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「音楽会での私」

 

         佐 藤 悟 郎

 

 

 私は、暗くなりかけた夕方の街を歩いた。一端の音楽家気取りで、市民会館へと向かった。音楽に興味がない訳ではなかったが、音楽に興味を持つ知識人だという、奢った気持ちを抱いていたことも確かだった。教養の有りそうな人々が、身形を整えた姿で、歩道を市民会館へ歩いてくる。水銀灯の明かりが、市民会館の大きな建物の出入口を照らしていた。人々の群れは、市民会館へと吸い込まれていった。

 市民会館のゲートの前の歩道で、制服姿の髪の長い女子高校生が一人、往来の人々に、左手に抱え込んだビラを配っていた。多くの人は、その受け取ったビラを見る様子もなく、手に持ってヒラヒラさせている。私はビラを受け取り、歩きながら目を通した。ビラは、近日中に行われる女子高校生達の定期音楽演奏会の案内だった。彼女等の演奏会は、市民会館で無料の公演だった。

 私は、演奏会に集まる人々を見て、戸惑いを感じていた。人々の姿を見るにつけ、音楽の知識もない自分に、気後れを感じていたのだった。市民会館の庭園の中空に、木々の葉が薄暮の空に浮かんでいるのを見ながら、落ち着きを取り戻そうとした。何故、何の目的でこの演奏会にやって来たのか、絶えず私の疑問は消えなかった。

 

 入場券を出し、パンフレットを購入した。パンフレットを見て、これから行われる演奏会の演奏曲目で、私が知っている曲は何も無かった。我が国が誇る楽団の地方演奏会だった。演奏される曲は、全てが有名な曲に相違なかった。ただ、私が知らないに過ぎなかった。恥じらいのため緊張感が漲った。

 演奏会場のホールの中に入り、自分の席を捜すのにも骨を折った。それは、そのホールで催し物が多くあったにもかかわらず、ホールに入るのが二度目と数が少ないためだった。私は、左手で会釈をとりながら、着席している人の前を通り、奥にある自分の席に着いた。隣の二つの席は、まだ空席のままだった。

 席に座ると、私はホールの中を見渡した。ステージは、観客席に向かって半円形に広くなっていた。指揮台と椅子が、照明で明るく浮かんでいた。観客席の下の方を見ると、急いで席に着く者の姿が見られ、開演時間が迫っていることを思わせた。

 

 やはり若い女性の姿が目立った。若いドレスの装い、若い囁き声、そして若い香りが会場に漂っていた。私は、会場の雰囲気に負けまいと、虚勢を張った。席にふんぞり返り、音楽の全てを理解する者であるかのように振る舞った。サラサラとパンフレットに横目を流し、できるだけの頷きを見せた。他の人から見れば、いかにも私が音楽通であろうと見えるように、考えながら動作をしていた。

 間もなく、私の隣の席に、少し肥り気味の中年の女性と、その女性に連れられた中学生らしい男の子が現れた。大方、その女性は母親なのだろう。白い扇子を手にして、私に軽く会釈をして席に座った。そして連れの子供

「ここにおかけ。」

と言って、私の右隣の席に腰掛けるように指差した。子供は、落ち着きもなく腰掛けると、息をゼエゼエ吐きながら、肩を何回となく揺すっていた。

 私は、隣に座った子供が少しおかしいと気付き、顔を右に向けて見た。すると、子供の隣の席に座っている丸顔の母親と、一瞬目が合った。母親は直ぐ目を反らすと、ツーンと澄まして扇子をパタつかせていた。子供は、分厚い眼鏡をかけ、田の畦にいるカエルのように半開きの目で虚ろだった。唇を前に突きだし、口元に締まりがなく少し開き、訳もなく音を立てて、犬のような呼吸をしていた。

 

 開演のベルが鳴った。場内のざわめきは、波が退くように静かになった。聴取の方の照明が消え、舞台の照明が取り残され、舞台は一層の明るさで浮き上がった。

「さあ、始まるぞ。」

私は、名誉ある知識人の一人として、誇りを持って身構えた。舞台の両端から、それぞれ楽器を持った楽団員が、黒い装束で現れた。聴衆から一斉に拍手が起きた。私は、拍手をすべきなのかどうか戸惑った。知識人としては、指揮者が登場したときに拍手するのが妥当ではないかと思った。私は、田舎者になりたくないと、ただそれだけだった。

