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「微笑み」

 

                 佐 藤 悟 郎

 

 

私がその都市の繁華街を訪れたのは、その都市から遠く離れた僻地の学校に転勤して、三年目の春だった。懐かしさに誘われ、何の目的もなく駅に降り立った。駅前の繁華街を見ながら、昼飯を食べるため小料理店に入った。その都市で教師をしていた頃、その小料理店をよく使っていた。

「えい、いらっしゃい。」

店に入ると、若い板前の威勢のよい声が聞こえた。私が店の中を見渡すと、奥の調理場から五十絡みのゴマ塩頭の男が、暖簾を左手で開けて私を見ているのに気付いた。その男が店の主人と分かり目礼をしたが、店の主人は一寸私を見て、顔を背け調理場へ引っ込んでしまった。大方、私の顔を忘れてしまったのだろうと思い、店の者にカツ丼を注文し、テーブルの前の椅子に腰を下ろした。

 

その店は、二階に和室の部屋が三つあるが、階下はテーブル三つと四個の椅子が並ぶカウンターのある小さな店だった。店主の内縁の妻は五十を越える女で、駅前の高層ビル裏の一角にある歓楽街で、バーを経営していた。店主の一家は、歓楽街のバーの二階と三階を住居としていた。私は、バーの方にもよく通ったものだった。

私が注文したカツ丼は、いつになっても出てくる様子がなかった。後から来た客が食べ終わっても出てこなかった。店の時計を見ると、午後二時を回りそうだった。

 この店の主人と内縁の妻には、一人の娘がいた。娘と言っても養女であり、私より三歳年下だった。名前を静子と言った。中学校を卒業すると、豊かな体を和服で装い、少し厚目の化粧をして、バーのホステスとして店に出ていたという。私が新任教師として早々、そのバーに入ったときは十九歳だった。卵形の顔で、眦が少し上がった、笑うと笑窪ができる娘だった。

 

午後二時半になった。注文してから一時間半も過ぎている。私が調理場の方に顔を向けると、奥の方から難しい顔をして、店の主人が盆にビール瓶二本とコップを載せてやってきた。店には客はいなくなっていた。店の主人は、私のテーブルの上に盆を置くと、向かい合うように腰を下ろした。店の主人は後ろを振り返り

「おい、もう夜まで暖簾を下ろして、戸を閉めておきなさい。」

と、若い板前に言った。若い板前の元気な声が返ってきた。

店の主人は、黙って私の前にコップを置いて、ビールを注いでいる。私に何か腹を立てているようにも見えた。

「あんたの好きなアルコールですぜ。一緒に飲みましょう。」

そう言いながら店の主人は、自分のコップにもビールを注いでいた。注ぎ終わると店の主人は、自分のコップを口元に持っていくなり、一息で飲み干した。

「その内に、カカァも来るから。」

そう言って店の主人は、空になった自分のコップにビールを注いだ。店の主人は、私にビールを飲めと言わんばかりに、持っていたビール瓶をグイッと目の前に突き出した。私も黙ってビールを飲み、私のコップにビールを注いでいる店の主人を見つめた。

 

店の主人は、ビールを注ぎ終わると、私を見返した。私は、懐かしい思いもしたが、反面、戸惑いも感じた。

「親父さん、元気か。」

別段言うこともなかったが、私は話を切り出した。

「ああ、俺はまあまあだ。カカァの野郎が、時々胸が痛むと言って困ったもんだぜ。」

相変わらず、荒々しい言葉を口にする店の主人だった。

「あんた、いつ結婚しなすった。」

店の主人は、突然私に言った。

「私が結婚したって。そんなこと誰から聞いたんです。」

私は、即座に聞き返した。

「あんたがこの町から出ていって、一年ぐらいしてからかな。学校の教頭が言っていたよ。」

私は、教頭の顔を思い起こした。教養はあるが、自尊心が人一倍高い人物だった。急な僻地への転勤、その僻地では、私の悪い噂で満ち溢れていた。そんなところで結婚などできる話でなかった。

