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「入院その日の少女」

 

                 佐 藤 悟 郎

 

 

 彼は、左足を骨折して町の病院に入院していた。高校三年生の夏休みも終わり、秋風も立ち始めた頃だった。彼の病室は、三階の北側にある、ベッドが四つある部屋だった。入院して三週間も過ぎて痛みがなくなり、毎日ベッドに寝転んで単行本を読んで過ごしていた。症状も落ち着いて、家の者も、忘れた頃にポツリポツリ来るだけで、受験勉強に追われている学友は、ついぞ訪れることはなかった。

 

 彼は、東側の窓側のベッドにいた。本を読み疲れると、時折、窓の外へ目を投げかけた。町の赤や青の瓦屋根が、眩しく目に入った。遠くには、青く少し霞んだ山波が、幾本かの煙の筋を宿し、落ち着いた姿を見せていた。

 雲間から陽光が射して、病室の白い壁や布団に撥ね返って、眩しさを感じた。彼は、本を腹の上に置いて、目を閉じた。

「あと二週間も入院しなければならない。その後も、歩けるようになるまで日数がかかるだろう。勉強が心配だ。十二月には、試験がある。大丈夫と思うけれど。」

そんな考えが、彼の頭を横切った。彼は、また目を開き、単行本を持ち上げると目を向けた。

 

 昼近くになって、看護婦が、隣のベッドに新しい敷布や毛布、布団を整えている。

「新しい入院患者が来るな。」

彼は、そう思いながら本の端から、若い看護婦が準備するのを見ていた。看護婦は、準備が終わると、急に彼の方に向きを変えた。

「盲腸ですよ。高校一年生の女の子よ。手術が終わってきますよ。」

看護婦は、ぶっきらぼうに言うと、足早に病室から出て行った。彼は、看護婦の姿を盗み見ていたためか、本の下に顔を隠し、顔を赤らめていた。

 

 その日の午後二時頃になって、彼の隣のベッドに、母親に付き添われた少女が、横たわった。彼は、気にすまいと単行本に目を向けていた。

「気の弱い娘なんですの。よろしくお願いしますね。」

少女の母が、本を見ている彼に言葉をかけた。彼は、その声に一瞬戸惑ったが、少女の母に目を向け、寝たまま軽く頷いて見せた。

「はい、分かりました。」

少女の母は、彼の返事を聞いて、明るい笑顔を見せて彼を見つめた。彼は、少女の顔を少し見て、平気を装うように顔を上に向け、本に見入った。

 

 少女は、首元まで白い毛布を引っ張り上げ、少年の方に顔を向けていた。髪の毛が柔らかな少女は、青白い顔をしていた。

…あんなに目を細めていて、痛いんだろうな。顔に何も感情がなくなって。でも、元気になれば、中々可愛い子なんだろうな。…

少年は、本に目を向けたまま思った。そっと、少女に目をやった。痛みを堪えている少女の細い眼差しが、少年の目に写った。少年は、直ぐ目を背けると目を閉じた。

 

 夜の八時になった。

「面会時間は、終わりました。」

全病室に看護婦の声が流れた。局部麻酔を使うこの病院では、夜通しの付き添いをさせないことになっていた。

「夜中に、煩くして迷惑をかけると思いますが、よろしくお願いしますね。」

少女の母は、少年に向かって小さな声で言った。少女は、眠っており、母親は足音を立てないように、静かに病室から出ていった。その病室には、少年と少女、それに少年の足下に、痔の手術をして二週間目の老人の三人となった。静まりかえった病室、少年の本をめくる音が大きく聞こえるようになった。

 

 病室から見える景色は、秋の明るい月の光が、町の家並みに降り注ぎ、静かな影を造っていた。遠くの山の端が、澄んだ空の中にはっきりと浮かんでいた。

 少年は、小一時間ほど本を読み、松葉杖を使って、自由の利かない左足を浮かせ、病室の入り口近くまで行き、電灯を消した。病室は、月の光で明るかった。少年は、窓際に向かった。暫く外の景色を見つめ、厚手のカーテンを閉めた。

 

 少年は、暗くなった病室の窓際で、少し立ち続けた。少しの時が経つと目が慣れて、病室内が見えるようになった。少年は、少女のベッドの方に目をやり、自分のベッドにぎこちなく入った。少女は、顔を上に向け、目を閉じていた。長い豊かな髪の毛を、枕元に投げ出していた。少年は、少女の胸元あたりの毛布が、小刻みに動いているのを見た。

…眠ってはいないな。痛いんだろうな。…

少年は、そう思いながら深々と毛布をかぶったが、眠気が中々訪れなかった。

 

 少年は、夜中に目を覚ました。隣のベッドで人の話し声が聞こえたからだった。少年は、気付かぬ振りをし、身動きをせず静かにしていた。

「もう、貴女は高校生なのでしょう。小さな子でも我慢するんですよ。貴女だって我慢しなくちゃ駄目よ。」

看護婦の、小さな声で話すのが少年の耳に聞こえた。

「だって、痛いんですもの。腹が熱くって、膨れているんだわ。破れているんだわ。」

今にも泣きそうな、少女の声が聞こえる。

「もう夜中になって、二度も来て痛み止めの注射をしているのよ。腹が破れていることなんか絶対にないから、安心して眠りなさい。眠りから覚めれば、痛みはなくなっていますよ。もう来ませんからね。」

看護婦は、少女を窘めるように言葉をかけた。

「だって、痛いんです。どうにかして下さい。」

看護婦は、少女の言葉を聞かず、病室から出ていった。

 

