色々と思った。これらの中に、自分に備わり、光り輝くものは、何一つないことを知っていた。

 

 職場は、それでも一流会社であったが、学歴のない彼は、いくら仕事を知り、実績を上げても会社での地位は上がることがなかった。いつしか彼は、好い加減に仕事をすることを覚えた。そんな彼を会社は、以前より悪い待遇をする訳でなかった。

「助けて、助けてください。」

けたたましい声と、堤の草を横切る音がしたかと思うと、急に服装を乱した若い女性が現れ、彼に縋り付いた。その後ろから、ナイフを光らせ中年の男が追いかけてきた。彼は、咄嗟に身を返すと、若い女性の腕を掴み、走り出した。女性は、かなり疲れている様子で、直ぐに走るのを止めてしまい、堤上の道路に崩れ、伏してしまった。

 

 彼は、その場から逃げ出したいと思った。男が勢いを増して迫ってくる。彼は、若い女性の体から手を離すと、及び腰になって逃げようとした。その時だった。彼が若い女性の目を見たとき、哀れな顔で、悲しそうに涙を流しているのが見えた。彼は、無我夢中で背を低くし、追ってくる男の下半身を目掛け、突進していった。彼の肩は、男の下腹部に激突した。男は、一瞬宙に舞い上がり、路面に叩き付けられるように倒れた。

「痛てえ。」

と、男の声がした。彼は、振り向き男に近寄ると、男は右腿に刺さったナイフを抜こうと藻掻いていた。

 

 男は、下半身をはだけ、彼を睨んでいた。彼は、若い女性の傍に行った。その時初めて、女性がシュミーズ姿であるのに気付いた。彼は、若い女性を連れ、堤の下の川沿いを歩いた。暫く歩いた後に、若い女性を待たせ、近くの洋品店へと走った。彼は、安物の服を買い求め、若い女性に与えた。人通りの少ないところでタクシーを拾い、若い女性の家近くまで送った。

「今日のことは、誰にも言わないでください。一生のお願いですから。」

若い女性は、再三彼に言った。彼は、若い女性の名前も聞かなかったし、家も知ろうとせず、別れた。

 

 翌日になって、彼は定期券が無くなっているのに気付いた。胸ポケットに入れていたのを、昨日の夜に落としたと思った。人混みの通勤電車の中で、彼は、昨夜良いことをしたという気持ちが心に満ちていた。電車の中で空席があり、座ることができた。二つ目の駅で、人が大勢乗り込んで、車内は鮨詰めの状態となった。彼は、売店で買った新聞を見ていた。ふと見上げると、色白の若い女性が、顔をしかめているのが見えた。下の方を見ると、若い女性の背後の中年の男性が、若い女性のスカートを捲し上げているのが見えた。

「苦しそうですね。席に座りませんか。」

彼は、そう言って立ち上がり、彼女に席を譲って、中年の男性の前に立ち塞がった。彼は、何事もなかったように、新聞を立ち読みしていた。電車は、都心に入り、その中年男性は降りた。若い女性は、終点間際の駅で降りた。

「どうも有り難うございました。」

その若い女性は、降り際に小さな声で彼に言った。彼は、晴々とした気持ちとなった。

「そうだ、人間は、目の前にある良心に、恥じて生きてはならない。」

と、彼は思いました。

 

 彼は、自分を改めていくことが必要だと思った。会社のこと、家のこと、人生のことについて、避けてはならないことがあると思った。彼は、仕事に精通している男だった。時間に合わせ、仕事量を測ることを止めた。仕事を早く片付けるようにした。仕事の結果を、早く上司に提出するようにした。暫くは、彼は手持ち無沙汰となった。彼は、次の仕事や会社で必要な仕事とは、一体何だろうかと考えるようになった。仕事半分、話半分というような中途半端なことをしなくなった。課長は、彼の態度を見て、これまでの仕事に加えて、更に違う仕事を任せるようになった。

 

 ある日、彼は課長に呼ばれた。何と言うことではなく、若い社員と酒を飲みに行くことだった。彼にとって、このようなことは初めてのことだった。彼は、喜んで懇親会に出席をした。

