リンク:TOPpage 新潟梧桐文庫集 新潟の風景 手記・雑記集 「転校生と野球」
佐 藤 悟 郎
彼が北国の町にある、江北高校に転校してきたのは、高校二年生の六月だった。物静かに勉強をする、優秀な生徒だった。四月に父が職場の異動で、この町に赴任した。母も一緒の引っ越しだった。前の南海高校では、野球部で二年生になるとエースピッチャーとなった。四月からは、父の職場で上司だった野中部長の家で世話となり、野球を続けていた。野中部長の家には、野球に熱中している、中学生の息子がいた。 夏の大会を間近に控え、監督と折り合いが付かず、彼は退部となった。父母を追うように、この北国の町の江北高校に転校したのだった。彼は、高校での野球を諦め、大学へ進学して、再び野球をやり直そうと思っていた。大学受験の勉強を精力的に進めていた。 夏になって、テレビでは全国高校野球選手権放送が流れていた。前の南海高校も全国大会に出場しているのは知っていたが、見る気にもならなかった。北国のこの町は、盆地で蒸し暑かった。体のだるさを感ずるのは初めてだった。運動をしないことから、体が鈍っていると思った。
彼は、部屋から外を見ると、小高い丘が目に入った。適度な運動が出来るかも知れないと思い、その丘の周辺を歩いた。丘を巡る道があり、坂も階段もあった。丘の頂は、「舟山公園」と標示された公園となり、緑の多いところだった。公園の外れには、忠魂碑と戊申の役でなくなった南国の人の墓があった。走っている人の姿が散見され、彼も、その丘で運動することにした。
ある日、丘の見晴らしのきくところから町の景色を見た。丘の麓に広場があるのに気付いた。その広場で、誰かが野球をしている。その広場へ行くとバックネットがある、「舟山公園グラウンド」という名称の野球場だった。中学生なのだろう、野球の試合をしていた。見ている人は少なかったが、老人の隣に腰を下ろして試合を見た。硬球を使っており、リトルリーグかと思った。「青葉」というチームと「山彦」というチームとの試合だった。 丁度、「山彦」というチームが守備についた。隣にいた老人が、彼に話しかけてきた。 「これから投げるピッチャーは、私の孫ですよ。球が速く、中々「青葉」の打者も打てないでいますよ。将来を楽しみにしているんです。」 そう言って目を細める老人の姿を、彼は笑顔で見詰めた。老人の言った通り、直球のスピードは際立っており、数種類の変化球も持っていた。 「言われる通りですね。中学生離れしております。相手は、打てないでしょう。」 彼は、素直な気持ちで、老人に言った。
彼は、その試合が終わって数日後、舟山公園グラウンドを訪れた。先日見た「山彦」チームが練習をしていた。暫くすると、あの老人の孫のピッチャーが、彼の前に来た。 「済みません。私、横田と言います。チームで紅白試合をしたいのですが、一人足りないのです。入ってくれませんか。」 横田少年が言うのを聞いて、彼は、六十歳を過ぎと見える、監督を見た。監督は、帽子を取ってお辞儀をしていた。彼は、言われるがまま、セカンドの守備位置に付いた。中学生に合わせた、当たり前の守備と打撃をした。試合が終わると、横田少年は、彼に尋ねた。 「どこかで野球をしているのですか。」 彼は、横田少年の顔を見ると、微笑んで首を横に振った。
秋の夕方のことだった。山彦チームの練習が終わった頃、彼が舟山公園グラウンドに姿を見せた。横田少年の要望で、彼はマウンドから投げる横田少年の球を受けていた。暗くなりかける頃、横田少年の姉が迎えに来た。 「俊治、もう遅いから、終わりにしなさい。」 「分かった。もう十球投げたら、止すよ。」 彼は、横田少年の球を受け、横田少年の姉を見た。姉は、同級生の横田加奈子だった。加奈子も、彼の姿を見て分かった様子だった。投球練習が終わって、彼と横田少年は、加奈子の前に行った。 「市野くんが、野球をするなんて知らなかった。遅くまで、弟が付き合わせて、ご免なさいね。」 加奈子は、横田少年に、彼が同級生だと言った。横田少年は、彼の顔を見ながら呟くように言った。 「ふ〜ん。姉貴と同級生なのか。野球上手なのに、野球部に入っていないの。勿体ないな。でも、冬まで付き合ってもらえるんでしょう。」 彼は、笑顔で頷いた。三人は、夕暮れのグラウンドを後にし、連れ添うように歩いて行った。
北国の町に初雪が降り、舟山公園グラウンドが使えなくなった。新年を迎え、横田少年は、何処の高校に進学するのか、考えなくてはならなかった。 「何処の高校でも良いさ。野球が好きであれば、野球の強い高校へ行くが良い。」 横田少年の父は口癖のように言う。その思いは、家族の一致した思いだった。横田少年は、彼の存在が気になっていた。それは、晩秋の夕方、彼とキャッチボールをしているときのことだった。
