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「呉服屋の娘」

 

                                  佐 藤 悟 郎

 

 

 その日は、梅雨の頃には珍しく、空は晴れ渡っていた。日が照り注ぐ蒸し暑い日となり、雪国の古い町の街道筋には商店の並びが見えた。終戦から二十年近くなり、雁木下の歩道に多くの人が集まりだしていた。天皇陛下がお召し車で通るということで、紙の日の丸の旗を手にしている人が多かった。

 その古い街道沿いに、古くからの呉服屋があった。呉服店の名前は、「花禄呉服店」という老舗だった。いつになく警察官の姿が多く見えていた。
「嫌だね、摂子。どうしてこんなに警察官が、大勢町に出ているんだい。」
と呉服屋の女主人である母静枝が、店先の机で暇そうに片肘を付いている娘摂子に尋ねた。娘は、誰が見ても呉服屋に相応しくない体裁をしていた。髪は長くバラバラに乱れ、顔や首筋は風呂に入らないのだろう荒れていた。黒い染みの着いた赤いジャンパーと薄汚れた青色のジーパンをはいていた。履物といえばツッカケである。その娘は、机の足をツッカケで軽く蹴った。
「そんなこと、知らないよ。関係のないことじゃないか。」
娘は、少し荒々しく母に答えると、相変わらずボサーとして外を見ていた。
「お前、そんなこと言ったって、ポリ公がそこら辺に這いずり回っているなんて、気持ちの良いもんじゃないよ。」
誂え物の服を折りたたんでいる手を休め、母も外を見た。
「ポリ公というのは、這いずり回るのが商売なんだろ。」
娘は、母に向かって、相変わらずそんなものの言い方をしている。机の上に無気力に片肘をついている娘を見て、小言がましく母は言うのである。
「摂子、お前も年頃なんだよ。」
娘は、何ともないという風に答える。
「私が年頃だって。笑わせないでよ。当世二十五歳の女というのは、売れ残りだよ。ババァということさ。」
母は、いかにも言いにくそうな口振りで言い返した。
「お前が、選り好みしなけりゃ、今にだって立派に嫁に出してやれるんだよ。」
母は、言ったものの、所詮聞いていないと思っていた。

 娘が高校を卒業して家業に専念しているうちは、あまりり娘のことを心配していなかった。二十歳を過ぎて年頃の摂子に、町の有力者である結城様が結婚話を持って訪れた。相手は、近所の豆腐店の長男幸夫だった。摂子の親とすれば、幸夫と摂子は同じ年で、幼い頃からの親しい知り合いだった。摂子は母から話を聞いたが、
「ちょっと待って、良く考えさせて。」
と取り合わなかった。摂子の頭には、中学校の卒業間際で東京方面へ引っ越していなくなった、同級生の根元勝治への面影がチラついていた。
 それに幸夫は腰が軽い人間だと思った。仕事は一生懸命にやっていたが、毎日のように酒を飲みに通っている居酒屋を知っていた。
「あの平沢屋には、京子ちゃんがいる。京子ちゃんと気が合っているので通っているんだわ。」
摂子はそう考えた。京子も摂子と同じ年だった。摂子が結婚話に同意しない間に話が進んでいった。摂子の両親がある晩、摂子に話した。
「結婚式は、来年の春ではどうかと、結城様が言っている。」
結城様が言ったことに、豆腐屋の堀井の両親は承知したとのことだった。
「お父さん、お母さん、よもや承知したんじゃないのでしようね。結婚するかどうかは、私が決めることなんですからね。」
摂子の両親は、驚いたように摂子を見つめた。親の言ったことに素直な娘が、目をつり上げて怒っている姿だった。摂子の親は、結城様への返答を少し待つようにした。

 その話があって二日後、小雨の降っている日に、摂子は幸夫から町の神社の境内に呼び出された。摂子が境内に行くと、幸夫が社殿の庇の下で傘を閉じ、俯いて待っていた。摂子の足音で気付いたのだろう、幸夫は顔を上げた。摂子が近付くと、幸夫は決まり悪そうに肩をすぼめた。
「何か話があるの。」
と摂子が声をかけると、幸夫は暫く俯き加減で黙っていた。幸夫は、意を決したように少し早口で言った。
「俺、知らなかったんだ。春には、お前と結婚式をするなんて。親が勝手に決めたことなんだ。昔はみんな、こうして決めたんだと言うんだ。俺が怒ったら、お前が直接摂子に言ったらいいだろうて言うんだ。俺達親は知らないと言うんだ。」
摂子は、震えながら話す幸夫の顔を見ていた。幸夫は蒼白くなって、ぎこちなく喋っている。摂子は落ち着き払って、
「そうなの、私と結婚しないということね。私は、その話しなんか承知なんかしていなかったから。幸夫、京子ちゃんが好きなんだろう。京子ちゃんと一緒になればいいじゃないか。」
幸夫は、摂子の言葉を聞いて安心したのだろう、何度も頷いた。
「京子と結婚する約束をしているんだ。ご免な。」
「ご免も何もないわよ。あんたなんかと結婚すること、考えたこともなかったわ。京子ちゃんと幸せになるのよ。」
摂子は、そう言うと右手を少し上げて左右に振って、くるっと向きを変え、空を見上げて傘を差し、歩いて境内を出て行った。
「本当に馬鹿馬鹿しいこと。幸夫も幸夫だわ。だらしのない人ね。」
摂子は、歩きながら声を漏らした。つい最近、八百屋の女将さんから
「近々、豆腐屋の幸夫と祝言をあげるんだって。」
と言われたのを思いだした。その時も、両親に小言を言った。町では、結婚話が噂となって広がっていると思った。摂子は、腹立たしくなり、家に帰ると両親に向かって荒々しく
「幸夫に会ってきたわ。幸夫は、京子ちゃんと結婚するんだって。私、今まで幸夫との結婚、承知したことなんかないんだから。私、馬鹿にされたのよ。」
そう言うと、摂子は家を出て行った。家に戻ってきたときは、すっかり人が変わっていた。

