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 「春の歌」

 

                          佐 藤 悟 郎

 

 

 雪国の冬、雪が静かに降っている。この大通りから入った、何の変哲もない住宅街にも、雪が静かに降っている。小学校のグランドに面した、二階建ての彼の家の前の道路は、高い壁のように雪が積もっていた。雪は、音もなく降り続き、白い道に、枝ばかりの木々に、刻一刻と降り続いていた。

 

 彼は、夜になって二階の窓を開けた。暫くの間、部屋の明かりが届くところを見つめた。雪が茫々と広がる、銀世界だった。冷たい冬の景色であるけれど、彼には、何故か雪影は暖かく思えた。

「雪の消えるころ、大学生になるんだ。」

小さな声で、彼は呟いた。机に向かい、幼いころの思い出、中学時代の思い出を追っていた。学者になりたいと思ったこと、医者になりたいと思ったこと、それらは夢のような思い出だった。大学の教育学部に入り、先生になろうと思った。それも、勉強しなければできないことだとも思った。

 

 彼は机に向かって、鉛筆を走らせた。そして、時折外を見つめた。雪の舞う中に、その雪を通して、グランドの向こうあたりの家の、二階の明かりが、ボーと浮かぶように見えた。

「厚子か。女だてらに、よく勉強をする人だ。」

彼は、その遠くの明かりを、目を細めて見つめた。同じ高校に通っている。成績も優秀な美しい女学生である。小学校も中学校も一緒に過ごし、幼友達とも言える彼女だった。今や、彼女は才媛で名が知れ、その姿を見つめるだけの男子生徒の彼でしかなかった。通りで会うと軽く会釈をする。場が悪ければ、素知らぬように通り過ごす二人だった。

 

 彼は、降りしきる雪の影を見つめ、彼女を思っていた。自分の能力を凌ぐ彼女の能力、行動の華やかさ、どれをとっても彼女を超えるものは自分にないと、彼は思った。そして、この能力の差というものは、将来、立場の差を生んでいくものと思った。知識という点においても、また、社会的地位においても、それは事実として実現していくものと思った。それは、彼にとって寂しいことでもあった。彼の心にある女性像というものは、彼女の面影が中心だった。他の女性を見るとき、必ずと言ってよい程、彼女と見比べてしまい、結果的には、彼女の能力と美しさを認めるだけだった。

 

 雪は、冬休みに入っても降り続き、大晦日の昼過ぎになって、ようやく止んだ。彼は、父と一緒に屋根に登り、雪下ろしをした。雪は、彼の胸の高さまで積もり、下の方はスコップが立たないほど硬くなっていた。彼は、受験勉強の忙しい中で、この骨折り仕事と思いつつも、毎年訪れる雪下ろしの仕事をしない訳にはいかなかった。

「おい、敏雄、今日は雪を下ろしたら、掃除をして、風呂に入り、二年参りをして、年越しだぞ。勉強も休みにしなよ。」

父は、明るく笑いながら、彼に言った。彼も、手を上げて、父に明るい笑顔を返した。

 

 彼は、雪の輝くこの雪国の世界の中で、周囲の家々で雪下ろしをしているのを見つめた。そして、時々手を上げて、大きく手を振っている彼女の姿も見ていた。

「それにしても、彼女、誰に向かって手を振っているんだ。」

彼は、周辺の家々の屋根を見渡したが、誰も応えている様子がなかった。勉強のことを忘れ、力仕事をするのは、彼にとって気分のよいことだった。夕方近くになって、屋根の雪下ろしも、家の周りの雪の片付けも終わった。部屋の掃除は、母が済ませており、障子も明るくなっていた。

 

 彼は、風呂から上がると、父母と三人の夕食を取った。一時間ほどテレビを見てから、二階の自分の部屋に行き、机に向かって勉強を始めた。父と母は、下から彼に声をかけ、先に連れ立って二年参りに出かけた。一瞬、世界が静かになったと思った。窓越しに、彼女の部屋の明かりを見つめた。下ろした雪の高さのため、彼女の部屋は少し隠れていたが、明るく、暖かそうに見えた。そして、机に向かって勉強している美しい顔と眼差しを思った。高校の同じ学級にも、成績の良い者は多くいる。関東や関西の有名大学へ行くことだろう。他の学級も考えれば、多くの優秀な生徒がおり、その中の一人が彼女だった。彼女を含め、成績の良い生徒を見つめるのが、自分の立場だと、彼は思った。

 

