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「帰還船」

 

                     佐 藤 悟 郎

 

 

 私は、弟と二人の姉弟です。春の草の芽も萌え始め、庭も緑に色付いたころでした。ある春日和に、弟とボール投げをしておりました。弟の投げたボールが反れて、垣根を越えてしまったのです。私は、直ぐに垣根に近寄って、ボールの行方を追いました。垣根の道一つ挟んで向かい側は、蓮の多い池となっておりました。ボールは、池の堤をコロコロ転がっていきました。池の堤の中途には、大きな桜の木が並んでいて、その木陰には日差しを避けるように、一人の青年が写生をしておりました。ボールは、丁度その青年の足元に止まりました。

 

 私は、背戸を開けて堤の方に行き、緩やかな堤の上に立ちました。そして、ゆっくりと堤を下りて行きました。しばらく、青年の背後から、青年が写生をしているのを覗き込んでおりました。池に写る全ての影が美しく描かれており、それを見て青年が素晴らしい才能の持ち主だと思いました。

 私が少しずつ下へ下りてゆくと、私の影がカンバスに写ったのでしょう、青年は振り返ったのです。私はすくんだように、立ち止まってしまいました。青年の目は、冷たく、邪魔者が来たという風な目をしておりました。

 

 私は、無言で青年の足元を見つめました。すると、青年も自分の足元を見たのです。微笑んだ顔を上げて、直ぐボールを拾い、私に手渡すために近寄って来ました。私は、平然として青年を見つめていました。青年は

「はい、ボール。」

と言って、私の手にボールを置くと、クルッと向きを変えてカンバスの前に立ちました。

「綺麗ですわ。とても綺麗な絵を書きますわ。」

私は、青年の背後から言葉をかけました。青年からの返事は、何もありませんでした。軽やかに青年の筆は動いているのです。

…なんと高慢な人なんでしょう。…

私は、芸術家気取りの人だと思いました。不愉快な気持ちを少し持ち、堤を駆け上り、堤の上で振り返りました。

「君、どこかで会ったことがあるね。」

青年は、私に向かって声をかけたのです。私は、首を横に振って庭に戻りました。

 

 夜になると、私の父は、祖国のことについて語ってくれるのです。山と湖の美しい祖国、目に浮かぶように上手く父は語ってくれました。そんな話を聞きながら、私は昼過ぎに、堤で会った青年を思い出しておりました。確かに青年が言っていたように、私も見覚えがあると感じていたのです。

 

 私は、祖国への帰還船が入港すると、決まって歓送迎のために新潟の埠頭へ行っていたのです。高等科の学生として、音楽隊の一員として行っておりました。私は、祖国の船に向かって、顔に微笑を湛え、誇らしげにフルートを吹いていたのです。私は、帰還船の歓送迎の港が好きでした。そこには祖国があったからです。埠頭には、祖国を讃える仲間で溢れ、祖国の言葉だけが喋られるからでした。

 一年位前からでしょうか、青年がそんな場所にいることに気付いたのは。フルートを吹きながら、周りに目をやると、必ず私を見つめているその青年の姿があったのです。その青年がこの国の人であることが分かりましたので、入国関係の仕事をしている官吏だろうと思っておりました。私を見つめてばかりいるので、不愉快にさえ感じておりました。昼過ぎに絵を描いていた青年は、埠頭で私を見つめる青年だと確信をしたのです。

 

 それから幾日も経たない内に、祖国の船が入ってきました。私は、船上で手を振る偉大な祖国の指導者らに向かって絶えず微笑み、フルートを吹いておりました。

…私も学校を卒業したら、直ぐにでも祖国へ行くのだ…

祖国に帰る私の希望は取り止めもなく、私の心を奪いました。美しい祖国、そして希望に満ちた平和で自由な祖国を夢見ていました。

 この時も青年の姿が目に入りました。それは、船が出帆する日でした。フルートを吹きながら、ふと目を向いてみると、正面の太鼓の陰に青年がおりました。青年は、いつものように冷たい目をしていましたが、私がフルートを吹きながら暫く見つめ返していると、気付いたらしく驚きの表情を見せたかと思うと微笑みました。

 私は、そんな青年を見つめながら、嬉しさを感じたのです。青年は、やっと思い出したのです。私も微笑を浮かべ、お辞儀ともつかず頷きを見せました。すると青年は、軽く一回会釈をして私を見つめていました。

 