 家に帰ってきたときは、もう以前の娘の姿の面影は、一欠片もなくなっていたのである。美しい長い髪は、首元からバッサリ切り落としバラバラとなり、呉服屋の看板娘の紺色の小袖はジャンパーとジーパンにすり替わり、二枚芯の草履はツッカケに変わっていたのである。
 そのとき、父も母も俯いて黙り込んでしまった。摂子も、軽蔑するような目を両親に投げかけ、黙り通したのである。それからの娘の行状は、おおよそ女というものから縁遠くなり、人の言うことも真面目に聞いたりはしなくなったのである。さらに、人との交際を極度に嫌い、身を飾ることもなくなったのである。家の中に閉じ籠り、一日中本を読んでいたり、天井の節を数えている有様だった。

 店に出るようになったのは、最近のことである。
「何だって、ポリ公が行ったり来たりしているんだろうね。」
母が、また言った。
「隣の蕎麦屋の前にいる野郎が、うろちょろしているのさ。白い手袋なんかつけて、格好つけやがって。」
娘は、荒々しい口調で母に答えた。
「いくら警察官でも、野郎呼ばわりはないよ。」
母は、娘を諫めた。娘は、うろちょろしている警察官をじっと見詰めていた。母が娘の仕草をよく見ると、娘は机に肘を着いている手の指を、上下に動かしている。見ようによっては、手招きをしている様にも見えるのである。店の前を警察官が娘の様子を見て通り過ぎて行った。
「これ、摂子、変な真似をするのは止めてくれ。あの警察官が店に入ってくるなんて嫌ですよ。」
娘は、母の注意に、怒りっぽく答えた。
「いいのよ、あんなポリ公。あんな真面目そうな顔をして、ロクな者じゃないんだから。構えばいいんだ。」
そう言いながら、娘はその手の動作を止めなかった。

 しばらく娘が同じ仕草を続けていると、案の定、その警察官が店の中に入ってきた。
「ほうら、言わないことじゃないの。店に入ってくるわよ。」
母は、そう言うと着物をたたむ様子をつくろい、体裁を整えた。警察官は店に入って娘の脇に立ち止まった。
「こんにちわ。」
娘は、別に返事をすることもなく、外を見詰めて、相変わらず手招きの仕草を続けていた。おそらく警察官も娘の手招きに釣られ、店の中に入ってきたに違いない。娘の手招きが、手招きでなかったのに戸惑っている様子だった。誰も返事をしないので、少しあたりを見渡した後、その警察官は少し大きめの声で言った。
「今日は、お変わりございませんか。」
娘は、その警察官を見返るどころでなく、外を見詰めたまま、ふざけた様子をしていた。母は手を止め、警察官を見詰めた。
「別に変わりはありませんけど、何か御用でもございまして。」
「いえ、別に用などありませんけど、梅雨の頃にしては、今日は暑いでしょう。喉が乾きましてね。水を、コップに一杯いただきたいのです。」
娘を見詰め、苦笑しながらその警察官は、母の問いに答えた。
「水なら、どうぞ、店先に水道があります。ホースを外して飲んでください。」
その警察官は、不愉快な思いをしたのだろう、黙って娘の母を見詰めた。娘の母は、その厳しい目を窺い、さっき娘と警察官を馬鹿にした話しを、全て聞かれたのではないかと思った。そう思うと、恐ろしさが胸に走った。
「はい、分かりました。いま直ぐ、水をお持ちしますよ。」
立ち上がるか早いか、娘の母は、奥へと走って行った。その警察官は、厳しい目をして、そのまま立ちすくみ、娘の母の消えた廊下の暖簾を見詰めていた。

 娘の母は、急いで盆の上に水の入ったコップを載せ、廊下の暖簾をくぐり帳場に出た。その時、憮然として自分を見詰める警察官の顔が、真正面に見えたのである。一瞬たじろいだ娘の母は、俯いてしまい、恐る恐る警察官の前に進み、座り込んでしまった。
「どうぞ、あがってください。」
震えがちの声を出して、警察官に水を差し出した。警察官は、そのコップを取り上げ、二口で水を飲み干した。一口目に
「実にうまい水ですね。」
と言い、二口目で飲み干し
「いや、どうも有り難うございました。済みませんけど、もう一杯ください。」
と言った。

 そんなことが五回も繰り返されたのである。娘の母は、小走りに台所と帳場との間を往復したのである。その警察官は、五杯目で止めた。それもコップに半分水を残してである。
「いや…、結構な水ですな。水で腹が肥えました。ありがとうございました。」
そういうと警察官は、娘の母に笑顔を見せた。娘の母は、知らずのうちにペコンと一礼を返した。
「もう一時間ほど前におります。帰り際に、もう一度寄るかも知れませんがよろしく。」
警察官は、頭を垂れたままの娘の母に向かって敬礼をすると、踵を返して玄関先に向かって歩いていった。

 娘の母が恐るおそる顔を上げると、娘の顔が目に飛び込んできた。娘は、何か真剣な顔付きをしていた。あの事件以来、初めてみせる顔だった。単に、警察官の姿に驚いたためでないと、娘の母は感じた。
 娘は、側を通り過ぎる警察官を見上げ、警察官が軽く会釈をすると、慌てて両手を膝の上に置き、丁寧な会釈を返した。娘の母は、その素直な娘の様子を見て、得体の知れない異様さを感じたのである。娘は、店から警察官が出ていくと、振り返って肩越しに何かを見詰めていた。娘が見詰めていたのは、まさしく半分水が残っているコップだった。

