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「憧憬の彼方に」

 

         佐 藤 悟 郎

 

 

 春は未だ浅く、丘の杉や桜の木々の間に、残雪が筋状に流れて見える。彼は、丘の上にある神社への階段を駆け上っていた。階段を上り詰めて鳥居を抜けると、短い参道と、蒼い屋根の社が目に入った。彼は、下駄の音を響かせ、参道を走った。社の方から歩いてくる二人の女性の姿を認めると、彼は走るのを止めて立ち止まった。

 二人の女性は、傘を掲げ、明るい顔で語り合いながら歩く、和服姿の母と娘だった。二人は、彼の近くまで来ると、少し訝しそうな顔を見せて立ち止まった。彼の顔は、降りしきる淡い雪で濡れ、髪の毛も乱れていた。娘は、彼と同じ年頃だった。彼の瞳を見つめ、急に微笑を見せた。綺麗に梳いてある髪の毛、白い首筋、品の良い姿だった。見るからに大家の母と娘であることを、彼は感じた。彼は、参道の脇に身を移し、その二人に道を開けた。

 娘は、微笑を見せ、通り過ぎる時に軽い会釈をした。彼の心は、急に明るくなった。彼も会釈を返し、過ぎて行く二人の後姿を見つめた。二人が鳥居を抜けて階段近くまで行った頃、娘は振り返って、深く丁寧な礼をした。

 

 時々、彼は娘のことを美しい面影として思い起こした。春の淡雪の降る頃になると、衰えた体を動かし、その社に出かけた。彼は、自分の死期が迫っているのを知っていた。目覚めの頭痛と寝汗は、体の衰えを物語っていた。

「人生とは、何だったのだろうか。」

そんなことを考える日が多くなった。知識を求め、学者になることが彼の望みだった。東京の大学で勉強していたが、体を壊して生家に帰り、部屋に籠もりがちな生活を送っていた。友達もなく、年老いた父や母とは、語り合うことも少なかった。手入れの行き届かない、荒れた木々の繁る広い庭を歩き、雑草を踏みしめ、木々の名を覚え、葉の一枚一枚を調べ、小さな昆虫や動物のありかを見つめていた。彼の心に、ふと寂しさだけが流れていった。

「父も母も、私が先に逝くことを知らない。私が家を継いでくれると思っている。」 

そんなことを思うと、彼は両親に済まないと思った。結婚のできる体ではない。寿命が足音を立てて迫ってきている。結婚をして妻子を悲しみに陥れることはできないと思った。

 

 彼は部屋の中の夥しい本を見つめた。読み、理解し、知識として積み重ね、学界に飛び立つことを確信していた時代を思い出した。助教授、教授となって、最高学府に君臨することを、現実のこととして描いていたのである。

 病に伏したまま故郷に運び込まれ、十二年もの歳月が流れ、時々、枕元の母の顔が目に入った。泣き濡れた母の顔を見て、悲しみを押さえることができなかった。失望の時が流れた。時折、研究書に目を通しても、虚ろになって本を投げ出してしまう日々だった。忘れること、諦めることが、彼に最初に訪れた苦悩だった。

 

 淡雪が宙を舞い、流れる季節を、また迎えた。彼は、寒空の中、神社に向かって歩いた。今年も、何事も起きないだろうと思った。舗装された道に沿って、小川が流れていたけれど、濁っていて水草の影すら見ることができない。丘に向かって、青木の集落に入ると、集落の中程にある生垣と、高い杉に囲まれた家の前に、人が集まっていた。

 葬儀が行われ、集まっている人々は、黒の衣装で静かだった。彼は、その家の前を通るとき、花に飾られた俗名を見た。その名前は、小学校、中学校を一緒に過ごした幼友達の名前だった。遠い昔の面影が、目の前を掠めて通り過ぎた。人の集まりの間から、家の玄関が見えた。目を腫らした幼友達の妹が彼の姿を見つけ、玄関先で軽くお辞儀をした。彼も幼友達の妹に頭を下げ、心を重くして俯きながら立ち去った。

 