「最近の高橋さんは、人が変わったみたい。逞しいわ。」

若い事務員が、彼に言った。彼は肩を窄めた。

「君は、お世辞が上手なんだね。君も、髪をもっと長くすると、もっと美人になれる気がする。」

彼はそう言い返し、笑い合った。軽く快い笑い、こんなことを彼はすっかり忘れていた。カラオケで課長が歌えば手を叩く、若い事務員とも踊ることができた。彼は、会社での地位を求めようとは思わなかった。自分の可能な力を、上司に差し出すことで満足と思っていた。

 

 夏の暑いある日、少し残業して、電車に乗るためホームに立っていた。後ろから、女性の声がした。

「今、お帰りなの。遅くまで、ご苦労様。」

その女性は、同じ会社の隣の課の事務員だった。年は若干取っており、会社ではオールド・ミスと呼ばれていた。お互いに軽い冗談を飛ばしながら、電車に乗っていた。

「私のアパート、次の駅で下りるの。どう、一寸一杯、駅前の店で。」

彼は、誘われるまま、次の駅で下り、駅前のパブに彼女と一緒に入った。二人で酒を酌み交わし、歌ったり、踊ったりして時を過ごした。彼女は、酔い潰れてしまい、彼はアパートまで送った。彼女をベッドに寝かせ、目覚まし時計をセットして、彼女の部屋から出た。彼は、彼女をベッドに横たえたとき、一瞬、隙だらけの女性がいると思った。

 

 翌日の朝、出勤すると、彼女は明るい笑顔を見せながらやって来た。

「昨夜は、済みませんでした。高橋さんて、本当に優しいのね。でも、少し残念でした。」

彼女は、そう言ってスキップを踏みながら隣の課へ消えていった。彼のところには、重要な仕事が集まるようになった。課長のための基礎的な資料や文章を、彼は手早く処理をして課長に報告をした。

 

 ある日、あれほど男嫌いと思っていた彼の妻が、夜更けになっても帰ってこなかった。彼は、妻の持ち物が無くなっているのに不審を抱き、家の中を見て回った。台所に入ると、書き置きがあった。

『貴方には、本当に済まないと思っております。特に、最近になって優しくしてくれる貴方を、裏切るようなことをして済みません。私は、悪い女です。どうしても離れることができない人がおります。康夫のこと、よろしくお願いします。』

彼は、急に悲しくなった。自分が妻を守れなかったこと、これからの妻が、惨めな人生を送るだろうと思うと、涙が出てならなかった。彼は、同封されている離婚届を見つめた。もう四十歳を超えた、中年男性であることを思った。

 

 彼は、妻の実家に連絡をした。電話に出た妻の父親の言葉は、冷たかった。

「逃げられるは、君が悪いのだ。男が誰か、私は知っているが、君よりずっと増しな人間だ。」

彼は、常日頃、妻の父親に良く思われていなかったことを思い出した。怒る気持ちさえなかった。一人息子の康夫は、眠っている。康夫に、どのように説明してよいか悩んだ。正直に話そうと思った。

 

 彼は、会社の営業課長に電話をした。明日、休みを取るためだった。

「女房に逃げられた。冗談だろう。本当か。とにかく、明日は出勤してくれたまえ。そこで善後策を練ろう。いゃ、これから俺が、君の家へ行くから。」

営業課長は、それだけ言うと電話を切った。営業課長は、タクシーを飛ばして、彼の家にやって来た。彼の家に着くと、書き置きや妻の話を聞いていた。

「奥さんは、もう戻ってこないな。康夫君の問題が残っているんだな。よし、分かった。俺の近所に空いているアパートがある。明日にでも、引っ越してきてくれ。それで、大方、片が付くはずだ。」

営業課長は、そう話をまとめると帰った。

 

 翌朝、康夫は、起きると直ぐ台所へ行った。彼が目を覚ますと、食事の用意ができている。

「康夫、一体どういうことなんだ。」

彼は、康夫の目を覗きながら、物柔らかに尋ねた。

「母ちゃん、出て行ったのを知っているよ。俺、言わなかったこと悪かったけど、父ちゃんと一緒に暮らしたいんだ。母ちゃん、俺のことを連れて行くと言ったけど、母ちゃんが良くないんだ。だから、俺、付いていかなかった。父ちゃんには、面倒かけないよ。」