 娘の母は、異様な雰囲気を和らげようと
「だから嫌なんだよ、ポリ公は。せっかく持ってきてやった水を、半分も残すなんて。」
と言った。何を思ったか、突然に娘は、母の座っている前に行くと、立ったままその半分残っていた水を飲み干した。
「嫌だよ、この子は、男が口を付けたものなんか飲んで。」
娘の母が驚いたのは、そればかりでなかった。娘は、警察官と同じ様に、五回も母に水を持ってこさせたのである。
「お母さん、水っておかしいものね。」
…お母さん…という優しい言葉は、久しく娘の口から聞いたことがなかった。突然の娘の変わり様に、娘の母は戸惑い、茫然としてしまった。
「どうしたんだい、水を半分残して。気に障ったのかい、あの警察官に。」
心配そうに問い掛ける母に、娘は明るい微笑みを見せた。
「お母さん、この残った水の使い道、分かりますか。」
首を横に振る母に向かい、娘はコップを頭上に上げて、チョロチョロと残った水を頭に流した。
 母は、一瞬、娘が狂ったのではないかと思った。娘の母は、激しい勢いで娘の心理が変化していくのを、とうてい理解することができなかった。
「お母さん、あのお巡りさん、きっと後からまた来るわ。」
娘は、そう言うと、コップを盆の上に載せて、奥へと消えていったのである。それから小一時間ほどたって、行列のようなものが道筋を通っていった。そして間もなく、先程の警察官が店に入ってきた。
「先程は、どうもありがとうございました。半分残しておいた水ありますか。」
軽やかに娘の母親に、その警察官は声を掛けた。
「いえ、私の娘が飲んでしまいまして、ありません。」
警察官は、微笑んで返答を聞くと、娘の母親に丁寧な敬礼をして、町中を行く警察部隊に向かって走り去っていった。

 母は、娘が心配になって、家の中を探してみたが、娘の姿はどこにも見えなかった。母は、うろたえた。何がどうしたのか分からないもどかしさと、娘の変わった行動が、どことなく不安だった。
 夕方になって、娘の父禄郎が問屋から帰ってきた。母は、店で起きたことを詳しく述べ、娘が家から消えてしまったことを話した。帳場で、父と母は不安に包まれたまま、ただ無言で娘の帰りを待っていた。夕方、暗くなりかけたころ、娘は父と母のいる店先に帰ってきた。
「ただいま。遅くなりまして。」
店先に入ってきた娘は、にこやかだった。体こそ少し肥え気味になっているけれど、あの家出事件のとき、家を出たときの姿の娘だった。
「お父さん、お母さん、今まで捻くれていて済みませんでした。これからは、良い娘になるように気を付けますから、許してくださいね。」
改まって一礼する娘に、父と母は、返礼でもするかのように、驚いてペコッとお辞儀を返すのだった。

 肌の色は、まだ荒れてはいるが、紺絣の似合った和服、櫛を入れて化粧をしている髪、卵形の顔は色白で、くっきりと浮かんでいた。
 父と母は、何故とも思った。しかし、以前の良い娘に戻った以上、何も詮索する余地はなかった。娘は、娘なりに悩み、苦しみを持ち続け、それが晴れたのだと思った。
 父と母は、床に入って話した。
「とにかく、今日来たお巡りさんには、感謝をしなければならないね。」
そんな風に、話は落ち着いた。両親は、その警察官に何かしら強い力があると思いつつ、目を閉じた。

 また呉服屋の娘が、和服を着て店先に立っていることは、付近の評判となった。以前から、容姿が整っていたことで評判があり、その笑顔の素晴らしいことで、皆から好かれていた。そうなると、娘に縁談が多く持ち込まれた。
「私は、誰とも結婚はしません。」
父と母に向かって、娘は、はっきりと言うのだった。父と母は、以前の捻くれ娘を心配する代わりに、結婚を心配しなければならないことを思うと、嬉しいことだと思っていた。

 摂子は、警察官が店の中で水を飲む仕草に警察官の顔を見上げたのだった。そして中学校の同級生だった根元勝治に似ていると思った。
 その日の夜、摂子は蘇東坡のように勝治の面影を追いかけた。

 勝治君が転校してきたのは、小学校六年生の春だった。見知らぬ生徒が、転校生として先生に連れられて教壇の上で挨拶をしていた。静かで真面目な生徒だった。

 最初に思ったのは、朝から暑い夏の日、連合町内会の魚釣り大会だった。兄の禄太郎と一緒に参加した。中々魚が釣れないので、場所を移動しながら兄とも離れてしまった。川縁の木の下で釣りをしている勝治君を見付けた。
「勝治君、隣で釣っていい。」
「いいよ。腰掛けを貸すよ。」
と勝治君が答えた。そして勝治君は小さな莚を出して尻をついた。
「摂っちゃん、大きな水筒持っているね。水、まだ入っている。」
勝治君の問いかけに、コップ代わりの水筒の蓋に水を入れて、勝治君に渡した。勝治君は半分程飲むと
「摂っちゃん、とても美味しい。」
そう言ってから、残った半分の水を飲んだ。
「摂っちゃん、水、まだある。もう一杯欲しいけど、いいかな。」
水は、まだいっぱい残っていたので、蓋に入れて渡した。勝治君は、半分飲むと
「実に美味しい。」
そう言ってから、残りの半分を飲んだ。もう一杯飲むかと言ったら、勝治君が欲しいというので、また蓋に注いで渡した。半分飲むと
「本当に美味い。」
そう言って、残りの半分を飲んだ。
「余程、喉が渇いていたのね。」
そう言うと
「俺、水筒を持ってくるのを忘れたんだ。お握りを食べて、喉が渇いていたんだ。」
「それにしても、摂っちゃの水は、本当に美味しかった。ありがとう。」
勝治君は、釣った魚は一匹だけれど、大きな鮒を釣り上げ、大物賞をもらい二人で顔を見合わせ笑って喜んでいた思い出だった。

