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「越後路」

 

               佐 藤 悟 郎

 

 

 父は、初夏から晩秋にかけて、越後路の興業になると言った。越後路の旅は、私にとって悲しみの旅となった。昭和三十六年の越後路の興業だった。その時のことを、幻のように寂しく思い出すのです。

 

 私達一家は、旅芸人で一座を持っておりました。一座の中に河井清さんという青年がいたのです。河井さんは、私達が滋賀の坂本で興行しているときに、使ってほしいと尋ねてきたのです。父は、最初河井さんの申し出を拒みました。しかし、興行中毎日尋ねてきて、河井さんは父に懇願したのです。父も根負けをして、一座の一員として迎え入れたのです。

 

 河井さんが、毎日、父に懇願にきたとき、私も父の傍らに居りましたので、河井さんの話は、一部始終聞いておりました。河井さんは、最初、芝居がやりたいと言っておりました。父は、河井さんの体格が貧弱だから使えないと言いました。次に、河井さんは芝居の台本書きをしたいと言いました。京都の大学を中退したけれど、学生時代に少し書いたことがある。良い台本を書くように努力すると言っておりました。

 

 私は、河井さんが特に変わった人だと思ってもおりませんでした。一座には、文学者崩れのような人、大学中退の人なども、結構使ってほしいと尋ねてきていたのです。今まで尋ねてきた人の多くは、演劇について勉強してきた方で、自分の作品を誇らしげに見せるのでした。私の父は、このような文学的猛者は、一座を破壊するおそれがあると信じて、受け入れなかったのです。

 

 私の父は、河井さんに何か作品があるかを尋ねました。河井さんは、小説と詩を書いたことがあるが、他人に見せられるようなものでないと答えました。一座の中で生活をし、芝居を学び、台本を書けるようになりたいし、教えてもらいたいと言っておりました。それもかなわないなら、太鼓叩きでも雑用でもよいので、一座に身を置かせてもらいたいと言っていたのです。

 

 私の父は、傍らに座っている私を見つめ考えたのだと思います。その時、私は十五歳だったのです。私は、学校に通えず、父は学力のない私に責任を感じているようでした。私の父は、私に毎日勉強を教えることを条件に、河井さんが一座に入ることを認めたのです。手当て無しで入るということでしたが、河井さんは大層喜んでおりました。

 

 河井さんが一座に入ってから、私の苦しい時代が始まったのです。朝早くから起こされ、私は勉強をしなければなりませんでした。河井さんは、旅回りの忙しい時でも、私に付き添うように勉強を強いてきたのです。算数の加減、乗除などは、広告の紙や地面に書いて勉強をしたのです。更に、漢字の練習、特に恥ずかしかったのは、河井さんの前でたどたどしく本を読みあげることでした。二人の勉強は、大方、父の目の届くところでしておりました。父は、私に卑しい心を起こさせまいと気を配っているようでした。

 

 河井さんは、息を抜くように、時々私を散歩に連れて行ってくれました。時には、父と共に、母と共に、一座の人々と共に散歩に出たのです。私は、毎日舞台に上がり、父から厳しい稽古を受けて疲れておりました。そんな時でも、夜になると勉強をしなければなりませんでした。当用漢字は、毎日半分ずつ、二日で一巡する勉強を繰り返しておりました。私にとって目新しいことばかりで、なかなか頭に入りませんでした。読書も厳しいものとなりました。童話、小説、随筆などが、私の教科書となりました。私は、読むだけで精一杯なのに、それらの理解や全体構造、文章分析などを説明させたのです。算数の方は順調に進み、数学となりました。

 

 河井さんがいないとき、いつも私は父や母に、勉強が厳しすぎると愚痴を漏らしました。父は、

「勉強の苦しさは、我慢しなさい。」

と言って、私の言うことを取り合ってくれませんでした。河井さんの冷淡な勉強方法に、私は怒りを覚えておりました。

 