十球程投げ終わったとき、彼は球を持ったままマウンドにいる横田少年の前まで、ゆっくりと歩いて行った。 「俊治君、もっと肘を高くして、左足を少し前に踏み出して投げた方が良いよ。」 横田少年にしてみれば、思いがけないアドバイスだった。それまでも超中学生投手と言われ、それなりの実績を重ねてきたのである。多くの地元の先輩達からアドバイスを受け、形成してきた投球フォームだった。 何者か分からない彼からのアドバイスは受け入れ難かった。彼は、横田少年の腕を掴み、腕を上下させて少し高くし、肘を少し後にさせた。 「これが俊治君に適したフォームだ。投球の時の肩と腕、肘の感覚を覚えておくのが良い。」 それに続いて彼は、横田少年の左足を掴むと、一足程前に出した。 「俊治君は、足腰が出来ている。その位前に足を出した方が良い。」 そう言って、彼は捕手の場所まで戻り、ミットを構えた。横田少年は、彼の言った通りに投げなかった。 「もっと肘を上げて、左足を、少しで良いから前に出して。」 彼は、投球する度に、同じことを言い続けた。彼が幾度も言うので、横田少年は根負けしたように思った。 「余計なお世話だ。でも煩い。一回位、言われた通りに投げてやるか。」 彼がアドバイスしたように、肘を後方に少し高く上げ、投げ込んだ。体が全体的に滑らかに動き、球に力が吸い込まれていくのを感じた。 「俊治君、良いぞ、その調子。左足を少し前に踏み込むんだ。」 横田少年は、玉を受け取ると、少し思った。 「体が、一回り大きくなったと感じた。素晴らしいアドバイスだ。足も踏み込んでみよう。」 アドバイスの通り投げてみた。球は、思いの外速くなるのを感じた。 「そうだ、その調子だ。」 横田少年は、三十球程投げ込んだ。投球練習が終わり、丁度、横田少年の姉が迎えに来る姿が見えた。 「市野さん、アドバイス有り難うございました。勉強させていただきました。」 彼は、微笑んで頷いていた。 「誰でもそうなんだ。初めてのことには、腰が引ける。でも、俊治君は、それを振り切った。素晴らしいことなんだ。これからも、多くのことがあるが、俊治君なら乗り越えることが出来るよ。」 そう言って、帰るのを見送ってくれた。その後、横田少年は、グラウンドを走り回る彼の姿を、時々振り返って見詰めた。
横田少年は、彼からアドバイスを受けてから、彼を尊敬するようになった。高校進学についても、彼の意見を聞きたいと思った。初雪が少し残る夜、横田少年は、彼の家に向かった。彼の家の玄関前に立つと、空気を切る音に続いて、「ドスッ」という鈍い音が聞こえた。横田少年は、音が聞こえてくる裏庭の方に行った。そこで彼の異様な姿を見ることができた。 手作りのマウンドから、ネットに貼った的に向かって、投げ込みをする彼の姿だった。球の速さ、重さは、自分の球など比較にならない程威力があると、横田少年は思った。二十球程の投げ込みを終わると、彼は家の中に消えて行った。 「あんな球、誰も打てない。」 横田少年は、そう思うと、彼の家を訪れずに、家に帰っていった。
横田少年が家に帰ると、夕食の整った食卓に座った。 「こんな夜、何処へ行っていたの。」 と、母が小言がましく言った。 「近くを散歩してきたんだ。俺、江北高校へ行くよ。」 横田少年の言葉に、両親、それに姉の加奈子が唖然とした。姉の加奈子は、文句がましく言った。 「俊治、そんなことで良いの。野球続けたいんでしょう。江北高校なんか、野球が弱いのよ。そんなことでどうするのよ。」 横田少年は、姉の言葉を右手で振って、何ともないという風に言った。 「弱ければ、強くすれば良い。とにかく江北高校へ行くことに決めた。」 そう言うなり、横田少年はご飯を食べ始めた。横田少年は、彼を尊敬し、彼の近くに寄り添いたかった。喩え、彼が野球部員でなくとも、良いと思った。そんなことを家族に言っても、到底理解してもらえないと思った。
横田少年は、違うことも考えていた。彼が江北高校の野球部員となれば、県大会を優勝するのは、江北高校である。野球の強い高校に行ったとしても、全国大会に行くことはできない。全国大会に行く道は、江北高校以外にないと思った。彼に続くのは、自分であると思った。とにかく、尊敬する彼の力を吸収したいと思ったのだった。