 楽団員は、それぞれの位置に着いた。コンサートマスターが立ち、音を合わせ、それが済むと姿勢を正した。そして指揮者が現れた。私は、この時と思い拍手を送った。私のとっておきの大きな音がする拍手である。指揮者は、指揮台に立つと、直ぐに聴衆に背を向けて指揮棒を上げた。拍手は、波打って消えていった。

 

 指揮者の動きで、初めて耳にする音楽が流れ始めた。隣の席の子供は、拍手する手真似を続け、止めようとしなかった。絶えず、大きな吐息が私の耳に入ってきた。

 私にしてみれば、一瞬の内に最初の曲が終わった感じだった。聴衆の拍手の音で、曲が終わったのだなと気付いた。曲の印象を理解しないまま、私は素晴らしい演奏に違いないと判断した。拍手を送らなければ、そう思って人に一歩遅れを取りはしたが、拍手を送った。

 それから三曲は、女性オペラ歌手の登場で、楽団の演奏を背景に歌劇の中の小曲が歌われた。これも私がさっぱり知らない曲だった。歌い始めは音が出るから分かるが、どこで終わるのか、現在どの辺を歌っているのか分からない。歌詞は外国語であり、意味内容はサラサラ分からない。やたらに表情を付けている歌手であるが、その表情を見ても曲想が浮かばなかった。私は、仕方なく目を閉じてみた。すると美しいメロディーが、鮮明に頭の中に流れてきた。

 

 知識人という意識を持つ田舎者の私、澄んだ歌手の歌う曲で溢れている頭の一隅に、どうした訳か変な考えが芽生えた。目を閉じて音楽を聴いているなんて、ひょっとしたら音楽通の人間がやることでないのではないかという考えが、少し浮かんだのである。その考えは、急に大きくなり、その是非を巡って私の頭は一杯となった。美しい音楽も、耳鳴りだけの存在となって、私の頭から追い払われた。

 実に私は、音楽を聴いているというより、音楽を聴く態度とは如何にあるべきかと言うことを自問自答していた。音楽愛好家と言えば、この田舎町では或る程度高踏的な人物と思われるに相違なかった。私は、その誇りを身に付けることに憧れを持っているに過ぎなかった。オペラ歌手の最後の曲が終わった。大きな拍手が送られ、女性オペラ歌手は舞台から消えていった。聴衆は拍手を送り続け、アンコールを求めていた。私も、恥じらいながら拍手をしていた。隣の席の子供も拍手をしている。調子のとれない、手のバタツキとしか思えない拍手だった。

 

 私が恥じらいでいるのは、目の前で繰り広げられた演奏が、良いのやら悪いのやら分からないのに、拍手をしていることだった。拍手するのが儀礼である。その意味だけで拍手をしているに過ぎなかった。ある作家が、小説の中で言っている。

「意味を理解せずに、ただ闇雲に拍手する馬鹿がいる。喚声を上げる者がいる。」

その言葉が私の意識にあった。

 アンコールに応えて、女性オペラ歌手は日本の歌を一曲歌った。それが終わると、チャイコフスキーの交響曲が始まった。やはり私の知らない曲だった。知識人として、その知らない曲に対峙しようとしていた。それには先ず、余裕を持つことだと思った。私は、余裕を持つことを姿で現さなくてはと思い、椅子にふんぞり返り、足を組み、肘を立てて手に顎を載せて構えた。

 

 私は、メロディーを捉えなければと思った。主題くらい諳んじなければ、音楽通と思われないと思った。多くの楽器の音が交錯するため、私にはとても主題すら掴むことができなかった。

 私自身も知らない曲なのだから、この田舎者の聴衆の中で、果たして知っている者がいるのだろうかと思った。楽章が終わる、私は終わったことに気付かずにいる。誰かが拍手をする。すると拍手の渦が巻き起こる。この事実、曲を知っている者が、確かに聴衆の中に存在しているということだ。

 

 激しい音楽となってきた。金管楽器の音が高鳴り、ティンパニーの音が場内を揺るがす。私の想念は砕け、紙屑が風に煽られるように、宙に舞ってどこかへ飛んでいった。私は、状態を前のめりに出した。卑しく、恥ずかしいことだ。他の人が見たらどう思うかと思い、また椅子にふんぞり返ってみた。