「教頭が戯言を言ったんだよ。結婚なんて、できる身分じゃない。」

私は、疑うように見つめている店の主人に言った。

「教頭先生と言えば、立場のある人だ。嘘を言うはずがないだろう。」

店の主人は、私の言葉を信用する様子はなかった。私が結婚しようがしまいが、店の主人には関係のないことだと思った。そう思うと私は、少し腹立たしくなった。

「親父さんよ、俺の言葉を信じないのか。俺が結婚しようがしまいが、関係のないことだろう。それとも俺に、何か言いたいことでもあるのか。」

私は、不愉快な顔を見せ主人に言った。店の主人もイライラした目付きで、私を睨んでいた。店の主人は、ビールをコップ一杯煽り飲むと

「あれがよ。家出したんだよ。俺の娘がよ。」

と、ふて腐れたように顎をしゃくり上げて言った。私は驚いて

「静子さんが、家出をしたって。」

と店の主人に聞き返した。店の主人は、幾度も頷いていた。

「そうよ、娘が家出をするのは、それは娘の勝手なことだ。でもよ、原因が分かってくるにつれて、腹がイライラしてくるんだ。居場所は分かるが、帰ってきやしない。小面憎い娘だ。」

私は、店の主人の話を聞いて、娘のことを思いだした。娘にはできるだけ親切にしてやった。少し増せていたが、私には素直に見えた。色々な面で、娘は私を嫌っており、避けてもいた。

 

店の主人の話によれば、一昨年の秋に、娘が書き置きを残したという。

「心配かけますが、私は暫くこの町から出ていきます。心が晴れるまで帰りません。住居は、定まり次第お知らせします。」

そんな内容で、着の身着のまま、一万円だけ持ち出して家出をしたという。置き手紙の通り、二か月くらい経って便りが来たという。それ以後も時々、便りをくれるということだった。

店の主人が娘の話をしている時、店の戸の開く音が聞こえた。

「あら、あんた久し振りね。電話があったもんだから、飛んできたんだよ。元気。」

店の主人の妻が、入ってくるなり私に声を掛けた。妻は、私の脇に腰掛け、私にビールを勧めた。

「あんたって、意外とやり手なんだね。うちの可愛い娘をたぶらかすなんて。」

妻が言う言葉を聞きながら、娘が家出をしたことを初めて聞くことだったので、お世辞でも言っているのかと思い、笑って見せた。店の主人が、腹立ち紛れの口調で話していることから、妻の穏やかな言葉を聞いて安心した。妻のやっているバーに行くと、いつも明るく冗談を言ってくれる女性だった。

「いゃ、娘さんは中々賢い人で、たぶらかすには勿体ない娘さんですよ。美人だし。」

私がそう言い終わらないうちに、妻は軽く私の肩を叩きながら言った。

「あんた、それだけ私の娘を好いと思っていたら、何で娘に手を出さなかったのさ。」

私は、笑いながら両手で頭を撫で上げた。ビールが回ってきたのだろう、顔が熱くなり始めた。店の主人は、首を回して妻に向かって言った。

「おい、静の所へ電話をしてやれ。」

妻は、合点したかのように、席を立った。店の主人は、私に言った。

「あれも、お前さんを懐かしいと思っているから、電話口に出てやってくれないか。」

私は、快く承知し、妻の後から付いていった。店の主人は、酒に弱いものだから、片肘をついてテーブルに凭れていた。

 

妻は、娘の身の回りのことについて、色々と詳しいことを話していた。最後に

「珍しい人を電話に出すからね。」

と言って、私と電話を替わった。

「元気か、静子さん。」

私が、最初に話をかけた。

「ええ、まあ元気ね。どなたなの。」

「分かるかい。」

「顔を見なけりゃ分からないわ。私、今少し忙しいの。どなたか思いも寄らないけれど、お父さんから話を聞いたのでしょう。」

「まあね。家出をしたんだって、帰って来た方が良いんじゃないの。」

「誰よ。名前言ってよ。康ちゃん、それとも和ちゃん。」

「違うよ。一寸しか付き合いがなかったから、分からないかな。」

「お店のお客さんね。肉屋の旦那、それとも呉服屋の若旦那の六さん、そう六さんね。その声六さんの声だわ。当たったでしょう。」

私は、娘から色々な名前が出てきたのに、少し笑ってしまった。

「笑っているので、六さんじゃないのね。誰かなぉ、建築士の竹内さんじゃないし、バンドの皆川さんじゃないし、分からない。誰か、教えてよ。私、忙しいから早く言ってくれなきゃ困るの。」