雪が積もり、屋外での野球の練習ができなくなった。彼は、勉強の傍ら、毎日体を鍛えることも続けた。時には、バッティングセンターへ行き、感覚の維持にも努めた。時には、横田少年と顔を合わせる。 「市野さん、ナイスバッテイングです。」 横田少年は、そう言って声をかけ、自分のスイングのアドバイスを求めた。 三月も中旬が過ぎた頃、彼がバッティングセンターで練習をしていたところに、横田少年が姿を見せた。彼は、練習を止めて、缶コーヒーを二本買い、一本を横田少年に渡し、ベンチに座った。 「高校の入学試験、江北高校受かりました。チームの五人も、江北高校に受かりました。皆、市野さんの高校へ行きたいと言っていました。」 彼は、横田少年の顔を見て、微笑んだ。 「親達は、反対していたようですが、市野さんと野球がやりたいと言って、江北高校と決めたようです。」 彼は、天井を見上げた。少し考えてから、横田少年を見詰め、力なく言った。 「私が野球部に入って、野球ができるかどうか、難しい。」 転校生が、他校の野球部に入って、喜んで迎えられるとは思っていなかった。チームの団結を崩すのではないかと思った。 横田少年は、彼の曖昧な返事を聞き、家に帰ると姉の加奈子に相談があると言った。 「市野先輩に、野球部に入るように頼んでくれないか。」 加奈子は、首を横に振った。 「私から言えないわ。市野くんは、とても成績が良いのよ。勉強を邪魔するようなことを、頼めないわ。」 と、はっきり言った。 「でも、市野先輩がいない野球部なんて、意味がないんだよ。同級生なんだろう。頼んでみてくれよ。」 そうまで言われて、加奈子は俯いた。何か、方法がないかと思った。 「俊治、良い方法があるか、考えてみる。でも、難しいな。」 と、俯いたまま部屋を出て行った。
まだグランドに雪の残る四月、彼は三年生の新学期を迎えた。彼の教室に、入学式を済ませた横田少年等五人が入ってきた。 「市野先輩、よろしくお願いします。」 彼は、立ち上がって返礼すると 「青柳先輩を紹介する。」 彼は、五人を江北高校で捕手をしている、同級生の青柳の前に連れて行った。 「青柳君、野球部希望の五人だ。」 そう言って紹介した。五人は一人ずつ名前を言い、最後に揃って青柳にお辞儀をした。 「みんな、リトルリーグの正選手じゃないか。懐かしいな。俺もリトルリーグ出身だから、みんなを知っている。俺を忘れていないだろうな。頼もしいが、君達が期待するような野球部ではない。先輩なんか気にするな。活躍を期待している。」 再度、五人がお辞儀をすると、青柳は付け足すように、傍に座っている加奈子に声をかけた。 「横田さん、俊治君に言うことはないか。」 加奈子は、顔を赤くしながら、青柳に向かってお辞儀をした。 「青柳さん、みんなをよろしくお願いします。」 そう言い終わると、五人に向かって言った。 「もう、歩き出したのよ。後悔なんか無用よ。前に向かって頑張ってね。」 言い終わると、加奈子は俯いてしまった。青柳は、加奈子の心を察していた。 「今、横田君の姉さんが言った通りだ。俺は、リトルリーグから一人でこの高校に来た。他の高校を蹴ってだ。俺一人じゃ、どうにもならなかった。でも、君達は五人で入ってきた。何とかなるはずだ。」 青柳は、素直な気持ちを言った。五人が教室を出て行くと、青柳が彼に言った。 「市野、何でお前、リトルリーグの彼らを知っているんだ。」 彼は、少し笑いを浮かべた。 「俺、彼らの仲間になって、野球をしていたんだ。球拾いだったがな。」 彼は、そう答えた。青柳は、幾度も頷きながら、彼を見詰めた。
彼は、遠く四国から北国のこの地に来た。積もった雪が消えず、野球をするには大変だと思った。彼は、放課後になるとグランドに出て、いつも野球部の練習を見つめていた。雪を割った狭い通路で、上級生部員がキャッチボールをし、下級生部員が雪割をしていた。勿論、新しく入った横田少年等、五人も雪割をしていた。 「君、去年来た転校生だな。野球やりたいのか。」 野球部の監督に声をかけられ、彼は明るい瞳を返した。監督は国語の教師だったが、加奈子に頼み込まれて、機会を捉えて、彼に声をかけたのだった。 「はい、できれば一緒にやりたいのです。」 彼は、はっきりとした声で言った。三年生や二年生の上級生が、二人の方に冷たい視線を投げるのに、監督も気付いていた。 「君は、もう三年生だな。この学校の野球部は、部員はそう多くないが、厳しい野球で知られているんだ。夏に向けての選手も、大方決まっているんだ。」 監督がそう言うと、彼の顔に翳りが差し、項垂れて少し考えた。 「試合に出られなくてもいいんです。私は、それほど野球が上手ではないんです。ボールを握りたいんです。」 彼は、再び明るい顔を取り戻すと、はっきりした声で答えた。 「そうか、ご覧のとおり、グランドはまだ雪の山だ。皆と一緒に、雪消しを手伝ってくれるか。」 監督の言葉に、彼は生きいきとズボンを捲り上げ、持ち慣れないスコップを持って、下級生部員の中に入っていった。横田少年は、スコップを肩にかけて歩いてくる彼を見て、喜びを隠すことができなかった。
