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「浪漫への憧れ」

 

                         佐 藤 悟 郎

 

 

 大きな銀杏の木、緑の細かい葉が学舎の玄関から見える。狭い盆地の田舎町にあるこの高校は、木造の二階建ての古い校舎だった。青銅の浮いた屋根瓦が、澄んだ青空に映えている。校舎の一角から生徒の歌声が流れ、急な勾配の屋根には、小鳥が飛び交っている。廊下で耳を澄ますと、中庭の涼しげな風が木立のそよぎを誘っている。

 音楽室の開け放たれた窓から、ピアノを弾く気品のある女性教師の目崎先生の後姿が見える。二年生の教室で日本史を教える遠藤先生は、一見して貧弱な体格の先生である。男子生徒に教科書を読ませ、自分は教科書を左手に持ち、時折音楽室の方に目を投げていた。

 

 午前中の授業が終わると、遠藤先生は教科書を右の小脇に抱えて、二年生の教室を出た。廊下をゆっくりとした歩調で歩いた。購買に昼食のパンを買いに行くのだろう、廊下を騒々しく生徒が走っていた。

「ご苦労様でした。」

軽やかな声を目崎先生は、遠藤先生に投げかけた。甘い芳香を漂わせ、目崎先生は通り過ぎていった。遠藤先生は、美しい女性と思いながら目崎先生の後姿を見つめていた。

 遠藤先生が教務室に入ると、目崎先生は自分のお茶を運び、席に座るところだった。目崎先生の机の向かいは、国語担当の谷沢先生の席だった。目崎先生は谷沢先生と話し始めた。谷沢先生は、国語を教えるには少し体格が良すぎる男性だった。遠藤先生は、そんな二人の姿を見ながら自分の机に向かって歩いた。目崎先生は、一瞬遠藤先生に瞳を投げたが、直ぐ谷沢先生と世間話を続けた。

 目崎先生は、目や鼻立ち、それに唇のはっきりとした気丈な感じのする、柔らかい顔の輪郭を持つ美しい女性だった。遠藤先生は、目崎先生に背を向けて自分の席に腰を下ろし、机の上に教科書を投げ出した。両手を頭の後ろに組んで、午後の授業予定がないことから、何をしたらよいのか考えた。

 

 目崎先生の家は、この町の古い家柄で、父は町の助役をしている名士だった。以前、雪が降っているとき、遠藤先生と谷沢先生は、目崎先生に招かれて訪れたことがあった。谷沢先生は、目崎先生とその父と意気投合し、酒を大いに飲み大声で喋り捲っていた。遠藤先生は、酒に酔ってしまい、炬燵のある居間で寝転び、目崎先生の祖母と話をしていた。

「長いこと生きてきたけど、生甲斐とは何だろうね。」

遠藤先生は、祖母の突然の問いかけに、酔った頭を捩じらせて考えた。日頃考えなければならない問題が、突然とぶつけられたと思った。

 遠藤先生は、目崎先生の家を訪れた日のことを思い出していた。祖母の問いかけに、何かを答えたのは確かであるが、何を答えたのか思い出そうとしていた。酔った勢いで言ったこと、それを祖母が優しく微笑んで聞いていたのを思い出した。目崎先生の家を訪れた日、谷沢先生は、終始彼女とその父と愉快に、有意義な時を過ごしたようだった。その翌日谷沢先生は、いつになく明るく元気な姿を見せていた。

 

 事務の女の子が、遠藤先生のところへお茶を運んできた。思いついたように、机の隅に置いてある弁当包みを引き寄せ、結び目を解きながら遠藤先生は、事務の女の子に言った。

「君、生甲斐って、何か分かる。」

事務の女の子は、突然の質問に目を丸くした。

「そういう難しいことは、習ったことがありませんので分かりません。」

軽くそう言い流すと、クルっと向きを変え勢いよく立ち去った。

 

 午後の授業が始まると、遠藤先生は静かになった教務室に取り残されたように、一人机に向かっていた。遠藤先生の胸に、寂しさが横切っていく。何かはっきりと分からないが、生きている寂しさだと思った。

「所詮、私の行き着くところは、暗闇の死の世界ではないか。人間は救いようのないものなのだ。」

そう思う自分が、なおさら惨めに思えた。振り向いて谷沢先生と目崎先生の机を見た。二つの机をまたがるように置いてある花瓶の黄色と紫の花が、生き生きとまた眩しく見えた。窓際には明るい日差しが落ちていた。

 遠藤先生は、教務室から出て図書館へ行った。十数人の生徒が静かに勉強をしていた。

「新しい本、何か入ったかな。」

図書館の事務員に尋ねると、事務員は食堂のメニューのように書かれた一枚の紙を彼の前に差し出した。その事務員は、本を読むのに熱中しいて、遠藤先生に目すら向けなかった。