「思い出すまで、教えてあげないよ。」

「じれったい人ね。もういいわ、電話切るわよ。」

私は、前に娘から意地悪されたことがあった。

「じゃ、さようなら。元気でね。きっと帰ってくるんだよ。その時、知らせてください。」

私は、娘の明るい声を聞いて安心した。

「一寸切らないで、思い出すから。」

私は、黙っていた。

「分かったわよ。」

娘の声は暫く途切れた。突然、甘えた声が聞こえた。

「こんな意地悪するのは、先生でしょう。勇一さんでしょう。どうして先生から名乗ってくれないの。」

「悪かったね。でも、随分忙しそうだし、それに随分色々人の名前が出てきたね。」

娘は、また暫く黙ってしまった。

「そんなこと言わないで。忙しくなんかないのよ。まさか、勇一さんだと思わなかったのよ。ご免なさい。」

「静子さん、家出なんかして悪いよ。私が、今度来る時は、ちゃんといてください。」

「本当にご免なさい。思い出せなかったんじゃないの。」

「分かった。お母さんと代わろうか。」

「いゃ、まだ話を聞いて。勇一さん、今夜は帰るの。」

「明日の夕方、帰ることにしている。」

「じゃ、今夜はバーで飲んでいきなさいよ。私、遅くなるかも知れないけれど、今夜、家に帰ってみるから。それまでバーにいてね。」

「できることなら、そうしたいね。」

「きっといてね。これから急いで汽車に乗るわ。それから私が帰ること、家の人に内緒よ。勇一さんには、言いたいことが山ほどあるの。」

「分かったよ。」

「じゃ、お母さんに代わってよ。」

私は、受話器を娘の母に渡して、テーブルに戻った。この家で、何かが起こったらしいことが薄々分かってきたが、それが何であるのかはっきりと分からなかった。私に不満があることとは、全く別の問題が渦巻いていると感じた。私は、ビールを飲んで店の主人とその妻に別れを告げて、店を出ようとした。別れ際に店の主人の妻が言った。

「さっき、娘からの電話で、今夜、あんたがバーに来ると言っていたけれど、本当なの。」

私は、黙っていた。懐に五千円程しか、金を持ち合わせていなかった。この繁華街のバーで、酒を飲めるほどの金でなかった。娘が、夜に帰ってくると言う言葉も空々しく思えた。店の主人の妻が、念を押すように言うものだから、私は振り返って頷いて見せた。

 

私は、店を出て駅前界隈を歩いてみた。久し振りに繁華街に出てきた私は、バーへ行くのが少し煩わしく思った。歩いているうちに、以前この町に住んでいたときのことが思い出された。

私は、駅前近くの中学校の新任教師として意気揚々と赴任した。教師としての仕事を誠実にやったが、それ以上に遊びもしたのだった。精鋭な考えの反面、酒食に溺れ、山での質素な生活から思うと、滑稽なほど不安定な生活だった。私は、暮れゆく繁華街を歩いているうちに、この市で過ごした不安定な生活が恋しく思われるのだった。

 私は郊外に向かって歩いた。そこには、大学時代の友人で会社を経営している男の家があった。その道すがら、私の脳裏に静子の思い出が彷彿と涌いてくるのだった。

 

新任早々の歓迎会のあった日、私は酔っ払って一人でそのバーに入った。駅前のバーと言えば料金が高いことを知っていたが、多少懐に金があり酒の勢いから入ったのだった。その時、静子が接待してくれた。髪を結い上げて和服で装い、白い厚化粧は、紅い電灯の中で柔らかな姿を見せていた。ボックスの向かいに座って接待する姿を見て、美しい娘だと思った。その娘のえくぼを見ていると、子供染みた顔が残っていて、一層愛らしく思った。その日は、財布からタクシー代を除いた殆どを、バーの飲食料金として支払った。

