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「山の恩人」

 

                          佐 藤 悟 郎

 

 

 東京オリンピック、新潟地震が過ぎ、学生運動が、くすぶり続けていたが、少し落ち着いた頃の話しである。北国の県の中央に位置する、地方都市に冬が訪れていた。


 京助は、警察官である。交通事故係のせいか、市内の病院に立寄ることが多かった。彼は、巡査部長で独身だったが、それでも部下の結婚相手を捜すのも仕事の内だった。彼は、市内のある大きな病院を訪れた。部下が、その病院の娘、女医であるのだが、好きになったのだった。
 彼は病院に入ると、娘の兄で外科医をしている宗徳の診察室へ行った。宗徳は、患者を追い払うように診察を終え、笑顔で京助を迎えた。
「先生、忙しいところ、少し時間をいただけますか。」
京助は、交通事故などで宗徳とよく会うのだが、その他にも夜の巷で、よく一緒になり深酒をして、宗徳の家に泊まったり、京助のアパートに引き連れたりの親しい間柄だった。
「じゃ、下の食堂へ行って話すか。美味い物はないかも知れんが。」
二人は、つい先日一緒に飲んだ、バーのママの話をしながら歩いた。

 食堂に入ると、丸いテーブルに向かい合って腰掛け、コーヒーを手にした。馬鹿話をした後に、京助は話を切り出した。
「先生、妹さんを嫁にくれませんか。」
宗徳は、突然の思いもよらぬ彼の言葉に、コーヒーをこぼしてしまった。彼は、暫く京助の目を見て、笑い出した。
「とうとう、君も所帯を持ちたくなったのか。しかし、俺の妹は、中々ウンとは言ってくれんぞ。妹さえ、その気になれば、俺は大賛成だぜ。」
「先生、勘違いをしてもらっちゃ困ります。私は、先生同様の独身主義者ですよ。部下に、えらく妹さんに執着している者がいましてね。どうか、先生、妹さんに聞いていただけませんか。」
宗徳は、テーブルに置いていた手を横に振り、とても駄目だという様子を見せた。
「駄目だね。君のことならともかく、私は嫌だね。まるっきり、話してみる価値がないよ。妹は、あれでいて鼻ぱっしが強いんだ。市のお偉い方や医者仲間からも話はいっぱい来ているんだ。先日なんか、写真を持っていって、目の前に出すや否や、いきなり投げ飛ばしたんだ。言い草がいいんだ。
…私は、結婚なんて考えていません。分かっていることでしょう。…
て言うんだぜ。何を考えているか分かりゃしない。今度同じ手を使おうもんなら、殴られるのが落ちだぜ。」
京助は分かったという風に頷いた。

 宗徳の妹の名前は由美と言う。宗徳の妹が山岳遭難に合い、一緒のパーティで助かったのは、彼女一人だけだった。現場で彼女を助けた山男は、名も告げず立ち去ったという。それ以後、彼女は
「私を助けてくれた人に、人生を預けるしか道はない。」
と言うだけで、男の話は聞き入れなかったという。
 京助は、山で宗徳の妹を助けたのを覚えている。敢えて誰にも言う必要はないと思っていた。
「先生、気を悪くしないでください。私も、警官と女医じゃ、釣合いが取れないんじゃないかと言ったんですが、とにかく、話だけはしてくれと頼まれて来たんです。この話は、これ位にして、先生、この間の言ったこと、私、信じてもいいんですか。」
宗徳は、妹の話が済むと、内心ほっとした表情を見せた。宗徳にとって、これ以上最悪の話はなかったのである。
「君とは、約束はいっぱいしている。どの約束のことなんだ。」
「つい先日の話ですよ。私が、医者になるという話ですよ。金を出してくれると言ったでしょう。」
急に、宗徳は、にこやかに笑い出した。
「そうだ、ただし、条件付きだった。私の病院に来てくれると言うことだった。」
「その条件は、飲む事にしたんです。それでも、いいんですか。」
「その件に関しては、私には二言はない。でも、大学は難しいぞ。」
京助と宗徳は、握手をすると、お互い手を上げて振りながら別れた。冗談と思って宗徳は別れたのだった。