グランドの雪も、春の校庭を作るため、急に消えてゆき、校庭の周囲の桜も、一斉に咲き乱れた。彼は、下級生の中に入り、野球の練習をした。球拾い、キャッチボール、上級生の練習が終わってからの一年生の練習だった。勿論、上級生は引き上げ、夕暮れは間もなく訪れた。 「私は、チームの一員となることはできない。試合には出られない。」 彼は、常にそのことを心に教えていた。一年生部員と、楽しむように野球をしていた。間もなく、三年生と言うことで、上級生グループに入り、練習をするようになった。他の部員より抜き出るプレーをできるだけ制撫をしていた。自分のために、チームが壊れては大変だと思っていたのだ。ただ、野球を続け、勉強をして大学に行けば、また、そこでも野球ができるはずだと思っていた。
田舎町の、伝統のある古い校舎の教室に入り、彼は温和しい生徒だった。女子の少ない進学組の同級生の青柳と、時々話を交わした。彼の学力は優秀であり、どの科目もクラスでトップクラスだった。難しい問題でも、簡単な問題でも、常に八十五点から九十点の間を保っていた。平均的な実力からすると、最も学力の優れている一人に数えられる学生だった。 この高校の野球の歴史といっても、輝かしいものはなかった。周囲に強豪チームがあり、選手も中々集まらなかった。春の試合があり、彼も、三年生と言うことでベンチに入ることになった。彼は、その話を聞いて、青柳に言った。 「転校生は、一年を過ぎないと公式戦に出られないだろう。ベンチに入るのは、問題になるよ。」 青柳は、平然と答えた。 「そんなこと、分りゃしないよ。県の野球連盟は、江北高校なんか見過ごすさ。」 捨て鉢にも聞こえる青柳の態度に、彼は江北高校野球部の空しさを感じた。 「でも、分かって処分を受ければ、夏の大会に悪い影響が出る。代わりに、一年生を出すようにしてくれないか。」 青柳は、少し考えた。 「それもそうだな。一年生の実力を見せてもらうか。」 青柳は、そう言うと監督と主将の野口に話した。監督は、国語の先生だったが、野球連盟の規則などは知らなかった。 「そんな規則があったのか、知らなかった。一年生の横田をベンチに入れるか。」 監督が言うと、主将の野口も言った。 「それもそうだな。神田は、打たれ放しだからな。横田の実力も見たいからな。」 監督と主将野口の一致した意見で、春の大会では、横田少年がベンチに入ることになった。 初戦は横田少年が先発を務め、良く相手打線を抑え、勝つことができた。二回戦では、三年生の神田が投げて、滅多打ちとなって大量点を奪われた。六回から、横田少年がリリーフをして、相手を押さえ込んだが、後の祭りで敗れた。
夏に向けての練習は、特に厳しくなっていったが、一年生に比べると上級生の気迫が感じられなかった。監督は、野球に関して素人だった。野球の技術的な知識は、皆目ない状態だった。野球とは、勉強の合間の楽しみ位にしか思っていなかった。放課後になると、加奈子は心配そうにグラウンドを見詰めることが多くなった。野球に興味のある一年生の男女の生徒が、暑い中でも見に来ては声援を送っていた。それは、リトルリーグで活躍した五人への声援でもあった。
夏の大会も間近となり、練習量も多くなった。彼は、放課後、ユニホームに着替え終わった頃、教務室に呼ばれた。 「君、野球から手を引いて、勉強に専念したらどうだ。その方が、君のためになる。」 彼は、担任の先生からそんな注意を受けていた。彼は、理由も告げず 「野球は、勉強より好きなんです。」 と言うと、一礼して担任の先生の前から立ち去った。その足でグラウンドに行くと、主将の野口と青柳に呼ばれた。 「市野、お前は、リトルリーグでやっていた五人をどう見ている。俺達は、上級生より上手で、一生懸命に練習をしていると見ている。試合に使えると思っているが。」 と主将の野口が言った。更に、青柳が 「監督が言う、楽しんで野球をやれば良い。勝ち負けに拘るな。そんな言葉なんか、糞食らえと思っている。夏の大会では、できるだけ勝ちたい。そう思っている。」 そう言って話を続けた。彼は、二人の顔を見た。真剣な顔だった。 「一年生の五人は、試合に使えるだろう。今の上級生より、遙かに活躍すると思う。」 彼は、思ったことを素直に述べた。彼の言葉に、主将の野口と青柳は頷いた。