 彼の足下に、大粒な淡雪が通り過ぎていく。彼は、ただ茫然として歩いていた。

「人の命なんか分からない。死に怯えている私がいる。私よりも早く逝く人もいる。」

彼は、意味もなく繰り返し思った。丘に登り、時折振り返ると、木の幹の間から、ひっそりと佇む町が見えた。そして町外れにある、彼が住んでいる大きな屋敷が見えた。

 彼は、大きな杉の木に包まれた神社の石段を上り始めた。見上げると、鳥居のある頂が明るく思えた。

「何故、私はここに来るのだろう。もう時が過ぎている。あの人に会っても、分からないだろう。お互い気付くことはないだろう。」

そう確信していても、やはり期待を心の奥深くに抱いていた。会えなくても、お互い気付かず行き違っても良いと思った。過去の唯一つの、救われるような思い出に、触れたいと思っていた。神社には、誰の姿もなかった。彼は、手を合わせ、祈りを捧げて神社を後にした。

 

彼の家は、味噌や醤油の醸造会社を営んでいた。時々、彼は会社の事務室に顔を出した。事務的な仕事と言っても、大した量もなく、古くからの使用人が誠実に事務を執っていた。土蔵造りの事務室は、落ち着いているが、日差しが細く、黴臭いところだった。

彼が事務室に行くと、父も母も喜び、事務員も急に顔を輝かせる。彼の病弱な姿は、周囲の人に暗い影を落としていた。会社の後継者の頼りない姿に、会社の将来に不安を抱いている者も少なくなかった。誰もが、彼に気を遣い、面倒な仕事をさせようとはしなかった。

 力一杯働く従業員の姿を見ると、彼は広い世界に飛び出したい気持ちになった。日本の国、世界に向かって、勇躍として駆け回りたいと思った。長い間培った病巣は、いつ致命的な打撃をもたらすか、絶えず彼を不安に陥れていた。

「この、短い命、枯れようとも…」

そんな思いを抱き、己を励ます日々だった。学問という一つの道が断たれ、他に歩く道があるのか見当も付かなかった。世に出たいと思えば、激しい生活を送ることになる。それは、確実に破滅を招くことになると、彼は知っていた。

 

 小春日和の暖かい日に、彼は散歩がてら街に出かけた。彼は、街の騒音が好きでなかった。裏通りを歩き、懐かしい家並みを数え、幼い日々の思い出を追っていた。書店の前を通り過ぎようとした時、ふと広告に目が止まった。その広告は、日本文学賞受賞の女流作家の顔写真が大きく出ているものだった。

「誰だろう。見たことがあるような気がする。」

懐かしさが心に流れ、その広告の前で暫く考えた。目を閉じて、広告の女性の顔を弄んだ。彼の心に稲妻のような思いが走った。その柔和な瞳、面影は、丘の神社の階段で会った女性に似ていたからだった。

 彼は、作家や小説に興味はなかった。しかし、忘れ得ぬ面影が、彼の前に忽然と現れた。目を閉じて、幾度も面影を確かめた。

「他人の空似と言うことは、よくあることだ。」

彼は、そう思いながらも書店に入り、彼女の小説を買い求めた。彼女の小説は三冊あり、中編小説が二冊、短編集が一冊だった。

 家に帰り、一冊の本を開いて、彼女の経歴を見た。東京生まれで、学校は奈良の大学を卒業している。若くして文学界に入り、長い間活動している女性だった。

「やはり違う人だ。それにしても似ている。」

単行本の写真を見つめても、彼は確信を深めるばかりだった。

 

 時の移りは、人を変えてゆく。彼は、彼女の作品を読んでいた。彼女の作品を読みながら、彼女を模索していた。語りかけてくる優美な文章、直向きな彼女の真面目な心が見えてくる。丘の神社の石段であった、通りすがりの女性への感情と重なっていく。
「時は流れました。けれども私は、忘れてならないものを何時までも心に持ち続けます。これは、私のはっきりとした意志です。」

時々現れる彼女の人生観が、彼の心に強く伝わってくる。彼は、本を置き、窓の外の木々と葉の揺れるのを見て、風のそよぎを感じた。キラキラと光る木漏れ日に、目を細め、自分の意志が強く揺れ動いていくのが分かった。

「私は、待たなければならないのであれば、いつまでも待ち続けます。待つことが宿命であるならば、宿命に従順になります。」

彼は、一編の小説を読み終わると、短編集を手にした。短編集を開き、目次に目を通した。その中に、「淡雪」と題する短編があった。

「間違いない、あの日のことが書いてある。」

彼は、急いでページをめくり、注意深く読み始めた。話の舞台は違っているが、状況は同じである。

 