 春の夕暮れ、岸壁の風は未だ冷たく、船が出航すると小雨が降り始め、海上に少し霧がたち始めました。船は霧の中にすぐに消えていきました。

 驚いたことに、青年はずっと私を見つめていたのです。船が出て行った後もじっと見つめておりました。人々が埠頭から姿を消し、私は音楽隊の後片付けをしながら、それとなく青年の方に振り返りました。青年は、埠頭の大きな倉庫の庇の下で小雨を避け、壁に寄りかかりながら私を見つめていました。私は、音楽隊の列に入り、埠頭からスクールバスの待っているところまで歩きました。

 小雨の降る冷たい夕方、青年は、私の姿を追うように、倉庫の角に立って私を見送っていたのです。私は、胸に何か甘い圧迫感と激しい動悸をはっきり感じました。スクールバスまでの道々、友と語り合う間にも、普通を装って振り返りました。とうとうスクールバスが走り出し、霧の中に倉庫の角が消えて見えなくなるまで、青年はじっとそこに立っておりました。

 

 その日、私は家に帰って、急に明るくなった自分を見つけたのです。何にも拘泥することのない、広い心があることに気がついたのです。それからというものは、天気の良い日は、努めて池の見えるところへ散歩に出かけました。

 私の期待は早く訪れました。前に見かけたときと少し離れたところで、青年は写生をしておりました。私が近寄った時は、まだ描き始めた時のようでした。私は、青年の背後からそっと近付きました。すっかり緑が濃くなった草の上に腰を下ろしました。

暫くして青年は、私がいるのに気付き、驚いた様子を見せましたが、すぐ笑顔に変わりました。

「やあ」

そう言って、私の目の前に来て、立っていました。

「やっぱり、貴方だったのね。」

私は、笑いで顔が綻びそうになるのを堪えながら言いました。

「そうですか。実は、私も驚いたのです。まさかと思ったのですが。」

そう、青年は驚きを表しました。

 

 私は、話がしたいからと言って、青年に私の隣に座るように言いました。青年は、右手にパレット、左手に筆を持ったまま、私の右脇に腰を下ろしました。

「貴方は、帰還船が来るといつもいらっしゃっていますね。何か、珍しいことがありますの。」

私は、早々と尋ねました。青年は、あけっぴろに、直ぐ返ってきたのです。

「フルートを吹いている、貴女の姿を見に行っているのです。」

何の拘泥もない言葉だった。

「貴女のフルートを吹く姿は、実に素晴らしい絵になっているからです。」

明るい言葉が私の耳に聞こえる。私は、無関心に話す青年の言葉に、失望感を感じました。青年が雨の埠頭で、ただ私だけを見つめる姿を思い返しました。私の思いと、青年の思いが違うことを感じたのです。

「そうですか。私のフルートを吹く姿は、そんなに素晴らしい絵なんですか。」

私がそう言うと、青年は黙って軽く頷きました。私は、空しく池の水面に目を投げたのです。

…単に、絵になる私でしかなかった。…

そう考えると、少し寂しい気がしました。暫く池の水面を虚ろな気持ちで見つめていました。

 

 青年がパレットと筆を草の上に置く音に続き、どさっという音で、私は青年の方を見ました。青年は、私の脇で仰向けに寝転んでいたのです。

「不思議だね。フルートを吹いている貴女は、私の手が届かない人のように見える。けれど、今こうして間近に話し合えるなんて。」

青年の話す言葉を黙って聞いておりました。何か、独り言のようにも聞こえたのです。

「私は、画家になろうと思っています。でも、まだ物になりません。何か足りないのでしょう。でも、私にだって美しいものを見つけ出すことだってできます。誰とも同じように、美しいものを美しいと思うことができるのです。」

私は、青年が語りかけていると思い、頷いて聴いておりました。

「私は、雲の美しさを知っています。雲が流れ行く美しさ、そして混じりけのない上品な清らかさ、嵐の雲でさえ、よく見ればそうなんです。」

私は、空を見ました。そこには、柔らかい雲の一群が流れておりました。

「私は、美しいものは、あくまで美しいと思っています。しかし、私自身、心が片輪のような気もします。そうであれば、完全なものが、たとえ自分の目の前に現れても、その完全なものを見つけることができないと思っていますし、得ることもできないと思っています。」

青年は目を閉じました。

 

 そして更に続けたのです。

「自分自身が完全なものでない限り、私が完全なものを見たり、完全なものを描くことができないと思っています。」

私は、そう言う青年に答えました。

「完全なものとは、神しかいないのではないでしょうか。」

私の言葉に、青年は少し考えておりました。

「私も、そう思います。」

そう答えると、青年は黙って目を閉じ続けておりました。私は青年に上体を寄せて、青年の閉じた目と顔を覗き込みました。そして、青年が一体何を言いたいのかを考えました。

「私は、貴女を見て、完全に近いものを見たように、直感的に感じたのです。フルートを吹いている貴女は気高く、誇りに満ち、希望に満ち、平安の世の天女のように思われてならなかったのです。貴女は、私が今まで見た、完全なものに一番近いと思っているのです。」