夏の大会も間近になったある日、野球部の紅白試合が行われた。上級生と下級生を監督が選り分け、試合を行うものだった。彼は、一年生チームに加わった。横田少年が投げ、彼はセンターのポジションに着いた。堅実な外野守備をするほか、何も目立ったところはなかった。横田少年は、良く投げたが、狭いグラウンドで、青柳にホームランを打たれた。その一点差のまま回も押し詰まり、彼のチームに逆転のチャンスが訪れた。一点差で、ランナー二塁、三塁というところで、彼がバッターボックスに入った。彼は、ヒットを打っていなかった。バントやファボールを選んでいたのだった。 「おい、精一杯打つんだぞ。」 キャッチャーをやっている、青柳が彼に声をかけた。ど真ん中の球が来た。彼は見送った。二球目もそうだった。同級生の青柳は、マスクを脱ぎ捨てると、彼の前に立ちはだかった。そして、震える手で彼の胸倉を押さえた。 「一体どうしたというんだ。人を馬鹿にしているじゃないか。何故打たないんだ。」 「俺は、まだ打てないんだ。」 「俺の目は、節穴じゃないんだ。小さいころからキャッチャーをしているんだ。君がその辺にいる、愚図な選手でないことくらい、見分けはつくんだ。どんな理由があるか知らん。打たないなら、野球を止めろ。」 彼は、静かに同級生の青柳の顔を見つめていた。その様子を見て、監督が走り寄ってきて、青柳の手を下ろさせた。他の選手たちは、何故、二人が言い争っているのか分からなかった。 「市野、俺達は高校生なんだ。青春の野球に、遠慮も何も要らん。他の部員にも、遠慮することも要らんのだ。」 そう言うと、同級生の青柳は、マスクを拾い上げてポジションに戻った。監督が引き上げた。彼はバッターボックスに入った。 「悪かったな。打つぞ、見ておけ。」 彼は、同級生の青柳に言った。一球ボールを見送った後に強打し、左中間を破る二塁打を放った。そして、彼のチームは勝った。
夏休みに入って、直ぐ夏の大会が始まった。彼と一年生五人がベンチに入った。三年生主体のオーダーは、江北高校野球部の伝統に近かった。一年生部員をそれぞれポジションに着けた。伝統を破るオーダーは、主将の野口と青柳が、監督に強く要望したためだった。神田は、体調が悪いと言って、試合会場に来なかった。マウンドに上がったのは、横田少年だった。彼は、レギュラーとしてではなく、ベンチから試合を見詰めていた。初戦は無難に勝ち、二回戦も勝った。 二回戦が終わり、彼が横田少年にアドバイスしているのを、青柳は聞いていた。三回戦は、優勝候補の一角をなす、中埜高校との試合である。三回戦に向けての高校のグラウンドでの練習が終わった。 「君は、本当はピッチャーなんだろう。」 グラウンドを後にして、彼と青柳が連れ立って歩いているとき、青柳がそれとなしに彼に聞いた。夕日が傾き、西の空が焼けていた。彼は、黙っていた。彼が考え込んでいる顔を見て 「疲れた。甘いものでも食べよう。」 そう言って、高校生が多く出入する食堂に入った。二人は向かい合って、氷水を食べていた。他のクラブの部員も、下校途中で多く入っていた。 「青柳君、今日も勝ったって。おめでとう。次の試合、応援に行くから。」 日焼けした黒い顔で、均整の取れた健康そうな女子生徒が間に座り、その連れらしい女子生徒も向かいに座った。 「紹介するわ。二年生の坂西さんよ。体操部にいるの。」 黒い顔をしたのは、陸上部の山田だった。山田は、二人に坂西を紹介した。 「坂西先輩の妹さんだろう。先輩、元気でやっているかな。」 青柳は、気軽に下級生の女子生徒に声をかけた。低い頭を一層低くして、頷き、チラッとその女子生徒は彼の顔を覗いた。彼も、軽く会釈をして、美しい女子生徒と思った。 「兄は、元気でやっています。大学の野球部って、とても厳しいって。とても、選手になれそうもないって。」 「それもそうだな。強い大学だから。部員も大勢だからな。」 青柳はその女子生徒の兄、坂西先輩が投打に活躍した選手であることを話した。誰もが口にしなかったが、青柳は平気で口を切った。 「次の試合は、君が出てもらう。頑張ってほしい。他の選手のことは、考えないでくれ。中埜高校は、優勝候補なんだ。実際、うちのチームでは相手にならんだろう。」 彼も、次の対戦校が、県内の野球の名門で、今年も優勝候補ということは知っていた。一緒にいる女子生徒は言葉少なく 「大丈夫よ。」 と言うだけだった。
三回戦の試合が切って落とされた。中埜高校はエース投手を出さずに、控え投手がマウンドに立ち、試合が始まった。江北高校は、横田少年がマウンドに立った。押され気味で試合が進んでいるのを、彼はベンチで見ていた。五回になって、三対〇となった。そしてチャンスが訪れた。相手ピッチャーのコントロールが崩れ、二死満塁となった。 「監督、代打に市野を出してください。」 青柳は、監督に言った。監督は黙っていた。青柳は、監督の前に行ってしつこく言った。もう、横田少年が打席に入っている。 「監督、勝ちたいんだ。全国大会に出たいんだ。市野なら、やってくれる。」 「青柳、そんなことを言ったって、チーム全体のことも考えなければならん。ピッチャーに代打を出せないくらい、お前にも分かるだろう。」 青柳は、一瞬黙ってしまった。そして、彼の顔を見た。 「市野が投げる。市野の球が早いことは、監督も守備を見て知っているだろう。」 他の選手は、ただ沈黙している中で、彼の意志は、その瞳に輝いていた。 「市野、試合に出て勝てるか。」 監督は、彼に向かって言った。彼は頷いた。監督は、選手交替を告げた。代打、市野の名前が場内に響いた。何の拍手も起きなかった。打席から横田少年が走ってくる。 「済みません、三点も奪われて。」 すれ違うとき、横田少年が、彼に言った。 「球が上ずってきた。肘が下がってきたからだ。後は任せろ。体を休めろ。」 そう答えると、彼は打席に向かった。