 最初に声をかけた時のことだった。勝治君は、登校するには雁木のある花禄呉服店の前を通らなければならなかった。その日も学校へ行くのに家を出て雁木歩いていると、いつものとおり勝治君が追い越していった。勝治君の後ろから声をかけた。
「勝治君、おはよう。」
勝治君は、びっくりして立ち止まって、振り返えった。「おはようございます。」
勝治君は、真面目そうな顔を見せ、頭を下げて丁寧に言った。立ち止まって勝治君を見つめ、
「同級生でしょう。これからは、挨拶をしましょうね。」
と微笑んで言った。勝治君は、首を竦めながらも頷いた。
「これからは、声をかける。でも、恥ずかしいな。」
勝治君は、帽子を撫でながら言うと、即座に
「恥ずかしいことなんかないわよ。」
と言ってやると、勝治君は
「そうかな、でも恥ずかしいな。」
と答えたが、一緒に並んで歩き出した。少し歩くと、お互い笑顔を見合わせた。

 中学生最後の冬の時のことだった。雪道を歩いている勝治君に声をかけて、一緒に並んで歩いた。特別、これといった話しもしなかった。家の前まで来ると、勝治君と向き合って言った。
「勝治君の側にいるだけで、胸が熱くなるの。幸福になるの。本当よ。いつまでも側にいてください。」
そう言うと、勝治君が微笑んだ。
「僕も、摂子さんと同じ思いだよ。」
そう言って、一礼すると別れた。勝治君が角で曲がるまで見送っていた。そして込み上げてくる嬉しさを噛みしめていた。

 中学校卒業間近のことだった。勝治君は父の転勤に伴い、この地を去ったのだった。勝治君は、上野行きの列車で、誰の見送りも受けずに発とうとしていた。私は勝治君の級友の健一君から聞いて知ると、セーラ服姿のまま駅のプラットホームにかけつけた。列車に乗った勝治君の姿を探すため、前から後ろに向かって小走りで急いでいた。駅のベルが鳴り出した。中程の客車でやっと勝治君の姿を見つけると、激しく手を振った。勝治君も気付いたのだろう、右手を肩まで上げて手を振っているのが見えた。勝治君の顔は静かに見えたが、目に光るものが見えた。そして列車は動き始めた。列車を追いかけるように、走り始めた。そして涙が顔に流れていくのを感じた。そして列車が見えなくなるまで手を振って見送った。
「もう会えない。どこへ行ったのかも分からない。」
そう思うと悲しくなった。こんな姿を同級生や知り合いに見せたくなかった。勝治君への思いは心の中に閉じて、努めて明るく振る舞わなくてはと思った。

 勝治に似た警察官が訪れた日から一か月程経った日、娘は近くの交番を訪れた。最中を入れた菓子箱を風呂敷に包んで持っていった。交番にいる若い警察官も、娘の噂や評判を知っていた。思わぬ美人の訪れで、交番の中は明るく華やいだのである。交番の前を通る人も、娘が交番にいるので、足を止めて見る人も多く、中には、
「何か、心配事で来たのですか。」
と、わざわざ交番に入ってきて、声をかける若者もいた。
 娘が出してくれるお茶を、交番の警察官は有頂天になって飲んでいた。頃を見計らって、娘は、何気なく尋ねた。
「一か月ほど前、私の店の前に立っていた警察官、何と言う方ですの。店の者が親切にされて、お礼が言いたいのですって。」
案の定、交番の若い警察官は、それを調べて丁寧な字で住所と名前を書いてくれた。名前は、紛れもなく根元勝治だった。若い警察官は、娘が胸を高くして、一瞬微笑んだのを見逃していた。
「その男はね、私も知っているんだけど、警察官らしくない人でね、二十三歳になって警察官になった男です。大学を出ているから、頭はよいと思うんですが、余りにも人情脆くて、警察官としては、駄目と言えば駄目な男ですね。」
交番の若い警察官は、その男をコケにして自分を売り込まんばかりの口振りで話していた。

 それから、間もなくある出来事が起こった。豆腐屋の幸夫の妻京子が、突然死んだのだった。交通事故で、即死だった。半年も過ぎたころ、摂子の家に豆腐屋から正式に摂子を後添えにという話があった。
「私には、好きな人がおります。だから、幸夫さんの後添えに行くことは、お断りしてください。」
娘の話を聞いて、両親は一応安堵した。しかし、一体誰を愛し、どのような進み具合になっているのか、突然の話に新たな心配が持ち上がったのである。
「お前の好きな男の人の名前を聞かせてくれ。でなければ、今どんな状態なのか教えてくれないか。」
豆腐屋の話を体よく断った後、両親はそう娘に問いただした。度々尋ねてみたが、娘はそのことについては一言も答えなかった。しまいには、娘は答えにならないようなことを話した。
「私の好きな人は、確かにおります。でも、私の心にだけしまってあるの。」
それを聞いて、両親は居ても立ってもおられず、その男が他の女と結婚をしてしまえば、娘がどのように狂いだすか分からないと思った。

 両親は、考えた挙句、半年前に店に来た警察官のことを思い出し、何かの縁もあろうと思い、その警察官に相談することに決めたのだった。両親は、町の警察署を訪ね、古い帳簿を調べてもらい、ようやくその警察官が誰であるかを突き止めた。