 それから一年ほど経った、三月になって、京助から宗徳のところに電話があった。京助は、転勤をして、山の中の警察署に赴任しており、交際も途絶えてからの突然の電話だった。
「先生、以前、約束したことを覚えていますよね。私が医者になる話。俺、大学に受かったんだけど、本当に頼めるんですか。」
「おい、本当か、どこの大学なんだよ。」
「国立だよ。東京なんだ。できるだけ金がかからんようにしたんだ。」
「馬鹿なこと、寝言を言うんじゃない。正直のところ、どこなんだ。勿論、金は出してやるけど。」
「本当だよ。明日、新聞を見れば分かるだろう。警察に内緒で受けたんだ。金がなければ、全てがパーなんだ。約束なんだから、金、出してくれますよね。」
「本当かよ。だったら、今すぐ警察なんか辞めちゃえ。今日は、お祝いするから、直ぐに来い。日曜だから来られるだろう。」
「じゃあ、これから直ぐ行くよ。」
京助は、そう彼に電話をすると、電話を切った。宗徳は、彼が大学に行くとなると、相当な金がかかると思った。自分の手元には、そんなに金がある訳ではなかった。

宗徳は、院長でもある父のいる居間へ行った。そこには母と父、そして妹がくつろいでいた。宗徳は、父に向かって、京助の話をした。そして、当面必要な金を出してくれるように頼んだ。父は冷静に言った。
「お前は、本気でそんなことを言っているのか。馬鹿ではないのか、お前は。考えてもみろ、兄弟でもない、肉親でもない、特別恩を受けた訳でもない。馬鹿ばかしい。話にもならんよ。」
宗徳も、確かに馬鹿ばかしいことだとは思ったが、もう男の面子にかけても、後へ退くことはできなかった。父は、なおも諭すように言い続けた。
「医科の大学と言ったら、何年かかる。国立の大学といっても、ただじゃないんだ。将来、うちの医者になると言ったって、当てにならんことだ。病院の金庫から金を出すことなんか、できる訳がないだろう。お前の給料から出してやることだな。」
それ切り、父は口も利きそうになかった。宗徳は、妹に対して懇願した。妹は、宗徳を軽くあしらった。
「お兄さんの、その友達というのは、お酒の飲み友達なんでしょう。警察官だって、信用おけないわ。東京の国立の大学って、そんなに簡単に入れると思うの。お兄さんは、騙されているのよ。」
妹は、兄の友達が大学に受かった、そのものに疑いを持ち、宗徳の話に乗る様子は全然なかった。

 何も目安もつかないまま、宗徳は夕方を迎え、駅から京助の電話があると、家を飛び出して行った。二人は、駅で落ち合うと、タクシーを飛ばし、料亭に上がり込んで盛大に飲み始めた。
「お前、いやに体が弱くなったようだな。まるで病人じゃないか。」
「当たり前だろう。お前に、余計な金を出させられないから、一生懸命勉強して、いい大学に入ることにしたんだから、無理も多かったんだぜ。」
最初、二人は、芸者をそっちのけに話し込んでいた。
「親父は、金を出せないと言った。俺の給料の中から出すことにしたから、満足が行くような金は出せん。食うくらいの金は出すようにするからな。」
「当たり前だ。初めから、お前の給料だけを当てにしていたんだから。飲み過ぎて、金を送れん、なんて言ったら承知しないぞ。」
二人は、お互いの顔を見つめると、突然大笑いをして、酒を心ゆくまで飲んだ。二人が「万歳」と、大声を出しながら、病院の離れの家に帰ってきたのは、午前二時も過ぎた頃だった。