私は、青年が私を余りにも買い被っているのに驚きました。そして、頬が熱くなり胸が高鳴るのを感じたのです。

「私がですか。私なんかに、完全なものを感じていけませんわ。」

私は、青年の言ったことを否定しました。青年は、それ以上話はしませんでした。私も、ただ黙って青年の顔から目を離し、青年の体越しに池を見つめました。

 

 暫くたって、青年は、突然起き上がり、私の両手を取って握り締めたのです。私は、少し痛いのを堪えて微笑んで見せました。それは、青年が明るく微笑んでいるからでした。

「君は、君が思うように、完全でないと思うかもしれない。私は、話すことが下手なんです。」

青年は、なおも強く私の手を握り締めました。

「でも、私には、私の貴女だと思っております。私は、貴女のことを好きになっていたんです。」

青年は、そう言い終えると手を離しました。そして、私に背を向けてカンバスの前に立って、じっと池の水を見つめていました。私の手に、青年の温もりと甘い痛みが残っておりました。

…私の貴女…

青年の愛が、私の全てを包んだ言葉でした。私が期待していた青年の心に、私は熱く激しく燃えてくるのを感じました。

 私は、パレットと筆を拾い上げ、青年のところに行って差し出しました。青年の清々しく嬉しそうな顔を見て、私は嬉しさが強く込み上げてきました。私と青年は、暫く見つめ合っていました。

 青年は、道具を小脇に抱えると、私を家まで送ってくれるといいました。青年と連れ立って家路につきました。その途中、青年がフルートを吹く私の姿を描きたいと言ったので、私は次の日曜に私の家に尋ねてきて欲しいと言ったのです。

 

 青年は、次の日曜日も、その次の日曜日も来ませんでした。私は、学校からフルートを持ち出して、祖国の正装をして待っていたのです。

 私は、最初のうちは、何故来ないのかと思っておりました。日が経つにつれて、青年に尋ねてきて欲しいと思うようになったのです。たとえ、青年が私を絵になる者としか見ていなくても、それはそれでよいと思ったのです。

 それから一か月も経ってからです。父と母が、近いうちに祖国に帰るという話を持ち出したのです。私と弟は、快く父と母に承諾を与えました。そして、その年の秋に、私達一家は祖国に帰ることになったのです。私は、青年に対する少しの心配のほか、何も心残りはありませんでした。祖国はそこにあり、私達同胞が自由に、何事も考えずに暮らせる国があるのです。

 青年に対して、私は恋心を抱いていました。

…あの人は、私に恋心でない、画家としての欲望しかなかった。…

そう思うようになったのです。

 帰還の話が決まると、家の中は忙しくなりました。財産の処分とか、訪問客などが実に多くあったのです。初夏に帰還船が来る。その次は、私たちが祖国に帰る船となるのです。私は、父と母と同じように、嬉しさと不安が色々と心に湧いてきました。

 

 初夏の帰還船が来ました。私は、フルートを吹きながら、次の船で祖国に帰ることができる嬉しさを、胸一杯秘めておりました。学校の友も、色々と祝辞を言ってくれておりました。

 多くの観衆の中でも、私は青年の姿を必死になって捜しておりました。もう一度会って話がしたいと思いました。私の姿を描いてもらいたいと思いながら、青年の姿を捜しましたが、とうとう見つけることができませんでした。

 その日、埠頭で青年に会ったら、直ぐに音楽隊から抜け出して青年の前に行ってやろう、そして思い切って

「好きです。初めて男の人を好きになりました。」

と言ってやろうと思いました。青年が、私のことを好きだと言ったら

「私は、希望の祖国に帰るのよ。」

と言って、困らせてやろうと思っていたのです。でも、青年は姿を見せなかったのです。

 

 その日の夜、私は青年の夢を見たのです。霧の深い中で、青年が冷たい土の上に寝ているのです。その霧が青年を覆い隠しました。私は、名も知らない青年を呼びました。霧の中を私は青年を求めてさ迷ったのです。

 突然私の足元の霧が割れて、緑の深い水面が現れました。その中を見つめると、青年が沈んでいたのです。私は、急に涙が溢れ、水の中へと潜りました。私が潜れば潜るほど、青年も同じ距離で沈んでいくのです。私は、青年の体にすがり付きたいために、水中深くまで青年を追いかけていきました。私の目から、涙が寂しく悲しく流れていきました。