 勝治の勤務地に、花禄呉服店の花井夫婦の姿があった。県都の北外れの阿賀野川の河口に開けた町だった。そこには警察署の幹部派出所があった。花井夫婦は、その派出所に入って、勝治を訪ねてきたと告げると、派出所長が
「根元君は、休日で川に釣りに出かけている。」
と答えてくれた。花井夫婦は、川原に出向いた。長い木製の橋近くに釣り人がいた。釣り人は一人で、何か本を読みながら釣り糸を垂れている。
「根元勝治さんでしょうか。」
妻の静枝が声をかけた。振り向いたのは、若々しい青年で、笑顔を見せて頷くと本をたたんで立ち上がった。
「はい根元です。花禄呉服店の奥様ですね。その節は大変ご迷惑をかけまして、済みませんでした。」
勝治は、そう言ってお辞儀をした。川風は暖かく、そよそよと吹いていた。
「え、私を覚えているのですか。」
「ええ、仕事柄、人の顔を覚えるようにしているのです。」
そう答えると、釣り竿を上げた。摂子の母は、制服を脱いだ勝治が余りにも若いのに驚き、物足りなさを感じた。ただ落ち着きがあることも確かだった。
「遠くまで、大変でしたでしょう。折角ですので私の下宿へ行きましょう。」
と勝治は言って、二人を連れて堤防を歩き、堤防から下りた町中の仕出し店に入った。
「ここが私が下宿をしているところです。」
そう言って、仕出し店の裏にある二階建ての古めかしい建物の前庭に出た。玄関に入って勝治は、二階の部屋に案内した。客があったのを知ったのか、仕出し店のお婆さんがポットとお茶道具を運んできた。部屋は八畳の一間、窓近くに机、その近くに本棚と蓄音機、ラジオなどがあった。
「上手に整理しておりますね。掃除も丁寧になさっていますこと。」
娘の母静枝がそう言いながら、手土産の地元の菓子箱を開いた。
「折角ですので、一緒に食べながらお話を聞いてください。」
そう言って、娘の母は話を始めた。

 勝治は、娘の母親の話を聞き終わると、難しい用件だと感じた。
「用件は分かりました。でも、私にはできない話です。私が知っている摂子さんは、しっかりした娘さんでした。それなりの考えがあると思います。暫く様子を見てはいかがでしょうか。」
勝治は、明日は早くから警備出動があった。それを思うと花禄呉服店へ行くのには無理があると思った。そして付け加えるように言った。
「明日は、朝早くから仕事があるのです。これから行っても、夜までには帰ってこなくてはなりません。行くとしても、日を改めてください。」
勝治は摂子の両親に言った。両親は、摂子は家にいるはずだから、これから行けば夜には帰ってこれると言い張った。勝治は両親の話を了解し、一時間ほど列車に揺られて花禄呉服店のある駅に着いた。

 その途中、彼は両親に向かって少し話した。
「決して、私が娘さんから、名前を聞き出せるとは思わないでください。私は、この手の話をするのが少し苦手です。私は、娘さんを好い人だと思っていますし、それに…。」
そう言って、言うことをためらいながら、続けた。
「あなたの娘さんのような人を、嫁にできるならと、小さいころから思っていました。」
彼の言葉に、娘の母は不思議に思い尋ねた。
「知っているのですか。私の娘のこと。」
彼は、頭を撫でながら静かに話した。
「はい、少しは知っています。私の親父も転勤商売だったんですが、貴方たちの住んでいる町に住んだことがあるのです。小学校少しと、中学校三年間住んでいました。でも、もう転勤だったでしょう。渡り歩くということ、私は覚えていても、誰もが忘れてしまうんです。その頃、賢くて美しい少女がいたのを覚えています。」
そう言い終わると、それ以上娘のことについては話さなかった。娘の母は、賢く美しい娘と言っているのは、自分の娘摂子だということを薄々感じていた。

 駅から出ると、勝治は目に飛び込んでくる道路や家並みを見つめ、懐かしさが心に流れた。摂子の両親に連れられ、花禄呉服店の家に入った。家には摂子の姿はなかった。居間に通され、座卓の前で胡座をかいて座った。
「摂子は、そのうちに帰ってくるでしょう。」
そう言って、主人は縁の戸を開けて、勝治に向かい合って座った。

 勝治は、摂子の父の顔をちらっと見てから、部屋の中を見回した。茶箪笥の上に「藤娘」の人形が置かれており、その人形の美しさに見とれていた。
「藤娘、私が京都で買い求めたものです。とても気に入っています。」
そう言っている摂子の父に、数回うなずきを勝治は見せた。
「失礼ですが、名刺をいただいたとき思ったのですが、根元さんの名字、本ではないですよね。以前、安定所の次席をしていた人と同じ名字です。」
「それは、私の父です。お知り合いでしたか。」
勝治は、摂子の父を見つめた。
「そうですか。お名前は、確か根元修司さんと言われました。私の息子が就職するとき、とても親切にしていただいたのです。」
勝治は、急に楽な気持ちになった。
「やはり、私の父の名前です。そうでしたか。」
摂子の父の話では、摂子の兄禄太郎が商業高校を卒業するときに、家業を継ぐために適当な店の紹介してもらうため、安定所を訪ねたという。そこで家も近いこともあり、勝治の父が話しかけてくれたと言うことだった。
「京都の大きな呉服卸の紹介を受けました。私ら地方の手ずるでは到底かなわないところでしたが、何故か、相手の方から声がかかってきました。」
湯を沸かして、お茶を出すために摂子の母も座卓の前に座った。
「お母さん、勝治君は、安定所の根元次長さんの息子さんだって。」
「それはそれは、息子の禄太郎の就職の際、根元さんのお父さんには、色々お世話になりました。」
両親は、勝治の父の近況を尋ね、また息子禄太郎の話を、身を乗り出すように続けていた。