相手チームから野次が飛んでくる。彼はピッチャーを見据え、一球を見送った。長打を打てると思った。二球目、早いが甘いコースに球が来た。彼は、バットを振った。確かな手応えが、全身に伝わってきた。応援団の割れんばかりの拍手と喝采が起きた。逆転満塁ホームランだった。彼は、ホームベースに駆けてきたとき、青柳の両手を高く上げている姿が見えた。応援席に、狂喜するあの二人の女子生徒の姿も見えていた。ベンチでは、ナイン全てが握手で迎えてくれた。 「俺、転校生だけど、試合に出してくれた。これからも、よろしく。」 そう言って、彼は、ベンチにいる皆に頭を下げた。 「やっぱり、俺達は勝ちたいんだ。立派な、わが校の生徒じゃないか。」 主将の野口が笑いながら言った。すると、ベンチの中で突然拍手が渦巻いたのだった。
相手高校は、急遽エースを繰り出した。球は走っている。空振り三振で、守備に入り、彼はマウンドに立った。青柳が彼に近づいた。 「市野、球種はいくつ使える。」 「直球とカーブとシュートだ。」 「それだけあれば沢山だ。順々に投げてみてくれ。」 彼の胸は、少し熱くなった。転校生で、マウンドを踏めるとは思ってもいなかったのだった。彼は投げた。体も軽く、足場も安定していた。投球練習が終わり、青柳がサインの打ち合わせのため寄ってきた。 「お前、前の高校でエースだったな。この辺の選手じゃ、お前の球を打てないぞ。何処の高校だった。」 別れ際に青柳は言った。彼は、答えるかのように 「四国の南海高校だ。前のことはどうでもいい。俺は、この学校のエースになるんだ。」 青柳は、肩を叩くとニャッと笑みを浮かべた。 「あの南海の、一年生でエースピッチャーの市野なのか。皆驚くぜ。甲子園に行けるな。頼むぞ。」 そう言うと、青柳は意気揚々とポジションに戻って行った。青柳の言ったとおり、彼の球を打てる選手は、相手校に少なかった。
それからの彼の江北高校は、チームカラーがガラっと変わってしまった。先発投手を横田少年とし、守備に一年生を起用して、自信と余裕が生まれ、大胆な攻撃力を持つようになった。守備は洗練され、よくまとまり、一戦ごとに強いチームへと変わっていった。市野を背後に据えて、投打のバランスが取れたチーム、県内でこれと互角に戦える高校はなかった。
横田少年は、家に帰ると少ない時間であるが、勉強をするようになった。 「どうしたのよ。急に勉強するようになって。おかしくない。」 加奈子が、からかうように言った。 「市野先輩は、成績が良いんだろう。俺は、市野先輩を見習いたいんだ。大学に行くのだって、勉強しなければ入れない。当たり前のことだろう。」 横田少年は、素直に答えた。
県大会で優勝し、全国大会への出場が決まった。夢にまで見た甲子園出場に、選手も町民も浮かれ騒いでいた。 「南海高校も出てくるのか。難しい試合になりそうだ。」 彼だけが、静かに全国大会に向けて思いを馳せていた。彼は、南海高校で監督と意見が合わず、追われるように転校してきたことを思い出した。 「貴様のような生意気な野郎がいなくても、南海はやっていけるんだ。誰のお陰で、貴様は野球をやれたんだ。」 耳に焼き付いている南海高校の監督の声が聞こえた。彼は、澄んだ夏空を仰いだ。 「私は、野球は高校生活の一部と思っています。合宿して、一日中生活や野球そのものまで管理して、野球をやらせることは間違っています。」 彼には女友達もいたし、勉強もやりたかった。父が転勤した後も、父の職場の上司の家の世話になり、通学していた。学校に近い合宿所に入れと言われ、反発をして監督の怒りを買ったのだった。
野球だけが、果たして高校生活なのだろうかと、彼は疑問を持った。二年生の六月に退部となり、直ぐに転校してきたのである。 「あの監督は間違っている。そんなことをしても本当に良い選手は育たない。強制だけでは技術が死んでしまう。自由で広い心や意思のない選手は、成長が止まってしまう。」 彼は、そう思い続けた。彼は、大学へ行くまでボールを握りたくはなかった。しかし、雪国の高校で、雪と戦いながらひたむきに野球をやっている姿を見て、体が動いてしまった。自由な空気の中で、一見して楽しく明るく、自由に活動しているチームを見て、高校生の野球はこれで良いのだと思った。目の前に試合があれば、まとまって全力を尽くして戦うこと、力不足であれば、それを思ったものが一人で努力すること、それらのことが尊いことなのだと思った。