 宗徳と京助は、午前中は眠りこけていた。家の者達は、朝起きると、誰ともなく居間に集まり、新聞を見た。最後に来た妹が新聞に目を通して、黙っている親を見つめた。
「お兄さんの飲み友達にしては、異色な人なのね。立派といえば、御立派のようだわ。「万歳」って、夜も遅いのに何度言ったか分かる。私が数えただけでも二十回だわ。呆れた二人だわ。きっと、馬が合うって、二人のことを言うんだわ。」
妹は、父と母に向かって軽く言い流すと、微笑を見せて居間から立ち去った。娘の笑う顔を見て、父と母は顔を見合わせた。
「おい、あれが笑うなんて、あれ以来だな。何がおかしいんだ。」
娘は遭難して以来、笑いのない女になっていた。そんな姿をみて、両親とも苦にしていたのだった。テレビを見ても、おかしなことがあっても、悲しいことがあっても、笑いもしなければ悲しみもしなかった。

 その日の夜、宗徳の妹は、寝床に入ると、三年前に新潟のある総合病院でのインターンが終わった祝いを兼ねて、大学仲間と登山し、雪崩に遭遇したときのことを思い出した。

 山の頂の山小屋を少し遅く出発した。山小屋には、赤い帽子の若い青年が残っているだけだった。私たちが中腹まで来ると、一番後ろを歩いていた私に、赤い帽子の青年が追いついた。
「今日は、天候が良くて、良かったですね。」
と気軽に声をかけた。峰伝いの道から見る山々は白かったけれど、山の麓は黒ずんでいる。春が近くになったと思いながら、雪を踏みしめながら赤い帽子の青年と歩いた。
 少し歩くと、先の仲間たちは峰伝いの道から右に外れた山の斜面を横切る道に下りていった。その道を歩く足跡は、僅かしかなかった。赤い帽子の青年は、私と一緒に仲間の後を追うように歩いた。山を見上げて、私に言った。
「誰か、この山を知っているの。」
「ええ、先輩が、夏には三回くらい来たことがあると言って、案内してくれるの。」
「夏しか知らないの、危ないな、雪庇が出ている。」
「どういうことなの。」
私が、赤い帽子の青年に尋ねたときでした。
「雪崩だ。逃げろ。」
先を歩いていた先輩が、山を見上げて叫んだ。不気味な地鳴りがする。私は、慌てて道を戻ろうと、向きを変えるとき足が縺れて転んでしまった。赤い帽子の青年は、すぐに私を引き摺るように、できるだけ遠くへと引っ張っていった。
 凄まじい雪の流れが、雪煙を上げて、目の前を滑り落ちていった。私と赤い帽子の青年は、辛うじて救われた。
「先輩達を、助けて。」
私は赤い帽子の青年に言った。
「まだ、雪崩は終わっていない。もっと離れないと危険だ。」
赤い帽子の青年は、そう言って私に立つように促した。私は、赤い帽子の青年を見上げながら、
「右足が痛くて、立てない。」
と言った。赤い帽子の青年は、直ぐさま私の右手を取り、しゃがみ込んで、私の腰に手を回し、抱えるようにしてその場から、来た道を戻っていった。小規模な雪崩が続いていた。尾根伝いに降りる道との分岐点まで引き返した。
「ここまで来れば、大丈夫だ。」
赤い帽子の青年は、そう言って雪崩現場の方に向かった。そして間もなく戻ってきた。
「大きな雪崩だ。まだ、上に雪庇が突き出していて近寄れない。先輩達を探すのは、今は無理だ。」
私は、赤い帽子の青年の話を聞いて泣き出してしまった。赤い帽子の青年は、無言で腰をかがめて、私の右足を指で押さえていた。急に私は、叫んだ。
「何するのよ。痛い、とても痛い。」