 

私は、途方もなく高い料金に腹を立てて、翌月の給料日に給料袋をそのまま持って行き、給料袋を預けて飲んだのだった。さすがに店の者は、給料袋を預けたのには驚いていた。ただ、静子は面白そうにその給料袋の封を切り、中の明細を見て眉を上げて、微笑みながら読んでいた。静子は、私にどこの学校の先生か尋ねたが、私は酔っ払った元気で

「あそこだ。」

と言って、天井を指差して見せた。それでも静子は、一番近くの中学校と言い当てた。

「先生って、給料が安いのね。今日、ここで給料の半分は消えてしまうわよ。」

静子は、そう言って私をからかうように言ってのけた。事実、帰って給料袋を調べたら、丁度半分の金が給料袋からなくなっていた。私は、馬鹿にされていると思い、腹が立った。計算されたとおり、丁度半分の料金になるはずがないと思った。ましてや六円の金が三円残ることがあるはずがないと思った。しかし、私の腹の片隅に、滑稽さも感じていた。

 

半分意地になった私は、下宿代と飯代を残して殆どの金をそのバーに注ぎ込んで通い始めた。常連であれば安くなるだろう、そんな私の目論見は外れた。給料の半分は取られるし、看板の時間になれば追い出される始末だった。

そのうちに静子は、私が店に入り席に座ると、会釈をして一回だけビールをコップに注いでしまうと、他の客の接待に回るようになった。確かに客筋から言うと、私のような安給料取りはいなかった。私は、静子が近くを通ると座るように指差したが、静子は会釈をしてコップにビールを注ぎ、他のボックスに行く有様だった。

時には、全然ホステスも席に来ないときもある。一回飲みに行く度に、給料の半分が消えるのにホステスも付かないのは何事かと、内心怒ったこともあった。そのうちに、独酌をしている私を見て五十も過ぎた女で、いつもカウンターの奥で目を光らせている女が来るようになった。誰もいないより増しなことであったが、年寄りが来ると長話になって白けてくる。それこそ若いホステスなどは寄り付かなくなった。

若いホステスが寄らない理由は、私にもあった。私は、チップを払ったことが一度もなかったのだ。また払う気も毛頭なかった。そんな状態となって、私はホステスを相手にしなくなっていった。私は、カウンターに座るようになり、ビールから五十女の好きな清酒を飲むようになった。大きな口を開け、金銀の歯を見せる五十女は、どう見ても田舎者らしく見えるのだった。

 その内に、その五十女が経営者であること、静子が私より三歳年下の養女であることを知った。五十女を相手にして飲むようになって半年も過ぎると、カウンターに座る私の隣に静子が座ることが多くなった。そんな風にして、私とバーの親子は親しくなっていった。

店が終わりホステス達を送り出すと、私は喜んで母と娘を誘って寿司屋やスナックなどに行った。娘は、子供っぽくあれこれと食べ物を物色し、食べるのだった。秋も涼しくなった頃、バーの母親に誘われて、駅前の小料理店に行った。その料理店が、さっき私が出てきた小料理店だった。

小料理店の二階の座敷に上がり、母親と娘の三人で飲食をしていた。母親が、余りにもその小料理店の主人と気安いので、尋ねたら夫婦だった。それ以後、私は時々その小料理店にも立ち寄るようになり、主人とも話をするようになった。私は、懐に金がないとき、その二階で酒を飲むことが多くなり、バーには行かなかった。

 

冬の冷たい風が吹く頃、小料理店の二階で飲んでいたところ

「寒いわ、何か鍋物を取ってよ。」

そう言いながら、娘が部屋に入ってきた。バーから来たばかりなのだろう、着物姿だった。私が、好きな物を頼んだらと言うと、娘は二階の踊り場から大声で注文をしていた。

言葉の端に出たことで、この小料理店は出前もするというので、今度、持ってきて貰いたいことなど話した。娘は、最近、私がバーの方へ顔を見せないと言った。私は、余り金の持ち合わせがないから行けないと答えた。すると娘は