 淡雪の降る寒空の中を、女中と一緒に丘の神社へお参りに行き、若い娘にありがちな願い事をした。

「これから最初に会う人と、愛が結ばれますように。」

そう祈った娘は、帰るときに階段で紺の服に、白袴姿の青年に出会った。青年は、淡雪の中を平然と石段を上って、娘に明るく会釈をして擦れ違った。娘も微笑みを返し、青年の姿、顔立ちを目に深く留めた。娘は、名も知らぬ青年に、全ての心を託した。それからの娘の日々は、その青年だけを求め、巡り会いを期待し、ひたむきに強く生きている。

 

 こんな内容の短編「淡雪」を読み終わり、彼は彼女が丘の神社の石段で会った女性であることを確信した。彼女自身、独身であることに多少の衝撃を受けた。

「待つことが宿命であるならば、宿命に従順になります。」

この言葉は、「淡雪」の中でも書かれていた。彼は、確信を深めれば深めるほど、どのように心の整理をすればよいのか戸惑い、重々しい気持ちに包まれた。

 小説は、単に小説であり、彼女の本当の意志なのか疑いがあった。通りすがりで、たまたまお互いが印象を強く持ったにしか過ぎなかった。再会して何になるのだろうか。清らかな思い出が、破壊されるだけである。思い出と現実では、雲泥の差があると思った。

 

 彼は、彼女のことを思い、多くの時を費やした。野辺を歩き、また机に向かい灯火の下で思いを巡らし、時には心に苦痛が走った。彼女である確信は、真実と変わっていった。彼女は、不安の渕に立っているが、彼自身の存在を知らせることはできなかった。彼は、彼女を求めたいと思ったが、却って彼女の心を深く傷付けることを怖れた。しかし、日が経つにつれ、間近に語り合える女性として、彼女を求めたいという気持ちが強くなるのだった。彼は、自分の素性を証さなければ、彼女を傷付けることなく、心に触れることができると思った。

 

 彼は、能力が無いかも知れないが、文学の道を進もうと決めた。そのためには、強固な意志と激しい実践が必要である。自分の虚弱な体を思えば、本懐を遂げる前に消え失せる命であるかも知れなかった。

「何処かへ、消え去る人でもあるまいし。」

そう思うと、彼の気持ちは幾らか落ち着いた。彼は、最初から文学の勉強をしなければならなかった。過度の勉強は控えながら、本を読み、文学論に目を通し、文章を書き始めた。勉強は、遅々として進まなかった。理論的な頭脳は、作品を書く上で抒情性を排除し、無味乾燥な文章を作り上げるばかりだった。

 

 小説を書く上で、何が重要な要素であり、それを育てるのにどのようにすればよいのか考えた。

彼は、書く人の天分であること思った。その天分は、努力で磨き上げられて成り立つと考えた。注意深く、根気強く、継続心を旺盛にし、多くの文章を書かなければ、人前に出す作品にならないだろうと思った。社会での様々な人間の織りなす動き、自然の広い世界、それらをよく観察して書くことから始めなければならなかった。何よりも、心を豊かにし、心の広がりを作り上げる必要があった。一体、どうしてそれを得ることができるのだろうか。人生や生活全体を、抒情的に過ごすようにしなければならない。現実離れした考えが要求される。思いと現実の対立を理解しなければならない。

「文学小説とは、一体何だろうか。」

この疑問は、絶えず彼の脳裏から離れなかった。高踏的な理解力が無いとしても、志す者として「小説らしき物」を書き続けなければならないと思った。

 

 彼は、彼女に関する書籍を集めた。読んでいくうちに、彼女が好きになった。

「小説というものは、心だけでは足りないのです。それを語りかけるように表現しなければならないのです。そうすることによって、誤りのない自分の心が、相手に伝わっていくのです。」

彼は、彼女のこの言葉を正しいと思った。彼は、他人に語りかけるように、唇に言葉を浮かべた。心を籠めて、時には悲しく、時には寂しく、美しい言葉を選び、分かり易く簡潔にと思いながら、唇に言葉を浮かべるのだった。

「私は、人に物語をするときは、その情景を自然なものとして、思い浮かべます。自然の中に人がおり、そして人の心が動くと思うからです。」

自然の中に人を置き、その人が語るようにしようと思った。全てを正しく表現することは、無理だった。心に合った表現がよいと思った。しかしその言葉を選択することは、大変難しいことだと知った。

「物語という以上は、やはり全体として、纏まりのあることが望ましいのではないかと思います。その中心となるのは、人の心が全てだと思います。そんな考えを抱いて生きて…」

彼は、彼女の言葉を思うと、部屋の中で考えるだけでは何もできないと思った。散歩をしよう、旅をしよう、そして自分がどのような人間であるかを、最初に知らなければならないのではないかと思った。