 ある日、私は耐えかねて、父の前で河井さんに向かって言いました。

「余りにもひどすぎます。疲れて、私の体は持たないわ。」

河井さんは、私の言うことを全然取り合ってくれませんでした。とにかく、急いで今やっていることを終わらせなければならないと言い、国語の文法を始めたのです。父は、黙っておりました。読書の量は益々多くなり、数学も追いつけないほど早く進んでいきました。河井さんが、厚い漢詩集を私の目の前に置いて、読むように言ったとき、とうとう私は泣いてしまいました。

 

 父は、この件で河井さんに注意をしました。河井さんは、父に反対をしたのです。

「今の状態を駄目にするのなら、もう勉強は教えない。」

と河井さんは言ったのです。更に、私が勉強するのに大切な年頃であり、舞台を控え目にしてでも、勉強するべきだと言ったのです。私の父は、河井さんが

「舞台を疎かにしても、勉強するべきだ。」

と言ったことに対し、舞台を侮辱することだと言い返し、私に勉強を教えなくてもよいと言ったのです。私は、河井さんの厳しい勉強から逃れることができたのです。

 

 一週間も過ぎると、私は、朝や夜が何か物足りなさを感ずるようになったのです。それ迄、勉強した本などを読んだり、目を通してしまう毎日だったのです。夜、河井さんのいるところを窺ってみると、いつまでも細い灯りが見えました。河井さんは、箱を台にして、調べ事や書き物をしておりました。朝早く起きてみても、河井さんはいつも起きておりました。毎日、殆ど眠っていない状態でした。そんな姿を見て、私が舞台稽古の他の時は、遊んでいるにしか過ぎないことを知ったのです。私は、新しい土地で貰った教科書を手にして、簡単に読み、理解できるようになっていることを知り、嬉しいと思いました。

 

 私は、勉強することが大切だと知ったのです。勉強が苦しいことだということも知りました。私は、父のところへ行き、勉強を止めたのは私の間違いであり、河井さんにもう一度勉強を教えてくれるように頼んでほしいと言いました。私の父は、考えてみると言って、翌日、改めて私に尋ねたのです。父は、私を河井さんの前に連れて行き、私を座らせたのです。父は、頭を低くして、前のことを詫び、私に勉強を教えてくれるように頼んだのです。河井さんは、とても喜んで引き受けてくれました。父は、厳しく私に言いました。

「これからは、河井さんを、先生と呼びなさい。」

私は、父の言葉を背に受け、河井さんに

「先生、お願いします。」

と震える声で言いました。顔を上げ、生涯の先生となる人を、瞳を凝らして見つめました。

 

 私にとって、疲れる苦しい毎日が再び始まりました。勉強も舞台も疎かにしないように、気を配って私は生活をしました。私の父は、私の舞台稽古や出番を控え目にするように気遣いをしているのが分かりました。私は、愚痴など思いも浮かべませんでした。自分の選んだ生活だと思ったからです。僅かな暇を見付けては、読み、書き、暗誦し、そして計算をしました。分からないところがあると、私はいつでも河井さんのところへ聞きに行ったのです。

 

 河井さんは、私に漢詩の読み方と解釈について教え始めました。半年も経たないうちに、私は読むことに大体慣れてきました。数学はいよいよ難しくなり、漢詩に合わせて、習字も教えられたのです。私は、本を読み通す力を得たことを知りました。漢詩の幾つかも暗誦でき、抑揚をつけて詠うようになりました。習字も体よく書けるようになり、一座の一寸した貼り札にも、恥ずかしくない程度のものを書きました。私の父も母も、河井さんをとても敬愛するようになりました。

 

 しかし、座長としての私の父は、河井さんを、台本書きには向いていない人だと言っておりました。河井さんの激しい生活は、精神そのものであり、台本も精神そのものが書き上げられ、舞台を飾る言葉が少なく、表現が鋭くて理解するのが困難であり、舞台性がないと言っておりました。

 

