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 「里の秋」

 

                             佐 藤 悟 郎

 

 

 瞳の澄んだ、少し増せた少女が「里の秋」を歌っている。この夕暮れの公園の、子供達の群れの前に立っている少女を、静かに見つめた。調子を取るように首を振り、唇を丸めて、可愛い声を張り上げて歌っている。

 子供達の脇を通りながら、私も小さな声で「里の秋」を口ずさんだ。そして、私は急に寂しさを感じた。遠く、小学校時代のころ、同じ歌を聞いた寂しい出来事を、思い出したからである。私は、公園の池の端に佇み、水面に写る、暮れていく樹木の茂みを見つめた。首を少し傾け、微笑みかけるように歌っている美しい少女、幸子の姿を彷彿と思い浮かべた。

 誰からも好かれ、女王のように振る舞っていた幸子だった。いつの頃か、この町から姿を消してしまった。音信は、ぷっつりと切れ、誰も知らなかった。私も、幸子を好きな少年の一人だった。幸子の家は、小学校の裏にあった。その庭には、にこやかな幸子の母が、時々、洗濯物を干している姿があった。庭には、花が溢れるように咲いていた。幸子は、日が暮れるまで、校庭で遊んでいることが多かった。少年達は、幸子を取り巻き、話しかけ、遊び回っていた。幸子は、少年達を従え、髪の毛を軽やかに宙に踊らせ、私の前を通り過ぎていくのだった。

 

 幸子が、小学校から姿を消す、少し前の夕方のことだった。私は、先生に叱られ、教務室の前の廊下で、長く立たされた。先生方が帰る頃になって、やっと許されたのだった。校舎は、戸締まりも終わり、誰もいなくなり静かだった。私は、静かな校舎を、教室に向かって歩いた。教室に入ると、私の机の前に幸子が立っているのに気付いた。

「あの先生、こんなに遅くまで立たせるなんて、ひどい先生ね。」

「仕方ないさ。俺が悪いことをしたんだもの。慣れているよ。」

私は、恥ずかしかった。先生に叱られ、立たされた、惨めな姿を見られているかと思うと、顔を上げることができなかった。それに加えて、可愛い女の子を、まともに見る勇気もなかった。幸子のような、明るい女の子達とは縁がなかった。

「ね、政夫君、席に座ってみて。私、歌を歌うから聞いてくれない。」

私は、突然の幸子の言葉に、不思議な思いがした。幸子を見ると、美しい瞳が私に向けられていた。意味もなく、深い微笑みが浮かんでいた。私は、席に腰を下ろした。幸子は、教壇に上がると、一礼した。

「五年三組、山田幸子です。「里の秋」を歌います。」

幸子は、私に向かって言った。心持ち右に顔を傾け、私を見つめながら歌い出した。私は、幸子の顔を貪るように見つめた。歌が終わるころになると、幸子の瞳から涙が流れた。

「私、この歌を歌うと悲しくなるの。学芸会で歌えそうもない。」

幸子は、震える声で言うと、教壇から降り、逃げるように駆け出した。教室を出て、廊下を走って行く足音が、暮れていく静かな校舎の中に響き流れていた。私は、幸子の足音が聞こえなくなるまで、項垂れて椅子に座っていた。

 秋の学芸会の前の日、忽然と幸子の姿が消えてしまった。先生は、幸子の家は引っ越し、転校してしまったと言った。知ったか振りの生徒は

「幸子の家はよ、夜逃げをしたんだぜ。」

と悪口を言っていた。私は幸子のことについては、心の奥深く閉じ込め、何も口にすることはなかった。

 

 私は、中学生になって、家の都合で隣町の中学校に転校をした。できるだけ真面目な生徒であろうと、心に決めていた。そして、隣町で中学校と高等学校を卒業した。高校を卒業して、何故か、私は思い出を辿るように、この町の会社に就職をしたのである。毎日のように汽車での通勤だった。小学校時代のことを懐かしく思い、会社が終わると、時々、この社を訪れるのである。子供達の歌う「里の秋」を聞いたとき、寂しく幸子のことを思い出したのである。

 公園の池の水面を見つめていると、幸子の歌っている姿が、寂しそうに写っている。私は、苦笑をしながら口を丸め、水面の幸子に語りかけた。

…静かな、静かな、里の秋、お背戸の…

空耳なのだろう、私の耳に歌声が聞こえてくる。歌は乱れがちになって終わった。暗くなりかけ、私は池の端で立ち上がった。帰ろうと思い、後ろに向きを変えた。私の目の前に、髪の豊かな、清楚な姿の女性が、私を見つめ立っていた。

「政夫さんでしょう。幸子です。覚えているかしら。」

白い洋服に身を包み、美しい女性が、微笑みながら私に向かって歩いてきた。私は、軽く頷き、幸子が近付いてくるのを茫然と見つめていた。私の血潮は高鳴り、体が硬直していくのを感じた。