 夕方になっても摂子は帰ってこなかった。摂子の母が、酒の支度をした。摂子の父はビール瓶の栓を抜いて、勝治にコップを渡し、ビールを注ごうとした。勝治は済まなそうに、
「明日は早いので、酒は駄目です。」
そう言って断り、温い番茶をコップに一杯だけ頼んだ。腕時計を見ると、汽車の時刻も迫ってきていた。番茶を少し飲み、ビールを摂子の父のコップに注ぐと、
「また、日を改めて来ますから。」
と言って、また時計に目を落とした。そんな時、娘摂子が帰ってきた。部屋に入ると、摂子は勝治がいるのを見た。
「確か、勝治君ですよね。以前、店で水を飲んだ警察官ですよね。」
勝治は頷いた。摂子は笑顔を見せると座った。
「仕事の都合で、帰らなければならないのです。」
勝治は、また時計を見てから、摂子に目をやった。
「どういう風の吹き回しなのか知らないけれど。会えて嬉しいわ。」
摂子は、微笑んで勝治を見つめて言った。勝治は、一度下を向いてから、顔を上げて言った。
「藪から棒のようですが、摂子さん教えてくれないか。」
摂子は少し怪訝な顔をした。勝治は唾を飲み込んでから言った。
「摂子さん、好きな人がいると聞きましたが、誰か教えてくれませんか。」
摂子は、勝治が酒に酔って、突然変なことを言ったと思った。
「何で、突然、勝治さん、そんなことを聞くの。失礼と思わない。酒で酔っているのでしょう。」
勝治は、違うとばかり右手を顔の前に挙げて左右に振って見せた。
「私は、帰らなければならないので、ご両親に言ってください。」
そう言って勝治は、両親に暇乞いをして席を立った。
「勝治君は、相当変な人になったのね。」
摂子は、立ち上がった勝治を見上げて、そう言うと、そっぽを向いてしまった。玄関で、摂子の両親の見送りを受けて、勝治は家を出た。
 部屋に戻ってきた両親に、摂子は言った。
「どうしたの、私に教えてくれない。勝治君、突然来たの。」
摂子は、そう言ってから両親の話を手短に聞くと、
「勝治君、少しも悪いことないじゃないの。私、駅へ行ってくる。」
と言って、そそくさと家を出て行った。
 摂子が駅に着くと、直ぐ列車は動き出した。そして勝治の姿を見付けると、摂子は手を大きく振って見せた。勝治が手を肩まで上げ振っているのが見えた。勝治が笑っているようだった。中学校の卒業間際で、駅で見送ったときと同じだった。でも違うことがあった。それは笑顔を見せていたことだった。摂子も笑顔で見送り、悲しみや寂しさはなかった。

 摂子は、駅からの帰りすがら思った。
「会えたんだわ。これからのことを考えなければならない。」
先ず、家に帰ったら、父と母に詳しく話を聞くことだった。その次に、勝治と会う段取りを考えることだった。家に戻ると、父と母は、チラッと摂子を見ると、下を向いて黙っていた。摂子が座卓の前に座ると、母が言った。
「摂子、気を悪くしないで。お前のことが心配だったから、無理を言って来てもらったんだから。」
おそるおそる母は喋った。摂子は、お茶を出しながら
「私、怒ってなんかいないわよ。駅について入場券を買って、プラットホームに出たの。列車は動き出したわ。窓から勝治さんが見えたわ。手を振って、笑っていたわ。」
そう言った後に、更に摂子は
「お父さん、お母さん、ありがとう。勝治さんに会えて、嬉しかったわ。」
と言って、父と母に笑顔を見せた。摂子の笑顔を見ると、父と母は安心したように笑顔を見せた。

 摂子は、父と母から、今日の出来事を洗いざらい聞き出した。勤め先の様子、川での様子、下宿屋の様子、勝治の部屋の印象、勝治に話したこと、勝治が答えたことを詳しく聞いた。母は、思い付いたように
「勝治さん、摂子のこと、とっても綺麗なお嬢様だったと言っていたよ。それに、嫁にもらいたいくらいだったって。」
摂子は、とにかく嬉しい思いだった。父が出した勝治の名刺、名刺の裏には父が手書きした電話番号があった。
「ああ、それ下宿の電話番号だよ。」
父がそう言うと、摂子はその名刺を懐に仕舞い込んだ。聞くだけ聞くと、摂子は父の前にコップを出した。
「お父さん、少しだけちょうだい。」
そう言って、摂子はおいしそうにビールを口にした。
「お前、そのコップにお茶が入っていただろう。お前、飲んだの。」
そう母が言うのに、摂子は笑って答えた。
「そうよ。勝治君、ビールを飲んで酔っ払ったと思ったの。お父さんとお母さんが玄関まで送った隙に、私飲んだの。ビールだと思ったら、お茶だったわ。そして気付いたの。おかしいのは勝治さんでなくて、お父さんとお母さんだと思ったわ。時間がないから、手短に聞いて、慌てて駅へ行ったわ。走って行ったのよ。話はできなかったけれど、間に合ってよかった。」
と言って、コップのビールを半分ほど飲むと、
「名刺、部屋に置いてくるわ。」
そう言って、席を立って部屋から出て行った。部屋から出て行く娘は、軽やかな足取りだった。娘の姿を見送る父と母は、顔を見合わせた。
「お父さん、摂子が好きな男というのは、勝治さんじゃないの。」
母の言葉に、父は頷きを見せた。そして夫婦の顔は、笑顔で溢れた。

 夏近くの土曜日、摂子が勝治の勤務先の派出所に電話をかけると勝治は不在だった。電話に出た警察官は、夕方になれば派出所に戻ってくると言っていた。電話で応対した警察官は派出所長の遠山と名乗った上で、摂子の名前と電話番号を尋ねた。摂子は、正直に答えると、
「花禄呉服店のお嬢さんですね。私も花禄さんを管轄する派出所に勤務したことがあるのです。先日、ご両親がお見えになったとき、思い出せず失礼しました。ご両親によろしくお伝えください。」
摂子は、家のことを知っている勝治の上司だと思うと心が落ち着いた。
「勝治さん、戻りましたら電話をいただきたいとお伝え願いますでしょうか。」
摂子が言うと、即座に遠山所長は
「勿論です。電話をさせます。」
と、明るい声で約束した。

