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「雨」

 

                             佐 藤 悟 郎

 

 

 私の同僚の天野君は、気象学に秀でているらしい。その日も、雲一つない天候なのに、傘を持って出勤してきた。彼が傘を持ってきたものだから、私も傘を取りに行ってこようと思った。天気予報によると、今日一日中晴れるということだった。天気予報といっても、彼の本能的な感覚にはかなわない。我が社の外で行う大切な行事については、天気予報より彼の意見に従うことになっていた。

「君、今日は夕方帰る頃、雨が降るよ。大雨にはならない予定だがね。帰りは、僕の傘に入れてやるさ。」

私が傘を取りに行こうとしたところ、天野君はそう約束をしてくれた。

 

 やはり、夕方退社する時間頃になって、雨が降り出した。同じ独身寮にいる天野君の傘に一緒に入れてもらい、帰ることにした。天野君は、そう雨は降らないと言っていたが、かなりの大粒の雨が降っており、車の水飛沫を避けるため裏通りを歩いた。

 雨が降っている裏通りの住宅街は静かで、人の通りもなかった。道路に沿って小川が流れ、生垣が続き、その先で道路は曲がっていた。静かに流れる小川には、大粒の雨のために絶え間なく幾つもの輪が描かれた。

 独身寮に程近い曲がりを過ぎたころ、ずぶ濡れになって歩いている若い女性が目に入った。閑散とした住宅街の中に、足を引きずりながら歩いていた。

「どう見ても気違いですよね。」

私は、天野君に小さな声で言った。天野君は、首を縦に振って頷きを見せながら、その女性を見つめていた。

「君、済まんが濡れて行ってくれ。どうも、あの女性が惨めたらしくていかん。何があったか知らんが、放ってはおけん。」

情け容赦なく天野君は、私の上から傘を外すと、雨に濡れながら歩いている若い女性に近づいていった。哀れ私は、雨の中にさらされ、天野君の後ろに位置した。

 

 若い女性は、二十歳過ぎの上等な部類に属する女性だった。薄水色のワンピースがひどく濡れ、腕や足などが肌に吸い付いている有様だった。髪の毛も、やはり濡れており、至る所から水が流れていた。服を着たまま、水泳ぎをした後の姿そのままだった。

 天野君は、傘を女性の上に差し出した。女性は、一寸立ち止まって天野君を見ると、また下を向いて引きずるような歩を進めた。四、五歩、女性が進むと、女性の歩みに合わせて天野君も寄り添って歩いた。

 女性は、突然、天野君と向かい合った。

「いいんです。雨に当たってもいいんです。」

苛立ったように、女性は天野君に言葉を浴びせた。その女性に、天野君は冷静な言葉をかけた。

「君、何も大声を出さなくてもいいだろう。いくら暖かい時期だからといって、雨に当たるのは、健康に良くない。」

女性は、無言で天野君を見ていた。

「一般的に言ってだな、人間は、雨に濡れながら歩かないんだ。その理由はだな、服が濡れるし、髪の毛も濡れるし、目に雨が入って前が良く見えなくなるし、うん、靴が濡れるからなんだ。」

天野君は、その女性の体を、上から下の方に見ながら言った。

 

 女性は、大きな呼吸をして、怒った顔付きを見せていた。

「最も大きな理由は、さっき言ったように、健康的でないことなんだ。それに、顔付きもまずくなる。」

天野君は、平然と、そう言った。その女性は、怒りをぶちまけるように言った。

「勝手なことを言う人ね。私、さっきも言ったでしょう。私は、濡れても構いませんの。私は、濡れながら歩きたいのよ。」

天野君は、心の強い男である。顔色一つ変えなかった。

「ほう、君は自分の権利を主張しましたね。しかし、私は反対しますよ。君が濡れて歩いていることを望む権利は、家庭的、社会的な利益を損なうことになるからです。家に帰れば、それアイロンだ、着替えだということになる。町を歩いていれば、一般的正常な社会を損なう。つまり、美観を損ねるというやつですな。」

私には、とてもそんなことを言えることでもなかったし、思いも付かないことだった。

 

 いくら他人がいないところといえ、天野君が何を言おうとしているのか、路上での議論は止めて欲しいと思った。早く女性を追い払い、私を傘の下に入れてくれないかと思った。

「一般的でない姿だということを、君は容認している。即ち、特殊的な立場にある訳だ。君は、病気だったんだよ。そして、その病気は治されたんだよ。雨という薬でね。癒されたんだから、こうして雨を避けるために傘の中に入る。それで君は、一般的になったんだよ。」

女性は、無言で天野君を見つめていた。いくらか怒りが消え失せたように見えた。

 天野君は、女性の引き摺るような足取りに合わせて、また四〜五歩進んだ。女性は、藪睨みするように、その濡れた顔を向けた。

「私は、貴方の言っている意味が分からないわ。私は、濡れて歩きたいのよ。いけないことなの。」

天野君は、頷いて見せた。

「だって、私の勝手なんじゃない。訳の分からない男の人から、傘に入れてもらうなんて、変じゃない。」

天野君は、首を横に振って見せた。

 

 雨は降り続き、私の服に落ちてくる雨は、肌に冷たく通ってきた。

「じゃあ、言ってあげよう。一般的に言って、雨の中を濡れて歩く女性というのは、理由があるのさ。」

女性は、少し目を輝かせながら天野君を見つめた。

「一般的に言って、面白くないことがあったのだ。雨に濡れたいほどにね。貴方の美しい心を傷つけ、雨に洗い流したいほどの重大なことがあったのだ。そう考えるのが一般的だな。」

女性は、興味ありげに、一層目を輝かせて、天野君を見つめた。

「君は、汽車の中に傘を忘れてきたんだ。それが悔しくて、濡れて帰ってやれと、まあ、私としては最も正しい推理だと思うな。」

「私は、傘を一本無くしたからといって、濡れるほど馬鹿ではないわ。」

女性は、少し微笑を浮かべながら答えた。

「同じことじゃないかね。もう濡れることはないと思うんだが。傘だって男だって。」

天野君がそう言うと、女性は急に天野君の頬を力一杯引っ叩くと

「傘と同じなんて、ひどい言い方をしないでよ。」

と言って、急に向きを変え、通りの方へと走り去ってしまった。天野君は女性の後ろから、大声で言った。

「君、一般的に言ってだな、人を殴る行為は暴行罪なんだぜ。転ぶなよ。」

私は、天野君がおかしいほど馬鹿な男に見えた。

 

 興味も失せたのか、ようやく天野君は、私の方に振り返り、私に傘を差し出した。

「女の馬鹿力だよ。いてえな。ああいう行為は、女に許すべきものではないな。」

天野君は、頬をさすっていた。

「君は、随分に濡れてしまって、一体どうしたんだ。でも、大丈夫だな。あんなに勢いよく走れるんだから。」

天野君は、私に向かって、哀れな人間を見つめるような目をして、私に言った。私は、天野君が親切な男なんだと思った。