 私は、自分自身を知っていた。高慢な心がないこと、漠然とした広がりしか持ち合わせていないことである。そこには、何も考える力も、誇りも、苦しみもなかった。ただ初めて耳にする曲を受け入れているだけだった。主題を追うことも、楽想を追うことも、私の問題でなくなってしまった。

 

 隣の席の子供は、相変わらず手をパタつかせている。聴衆は、前のめりになっている。何の楽器か分からないが、右手の方から美しいメロディーを奏でる。私の心は、緊張する。

 ふと思った。素晴らしい演奏家達だ。彼等は、旅をすることがよくあるのだろ。知らない都市や郊外を歩き回るのだろう。演奏家達の余暇の行動を思った。

 

 その演奏家は、美しいメロディーを頭に浮かべながら、郊外の樹木と草、川と堤の美しい道を散歩している。風も爽やかに頬を撫でて通っていく。ふと、彼の耳にバイオリンの音が聞こえ、立ち止まった。誰かがバイオリンの練習をしているのだと気付いた。あの音は少し違う、正確さもまだまだ、感情も入っていないと思った。彼は、そのバイオリンの音に吸い込まれるように歩き出した。林に囲まれた花の咲き乱れる庭先に、彼は立っていた。花壇を越えて、庭に面したサロンに一人の少女がバイオリンを弾いている。他に誰もいない。

 

少女は、彼に気付くと弾く手を休め、軽く会釈をした。彼は庭に入り、サロンの軒下まで行くと

「さあ、もっと弾いてください。聞かせてください。」

と少女に向かって言って、微笑みかけ、少女の瞳を覗いた。少女は、音を確かめるように目を閉じて弾き始めた。彼は、自分の幼い頃を思い出した。音楽の道だけ進むことを考え、友もなかったことを。少女が弾き終わると、彼は拍手を送った。

「今度は、お兄さんが弾く番よ。」

少女は、彼が誰であるか知らないはずだった。しかし少女は、彼がバイオリンの弾き手だということを少しも疑わなかった。彼は、チャイコフスキーの「メロディー」を弾いた。

 

彼が弾き終わると、少女の小さな可愛い拍手が聞こえた。彼はバイオリンを渡すと、少女の頭に手を置いて

「頑張るんだよ。」

と言った。少女は彼を見送った。立ち去っていく彼の耳に、彼が弾いた「メロディー」の曲を手繰るような、心許ない音が聞こえた。彼が振り返ると、少女が練習をしている姿が見えた。その手前の花壇の花の向こうに、妖精のように清らかな若い女性が一礼し、彼を見送っているのに気付いた。

 

 私は、楽団のそれぞれの団員が、相当な力量を持っていると思った。そして彼等は、人々に美しい魂を残していくのだと思った。そんな想像を描きながら、演奏する人達を見た。一人一人を見つめ回した。

 音楽家でもない、演奏家でもない私が、一体誰に向かって威勢を張ろうとしているのだろうか。何を求めて、この演奏会に来ているのだろうか。考えられること、それはやはり見栄でしかなかったのだった。

…果たして、私は音楽が好きで、やってきたのだろうか。…

私にとって必要なのは、聴衆に見栄を張ることではなく、演奏を聴くこと、そのものなのだと思った。

 私は、その威圧的な曲の響きの前に置かれ、目眩さえ感じた。自分自身への叱責でもあるかのように、曲は私の心を威圧的に苦しめ続けた。知識人としての名誉や見栄が崩れようとしていた。目の前の楽団が、大きく写った。私を審判するかのように、楽団が激しく迫ってくる。私には、もう聴衆への配慮はなかった。

 

 突然、大らかなメロディーが流れてきた。

…何という曲だろう。何という音だろう。確かに私に、何かを感じさせている。一体、何なのだろうか。…

指揮者のはっきりとした大きな動き、バイオリン奏者の手の動き、その動きが止むと、大きな拍手と喚声が巻き起こった。私は、ただ登れそうもない断崖を見上げ、その崩れんばかりの頂を見上げるような慄然とした心になった。

 唖然として、その聴衆の拍手と喚声の中に私がいた。小さな者、知らない者、馬鹿同然の者のように思えた。何のためにこの演奏会に来たのだろうか。これから演奏会場を出ていく私は、何か変わったことが起こるのだろうかと、狼狽えるばかりだった。