 夕方になると、電話機の側にいた摂子は、ベルが鳴るやいなや受話器を取り上げた。電話は、勝治からだった。
「先日、勝治さんの姿を見て、私、誤解してた。勝治さんと会って話がしたいの。」
「最近、忙しい日が続いているんです。」
「だったら、私が勝治さんのところへお伺いします。それで良いですか。」
少し勝治は考えている様子だった。
「私も、ゆっくり会いたいと思いますので、できたら摂子さんの家に行きたいと思っています。でも少し待ってほしい。二週間ほど待ってほしい。」
摂子は、それ位なら待つことができると答えた。少なくとも学生が夏期休暇に入る。そうすれば騒ぎもいくらか少なくなると勝治は思った。しかし、暇な学生達は、騒ぎから去ろうとはしなかった。大きな台風もやってくるということで、中々勝治は休暇を取ることができなかった。
「勝治さん、待っているの。都合がつかないなら、私が行くわ。陣中見舞いということよ。」
摂子の、そんな電話が勝治にあった。そんな遣り取りを知ってか遠山所長は、勝治に言った。
「根元、お前、行ってこいよ。次の非番と公休で行ってこい。警備の方は、他の者に回すように課長に頼んでおくから。」
そう言った後に、遠山所長は、
「花禄のご両親によろしく伝えてくれ。」
と付け加えた。勝治は、所長にそうまで言われて、心やすく行ってみようと思った。

 非番で残務整理を終わると、昼近くになっていた。下宿に帰り、昼食を取ってからバスに乗って県都の繁華街へ行った。本屋で週刊誌を立ち読みをした後、お菓子屋に立ち寄って銘菓を買った。駅に向かい、駅近くの公衆電話から花禄呉服店に電話をした。電話口には摂子の母が出た。勝治は、
「これからの汽車で行きたいと思います。」
と言った。
「お待ちしておりますよ。一時間ほどかかるわね。」
と、快い返事を勝治は受けた。おそらく摂子が両親に伝えておいたのだろうと思った。

 駅に着くと、改札口近くで摂子が迎えに来ていた。摂子は、勝治に話しがあると言って、駅前の喫茶店に誘った。摂子は、店に入って直ぐにホット・コーヒー二つを頼んだ。店の奥のテーブルに二人は向かい合って腰掛けた。
「いずれ私のことで耳に入ること、今、言わなければならないことだと思うの。」
摂子は、そう言って俯いて考え込んでいた。店員がコーヒーを持ってきても、まだ考え込んでいた。目の前にコーヒーが置かれると、摂子は顔を上げた。
「とっても、言いにくいことなの。砂糖入れる。」
そう言って、勝治のカップに砂糖を入れた。自分のカップにも砂糖を入れると、カップを見ながらスプーンでゆっくりと掻き回していた。勝治は、少し口にして、カップを受け皿に置いた。まだ、摂子は掻き回していた。
「幸夫君のことだろう。幸夫君との結婚話のことだろう。」
勝治の問いかけに、摂子は驚いたように顔を上げ、スプーンを受け皿に置いた。勝治の顔を見つめて、摂子は頷いた。
「話しは、健一から聞いている。健一と同じ大学だった。良くこの町の出来事を話してもらった。中学の同級生の話は、必ずしてくれた。特に、摂子さんの話は詳しくしてくれたんだ。」
摂子は、どの様な話しで勝治に伝わっていたのか知りたかった。でも聞くことは、野暮なことだと思った。
「勝治君がいなくなって、ずっと寂しかったわ。私の両親が、町の結城様の話に乗って、近くの豆腐屋の幸夫君との話を進めていたの。私は承知しなかったけれど、結婚話は噂となって広がったの。ところが暫く経って、幸夫君は居酒屋の京子ちゃんと結婚することになったの。勝手に話を進めた両親を恨んだわ。そして捻くれたの。」
摂子は、勝治がどの様に反応をするのか見つめた。勝治は、摂子の言葉を頷いて聞いていた。
「健一の話といくらも違っていない。幸夫は、中学校の時から遊び好きだったよ。幸夫と結婚させなかったのは、神の思し召しだったのじゃないか。気になんかしていないよ。」
摂子は、勝治の言葉を聞くと心が軽くなり、止めどもない嬉しさで充ちていた。

 摂子は、喫茶店を出て家まで、勝治と並んで歩いた。そして家の前まで来ると摂子は立ち止まった。摂子は向かい合うように立つと言った。
「私、中学校の卒業間際に、ここで勝治君に言ったわ。胸が熱くなるの、ずっと側にいて、と言ったわ。覚えている。」
勝治は、微笑んで頷いた。
「覚えているさ。そして今、こうして二人でいるよ。」
勝治は、そう答えた。
「そうね、私、今も同じ気持ちよ。」
そして勝治も言った。
「私も、今も変わらない思いだよ。」
二人は笑顔を交わすと、家の玄関に入った。

 二人で花禄呉服店の家の居間に入ってみると、摂子の両親が座卓を前にして座っていた。勝治は正座をして両手を畳につけ、丁寧にお辞儀をした。摂子の母の勧めもあり、前に進み座卓の前の座布団に座り直した。菓子包みを摂子の母に差し出した。
「まあ、丁寧にしていただいて。足を崩して寛いでください。」
摂子の母は、菓子箱を受け取りながら言った。摂子は、居間の障子戸を締めて、勝治の仕草を見ていた。
「勝治君、遠慮なんか要らないから。何か、ぎこちない。」
摂子は、そう言って勝治の隣に座った。勝治は、先ず遠山所長からの伝言を両親に言った。
「遠山派出所長から、呉々もよろしく伝えてくれと言われました。何でも、所長は以前、この町の交番に勤務し、花禄さんには世話になったと言ってました。」
それに答えるように、節子の父は、
「そう言われれば、私らも派出所にお邪魔したとき、どこかでお目にかかったような人だと思っていたのです。そうですか。」
摂子の父は、十年ほど前のこと、遠山所長は巡査長で花禄呉服店の受け持ちだったとのこと。よく訪れて、お茶のみ話をしたと言っていた。