 

 彼は、彼女の面影を抱いて旅に出た。ショルダーバック一つに入るほどの小荷物をもって、汽車に飛び乗った。初夏の東北に向かっての旅だった。車窓から眺める山や森、そして海や川は、彼の心に新鮮さを与えるのだった。

 彼の旅立ちは、両親を驚かせ、心配を与えた。彼の体を労り、彼のいない寂しさを嘆いたのだった。

「そう長い旅ではありません。必ず戻ってきますから。便りも出します。私にとって、大事な旅なんです。」

旅立つ前に言った彼の言葉を、父と母は不安そうに聞いていた。見送る両親の姿が、老い込んだ哀れな姿に見えた。

 

 彼は、海に近い町の安宿を好んで選び、泊まった。二日ほどで引き払うときもあり、十日以上も逗留する場合もあった。浜辺を歩き、松林を巡り、宿に帰って風呂に入って疲れを癒した。毎日、見たことや感じたことを、宿の暗い灯火の下で書き綴った。美しい宿の女将に丁重にもてなされたり、話好きな宿の亭主に地元の話を多く聞かされたりすることもあった。大方、彼が夜になると、長い時間、書き物をしていることから、心ある宿の人は、作家だと思っていたに違いなかった。

 

 彼は、体が疲れたり、身の回りの物が臭くなったりすると長く逗留をし、決して旅を急がなかった。物を良く見つめ、心を誤りなく綴ることに努めた。詩や短い小説を書き始めた。厳しい冬が訪れ、山の湯治場で部屋を借りて、長い日々を過ごした。買い物をし、米を研いで炊き、おかずを寒い中で作った。それは、決して楽な生活ではなかった。春が訪れると、山の湯治場から海辺に向かって移り住んだ。彼は、農村の風景や人々の動く姿が好きだった。都会にありがちな、人の軋轢を感ずることがなかったからだった。

 

弘前の桜の頃、城跡を訪れた。濠の辺を歩き、人々の行き交う姿を見つめた。人々は、笑顔を見せ、花を仰ぎ、指差して歩いていた。ふと、彼は、自分に向かって手を上げている男に気付いた。

「誰だろう。こんな町で。」

背広姿の紳士が近付いてきた。彼は、度の強い眼鏡、細い目を見て、大学の研究室の同僚だったことを思いだした。固く手を握り合い、再会を喜んだ。その紳士は、この地の大学の教授として迎え入れられたという話だった。

 彼は、案内されて大学の門をくぐり、教授の部屋へ入った。夥しい本、研究生達の姿、薫り高いコーヒーを口にしながら、部屋の中や窓の外を見つめた。彼は、教授の時代の推移などの話を聞き、考証的な思惟に衰えた自分を知った。

 教授に案内され、学舎や校庭を歩き、学生達も落ち着いている良い大学と感じた。教授と一緒に廊下を歩いているときだった。

「おじさん。」

と驚いたような声が飛んできた。廊下の端に、一人の女性の大学生が立ち止まり、驚いたように彼を見つめていた。彼は、その大学生が、宿の娘であることを一目で分かった。不思議そうな疑いの目で見つめる宿の娘に、彼は会釈をすると、また教授と歩き出した。

「今、宿を取っているところの娘です。」

彼は、教授にそう言っただけだった。半日も旧交を温め、夕方になって教授に見送られ、彼は大学の門を出ていった。

 

 彼は、ゆっくりと歩いていた。夕暮れの人込みの中を歩き、郊外行きのバス停留所に着いた。バスに揺られ、ようやく小さな温泉町に着いた。彼は、大学の門を出てから、宿の娘が後をついてくるのに気付いていた。宿に近くなると、宿の娘は駆け出した。

「お帰りなさい。」

そう彼に声を掛けて、宿の娘は笑顔を見せ、彼の脇を通り過ぎて宿の方へと駆けて行った。彼は、華やいだ香りを感じた。宿の玄関に入ると、宿の娘が両膝をついて待っている姿が目に入った。

「お帰りなさい。お疲れだったでしょう。」

彼が玄関に入るなり、宿の娘はお辞儀をしながら言った。そしてスリッパを揃えて出し、汚れた彼の靴を取り上げると、靴を持って奥に姿を消した。

「突然なんですからね。変わっているのですよ。あの娘は。」

後ろで見ていた女将は、謝るともつかず彼に話しかけた。彼は、笑って軽く頷いて、部屋へと歩いていった。

 