彼は、康夫の言葉を聞いて、少し呆れ、返す言葉もなかった。康夫が作った飯を食いながら、彼は言った。

「康夫、いいかい。父ちゃんだって、世間体というものがあるんだ。ここから引っ越してもいいかい。」

「引っ越してもいいから、俺、一緒にいてもいいだろう。」

「ああ、構わないさ。俺も、お前のこと、好きだからな。」

父と子の奇妙な会話、二人は奇妙な笑顔を浮かべ黙ってしまった。

 

 彼は、営業課長の勧めるアパートへ引っ越した。学校も近くにあり、康夫の通学には困らなかった。彼は、努めて早く家に帰るように心掛けた。康夫は、高校受験を来年に控え、勉強をしている。営業課長の家にも、同じ学年の娘がいた。秋に近い頃、営業課長が彼の席まで来た。

「君の康夫君、成績抜群なんだってな。他の生徒なんか、全然問題にならんそうじゃないか。」

営業課長は、唐突に康夫の話をした。

「そんな話、初めて聞きましたよ。そう言われれば、康夫の通知表なんか、見たこともなかったな。」

彼は、首を傾けて、天井を見つめた。

「俺の娘が言うんだから、間違いないよ。桁がまるで違うと言うことだぜ。」

彼は、営業課長が何故、わざわざ彼の席まで来て、そんな話をするのか不思議に思った。

「康夫君に、俺の娘に、少し勉強を教えてくれるように頼めないか。」

営業課長は、本題らしいことを切り出した。

「娘さん、塾に通っているんでしょう。中学生が、中学生に教えるなんて、康夫は、そんなに利口じゃないですよ。」

彼は、頭を掻きながら、答えた。

「そうじゃないんだ。うちの馬鹿娘は、塾の勉強について行けないんだ。頼むよ。娘が、言いだしたんだ。」

彼は、康夫に話をすると、営業課長に言った。営業課長は、両手を合わせて拝むような素振りを見せた。

 

 彼は、家に帰ると康夫に、営業課長から頼まれたことを話した。

「お前、学校の成績、偉くいいそうじゃないか。会社の課長の中野さんの娘、同じ学年だろう。勉強教えてやってくれるか。課長から頼まれたんだよ。」

康夫は、何でもないという風に聞いていた。

「加奈さんだろう。頭の良い子なんだぜ。教えてもいいよ。でも、課長さん、アルバイト料くれるかな。」

彼は、詰まらない心配をする康夫に、少し不安を感じた。

「夕飯ぐらい出るようにするよ。でも、お前、自信あるのか。」

彼が疑うように言うと、康夫は、任せろと言わんばかりに、右手を挙げて笑っていた。

 

 冬近くなって、営業課の大きな仕事で、穴が空きそうになった。彼は、営業課長の険しい顔を見て、何か大事が持ち上がったことを知った。彼は、営業課長に尋ねた。営業課長は、取引のある大手の会社の受注が、営業課長の事務的な失敗で契約を取れそうもなくなったと説明した。重役会議で、その善後策が練られたが、解決案が浮かばなかったということだった。

「課長。その会社に謝りに行きましょう。駄目で元々、良ければ、それで良いんですから。」

彼は、営業課長に言った。営業課長は、常務の許可を貰い、彼と一緒にその会社に乗り込んだ。その会社に着くと、社長に面会したいと用件を告げると、社長室に通ずる応接室に案内され、二人はソファに腰掛けた。

 

 社長室から、若い美しい女性が出てきた。和服姿の華やいだその女性を見ると、営業課長は立ち上がり、直立不動の姿勢をとって、深いお辞儀をした。彼は、書類に目を通しており、課長に肩を突かれ、ようやく顔を上げて立ち上がり、深々とお辞儀をした。

「社長は、中で部長と打合せをしております。少し待ってください。」

営業課長と彼は、立ったまま和服姿の女性が出て行くのを待っていた。彼女は、秘書の机のところへ行くと、面会人のメモを見つめ、秘書にコーヒーを出すように言った。華やかな香りを残し、彼女は部屋から出て行き、二人はようやくソファに腰を下ろした。