「金なんか、ある時に払ってくれればいいのよ。」

と言ってくれた。

私は、昼食を小料理店から出前を頼むようになった。学校の用務員室で、いつも昼食を食べていた。それは、先生方の話より用務員の話が気に入ったからだった。部屋は少し暗いが、六十近い用務員が、あれこれと町の昔話をしてくれるのだった。驚いたことに、小料理店からの出前は、娘が持ってきた。用務員室に上がり込んで、お茶を出したり、囲炉裏火に当たったり、嬉しそうに話しかけてくるのだった。用務員は、

「良い娘じゃねえですか。先生にすっかり慣れてしまって。」

と、しばしば口にするのだった。そして目を細めて、娘から注いで貰ったお茶を飲んでいた。娘は、決まって私の食事が終わるのを待っていた。そして空いた食器を持って帰った。

 

その頃の私は、有頂天だった。バーという、一つの攻めにくい城を落としたと思ったからだった。毎日、娘に会うのが一つの楽しみとなった。その年の暮れ、久し振りに娘のいるバーに入った。その時は、娘が付き切りの接待をしてくれた。娘の母は

「静子、一緒に踊ってみたらどうなの。」

と言った。私は内心ドキドキしていた。娘は、私に踊ろうと言って、無理矢理腕を引っ張った。

「ダンスなんか、知らない。」

と私が言うと

「知らなくても踊れます。教えてあげます。」

と言って、私の言うことを聞き入れる様子がなかった。私は、仕方なく立ち上がった。

娘は、私の左手の指に深々と自分の指を絡ませた。そして私に、手を背に回してと言った。私は右手を娘の背に回し、足を右往左往させるだけだった。私は、娘を見つめて微笑んだ。そして、娘を愛らしく異性を強く感じた。

私の有頂天の心も、翌年の三月にパッタリと消え失せた。娘の態度が、急によそよそしく、冷たく感じたのだった。私が、バーに通い始めた頃よりも酷く感じた。娘は、私の席に来ることはなかった。微笑みを見せ、一回お酌をして通り過ぎる娘に、もう言葉はなかった。

学校への出前は、若い男が来るようになった。バーが終わってから誘っても、眠いと言って断るのだった。一緒に来るのは、決まって五十女の母親だった。私は、せめてもと言って、娘の好きな海老や蛸、烏賊の寿司を母に持たせてやった。

 

私は腹が立って、とうとうそのバーに行くのを止めた。その代わりに娘の父親の小料理店へ通い始めた。昼も夜も、娘は、父の店でも姿を見せないことが多かった。たとえ姿を見せても、私に言葉をかけてくれる様子はなかった。私は、小料理店が終わってから、親父を寿司店に誘い、問い質した。

「ああ、娘も近頃変だな。どうも彼氏の方の仕事が上手くいっていないらしい。心配しているんじゃないかな。」

娘の父親は言った。私は、彼氏が誰なのかと尋ねると、親父はサラサラと言った。それによると、あるキャバレーのバンドマスターだと言っていた。バンド員の引き抜きが激しく、穴埋めするのに困っていると言うことだった。

「娘も、近々結婚するつもりでいたらしいからな。」

そう娘の父親に言われ、私の心は、何かぽっきりと音を立てて心に響いた。

「何だ、娘に情夫がいるのか。とにかく分からないもんだ。」

娘は、可愛い顔をしている。私が考えていたことが、甘く幼染みたことのように思えた。

 

私は、親父の小料理店には通ったけれど、もうバーの方への興味は何もなくなった。それでも、まんざら娘のいるバーを忘れたわけでもなかった。というのは、他のバーで、それも何キロも離れているところなのだが、ベロベロに酔っ払って何も覚えていないときがあった。目を覚ましてみると、そのバーのボックスに寝ていたことが二度ほどあった。二度目の時は、目が覚めたのは朝の十時頃だった。