 いつもと違い、娘が夕食の膳を運んできた。お茶を入れ終えたとき、娘は言った。

「私、これから先生と呼びます。使い走りでも、何でもします。門下生にしてください。」

彼は、娘を見つめた。そして娘が、異常な感覚の持ち主だと思った。真面目で、思い詰めている節が見られた。

「貴方の思うようにするがよいでしょう。でも、衝動的に人生を決めてはいけません。」

彼は、自分がこの道に入って間がない者であること、能力がない者であることを手短に言った。更に、門下生を取る立場でもないとも、強く言った。

「他に、良い先生がいる。もし良かったら、私が紹介してあげましょう。」

彼は、いざとなれば「淡雪」を書いた女流作家を紹介しようと思った。必ず、引き受けてくれると思った。

「先生、私が決めてしまったことなんです。ご迷惑をかけないようにいたします。」

娘は、両手を突いて丁寧にお辞儀をすると、部屋から出ていった。彼は、娘の顔に暗い表情があったのを見逃さなかった。

 彼は、間もなく宿を引き払い、旅を続けた。宿の娘は、一緒に旅をすると言って、中々承知しなかった。彼は、娘に手紙を書くこと、故郷の所在地を教えておくということで娘を宥め、漸く旅に出たのだった。

「あの娘は、私達の子ではないのです。若い女のお客さんが産み落とした子なんです。あれの母は、産後の肥立ちが悪く死んでしまい、無縁仏となっているんです。」

旅館の亭主が、別れ際に話したことだった。彼は、心を重くして旅立った。

 

 バスに揺られ、行き着いた町で投宿した。名もない漁師町だった。荷物を部屋の隅に片付け、日が落ちていく海を見つめた。

「時が全てを解決するだろう。人は、それぞれの思いを持ち、過去を背負って生きていくものだ。結末は、確かなものとならないだろう。不安、怖れ、不明確さを抱いて死んでゆくだろう。」

彼は、岩陰の上に赤く燃える太陽を見つめ、自分自身の人生を推し量ってみた。一つの波頭に似て、砕けて消えていくものだと思った。余りにも小さな存在だと思うと、寂しくてならなかった。彼は、久し振りに父母の元に手紙を書いた。冬にも帰るつもりであること、宿の娘からの便りを大切に閉まっておくように、との短い手紙だった。

 

 彼は、静かに旅を続けた。山間の小さな集落、崩れ落ちそうな急斜面に人々が生きているのを見た。人間社会とは、何だろうか。文学とは、一体何なんだろうか。

「それは、人の心なんです。伝えるべき人の心なのです。」

かの女流作家が、そう答えてくるのを何度も聞いた。巣立っていく少年の如く、新しい挑戦をしなければならないと思った。文学界に入ろうとするとき、苦しみ、落胆、諦め、そんな不安が絶えず彼の心に渦巻いていた。文学界に、栄光があるのかどうか分からない。しかし、挑戦しなければならないだろう。才能そのものは、問題ではないだろう。問題にしたら、多くの者が、苦悶の中で喘ぐばかりだろうと思った。

 

 彼が宮城の地を訪れたのは、夏の暑い盛りだった。かの女流作家の講演会が開かれるのを知り、聴衆の一人として会場に入った。

「人は、多くの疑念を持っております。しかし、文学の中では、多くの疑念を無理して入れることができない場合が多いのです。主たる意思、あるいは思想、それに向かって全体が動かなければなりません。私は、研究対象としての資料、作品を書いているのではありません。」

彼女は、創作に於いての実際的な話をしていた。作品を文学論文として捉え、考え込んでしまえば、作品を書くことができないと主張していた。小説の完全さは、作品の総体にあるのであって、決して断片を論じてならないと言っていた。明確な言葉、柔らかな仕草、何よりもその顔が懐かしく思えた。

「間違いなく、あの人だ。」

時折、彼女は彼に向かって視線を投げてくる。彼の存在を意識しているのではないのだろう。彼女の視線が巡ってくると、彼は心が洗われる思いがした。

 

 彼は、紅葉で燃える山を見つめた。そしてその紅葉の色が失せる頃、故郷に帰った。故郷に帰って暫くの間、旅の思い出の整理をした。宿の娘から多くの手紙が来ていた。多くは近況報告だったが、回を重ねるに従い、激しい気性が剥き出しになっているのを感じた。