 私は、訪れる町の本屋に出入りし、本を買い求めるようになりました。河井さんも、買って読んだ方がよい本を教えてくれました。随筆や小説、戯曲などの本を多く読むようになりました。河井さんは、歴史について私に教え始めました。人間の歴史がどのように流れてきたのか、思想や文化がどのように変遷してきたのか、事件や人物の見方をどのようにするのかを教えてくれたのです。私は歴史を学び、自分がどのように生きていくのか、朧気ながら考えるようになりました。歴史の中に、私の学ぶべき多くのものがあることを知りました。歴史に現れる大切な本を選ぶことができるようになったことは、私の掛け替えのない出来事でした。

 

 昭和三十五年の晩春、私達一座は、山形県の温海温泉にいました。私と河井さんは、父を伴って散歩に出かけました。父は、夏から秋に新潟県に入って興行すると話したのです。眺望のよい山の頂に座り、河井さんは感慨深げに言葉を漏らしました。

「来月から、越後路の旅ですか。夏の越後路は、暑苦しい。秋まで居れば、越後の秋は久しく、懐かしい。」

私は、この時初めて河井さんの故郷が新潟県であることを知りました。

 

 私の勉強も四年を過ぎ、数学も微分から積分に入っておりました。それと共に時間の少なかった物理、地学、生物、論理にも重点を置いてやるようになりました。歴史や読み書きは、私一人で行うようになり、河井さんもその時間を与えてくれました。

 

 時々、河井さんは、私に作文の指導もしました。その中で特に、写生文と心理描写を自分のものにするように教えられたのです。河井さんは、私に学問的知識を与えてくれました。私の人生に、これ程大切なものはありませんでした。一緒に生活し、河井さんの激しい生活態度に馴染みました。私の生涯忘れることのできない人となり、恋心も抱いておりました。散歩する折、私は求めて手を握り、背中を両手で押し、腕を組み、楽しんでいたのです。河井さんは、私に対して女性としての興味は抱いていないようでした。

 

 越後の夏は、蒸し暑いものでした。夜は、涼しくなるとは言え、舞台の灯りに蛾が群がり、手に負えないこともありました。そんなある日、私と河井さんの二人で散歩をしました。河井さんは、血走った鋭い目をして、景色を見つめておりました。その頃、河井さんには、そのような様子がよく見られたのです。私は、腕にすがり、頬を寄せたのです。河井さんから汗臭いが、私の鼻を突きました。河井さんは、形振り構わず、風呂にも入らず、着替えもしないのを知っておりました。私は、汗の臭いなど苦になりませんでしたが、手を握ったとき、河井さんの手が余りにも熱いのに驚いたのです。私は、河井さんに、何故手が熱いのか尋ねたのです。河井さんは顔色を変え、驚いた様子で、私の腕を振り払ったのです。そして、少し風邪気味なのだろう、と答えました。今考えると、それは結核で、病も相当進んでいる状態だったと思っております。

 

 その日の夜、河井さんは機嫌がよく、私に台本を見せてくれると言って、私に一束の原稿を手渡しました。その台本を読んでいるうちに、父が言ったように舞台台本に向かないと感じました。余りにも精神的なことが強調されていたからでした。私は、単なる台本としてではなく、一つの文学作品として読みました。人間の心についての記述に、私は大いに感銘しておりました。私は、文学作品に大きな興味を覚え、河井さんに、作品の創作について教わろうと思いました。

 

 河井さんの散歩は、度を超えて激しくなりました。足の向くまま、俯き考えながら歩いて行くのでした。時には、私が追い付けない程の早さで歩き、時にはぶつぶつ言いながらゆっくり歩いているのです。舞台明けの日などは遠出をして、方向を見失たり、真夜中に帰ることもありました。夜は夜で、爛々と光る瞳に苦悩を溢れさせ、遠くを見つめている様子で、眠ることが殆どなかったのです。私が、体に障るからと注意をしても、生活を変えようとはしませんでした。私は、河井さんの極限の生活を見て、戦いている他なかったのです。

 

 新発田というところでの興業中、河井さんは、父に小千谷に寄ることを確かめ、一足先に小千谷に行きたいと言ったのです。河井さんは、私の家族と深い絆がありましたが、一座の舞台にとってそれ程必要ではなかったのです。父は、河井さんを休養させると言うことで許しました。小千谷で必ず再会する約束で、私達家族は、夜行列車に乗る河井さんを見送りました。