 彼は、新しい年を迎えたことを、ラジオで聞いた。間もなく、父と母が帰ってきた。彼も例年のように、近くの蔵王神社へ二年参りに向かった。大通りは車が多く、市内の大社に向かっているようだった。雪を踏みしめ、晴れ上がった空を見上げながら、冷え込みが厳しいと、彼は思った。長いマフラーを首に巻き、彼は歩いた。あちこちの小路から、参拝に向かう人々の数が増えてくる。

 

 境内は、賑わっていた。参拝している人、露店に群がっている人、広場の燃えさかる炎の周囲に集まる人、てんでに人込みの中を歩き回る人、彼は、それらの人々を見つめながら、ゆっくりと拝殿に向かって歩いていった。小銭を投じ、鈴を鳴らし、手を打って合掌をし、目を閉じた。彼は、父や母、そして自分の今までの安泰であったことを感謝し、これからの繁栄を祈った。

「私、敏雄、それに、樋口の厚子が大学に入れますように。」

目を閉じて、彼は心から祈った。言葉に出さず、思うこと、それは願い事だった。彼は、目を開けると周囲を見渡し、少し気恥ずかしい気持ちにもなったが、心は暖かく豊かになったと思った。

 

 彼は、露店を訪れ、するめを買い求め、青竹に刺して、火の周りへと行った。炎は高く、雪と人々の顔を赤々と照らしていた。彼は、子供達がするように、するめを炎に近づけて炙った。炎の外れの右前の方に、彼は自分を見つめる視線を感じた。そこには、彼女が立っていた。純白なマフラーの中に、柔らかな顎を埋め、豊かな黒髪の中で瞳が輝いていた。彼女は、彼を見つめていた。目を反らそうとはしなかった。彼も、ただ彼女を見つめていた。彼は少し息が詰まりそうになり、動悸が高鳴るのを感じた。間もなく彼女の姿は、押し寄せた青年たちの姿に掻き消されてしまった。

 

 彼は、帰る道すがら、彼女の自分を見つめる、誠実そうな瞳を思い返した。人々の群れは、散らばっていく。家の近くになると、ほとんど人影も疎らとなっていた。家の前で、彼は振り返った。彼は、神社から、自分の後ろを歩いてくる人を感じていたからだった。そこには、両腕を前に組んで、肩を窄めて立ち止まっている彼女の姿があった。

「どうしたんだ。寒いのか。」

彼女は、首を横に振って、彼を見つめて微笑んでいた。そして、俯いて彼の傍まで歩き、立ち止まった。瞳を上げて、暫く彼を見つめていた。

「そのするめ、半分私にください。」

彼も、笑って頷くと、青竹からするめを外し、二つに分けて彼女に手渡した。

「敏雄君、もう直ぐね。頑張ろうね。」

「分かっているさ、厚子も体に気をつけてな。」

彼は、彼女が差し出した右手を取って、握手をして別れた。その時の彼女の温もりは、彼の手や心に長く残っていた。

 

 正月も瞬く間に過ぎ去り、雪に埋もれた世界の中に、彼はひたすらに春を待っていた。三月の試験を前に、高校の卒業式も終わった。雪の降りしきる中、彼は大学受験のため、県都に向かう列車に乗った。

「明日は試験か。いよいよだな。」

空いた鈍行列車の席に座り、彼は呟いた。外の景色を見ながら、高校時代が、いかにも長く、苦しかったことを思い、軽い眠りに陥った。軽いまどろみの中で、卒業式のことを思い出した。彼女の燃えるような激しい眼差しが、自分に向けられていたのを、そして自分の胸が張り裂けそうになったのを思った。

「敏雄君、前に座ってもいいでしょう。」

目を開けてみると、にこやかな顔を見せ、彼女が通路に立っていた。彼は、一瞬頭の中が混乱してしまった。

 

彼女は、彼の前に腰を掛けると、まざまざと彼の瞳を覗いた。顔を紅潮させてである。

「どうしたんだ、東京へ行くんじゃないのか。」

「東京なんか行く訳ないでしょう。金がかかるし、一人じゃ詰まらないし、大それた希望なんかも持っていないわ。」

彼女は、ショルダーバックを開け、中を掻き回すと、チョコレートを取り出した。二つに分けると、無言で彼に差し出した。彼は、黙ってチョコレートを口にしながら、車窓を見つめた。雪が後ろへと飛んでゆき、白い野原が広がっていた。彼女が前にいるだけで、心が幸福で、明るくなってゆくのを感じた。