…大学も、もう終わったと同じです。卒業しましたら、先生の元へ急いで参ります。父も母も承知しております。宜しくお願いします。…

彼は、娘がこの家に来て一体何をするのか、と思うと少し腹立たしく思った。

 彼は、本腰を入れて小説を書き始めた。注意深く、作品全体と文章を考えながら執筆した。そして新聞や雑誌に作品を投稿した。中々、彼の作品は選ばれなかった。彼は少し落胆したが、もっと良い作品を書く意欲は失わなかった。作品が選ばれなかったことを恥ずかしいとも思わなかった。春になって、宿の娘が大きな荷物を持って訪れた。

 彼は娘に、父や母の身の回り面倒を見ること、時には会社の事務の面倒を見て欲しい、後は自由にしてよいと言った。勿論、娘は承知したし、お金もいらないとも言った。娘には、庭の見える明るい部屋が与えられた。その部屋は、一部屋隔てて父と母のいる部屋となっていた。

 

 娘は、夜遅くまで一生懸命に作品を書き、それを彼に見せに来るのだった。彼は、娘が想像以上に素晴らしい才能を持ち、彼以上の実力を持っていると感じた。娘もそのことは感じていたに違いなかった。何故、作家の師として彼を求めてきたのか、彼は不可解に思った。

 案の定、彼より先に娘の作品が地方新聞に掲載される始末だった。彼は、喜びはしたが、一方苦しみも感じた。娘は、父や母の身の回りの世話を一生懸命にし、家事や炊事もやっていた。今では、父も母も娘の手助けを心から喜んでいる有様だった。彼は、できることなら娘を養女に迎えようと思った。そうすれば、彼は安心して、自分の生命を考える必要もなくなると思った。何れ時期を見計らって、両親に話すつもりでいた。

 

 一年も過ぎ、娘は髪も豊に結い上げ、和服を好んで着るようになった。よく見れば、利口そうな美しい娘だと、彼は思った。

「若い娘を、いつまでも放っておく訳にはいかないわよ。お前、いつでも一緒になってもいいんだよ。」

母は、彼にそう言った。彼は、首を横に振ると、笑って言った。

「私の嫁になんかしないよ。私は、結婚するつもりはないんでね。彼女に相応しい人を見つけ、養女にしようと思うんだ。」

彼は、以前から考えていたことを口にした。母は、驚いた様子だった。その頃になると、彼の作品も地方の雑誌に載るようになり、地方の文学愛好家が彼の家を訪れることもあった。娘は、門下生宜しく、訪問する人をテキパキと裁いていた。

 

 彼は、中央文壇のある有名な文学賞を受賞し、文壇にも名を連ねるようになった。彼は、かの女流作家の作品と同じ題名「淡雪」の執筆を始めていた。長い心の旅だった。

「…縁のリボンに、紫の房を垂れた袋を下げ、黄色の一輪のマーガレットを胸に抱いていた…」

彼はその作品を書き上げると、娘に見せた。娘は、何故か目に涙を浮かべ、きちんと座って泣き始めた。彼は、黙って娘の部屋を去った。娘は、正確に彼の気持ちを捉えていた。

 娘は「淡雪」を一気に読んだ。彼が求めているのは何であるかを知った。かの女流作家への思いが、常に作品の底辺に流れる激しい作品だった。娘は、読み終わった「淡雪」の原稿を携えて彼の書斎を訪れた。彼は、本を読んでいるときだった。

「先生、お邪魔して済みません。とても素晴らしい作品です。」

娘はそう言うと、原稿を胸に抱いて俯き、押し黙ってしまった。彼は、黙って娘の姿を見つめていた。長い沈黙の末に、娘は

「先生、私は、ずっとここにいていいんでしょうか。」

と、寂しそうに言った。彼は、直ぐに答えた。

「ここは、君の家なんだよ。君に、この家の跡を継いで貰いたいんだ。我が儘のようだが、私は自由な世界に生きたい。死に様がどのようになるか分からない。君に、私の骨を拾って、この地に埋めて貰いたいのだ。遠いことでないかも知れないんだ。」

娘は、驚きながら彼の言葉を聞いていた。彼は、自分の養女になって、婿を迎えて欲しいし、父母の面倒も見て欲しいと頼んだ。それは彼女にとって訣別の言葉であり、ある意味では幸福の言葉でもあった。

「分かりました。先生の言葉通りにさせていただきたいと思います。」

娘の返答を聞くと、彼は目を閉じた。そして娘は、今までの心を秘め事として、永遠に心に閉ざしてしまうだろうと思った。

 