 

 ふと、夢から覚めると、自分が喉を鳴らし、目には涙が流れているのが分かりました。私は眠ることができませんでした。暗い部屋の中に、青年の姿が目の前で幻のように浮かんできました。

 その日から、私は時々青年の夢を見たのです。夢というのは、決まって不幸な夢でした。ベッドに横たわっている夢、そして私の名前を呼んでいる夢、暗い部屋の中でじっとナイフを握り締めており、私が姿を見せるとナイフを投げ捨てて私に向かって走り寄ってくる夢など、何か不安な夢だったのです。

 私は、夜眠ることができなくなったのです。父や母は心配そうに私に慰めを言ってくれました。

「きっと、祖国に帰るのが、不安だと思っているからです。」

私はそう答え、青年のことは言うことはできませんでした。父は、心配をして睡眠薬を買ってくれましたが、私は、青年のことを考えると、とても眠る気持ちなどは起きなかったのです。

 

 秋の船が近くなり、父と母は私の体に障ってはいけないと思い、違う機会に帰国しょうかと言ってくれました。両親の希望を思うと、とても同意できることではないと思いました。私達が帰る船が来る一週間ほど前に、私は、青年のことについて父と母に打ち明けたのです。母は言葉に気を付けながら言いました。

「貴女の言うこと、思うことは自由なことですよ。でも、よく考えてもみなさい。その人が、貴女のことを、どれほどにまで思っていてくださるのか。」

私は、母の言葉に頷きました。私は、青年の夢を見ては考え、身も心も非常に疲れてしまったのです。

 私達は、帰国のために新潟の郊外にある宿舎に集結しました。私は、その宿舎に着き、私達家族の部屋に入ると、直ぐに床に入って横になりました。布団を頭からかぶり、青年を思いながら、無言の青年に別れを告げると、自然と涙が流れてきたのです。私も決心しなければならないと思いました。しかし、青年の姿は、私の行方を決める絶対的な存在でした。

 

 翌朝、起きてみると手紙が配られてきました。私は、その中に青年からの手紙があるのではないかと思いましたが、期待外れとなりました。私は、友達からきた手紙を読み、気を紛らわそうとしました。上体を起こしている私の姿を見て、母は近寄ってきて私の肩から毛布をそっと掛けてくれました。

「しっかりしなさい。明日は、いよいよ出発よ。」

母は、そう言いながら、私の友からの手紙を一緒に見ておりました。突然、室内放送がありました。

「ご連絡します。宛名ははっきりしませんが、

  フルートを吹く方、私の貴女様

宛ての手紙が、高等科から届いております。お心当たりのある方は、事務局まで取りに来てください。」

繰り返し、二度の放送があったのです。私は、自分の耳を疑いました。

「お母さん、確か、フルートを吹く方、私の貴女、と言いましたね。」

急に様相を変えた私に、母は心配そうに言ったのです。

「どうしたの。何があったの。」

私は、それに答えず、疲れた体で立とうとしました。母がしつこく問いただしました。

「あの方から、私への手紙なんです。」

私がそう言うと、母は驚いて私の代わりに手紙を取りに行ったのです。

 

 母が手紙を持ってくるや、私は急いで中を見ました。簡単この上もない、二枚の手紙でした。

…お元気ですか。私は病気で体をこわし、貴女の家に行くことができません。

 できましたら、是非私の下宿へ来ていただきたいのです。

 どうしてもお会いしたい。

井上 慎二 …

これだけの文字しか書いてありませんでした。もう一枚は、青年が手書きした下宿の図面と住所でした。私は、それを見終わると、布団の中に潜り込みました。

…今になって、どうしてこんな便りを…

私は、布団の中で努めて冷静に考えようとしました。青年は、まだ病気で暗い部屋に一人でいるだろう。冷たい床の上で横たわっているに違いないと思いました。

 私が祖国に帰れば、もう再び青年と会うことも、言葉を交わすこともできない。そのような祖国は、私には必要ないのです。父や母、それに弟と別れることは、辛いことです。私は、青年の言葉を思い出しております。

「貴女は完全だ。」

「私の貴女だと思っている。」

私は、青年が思っているとおりの完全な女になりたいと思っております。青年の真心には不安がある。しかし、私には、青年が私を求めているように信じているのです。そして、今、私は決心をしました。祖国の代わりに、青年の前で完全な女になることを。

 私には見えるのです。今夜にでも、この宿舎から一人手ぶらで出て行く私自身の姿が見えるのです。明日になれば、父や母、それに弟と祖国の麗しき姿を見て、喜び合える幸せを棄てて、去っていく自分の姿を…。