「なんだ、今起きたの。あんなに酔っ払って、ドアーを叩いて、入ってくるなり寝込んでしまうほど、ベロベロよ。」

そんな娘の声が、背後から飛んできた。久し振りに聞く娘の声だった。私は、直ぐさま学校に電話をし、腹痛で休むことを伝えた。それから娘に

「君、これから付き合ってくれないか。」

と言った。娘は、知り合いに見つかると煩いとか、母が許さないとか言って断るのだった。私は、千鳥足同然に繁華街に出た。何と静かな街だろうと思った。

 

私は、その後一回だけ娘を呼び出したことがあった。娘は、一時間だけと言って、母の許しを得てやって来た。私は、娘に今の職場から足を洗いなさいと言った。勉強をしなさいと言った。人と付き合うときは、嘘のないようにしなさいとも言った。

それに老婆心ながら、バンドマスターのことも尋ねた。娘は、笑いながら知らないことだと答えた。私は、娘に微笑みがあればあるほど、嘘があるとその時思っていた。娘とは、三時間ほど話していた。私が家まで送っていくと、母は私に向かって

「時間を守ってくれなくちゃ困るよ。」

と腹立たしそうに言った。それを聞いていた娘は、荒々しい口調で

「何も、他人に向かって、怒らなくても良いじゃないか。」

と母に言い返した。結局、母は、娘を二階に上げて、私に

「余り外に出すと、彼氏とどこかへ行きそうだ。」

と言った。

 

私は、その年の暮れに、半年ぶりにそのバーに入った。私の先輩の先生二人を連れてである。

 娘は、私等のボックスに来たけれど、決して私に近付かなかった。私のコップには、他のホステスがビールを注いでいた。娘を始め、他のホステスも、他の先生とは踊るけれど、私の手を引っ張って踊ってくれる者はいなかった。

私は、酔っ払った勢いで娘の母に文句を言った。娘の母も酔っていたらしく

「あれは、この店の看板娘だよ。新しいお客さんに触らせなくちゃ。お前さんは、さんざん遊んだだろう。昼、娘がいないのは、お前さんの所か、彼氏の所へ通っていたからだろう。」

と言った。私は、それを聞いて腹立たしかった。怒鳴るのを押さえながら、他の先生とダンスしている娘を見た。娘は、私に向かって手を振り、ウインクをしていた。私は、不愉快になって、先にそのバーを出てしまった。

 

それからは、私はそのバーに二度と行かなかった。私が連れていった先生は、それからそのバーに通い始めた。

「ははあ、看板娘の手か。」

と、汚い手だと思った。私が、そんな店に金の殆どを投げ出していたことが、惨めに思えるようになった。

私は、そんなことが心に残り荒れていったのだろう、ある日、居酒屋で金が高いと言って物議を醸し、支払わないでいると警察官が来た。結局、学校の教頭が駆けつけてくれて金を支払い、事は表沙汰にならなかった。その年の春の異動で、僻地の中学校の分校へ転勤となってしまった。

その異動は、私にとって好都合だと思った。惨めな思いをし、馬鹿馬鹿しく過ごしたこの町のことを忘れ、真面目な生活を送ろうと思ったからである。

出発の日、とにかく娘の親父の小料理屋に顔を出した。親父は、私の異動を知っていたのか、餞別までくれた。私は、さっさとカツ丼を食べて、別れを言って店を出た。歓楽街の方を振り向くと、娘とその母が足早に歩いてくるのが見えた。私は腹立たしく、二人に背を向けて駅に向かって急いで歩いた。

新しい赴任地へ行ってから、娘から手紙が来た。まことしとやかな情のある手紙だった。私は、もう騙されまいと思った。返事は、一通たりとも出さなかった。

 

この町にいた頃のことを彷彿と思い出していた。急に思い出から現実に戻ると、何の目的で、今、歩いているのだろうと思った。日も暮れて暗くなった道を歩き、旧友の家を訪れた。旧友は喜んで迎えてくれた。夕食を軽くご馳走になり、その上、金を三万円都合してくれた。旧友が気軽に出した金を見て、自分の目的はこれだと思った。そしてこれからバーに行くため、旧友に金を無心に来たのだと思った。