全国大会に向け出発の日がやってきた。彼らは車中の人となった。彼は坂西先輩の妹からお守りを贈られ、青柳も陸上部の彼女からの贈り物を手にしていた。 「おい、甲子園で一勝はできるかな。」 彼は、そう言う青柳を笑って見つめた。 「見ろよ。先輩の妹、優勝祈願だってさ。神通力があれば、優勝できるさ。」 青柳は、彼の明るい笑顔を見て、笑い出した。勝負は、時の運であり、戦ってみなけりゃ分からないと言う腹積もりだった。 一回戦の組み合わせ抽選が行われた。思いの外、江北高校は、雪の多く降る隣県の高校と対戦することとなった。勝ち進めば、シード校で、四国の南海高校と対戦することなる。開会式の予行演習と開会式、彼は南海高校の顔見知りの選手に声をかけた。ただ手を上げて顔を背ける者、応答もしない者、無関心というより彼に対して素知らぬ振りをしている者がほとんどだった。彼は、彼等の中に暗い高校生の姿を見た。悪意に満ちた闘魂に育てられ、そんな姿を見せるのは当たり前だと思った。
一回戦は、県大会と同じく横田少年をピッチャーに据え、一年生を内野手二人、外野手一人の三人を入れた布陣で臨んだ。彼は、ベンチで試合を見詰めた。横田少年は、彼のアドバイスを守り、力投していた。青柳の思わぬ長打で勝ち進んだ。二回戦は、彼が待っていた南海高校との試合だった。 「難しい試合となるだろう。でも、負ける訳にはいかない。」 彼は、心を引き締め、相手のオーダーの一人一人の顔と特徴を思い出した。試合の前の日になって、夜のミーテングがあった。彼は、皆の前で南海高校のことを話した。 「南海高校は、監督一人の野球しかやっていない。確かに技術は優れている。でも、応用の利かない堅い野球だ。監督は、選手を缶詰にしてチームを築き上げた、暗いチームだ。精神的な長所は、持ち合わせてはいない。」 彼は、更に続けた。 「私は、監督の教育の仕方が好きではない。嫌っているし、あんなことを止めさせなければならない。私は、監督に南海高校の野球部を追われたのは確かなことです。南海高校の監督の考えを、どうしても直したい。明日の試合は、絶対に負ける訳にはいかないと思っています。」 彼が南海高校の監督を罵倒するのを、みんなは物珍しそうに聞いていた。彼は、少し言い過ぎたと思い、俯いた。 「四国の南海と言えば、伝統校で強いんだろう。今年の実力は、こっちより上なのか。」 キャプテンの質問に、彼はハッとした。雪国の高校と南海高校の実力を比べる自体が誤っていると思った。 「正直言って、実力は南海の方が上だ。でも、実力どおりにいかないのが野球だ。やってみなけりゃ分からない。」 彼は正直に言った。皆は諦め顔して、笑って寝転んでしまった。 「一回勝ったんだからいいじゃないか。早く寝ようぜ。明日は、しんどい試合になりそうだ。」 青柳がそう言うと、皆はそれぞれ床に入った。彼は、皆が戦意をなくしたものと思った。
南海高校との試合が始まった。一回戦から日の間隔もあり、横田少年を先発として登板させた。試合は、後攻めとなり、横田少年は落ち着いたマウンド度胸を見せた。 「私も、甲子園で一年生ピッチャーとして投げた。慌てることなく、投球間隔に注意することだ。投げる度に、体が慣れてくる。俊治君の球なら、立派に通用する。」 彼は、マウンドに向かう横田少年に、そうアドバイスをして送り出した。 南海高校は、彼が先発するのを予想していた。無闇に、速球打ちの練習だけをしたのだった。緩急をつけ、コースを突いた投球は、彼の剛速球主体のピッチングとは、大きく違っていた。ゼロが続いた。南海高校の全てが、首をかしげて打席を去って行く。ヒットがあっても、連打することができなかった。 「監督は、困惑している。選手も覇気がなくなっている。」 彼はそう思った。 七回を終わっても、ゼロが続いた。彼は、横田少年の直球が上ずってきたのを感じた。南海高校の打者は、ようやく横田少年の球筋に慣れて、直球に的を絞った打撃を始めた。そして連打を浴びて、ワンナアウト一・三塁となった。青柳がマウンドに近寄り、横田少年と二人で、江北高校のダッグアウトを見詰めている。それを見た彼は、監督に言った。 「私が投げます。俊治は疲れています。俊治と交代させてください。」 そう言うなり、彼はグローブを持ち、ダッグアウトから出た。 「選手の交代をお知らせします。ピッチャー横田君に代わって、市野君。」 そのアナウンスに、球場は響めいた。彼が投球練習を始めると、一球毎に歓声が上がってくる。南海高校の監督は、彼の投球練習を静かに見詰めていた。 「あの時より、遙かに球が速く、重くなっている。打つのは難しい。打撃練習は、無駄だった。」 バッターは、バントの構えをした。彼は、速球を投げ込んだ。バットが弾き返され、球は浅いピッチャーフライトなり、打者は尻餅をついてしまった。彼はフライを捕ると、ゆっくりファーストに投げた。一瞬の間に、スリーアウトでチェンジとなった。