その声で、赤い帽子の青年は手を離した。立ち上がって、鉈を取り出して太めの木を切り出してきた。
「右足、捻挫をしている。悪ければひび骨折があるかも知れない。」
そう言って、程よいほどに木を切って整え、三角巾を使って右足を丁寧に縛り固定させた。
「痛くないか。大丈夫か。」
泣き止んだ私に声をかけた。私の頷きをみて、更に赤い帽子の青年は言った。
「私が、山から最後に下りてきた。後から下りてくる人はいない。これからどうする。意見があれば、言って欲しい。」
私は、考える力も無く、ただ怯えているだけだった。赤い帽子の青年は、尻餅をついている私を見つめ、しゃがみこみ笑顔でポケットからチョコレートを取り出した。
「とにかく、これを食べよう。」
半分に分けて、一つを私の前に出した。由美は、言われるがままにチョコレートを口にした。赤い帽子の青年は、並ぶように腰を下ろした。暫く二人は無言でチョコレートを食べていた。
「私、どうしたらよいのか分からない。貴方の言うとおりにしたい。歩けそうもないもの。」
そう呟くように言う私の声を聞いて、赤い帽子の青年は、私が少し落ち着いたと感じた。
「ここは、ちょうど中間点です。上るより、下った方がよいと思います。これから下れば、夜になるまでには、下の小屋に着くと思います。ここにいては、状況が悪くなるだけです。」
赤い帽子の青年は、言った。気落ちしている私は、小さな声で言った。
「でも、私は、歩けないわ。」
 赤い帽子の青年は、私を背負っていくと言った。リュックから必要なものを取り出し、体の前袋に入れた。娘のリュックを道から少し外れた、見えにくい木に縛り付けた。長い布を出して、
「赤ん坊を背負うように、この布で巻きます。」
そう言って、私に背を向けた。私は、赤い帽子の青年の背中にすがり付くように、両手を開いて肩越しに下ろした。帯を巻き付けると、赤い帽子の青年は立ち上がり、体を少し揺すった。
「大丈夫ですか。体の痛く感ずるところはないですか。」
と、問いかけた。
「大丈夫です。」
私の答える声を聞くと、赤い帽子の青年は歩き出した。尾根の道は、先に下りた人の足跡があった。尾根には狭いところがあったが、ピッケルを使いながらゆっくりと歩いた。
 私は悲しかった。四人の先輩友人を助けることもできず、私だけが生き延びようとしている。歩けない私は、赤い帽子の青年に生命を預けるしかなかった。青年は、黙々と歩いた。歩く振動が私の体に伝わってくる。雪を踏む音が聞こえ、風邪が耳を過ぎる音が聞こえた。暫く歩くと、赤い帽子の青年は言った。
「短い距離ですが、尾根が狭くなります。目を閉じた方が良いと思います。」
私は、小さな声で「はい」と答えた。私は目を開けていた。道幅は狭く、左右の谷の深みが見え、身がすくむ思いだった。右の谷を振り返るように見つめると、雪崩の跡が大きく見えた。雪崩は、見えないところまで続いているようだった。
 狭い峰を過ぎると、左右の谷は見えなくなった。雲が流れてくる方向の空を見ると、遠くの空に低く厚い雲が空いっぱいに広がっているのが見えた。一時間ほど行くと、はだけている岩があるところに着いた。赤い帽子の青年は、立ち止まって私を背中から下ろした。丁度私が岩に腰掛けることができるように下ろしたのだった。
「下の小屋まで、半分ほど来ました。残りは山を下るだけになるでしょう。」
と言って、チョコレートを前の袋から取り出した。私に勧め、一緒に食べたのです。十五分ほど休んだ後、