旧友が、金をどうするのだと言ったので、私は素直に

「これから、バーに行くんだ。」

と苦笑いを見せて答えた。旧友は、微笑みを浮かべ、私を送ってくれた。

 

夜の九時頃、そのバーに入った。私は、カウンターに座った。店は閑そうだった。電話で、今、直ぐにでも来るようなことを言っていた娘の姿はどこにもなかった。来るはずがないと思っても、事実いないとなると空しい感じがした。

私の両側にベラベラ喋る、顔の知らないホステスが肘をついて並んでいた。私は、その女達の望んだ飲み物を母に言い付けた。気前の良い私を見てか、若いホステスが

「今夜、どこかへ連れて行ってよ。」

と言った。店の雰囲気も変わったと思いながら

「どこかって、どこだ。」

と、とぼけて聞き返してみた。娘の母は、私を睨んで首を振って、いけないとでも合図をしていた。若いホステスは言った。

「そうね。寿司屋さんに行って、それからホテルでもモーテルでも行って、一緒に寝よう。」

私は、俗物的なことをはっきり言う、その若いホステスを見返した。平気な顔をしていた。

「おい、あんた、変なことをお客さんに言うんじゃないよ。」

怒りぽい性格の娘の母は、若いホステスに文句を言い始めた。

「この人は、学校の先生なんだよ。モーテルなんて行けないんだよ。この方は、以前からの上等なお得意様なんだよ。何だ、餓鬼の癖に、恥ずかしさも知らないで。そんなホステスは、この店に置けないよ。出ていきな。」

娘の母は、本気で怒ったらしく、ポンと一万円をその若いホステスの前に投げて

「さぁ、この金で男でも引っかけて、良い思いをしな。金輪際、この店に来るな。」

と言った。若いホステスは、その札を抓んで懐に入れると、鼻歌を歌いながら店を出ていった。ドアーを閉めると、ドアーを足で蹴っていく音がした。他のホステス達も

「今夜は、お客が来ないようだから帰るわ。」

と言って、店を出ていってしまった。

「短気なんだね、ママも。」

私は、そう言って娘の母の興奮を抑えようとした。

「何よ、いつもあの調子でやってくれるものだから、この店の質を落としたんだよ。却って気が清々した。」

娘の母は、負けん気の強い女である。私と娘の母は、黙って差しつ差されつしながら酒を飲んでいた。暫くして、娘の母は口を開いた。

「こんな湿っぽい席で、こんな話で悪いんだがね。先生は、うちの娘のことを好きなんだろう。」

私は頷いた。そして涙っぽく語る娘の母の話を聞いていた。

 

娘が、私のことを好きになったことを知っていた。学校長やPTAから悪口を言われたことを、私に話してくれた。娘は、私に好きな気持ちを表さないように我慢していたという。学校の先生と釣り合いがとれない、一緒になっても嫌われ傷付いてしまうと思っていたという。もし、私が本気で娘を求めるなら、いつでも従っていたと言うのだった。娘の日記の大半は、私のことを綴っていたという。

「娘は、貴方に近寄りたかった。でも、私が周りの言葉を気にして、娘を貴方に近付けなかったの。それでも、貴方が娘に手を出してくれれば、と思っていたの。」

そう娘の母は言った。私は、黙って目を閉じて聞いていた。そして娘の母の勝手な言い草に腹を立てながらも、昔、自分が腹を立てたことが、如何に子供染みた単純なものだったかと思った。私自身が惨めで、不幸な心の持ち主と思え、自然と涙が出てくるのだった。

 

それから暫く経って、バーのドアーが開いた。私は、入ってくるのは娘だと見なくても分かった。母の話を聞いて、娘は必ず来ると思ったからである。私の霞んだ目に、驚いている娘の母親の姿が映った。そして私の肩越しに、子供らしさから脱皮した、豊満な艶っぽい女の微笑む顔が目に入ってくるのだった。