 

 河井さんが小千谷へ行ってしまい、私は心寂しく日々を送りました。朝起きても河井さんの姿が見えず、勉強相手もおりません。散歩も語らいもなく、色々世話もしてあげられず、私の喜びがなくなったのを感じました。そして一日も早く、河井さんに会いたいと思いました。新津の興業が終わったのは、八月半ばでした。興業が終わると、暫くその地に留まることが多かったのですが、私は一座の者数人と母を伴って、先に小千谷に向かったのです。

 

 私達は、昼過ぎに小千谷の町中にある片山旅館というところに入りました。旅館の主人は、河井さんをよく知っておりました。私達が道を尋ねると、丁寧な地図を書いてくれました。残暑も冷め、涼しくなった夕方、私達は河井さんの家を訪れたのです。河井さんの家は、郊外の旧家らしく、古い立派な造りでした。

 

 河井さんは、嬉しそうに私達を迎えてくれました。私は、内心ホッとしたのですが、河井さんが痩せ細った姿に驚いたのです。河井さんは、襖を取り外して広間を作り、その夜の内に旅館から私達の荷物を届けさせました。私達は、河井さんの家で寝泊まりすることになったのです。庭は、長い間手入れをしていなかったのでしょう、荒涼としておりました。

 

 私は、母と一緒に河井さんの部屋へ行きました。その部屋には夥しい程の書物が整然と備えられており、また、多少の小説や歴史書、何かの資料などが畳の上に散乱しておりました。窓を開け放ち、万年床に机を寄せ、河井さんは丁度書き物をしておりました。私と母は、河井さんが振り返ってくれるのを待つように、後ろで静かに座っておりました。

 

 長い時間、知ってか知らないのか、河井さんは私達に話しかけてくれる様子もありませんでした。私と母が、物音せぬように静かに部屋を出ようとすると、河井さんは、後ろ様に少し待って欲しいと言ったのです。なお暫く待った後に、河井さんは振り返り、お茶を飲みながら、河井さんの家のことについて話を始めたのです。

 

 翌日から河井さんは、私を散歩に連れて行ってくれました。夜になると、私は河井さんの部屋に忍び入り、机に向かっている河井さんの背後から、河井さんの姿を飽きることなく見つめておりました。散歩は、度を超えて激しく、また夜は遅くまで起きておりました。私が、河井さんの背後で寝入ったとき、夏布団がかかっているのに気付くこともありました。

 

 ある日、私は屑籠の中に、血の付いたハンカチを見付け、愕然としたのです。私は、悲しい思いで河井さんに尋ねたのです。河井さんは、苦笑しながら

「もう、手遅れなんです。他から見る程、体は良くないのです。ひどく疲れるのです。」

と答えたのです。そして手術に耐えられる体でないこと、生きられるまで生きて、死を待つだけだとも言っておりました。

 

 私は、大切な人が、そう遠くない日に地上から消え去ると思うと、恐ろしくもあり、胸が震え、目の裏が熱くなって、急に涙が落ちてきたのです。河井さんと一緒に過ごしたことが、脳裏を駆け巡っていくのでした。私は、河井さんに抱きつき、その胸に顔を埋めて、ただ泣いておりました。

 

 小千谷の秋祭りが間近になり、興業準備が終わりました。河井さんは、とうとう床に臥し、起きることができなくなりました。診察する医師は、首を横に振るばかりでした。寂しそうに微笑みながら、河井さんは、私に原稿用紙の束を手渡しました。

「私と貴女の小説です。もう、書けない。疲れた。」

そう言って、河井さんは深い眠りに陥ったのです。自殺に似た激しい生活、そして人生だったと思いました。何故、死に急ぐのかと、心の中で河井さんに問いかけました。河井さんは、苦しみから解放されたように、明るく微笑むような顔を私に向けておりました。その時、河井さんは二十五歳、私が十九歳の秋でした。