 隣に座っている摂子が、足を崩すように言った。勝治は横に振り向いて摂子の顔を見た。摂子の笑っているのを見ると、気が楽になり胡座に座り直し、気も楽になった。
 摂子はポットから急須に湯を入れ、お茶を出してくれた。手前には、小皿に地元の銘菓が置かれていた。
「ところで、お父さんはお元気ですか。」
摂子の父が勝治に尋ねた。
「ええ、東京の八王子で、元気に勤めています。」
そう言って、更に
「父は、定年になったら、この町に住むつもりで準備をしています。町外れに土地を買ったと言っております。そんなことがあったので、私もこの県の警察官になったのです。」
摂子と摂子の母は、
「まあ、この町にお住まいになるの。嬉しいわ。」
摂子が喜んで言うと、摂子の両親も嬉しそうに頷いていた。摂子の母は
「晩酌の用意をしますから。ゆっくりしてください。」
そう言って、勝治に丁寧にお辞儀をして席を立った。

 摂子の母が席を外してから、話題が世間の騒がしい話となった。摂子の父は、安保闘争や学園紛争で、警察官が忙しく出動している。そして警察官が危害を受けていることを心配していた。
「大学の学生は、皆、学園闘争をしているのですか。」
と摂子の父が尋ねた。勝治は、摂子の父に顔を向け
「私が大学生の頃でも、騒いでいる学生がいました。ほんの一握りの学生達です。」
摂子は、心配そうに
「でも、テレビで労働者や学生たちが大勢で、国会付近をデモをしているのを見たことがあるわ。デモを取り巻くように、警察機動隊が動き回っている。警察官が怪我でもしたら大変よ。大勢の人を相手に、警察だけで大丈夫なの。」
勝治は、摂子が心配そうに言うのに、笑顔を見せて答えた。
「彼等は、自分たちの勢力が絶大と思っているのでしょうが、ごく僅かでしかないことを信じないのです。警察力で十分対応することができるのです。」
更に付け加えるように言った。
「彼等の仲間の一部は離反していくでしょう。また一部は先鋭化して、内部紛争を起こすでしょう。社会人としての努力もしない集団と考えてもよいでしょう。それから、そのような人たちを背後で操り、援護している人や団体があることも見逃すことができないのです。」
節子の父は、警察の活動に興味があったのだろう、警察の刑事事件などについて尋ねていた。

 夕方近くになって、世情を反映した警察に関する話題にケリをつけ、摂子の家では、酒の用意を始めたところだった。そんな時、勝治宛てに電話が入った。用件は、勝治の勤める警察署管内で殺人事件が発生し、捜査本部が設置された。その捜査本部の要員として勝治が指定されたので、明日の朝八時まで捜査本部に集合するようにとの指示だった。

 勝治は、頭をかきながら、摂子と両親に電話の用件を説明した。急遽、酒に代わって食事を取り、帰ることになった。食後、みんなでお茶を飲んでいるとき、摂子は改まって言った。
「私の好きな人、ここにいる勝治さんよ。ずっと好きだったの。中学校の卒業間際で別れて諦めていたの。でも、あの日、お母さんの持ってきた水を半分飲んで「おいしいですね」と言って、残りの半分を飲んだの。そして二杯目も、そう言って飲んでいたわ。私はそんな様子に覚えがあったので、その警察官を見つめたの。そして「勝治さんが、目の前に現れた。」と思ったわ。私、たまらなく嬉しかったの。そして自分を取り戻さなければいけないと思ったの。」
更に摂子は言った。
「勝治さん、私を嫁にもらってくれる。」
勝治は、終始摂子を見つめていた。摂子は、少し恥じらいで言っているのを見て、愛おしく思った。勝治は座り直し、両親を見て一礼して言った。
「私も、摂子さんと一緒になりたいと思います。よろしくお願いします。」
摂子の両親は、顔を見合わせ、その後に笑顔見せた。
「勝治さん、至らない娘ですけれど、よろしくお願いします。」
と摂子の母は言った。慌ただしく夕食を済ませると、勝治と摂子は家を出た。摂子は、駅のプラットホームで、二合瓶の酒と抓みの入った袋を勝治に渡した。そして列車が見えなくなるまで見送った。摂子は、幸福感で満ち溢れていた。

 夏になって、小中学生が夏休みになって盆も過ぎた頃、節子は新聞を見た。夏の警察官の人事異動が掲載されていた。勝治から何の話もなく、ただ眺めるといった方がよかった。教員の人事異動は春なのに、警察の人事異動は夏にもあるのだと思った。見ているうちに、なんと勝治の名前を見付けたのである。急いで、店先から母のいる居間に行き、座卓の上に新聞を広げた。
「お母さん、勝治さんの名前が載っている。」
摂子の母が覗いたが、名前が載っているのが分かったが、どうなっているのか分からなかった。摂子の声を聞いて、摂子の父が居間にきて、座り込んで新聞に目を通した。
「おい、勝治君、ここの警察署に転勤してくる。それも巡査部長に昇任してくる。摂子、良かったじゃないか。今度ゆっくり会うことができるよ。」
と父は言って、少し驚きと笑顔の顔を摂子に投げかけた。
「じゃ、ここから通えば良いわ。」
と摂子は少し上ずった声で、嬉しそうに言った。
「警察官は、そんな訳にはいかないだろう。勝治君は独身だから、独身寮か宿舎に入るだろう。」
「勝治君に聞いてみる。引っ越しとなれば、手伝いだっているだろうし。」
そう言って、両親の前で摂子は勝治に電話をかけた。電話が終わると、摂子は両親に話した。
「勝治君、昨日課長に呼ばれて異動を知ったんだって。これから、残務整理で忙しいので、こっちに来ることができないと言っていた。」
「お父さんが言うように、おそらく独身寮に入ることになるんではないか、はっきりしたことは分からない。でも、結婚予定はあると課長さんに言っておいたと言っていたわ。」
「引っ越し荷物は少ないが、手伝いに来てくれれば嬉しいと言っていた。私、どうしてもお手伝いに行くから。」
そう言って、下を向いて含み笑いをした。両親は、摂子が幸せそうな素振りをしているのをみて、顔を見合わせた。摂子の父は、当面夫婦で店を切り盛りしていき、いずれ長男の禄太郎が店を継ぐだろう。そう思うと明るい未来を感ずるのだった。