「少し天候が荒れてくる様子です。でも、下の小屋までには間に合うでしょう。」
そう言って、赤い帽子の青年は、私に背を向けた。
 私を背負うと、峰から斜面を下り始めました。雪が残っており、ピッケルを使って足早に歩いて行ったのです。下の方に麓の山小屋が見えたと思ったとき、俄に辺りは暗くなったのです。道には雪がなかったのですが、強い風と共に雪が吹き付けてきました。視界が全く効かない状態となったのです。赤い帽子の青年は、法面に寄って、腰を屈め山肌をまさぐるようにして前に進みました。無理をして前に進むのかと思っていましたが、大きな岩の前で立ち止まりました。
「前に進むのは危険です。少し休憩です。」
そう言って、雪が吹き付ける方に向かって立っていたのです。私から風雪を避けさせるためだと思いました。足踏みをして、体を動かし続けている震動も分かりました。
 日暮れが来たのでしょう、本格的な暗闇が訪れました。赤い帽子の青年は、帽子に取り付けた電灯をつけたのです。暫くすると風が弱くなり、彼は雪景色になった道を前進を始めました。幾度か前進を阻まれ、その度に彼は私を吹雪に当てさせないように立ち止まりました。
「さあ、もうじきですよ。」
気が付いて周りを見ると、道は林の中となっており、吹雪は幾分収まっていたのです。私は、幾度も生命の破滅を感じていました。雪崩に巻き込まれ、そのまま雪に埋もれた友達、私も赤い帽子の青年と共に、雪に埋もれて死んでいくのかとも思ったのです。
 私は、赤帽子の青年を道連れにしてしまうのかと思うと済まない気持ちもありました。私は、マフラーの結びを解いて、顔を拭いたのです。突然強う風が吹き、マフラーは飛ばされ林の中へ迷い込んでしまいました。すると赤い帽子の青年は、自分のマフラーを外して、私の首の周りに巻き付けたのです。私は涙が溢れてきました。
「貴方のことを忘れない。一緒に生きたい。」
そう思ったのです。麓の小屋にようやく着き、中に入って私を寝かせてくれたのです。部屋の中を探して、寝袋と布団を見付け、私を寝袋に入れ、布団の中に押し込んだのです。
 彼は、窓際にあった磁石式の電話を使って、どこかに連絡をしていたようです。下山途中、大きな雪崩に遭い四人が巻き込まれたこと、女性の怪我人を小屋まで運び入れたこと等を話しているようでした。電話が終わると、部屋の薪ストーブに火を付けました。火は勢いよく燃え、ストーブの熱気が伝わってきました。
「救助に来るのに、一時間程かかるとのことです。」
そう言って、どこから持ってきたのでしょうか、薬缶と茶碗を持ってきました。薬缶をストーブの上に載せ、水を温めると茶碗に入れたのです。
「白湯ですが、体が温まります。」
そう言って、私を寝袋から少し出して、上体を起こしてくれたのです。チョコレートを出して、私に差し出したのです。白湯の温かさと、チョコーレートの甘さが、私が生きていることを感じさせてくれたのです。
 少し落ち着くと、私は眠たくなりました。それに気付いた青年は、私を寝袋に押し込み、寝せてくれたのです。私は目を閉じる前に、青年に言ったのです。
「どこにも行かないでね。ずっと、側にいてね。」
青年が頷いているのを見届けると、すぐに眠りに入ってしまったのです。私が、救助隊の声で目を覚ましました。当りを見渡したのですが、私を救ってくれた赤帽子の青年の姿が見当たらなかったのです。救助隊の人は、少し待ってくれたのですが青年は現れませんでした。