「あのお嬢さんは、社長の末の令嬢だよ。」

と営業課長は、彼に言った。

 

 一時間も待たされた。部長は、既に社長室から出ている。社長室には、社長一人のはずだったが、中に通されはしなかった。

「こりゃ、門前払いだぜ。俺たちが帰るのを待っているんだ。」

営業課長は、心配そうに呟いた。

「そうですか。そうじゃないと思います。私達が渡した資料を見ているんですよ。そして、考えているんですよ。」

彼は、当然のように言った。二時間程経って、二人はようやく社長室に入ることができた。

 

 二人は、丁寧な挨拶を済ませると、社長の前のソファに座った。社長が先に口を開いた。

「何だ、君達が来たのか。何しに来たんだ。」

社長は、無関心を装って言った。営業課長より先に、彼が口を出した。

「社長、謝りに来たんです。社長に、大変ご迷惑をかけたことで。」

「私に、迷惑をかけたって。別に、困っておらんぞ。」

「いえ、社長は、私の会社の話を、未だかと待っておられたはずです。」

彼は、強気な言葉で言った。営業課長は、彼の頭をかなり強く叩いて、たしなめてから言った。

「社長、この男、気に障ることを言いまして、誠に済みません。偉い人の前での話し方が、分からん奴でして。」

社長は、営業課長の言うのを、頷いて聞いていた。

「ふん、本当だな。しかし、君も偉く面白い部下を持っているな。この今年の案も、おそらく、ここにいる君の部下が作ったんだろう。書類の中で、ちゃんと頭を下げているのが分かるぞ。」

営業課長は、社長の言葉に面食らって、黙ってしまった。

「君達、昼酒をやったことがあるか。飲もうじゃないか。」

社長は、二人に向かって言うと、秘書を呼んで酒の用意をさせた。三十分程飲んだ時、社長は、営業課長の手を取ると言った。

「君は、実に素晴らしい会社マンだ。気に入った。君の部下が言うように、君の会社の話を待っていたんだ。話は、決まった。これから、三人で飲みに出ようじゃないか。」

もう、昼近い時間になっていた。

 

 話がまとまった時、和服姿の社長の末娘が入ってきた。

「お父さん、これ何よ。場所を考えなければ駄目でしょう。こんな殺風景のところで、お客様に失礼よ。」

社長の末娘は、部屋を眺め回した後に、そう言った。

「分かったよ。煩く言うな。結婚式の方、済んだのか。これから別のところに行くから、お前も来るか。」

社長は、顔を少ししかめて末娘に言った。社長の末娘は、嬉しそうに頷いていた。社長は、二人を捲し立てるように、連れ出そうとした。営業課長は、慌てて

「社長、私達、首をかけてきたんです。会社に連絡させてください。」

と言った。社長は、尤もだと頷きながら、

「おお、そうだった。俺が電話をする。」

と言うが早いか、電話をかけた。話が上手くまとまったこと、二人を連れて飲みに行くこと、良かったら社長も来るようにと話した。

 

 四人は、社長車に乗り込み、近くの料亭に上がり込んだ。美しく広い庭が眺められる部屋へ案内された。彼は、席が整えられるまで、庭に下りて歩いた。社長の末娘も、遅れて庭に下りた。ばらばらに歩いているうちに、二人は、東屋で一緒になった。部屋の方から、社長が二人を手招きするのが見えた。

「この度の仕事の件、力添えをいただき、有り難うございました。」

彼は、社長の末娘に向かって、頭を下げて言った。

「私ということを知っていたんですね。こんなこと、些細なことですわ。」

社長の末娘は、そう言うと微笑んだ。彼は、人の顔を覚えることにかけて、特技に近い能力を持っていた。社長の末娘が、あの川の堤で暴漢に襲われ、逃げてきた女性であることは、応接室で顔を合わせた時に直ぐ分かっていた。

「私、貴女のことを忘れられなくって。貴方の定期券、大切に持っていますわ。今日は、心からおもてなしをします。」

娘は、そう言うと、誘うように連れ添い、社長の待つ部屋へ向かって歩いた。