 彼の「淡雪」に対する批判は痛烈なものだった。「盗作」と呼ばれ、新聞や雑誌に見るに耐えない批判が一斉に掲載された。彼の家には、無神経な記者達や地元の文学愛好家達が、抗議にも似た面持ちで訪れた。娘が決まって応対し、決して彼にそれらの人を近付けようとしなかった。彼は書斎で、かの女流作家宛の手紙を書いていた。

…貴女には、ご迷惑がかかったことでしょう。でも、私は書かずにいられなかったのです。若くして死去した私の友、その友の日記を預かって読んでいると、書かずにおられなかったのです。このようなことをした責任は、全て私がとります。贋物と呼ばれてもよいのですが、友のために「淡雪」を抹殺してしまうことがないように、お願いしたいのです。思えば、長い年月が経ちました。人は不思議なものと思います。どうか亡くなった友に免じて、全てを許していただきたいのです。…

彼は、丁寧な詫び状を認め、郵便局員が訪れた際、直接手渡した。

 

 数日が過ぎても、好奇心のある記者達は、彼の町から離れようとしなかった。どこから集めたのか、彼に関するいかがわしいことを書き出した。経歴は勿論、娘のことが興味の的となっていた。かの女流作家は、沈黙を守り通していた。無論、彼の元にも返事は来なかった。

 彼は、寂しくて堪らなかった。かの女流作家から、何かしら反応があってもよいと思った。そして悩み、彼女に対する疑いの心が涌いてきた。彼は、娘に黙って、家を抜け出し東京へ向かった。記者等は、彼を取り巻き罵声とも、質問ともつかない言葉を浴びせた。彼はじっと耐え、ようやく東京に着いた。東京では、もっと大きな騒ぎで彼を迎えた。

「私は、彼女の家に行きたいのです。ただ、それだけです。」

彼は、そう言い残し、タクシーに乗り込み、彼女の家へと向かった。取り巻きの記者達の車は、先に駆けだし、彼の乗っているタクシーの進路を妨害し、平気でフラッシュを焚いている始末だった。彼は、身の危険さえ感じた。

「運転手さん、奴らを巻いてくれ。奴らを巻いたら、三国の峠を越えて、私の家まで行ってくれ。」

そう言って、彼は、後ろ座席に横になり目を閉じた。彼は、軽い眠りに幾度か襲われた。長い間、タクシーは走り回った。

「お客さん。駄目です。私も疲れました。ホテルに入れば安心と思います。」

タクシーの運転手は、首を横に振りながら言った。彼は、タクシーの運転手の言うことも尤もだと思った。彼は、大きなホテルに入り、逃れるように部屋に入った。

 部屋に入った彼は、誰かに追い立てられている音が、耳から離れなかった。テレビをつけてみると、自分の行動が伝えられているのを見た。不用意な行動をとったことを反省した。夜になって、自宅から娘の電話があった。娘は、心配のあまり泣いていた。彼は、素直に娘に謝った。

 

 娘からの電話が終わって間もなく、フロントから電話があり、かの女流作家が面会したい旨伝えてきた。彼は、部屋に通すように伝え、彼女が来るのを待った。彼は、混乱していた。どのようにして迎えるかなど、皆目思いよらないことだった。彼女は、ボーイに案内されて部屋に訪れた。彼女を迎え入れ、応接のテーブルへ案内したときだった。彼は、カーペットに足を引っかけ、転んでしまった。転んでみて、彼は自分が本当に無様だと思った。

 四つん這いになり、床を見つめながら、全てが何でもないことのように思えた。前を見上げると、笑顔の彼女の姿が見えた。彼女は、彼に手を差し延べ、彼はその手を握り助け起こしてもらった。彼は、フロントに軽い食事と飲み物を持ってくるように伝えた。間もなく、ボーイが食事と飲み物を運び入れ、一礼するとボーイはドアーを閉めて立ち去った。

 