 宗徳の妹は、その遭難のことを思い出した。青年の自分に対する行動を感謝した。温かい青年の思いを抱き、青年の姿を抱いて眠りについた。

 京助は東京の大学に通うため、警察官を辞め、上京して郊外に下宿を取った。金の多く要る時期であることは、宗徳も知っていた。早くまとまった金を送らなければならないと思っていた。宗典は妹に向かって言った。
「おい、お前、お金はあるだろう。少し貸してくれないか。親父は、全然話にならんのだ。彼、金が無い奴なんだ。きっと困っているんだ。」
「年取って、大学へ行った友達のためにね。私、本当言って、立派な方だと思うわ。貸して上げる。でも、来年中には返してよ。この約束を守るなら貸すわ。」
再度、宗徳が妹に頼んだ時の回答だった。しかし、宗徳には妹に金を返す当てもなかった。妹のお金は、給料の殆どを貯金しており、蓄えは相当の額になっていた。妹から借りた多額の金を、京助に送った。宗徳が、私学に入ったときのように、莫大な金額だった。

 一年目は、彼は忙しかったのだろう、京助からの音信はなかった。年賀状には、勉強が忙しく、疎遠にしている事へのお詫びが書いてあった。二年目の季節も過ぎていき、年の瀬も迫る頃、宗徳の妹は宗徳に金の返済を強く求めた。
「約束なんですから、今年中には返してください。冬には、私にとっても必要なんですから。」
宗徳は知っていた。冬の頃、正月になれば、妹は一人で遭難のあった山の麓の村へ行くことを。そして、犠牲になった友の冥福を祈り、自分を救助してくれた山男の姿を求めに行くことを。父も母も、妹が宗徳に金を貸したことを知っていた。年の瀬が迫ると、母の厳しくたしなめる言葉が、宗徳に向けられた。
「お前も知っているだろう。由美は、自分を助けてくれた人のために蓄えている金なんだよ。由美にとって、心の支えと同じなんだよ。」
「お前の友達だって、全部使うということもないんだろう。国立は安いんだろう。返してもらって、お前の金を足して、それで足りなかったら、私も足してあげるから、きっと返してくださいよ。由美のことを思うと、切ないんだよ。」
宗徳は、自分なりに浪費もせず、返すつもりだったが、彼の給料だけではとても追い付く額ではなかった。
「分かりました。お母さんには、迷惑はかけませんよ。誰かから都合して、返しますよ。」
彼は心当たりの医師仲間や知人に当たってみたが、多くの金を借りることはできなかった。妹に、暫く待つようにも頼んでみた。
「いやです。約束なんだから返してください。兄さんには、できないことなんです。その人に、大学を辞めてもらいなさい。」
宗徳は、妹の言葉を冷たく感じた。確かに、遭難以来の妹は、感情のない女になったと思った。
「彼が大学を辞めたからといって、金が返ってくる訳がないだろう。お前が思っているより、彼って、とても良い人間なんだ。お前と結婚させたいくらいに、良い人間なんだ。」
「お兄さん、変なところで、私の結婚のことを言わないで。私の気持ちを馬鹿にする兄さんなんて、見たくもないわ。」
妹は、兄を睨むと顔を横に向け、かたくなな態度で、体は震えていた。
「済まなかった。謝るよ。お前は、会ったことがないから、彼のことを知らないんだ。彼は、お前と同じように山の好きな男なんだ。母の手で育てられ、やっと警察官になれたんだ。金が無いことから、才能も何も言っておられず、終わろうとしたんだ。そんな人間を助けて、何が悪いんだ。彼は、この病院の医師となってくれるんだ。それからでも返してもらえばいいじゃないか。」
妹は、黙ってしまい、承服しなかった。宗徳は、残った金がどのくらいか聞き、足りない分を母から借りて、妹に、返さざるを得ないと思った。

 年の瀬も押し迫り、いよいよ宗徳は、京助のところに電話をしなければならなかった。居間に家族がいる中で、彼は京助に電話をかけた。折りしも、雪の降る十二月二十二日だった。
「ところで、昨年の春に君に貸した大金、あれは妹の大切な金を借りて送ったんだ。どのくらい残っている。妹が、どうしても必要なんで、返さなくてはならんのだ。」
いよいよ宗徳は、本題を京助に言った。皆は、宗徳の沈んだ顔を見た。と、幾らか宗徳の顔が明るくなった。
「そうか、十万円を使ったか。それくらいの金は、俺が都合つける。残りの金、明日持ってきてくれる。じゃ、明日待っているよ。クリスマスイヴだし、妹にも会ってくれ。久しぶりに、飲み明かそう。」
宗徳は、電話を切ると、幾らか明るくなった。
「いゃー、良かった。使った金は、十万円だって。しっかりしているよ、京助は。後は、俺の給料で十分やっていけるさ。」
宗徳は、父や母、そして妹の前で、右手を握り締め、勝利者でもあるかのように、拳を振った。
「いや、京助、しっかりした男だ。これ程嬉しいことはない。由美、彼は言っていたよ。有難い心づくしだったって。とても感謝をしていたよ。お前に直接、お金を渡したいって言っていた。明日の夜は、恒例の内輪のパーティだろう。お母さん、上等のブランディを用意してくれよ。彼も一緒になってのパーティだ。」
宗徳は一人ではしゃいで、鼻歌混じりに歌いながら、居間から姿を消していった。
 居間に残った両親と妹は、喜んでよいのやら、怒ってよいのやら分からず、黙っていた。
「変わった友達なのね。でも、立派な方なんですわ。兄さんよりずっと立派だわ。私、明日は、友達とささやかなパーティの予定よ。よろしく伝えてください。」
妹は、そう言うと、何の表情も出さず、両親を残して、部屋から出て行こうとした。父は、娘を呼び止め、少し考え込んだ後に言った。
「十万円使ったと言うことは、もう京助君には手持ちの金がないということだ。手元に金がなければ、人はとても惨めなことになる。」
娘は、立ち止まって聞いた。
「でも、兄さんが都合つけると言っていたわ。」
そう言って、娘は部屋を出て行った。