「中学校以来ね、こうして間近で話すのも。敏雄君は、無口になったのね。」

「そんなこともないさ。お前、女だろう。俺だって、恥ずかしいと思っているんだ。」

「私は、恥ずかしいことなんか、捨てようと思うわ。高校も卒業したんだし、もう大人になるんだもん。恥ずかしいなんて思って、手を拱いていたら、大切なものをなくするだけだわ。」

「厚子は、逞しく、強い女なんだな。」

「違うわ、最近よ、そう思うようになったのは。」

二人は、家のことや高校であったこと、そして、中学校時代の思い出などを話していた。

 

県都も近くなったのだろう、野の雪は少なくなり、水田には水が見え始めていた。

「ねえ、敏雄君、新潟に着いたら喫茶店に入らない。時間あるでしょう。」

彼は、頷いて見せた。彼女は、肩をすくめて花が咲いたように、明るく微笑んだ。

「誰か、友達と一緒なんだろ。宿も取らなくてはならんだろうし。」

「私、叔母の家に泊まるの。そうだ、敏雄君も一緒に留まることにしょう。ね、それでいいでしよう。」

「叔母さんて、私んちの隣りにいた人。」

「そうよ、今は、結婚して新潟にいるの。」

彼女の叔母は、彼等が幼いころ、彼の隣りの家に住んでいた。よく彼女を連れて、彼の家に遊びに来たものだった。細面の美しい、小学校の先生であることを思い出した。彼が、中学校のころ、どこかへ転勤してしまい、彼は何処にいるのか知らなかった。

 

 二人が駅から降りると、外には雪がなかった。駅前の裏小路に入って、小さな喫茶店に寄った。彼女は、直ぐに叔母のところに電話をして、彼も泊まることに話を決めてしまった。

「二人で泊まっていいって。敏雄君の家には、叔母の方から電話をしてくれるって。」

二人は、夕方になって、大学にもそう遠くない郊外の住宅街にある、彼女の叔母の家に着いた。その叔母は、美しい笑顔を見せ、二人を喜んで迎え入れた。

 

 翌日から、彼と彼女は、連れ添って試験会場まで行った。大学構内で、受験する学部が違うために別れたが、試験が終わると、校門の前で待ち合わせ、連れ立って帰った。二日間の試験が終わると、二人とも晴々とした気持ちになった。叔母の家を去ったのは、夕方になっていた。

 

 暗くなりかけた新潟の街を、バスの中から見つめながら、二人は向かい合って立っていた。夕方のバスは込んでいた。通勤の列車も込み合い、辛うじて二人は並んで席に座ることができた。お互い肩が触れ合い、腕が、そして手が触れ合い、二人は目を閉じてそれを離そうとはしなかった。新津の駅を過ぎると、急に乗客は少なくなった。向かいの座席も空いている。彼女は向かいの座席に座り換え、彼と向かい合った。

「駅で買ってきたのよ。」

彼女は、ショルダーバックの中から、缶ジュースとチョコレートを取り出した。

「相変わらず、チョコを好きなんだな。」

彼は何気なく言った。

「そうよ、一生変わらないわ。」

彼女は、缶ジュースとチョコレートを彼に手渡して、一回深呼吸をして言った。

「敏雄君、今夜遊びに行っていいかしら。」

彼は、彼女の瞳を見つめ、少し間を置いた。彼女の心配そうな目を見て、急に微笑んだ。

「いいさ、家のお袋も喜ぶだろうさ。時々、話をしていたからな。」

彼女は、彼の言葉を聞いて、急に明るく微笑んだ。

「ねえ、私のこと、どんな風に話しているの。」

彼は、急に顔が熱くなった。顔を赤らめながら

「とても、言えやしないよ。」

と言うと、目を車窓に向けた。白い景色が、暗がりの中を飛んでゆくのが見えた。

「私、分かるわ。厚子も女らしくなったもんだよ。そうでしょう。」

彼は、外の景色を見ながら、彼女もよく平気で喋ることのできる女だと思った。昔の彼女と少しも変わっていないと思った。

「それから、えーと、言いにくいな。こんな言い方かな。お前、嫁に貰ったらどうなんだ。ね、そうでしょう。昔、よく敏雄君のお母さんが言っていたもの。」

彼は、彼女の言い草が、母と同じなので、返す言葉もなかった。そして、彼女の瞳を見つめていた。少し不安げな色が、彼女の目に現れていた。

「お前は、よく分かるな。」

彼が、ただ一言そう言うと、彼女の目は美しく輝きだした。そして頬を赤らめ、耳元を赤くさせながらも、彼の瞳を見つめていた。