 二人は、話し出せずに向かい合って、暫く食事をとっていた。ただ、二人の心には、遠慮もなく落ち着いた気分となっていた。

「貴方は、おかしいわ。あの手紙読んだのよ。他人事のような書き方をして。嘘を書いていること、直ぐ分かったわ。」

彼女は、食事をとりながら、何気なく彼に言った。彼は、別に弁解はしなかった。

「それに宮城での講演の時、貴方がいたのは直ぐ分かったわ。終わってから、貴方を随分捜したのよ。」

彼女は、彼を見つめながら言った。食事が終わると、二人はバルコニーに出た。手摺に手を掛け、都会の灯を見つめた。

「今回の件で、君に色々迷惑をかけたようだ。本当に済まないと思っている。」

彼は、そう言って彼女を見つめた。彼女は、彼を見つめて微笑んで答えた。

「私、迷惑だなんて少しも思っていないの。却って、嬉しいくらいだったの。私のことを知っていながら、貴方は長い間、私に黙っていたわ。だから私も、少しの間、黙っていようと思ったの。」

彼女は、彼がマスコミに追い立てられ、ホテルに入ってしまったのを、最初は面白くテレビを見ていたという。見張りをされ、塞ぎ込んでいる彼を思ったら、家を飛び出してホテルまで来たと話していた。

「今日は、帰るわ。騒ぎは収まるわ。」

彼女は、平然として彼に言った。

「これから、どうなるんだろう。」

彼は、ドアーに向かって一緒に歩きながら、心配そうに言った。

「どうにもならないわよ。貴方が、私の家に転がり込んで、それで済むわよ。少しお互い年を取っただけ。」

彼女は、そう言って彼に接吻すると、右手を振りながらドアーを開けた。

「二日くらいは、ここでじっとしていてね。」

そう言って、彼女は姿を消した。彼は将来のことまで考えている彼女に、温かい思い遣りを感じた。

 

 翌日、かの女流作家は、テレビの人となった。彼の作品「淡雪」に関しての記者会見だった。最初の記者の質問に、彼女は口を切った。

「皆さんは、一人の作家の態度について質問されております。作家をはじめ、誰が、何を書こうとも、その自由はあるはずです。彼の作品が盗作だとは、私は思ってもおりませんし、それを訴えるという考えもありません。」

続いて、作品に直接触れながら言った。

「皆さんが盗作だと騒いでいることが、当の私にしてみれば、とんでもないことを皆さんがしていると思っております。同一の事実を経験している者であれば、同一の事実を取り上げて、何故、いけないのでしょうか。彼の作品は、私の作品以上に、真実性と文学生を持っていると、私は思っております。」

更に、彼女は具体性を持って言った。

「私の「淡雪」で登場する人は、彼そのものに間違いありません。彼を非難した方々については、軽率に物事を言い立てて欲しくないと思っております。」

彼は、中々厳しい口調で、自分を弁護している姿を見て、嬉しく思っていた。

「私の最も愛する人が、作品を通して、私の目の前に現れたのです。将来を含め、当然喜びを持って迎えることを考えておりますし、私の期待通りになると思います。」

彼は、彼女の記者会見を見て、彼女に大きな感謝をすると共に、幸福感に包まれた。

 

 テレビでの彼女の記者会見が終わってから、二時間ほどした後、彼に彼女から電話があった。夜の九時過ぎに、彼女が尋ねてくる旨の電話だった。末永い幸福な人生が始まると思った。

夜の九時になると、ドアーのノックする音が七回聞こえた。彼女が来たときの約束の回数だった。彼がドアーを開けると、いきなり黒ずくめの人物が飛び込んできて、彼を押し倒した。彼が起き上がろうとすると、彼の目の前に、銃口が冷たく光っていた。

「誰だ、君は。俺は死ぬ訳にいかないのだ。」

彼の問い掛けに、その人物はただ静かに彼を見つめていた。彼は、人を殺すのに冷静過ぎるほどの人物だと思った。プロの殺人者だと感じた。失敗なく、確実に自分を殺していくだろうと思った。彼は、静かに立ち上がった。そして黒ずくめの人物が指示するとおり、バルコニーに向かって歩き出した。

…やはり、私は無用の存在でしかなかった。幸福になれると思ったのに。…

彼の脳裏には、泣き叫ぶ父母の顔、そして娘の顔が浮かんだ。そして何故か、寂しそうな顔をした、かの女流作家の顔が見えた。

 重い足が、死刑囚の歩みのように、一歩、そしてまた一歩と震えながら引きずってゆくのを、彼は感じた。その一瞬、また一瞬を確かめながら、彼はバルコニーに向かって歩き続けた。それは、何の目的もない遅い歩みであり、死から少しでも遠ざかろうとする、本能丸出しの歩みだった。短い自分の人生に、微かに見えていた憧憬が、無惨にも忽然と消え失せ、寒々とした茫漠とした世界が広がっていくのを、彼は見つめていた。そして本当の人間の悲しみを知ったように思った。