 クリスマスイヴの家族だけのパーティの準備が、奥の洋間で整った頃、京助は宗徳の家を訪れた。宗徳と母が玄関に迎えた。
「おい、持ってきたんだろうな。それにしても、随分みすぼらしくなったな。」
軽く宗徳は京助に声をかけた。母は、貧しそうな格好をした京助を見て、心が痛んだ。宗徳は、京助を応接室に通した。少し間をおいて、宗徳の父と母が、応接室に入ってきた。京助は、立ち上がって父と母に挨拶をした。
「今日、由美は出かける予定です。間もなく出かけるはずです。家でのパーティには、ご一緒できないと言っておりました。」
「そうですか。一言お礼を言いたかったものですから。」
京助は、そう宗徳の母に答えた。少し経つと、応接室のドアが開き、ドアのノブに手をかけたまま宗徳の妹が顔を見せた。
「これから出かけてきます。」
と声かけた。京助は、立ち上がり宗徳の妹に向かって一礼をした。
「京助です。大変お世話になり、ありがとうございました。」
宗徳の妹は、京助の姿と顔立ちを見て、一瞬意外な思いがした。
「いいえ、どういたしまして。」
そう言うと、ドアを閉めて玄関に向かった。ブーツを履きながら、京助の顔が脳裏から離れなかった。
「赤帽子の山男、そっくりだった。」
そう思うと、玄関のドアの前に立ちすくんでしまった。少し考え込んだ。思い切ったように、玄関のドアを開けると、舗道に出た。駅前の繁華街に向かって歩き、時折空を仰ぎながら考えた。
「考えなければ。京助さんが、赤帽子の山男だったら、私は家に戻り、一緒に過ごすべきなのではないか。」
そんな思いが、歩くごとに強くなった。駅前の近くにある公衆電話が目に入った。少し立ち止まって、思い切ったように、公衆電話ボックスに入った。駅前のスナック「エリーゼ」に電話をかけ、友達の陽子を呼び出した。
「ご免、今日のパーティ行けなくなっちゃった。大切な人が家に来たの。皆によろしく言ってね。」
宗徳の妹は、そう言って受話器を下ろした。何か、心が明るく、軽くなった気がした。
 宗徳の妹は、家に戻った。母は、出て行くときの服装のまま、台所に姿を見せた娘を驚いて見つめた。
「どうしたの。楽しみにしていたんだろう。」
母が怪訝な顔で言った。娘は、何でもないという風に、
「陽子が風邪をひいて来られなくなったの。今日は中止で、年末に忘年会をするんだって。今日のパーティ、私の分も用意して。」
そう言う娘の顔が明るく、輝いているのに、母は気付いた。
「ああ、そうそう、京助さんからお金預かったのよ。貴女の部屋の机の上に置いておきましたからね。」
「どうもありがとう。でも不用心ですわ。大金を机の上に置くなんて。私、着替えてくるわ。お手伝いする。」
宗徳の妹は、笑顔を見せて自分の部屋へ行った。