 少年は、身動きをせず、耳を澄ましていた。病室は静かになったが、少女の啜り泣く声が微かに聞こえる。痛々しそうな吐息が、何回とも聞こえていた。

…誰だってそうなんだ。盲腸の人は、一晩だけ痛がるんだ。翌日から笑顔になり、一週間過ぎれば、駆け足するようにして退院して行くんだ。…

少年は、何人もの盲腸の患者を見てきた。そんな経験からそう思うのだった。少女は、その内に眠ってしまうだろうと思った。

 少年は、少女の方に向き目を開けた。暗い病室で、少女の吐息が聞こえ、毛布が大きく上下するのが見えた。よく見ると、少女は両手を毛布の上に投げ出し、目を大きく開いているのが分かった。時折、「ハー」と力が抜けるような吐息をしている。

 少年は、少女が見やすいように、腰を動かした。微かな衣擦れの音がしたと思った。その瞬間、少女の吐息と毛布の動きが止まった。少女は目を閉じ、長い沈黙が病室に漂った。少年は、自分の僅かな動きで、少女に緊張が走ったと思った。

 

 少年は、長い沈黙の中で、少女を見つめていた。すると、急に少女の目が開き、少年を見つめた。少年は、突然のことで驚き、素早く目を閉じた。目を閉じると、少年は、自分自身が卑しい心の持ち主だと思った。

…私は、この少女を盗み見していた。少女が気付いていないと思って、盗人のようにこっそり見て、楽しんでいたのだ。…

そう思うと少年は、恥ずかしい気持ちでいっぱいになった。急に目を閉じる際、瞬間的に見た少女の顔を目に浮かべた。

…細い顔で、少し目が大きく、細い首筋、小さな唇、柔らかな肩…

一つひとつ思い浮かべながら、少女の顔全体を作り上げていった。長い髪、健康そうな顔色をその顔に当てはめていった。

…美しい少女なんだな。…

少年は、そう結論づけた。もう目を開けまいと、狸寝入りを決め込んだ。

 少年の耳に、また少女の吐息が聞こえてきた。調子のとれた吐息であるが、吐息の度に少女が

「痛い、痛い、痛い」

と言っているように聞こえた。間もなく、衣擦れの音が聞こえた。

…また、前と同じように天井を見つめ、痛みを堪えているんだ。…

少年は、喘いでいる少女の姿を思った。

 

 少年は、苦しみに耐えている少女の姿を見ようと、目を開いた。目を開くと意外な光景に驚きを感じた。少年の目に入ったのは、天井に向かって吐息を突いている少女の姿でなかった。大きな瞳で、少年を見つめている姿だった。少女は、無表情のまま少年を見つめていた。少年は、自分が思い描いたとおり、美しい少女の姿に、熱い動悸が高くなった。

 少女は、少年が見つめているのを意識したのか、下唇を噛み締め、そして深い吐息を見せた。吐息に合わせるように眉を寄せ、目を細めて苦しそうな表情を見せた。少女の目から、スーと涙が耳元に流れた。胸の上に置かれていた少女の右手が、ゆっくり滑るように動くと、少年の目の前で静かに止まった。

 

 少年は、少女が差し出した手が、何を意味しているのか分からなかった。小刻みに震えている手、吐息とともに握り、また開くのを見つめた。少年は、静かに右手を差し出した。すると少女の右手は、求めるように少年の手を握り締めた。少年の動悸は更に高まった。今まで、触れたことのない柔らかで温かいものに感じた。

 その手の感触は、フォークダンスでの女の子の手とも違っていた。母の手、姉の手、ましてや父の手とも異なっていた。少年は、少女の瞳を見つめながら、手を握り返した。強く握ったためか、少女の手は少し抵抗を示したが、少女は少年に美しい微笑みを見せていた。

 少年は、握った手を緩めたが、少女は少年の手を離そうとしなかった。間もなく少女は目を閉じ、少年も目を閉じた。少女の吐息の音がする度に、手が強く握られるのを少年は感じた。次第に、少女の吐息も軽くなってきた。

 暫くすると、少女の反応は薄くなってきた。少年は、少女が眠ったのだと思った。少女の手を胸元に置くため、動かそうとした。急に少女は、強く手を握り締めた。そんなことが二度程あったが、最後にその反応もなくなり、少年は少女の手を胸元に置いた。 静かな呼吸をする少女、その寝顔と首筋を間近に見て、少年ははっきりと異性というものを感じた。

 

 少年は、カーテンに当たる強い日差しの中で目を覚ました。病室は、まだ静かだった。少年は、いつものように枕元に置いてある単行本を取り上げて、ページをめくり始めた。急に思いついたように少年は、少女の方を見つめた。少女は、大きな瞳で少年を見つめ、驚く様子もなかった。

 少年は、少女の顔に赤みが帯び、健康そうな美しい顔立ちになっているのを見て、微笑んで見せた。そして、少女の瞳の中に、少年を受け入れてくれそうな優しさを認めた。少年の動悸は、激しくなり、顔が熱くなって赤らんでいくのを感じた。

「夜中は、どうもありがとうございました。」

少女は、小さな声で少年に言った。少女の顔も一層赤みを帯び出した。少女は、毛布を顔近くまで引き上げると、クルッと反対の方に向いてしまった。

 少年は、スーと気が抜けていくのを感じた。そして上を向いて、いつものように単行本を読み始めた。

「嫌われたのかな。一週間なんて、直ぐ過ぎてしまうさ。」

誰にも聞こえないような微かな声で、少年は呟いた。しかし少年の心は、幸福で一杯になっていた。反対を向いた少女の黒髪から少し見える耳朶が、ひどく紅くなっていたのを少年は知らなかった。