彼は、悠然と南海高校のダッグアウトを見詰め、そして小走りに江北高校のダッグアウトへと走って行った。 「俊治、えらく疲れたようだな。」 彼は、ダッグアウトに戻るなり言った。彼は選手を見渡した。全員が、横田少年を心配そうに見つめていた。 「俺、だいぶ相手のピッチャーの球に慣れてきたよ。先に行ってくる。」 そう言うと、キャプテンの野口がバットを取り、バッターボックスへと走っていった。 「さあ、俊治、ベンチの上に伏せろ。皆でマッサージだ。」 打席に立ったキャプテンは、いきなりセーフティバンドを決めて一塁に出た。場内が湧いた。 「どうしたんですか。」 横田少年は、青柳に聞いた。青柳は、笑って 「きれいな内安打さ。思い余ってひっくり返って、爆笑の喝采さ。」 と言いながら、横田少年の肩を揉み解していた。キャプテンは果敢に盗塁を決め、バントで三塁に進んだ。バッターボックスに入った青柳は、スクイズ態勢に入った。スクイズが成功する確率は少ないと思いながら、彼は見つめていた。
彼は、自分の出番が二つ後で、回ってこないと思った。ピッチャーが投げる態勢に入った。サードとファーストが勢いよく前進してくる。青柳は、とっさにバットを持ち変えると、球に合わせるように三塁方向に打った。球は、転々とレフトの前に転がった。キャプテンが踊り込むようにホームベースを踏んだ。 彼は、笑顔で青柳を見た。青柳はガッツポーズを見せていた。彼はバットを持ち、ネクストサークルに向かった。キャプテンは、すれ違い様 「後は、お前に任せた。気楽にやってくれ。」 と、彼に声をかけた。彼は思った。自由な雰囲気で野球する、お互いが信頼し合い、試合をする気持ちに誤りがないと思った。野球は、良くても悪くても全員でしなければ駄目だと思った。 彼は、バントで送られた青柳を返すべくバッターボックスに入り、ミートを心がけようと思った。ピッチャーの深刻で悲愴な顔が見えた。怯えているのだ。一緒に練習した、気の小さなピッチャーである。練習のほかに精神的な修養が先決であると思った。
彼は、恐れながら投げる球を良く見つめ、力一杯バットを振り抜いた。実に簡単に球はスタンドへと飛んでいった。最終回、彼の投球は、凄まじい程の速度があり、切れ味があり、球が生き物のようにバッターの前を通り過ぎていった。最後のバッターが涙を光らせているのが、彼には分かった。何のために泣いているのだろう。きっと清らかな涙だろうと思った。
試合が終わり、二度目の校歌を聞き、彼は味方のスタンドに挨拶を済ませた。 「市野、南海高校の方に挨拶に行け。どうあろうと行くべきだ。」 キャプテンの野口と監督は、大声で言った。彼は報道陣が来る前に、南海高校のベンチへと走っていった。南海高校の監督は、ベンチに座ったままだった。彼は深い礼をした。 「市野、よく来てくれた。一回り大人になったな。お前、横田を立派に育てたな。リトルリーグ全国大会を見て、二月に誘ったのだったが断られた。市野先輩と一緒に野球をする、それが答えだった。これからの試合、頑張ってくれ。」 そう言うと、監督は立ち上がり、彼と固く握手した。そして、小声で言った。 「お前を手放した俺が悪かった。お前の言っていたことは、正しいことだったと思う。今年の選手の能力を見て、やれもしないことを鬼になったつもりでやってしまった。皆に済まんと思っている。」 彼は、それを聞くと目の裏が熱くなってくるのを感じた。喉が詰まり、声が出なかった。南海高校の選手の一人が言った。 「市野、頑張れよ。俺達の分まで頑張ってくれ。」 その声を聞いて、顔見知りの者が、泣き声で市野を呼び続けた。彼も熱い涙が頬に流れるのを感じた。 「頑張れ!頑張れ!市野!」 南海高校の応援団スタンドから、三・三・七拍子が聞こえてきた。彼はその前に出て、深く頭を垂れた。多くの同級生だった学生、親しかった友達の姿が、金網の向こうから声をかけてくるのが見えた。これらが全て、青春の雄叫びであり、全てに誤りはなかったのだと、彼は思った。
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