 夕方になって、食堂に集まった。中年のお手伝いさんを含め、六人がテーブルを囲んだ。宗徳の妹は、はす向かいに座った京助を見つめた。右目の眉の上に黒子があるのを確認すると、たまらなく嬉しさが込み上げてきた。乾杯をする前に、宗徳の妹は、京助に一言尋ねたいことがあると言って話し出した。
「京助さん、お金確かにいただきました。乾杯の前に、少し伺いたいことがあるのですが、よろしいですか。」
京助は、宗徳の妹を見つめて頷いた。
「不躾の質問ですが、京助さん、お金はあるのですか。十万円使ったと言うことは、手持ちのお金は底をついているということですよね。良かったら、お返しいただいたお金、そっくりまたお貸しします。」
「それは有り難い。手持ちのお金は、殆どない状態です。学校に相談して、身売りでもしようかと考えていたところです。」
「まあ、身売りなんで、絶対駄目です。お金、足りなければいくらでも都合つけます。」
そう言うと、宗徳を始め、父母、京助まで、唖然とした顔で宗徳の妹を見つめた。宗徳の妹は、それらの視線に気が付くと、下を向いて顔を赤らめた。
 乾杯をして、シャンパンを飲み、それぞれ七面鳥の肉をさばき始めた。突然、宗徳の妹が、紅潮した顔を見せながら
「お兄さん、席を代わって。私、京助さんの側にいたいの。」
と言うと、七面鳥の皿を手に持って、椅子から立ち上がった。急な妹の行動に、怪訝な顔を一瞬見せた宗徳だったが、黙って宗徳も席を立った。宗徳の妹は、京助の隣の椅子に腰掛けると、京助を覗くように見つめた。京助も、少し驚きの顔付きで、宗徳の妹を見つめた。
「やっと会えた。赤帽子の山男さん。」
「良く覚えていましたね。」
 妹は、一瞬微笑んだかと思うと、急に目に涙を湛え、優しそうな表情になった。
「捜しました。本当に、一生懸命に捜しました。私あの時言ったんです。どこにも行かないで、と言ったんです。私の側から離れないで、と言ったんです。覚えておりますか。」
妹は、ただ京助を見つめていた。京助は、一枚の白いマフラーを取り出した。
「あの時、貴方はマフラーを途中でなくしたと言った。貴方が眠っている間に、取りに行ってこようと麓の小屋を出た。マフラーを見つけたんだけれど、吹雪になり、道に迷ってとんでもないところに出てしまったんだ。貴女の優しい言葉は、今でもはっきりと覚えています。貴女が、誰であるかも新聞で知りました。私の手の届かない人であることも知ったのです。」
妹は、首をただ横に振っていた。そして、両手を京助の前に差し出した。
「もう、いいんです。こうして会えたんですから。私は、ただ嬉しいだけです。手を握ってください。」
京助は、妹の手を固く握り締めた。妹は、目を閉じて京助の温もりを感じていた。暫く経って、妹は目を開き、京助を見つめて微笑んでいた。

 宗徳は京助が妹が捜していたその人であると分かった。父と母も、娘が求めていた人が京助であることを知って、京助に感謝をするばかりだった。宗徳の父は感謝と期待をこめて京助に言った。
「京助君、大学を卒業したら、この病院に来てくれるんだろうね。」
京助は一瞬、宗徳の妹を見てから笑顔を見せて言った。
「藪医者になるかもしれません。それでもよければ、喜んできます。」
それを聞いて、父は更に言った。
「藪医者か。構わんよ。俺も藪医者だからな。妻に、いつも言われているよ。」
一同は笑いに興じた。酒を酌み交わし、京助は、妹にリードされながら踊った。妹の目には、もう京助の姿しか写らなかった。これから東京に出て、京助が大学を卒業するまで傍におり、卒業したら結婚をし、この地に戻り、慎ましやかに愛し合いながら過ごすことを夢見ていた。