 遠藤先生の興味がある新しい本は、そのメニューにはなかった。大学時代に講義を受けたことのある哲学教授の著作を認めたが、あの難解単純な講義内容を思い出すと、とても読む気になれなかった。

 

 遠藤先生は、図書館を出ると校舎の外に出た。校舎の脇のプラタナスの並木を通り、校舎の裏手のグラウンドに出た。体育の授業で男子生徒はサッカーをやり、女子生徒はフィールド競技をしていた。

 体育の授業の様子を脇目で見ながら、遠藤先生はグラウンドの奥にある丘に登った。丘には、緑の浅い草原に三人の女生徒が、膝の上に本を置いて腰を下ろし、話をしていた。大きな桜の幹の近く、桜の葉の広がりが女生徒達の上に日陰を作っていた。遠藤先生は、女生徒達を見つめた。女生徒達も、柔らかい瞳を彼に投げかけた。

 三年生の女子生徒で、遠藤先生は、その中の一人を知っていた。大学時代の友人の妹で、堀井由美子という名前だった。堀井の兄は優秀な大学生で、卒業してから高級官僚の道を歩いていた。その妹の由美子は、勝気な生徒で剣道部に入っている美しい生徒だった。遠藤先生がこの高校の新任教師として来たのは、堀井の妹が一年生の時だった。生徒名簿で確認をしたが、話をしたことはなかった。

 堀井の妹は、成績も兄に似て優秀で心配することはなかった。遠藤先生は、その三人の女生徒達の方に向かって歩いた。女生徒達の膝の上にある本は、小説であることが分かった。

「何の話をしていたのかな。」

女生徒達からは何の返事もなく、三人とも黙って顔を下に向けた。遠藤先生は、余り生徒達と話をしたことがなかった。物静かな先生で、生徒の間では何の噂の種にもならなかった。

 木陰を吹き抜ける風が、俯いた女生徒達の前を通り、生徒たちの髪を撫で回した。遠藤先生は、揺れ動く細い髪を見つめていた。

「皆の邪魔をしたようだね。」

そう言った言葉にも、返事がなかった。無言の女生徒達の前に立っていたが、溶け込めそうもなく、苦笑を浮かべ足の向きを変えると歩き出した。

 丘の林の向こうには、大きな川が流れていた。遠藤先生は、寂しい思いを一層重くして、林の中へと消えて行った。浅い緑が映える林の中に、地味なグレーの背広姿、目立たない姿が寂しそうに消えていくのを堀井の妹は見つめていた。

 

 午後の授業が終わると課外活動となる。遠藤先生は、課外活動を担当しておらず、いつも暇な時を過ごしていた。

「よろしければ、音楽部の方へ来てみませんか。」

目崎先生の誘いの言葉で遠藤先生は、音楽教室を尋ねた。来年定年を控えている教頭先生が指揮棒を振り、目崎先生が合唱のピアノ伴奏をしていた。日本民話をアレンジした三部合唱の曲だった。遠藤先生は、音楽教室の片隅で、物音を立てまいと少し緊張した面持ちで聞いていた。ピアノを弾く豊かな表情を、美しくものだと思って見つめた。

 課外授業の時間が終わると、大半の生徒は帰っていく。課外授業に続いてクラブ活動の時間となる。音楽部は、音楽教室で活動することがほとんどである。生徒達は、色々な楽器を手にして、声を張り上げ賑やかになった。遠藤先生は、緊張感から開放された。

「賑やかでしょう。生徒達は、勝手にやるわ。」

目崎先生は、そう言って遠藤先生の隣に腰掛けた。

「これでも、皆中々うまいのよ。先生は、何か楽器をおやりになったことがありますの。」

時折、大きな声で練習する生徒たちの間違いに注意を与えながら、目崎先生は遠藤先生に尋ねた。

「ええ、私の姉がピアノをやっておりまして、その真似事で少しピアノをやっておりました。」

目崎先生は、遠藤先生の顔を覗くように

「じゃ、今、弾いてみますか。」

と言った。遠藤先生は少し顔を赤くした。

「人前で、ですか。そんな代物ではないんです。ドレミですよ。それも拍子外れのものですから。」

遠藤先生はそう言いながら、馬鹿なことを言ってしまったと思った。暫くして、目崎先生に誘われるように、二人は体育館の剣道部の練習場所に行った。剣道部は、谷沢先生が指導していた。目崎先生は、谷沢先生と少し話した後に、堀井の妹を呼んだ。白袴姿の堀井の妹は、目崎先生の言葉に頷いたり、首を横に振ったりしていた。目崎先生は用件が終わると、遠藤先生と連れ立って歩きながら体育館から出て行った。

「何かあったんですか。」

遠藤先生は、目崎先生に尋ねた。

「あの生徒、先生も世界史を教えているからご存知だと思いますが、三年の堀井と言う優秀な生徒です。」

目崎先生は、そう言うと少し間をおいて、急に声を落として言った。

「あの子、ピアノがとても上手なの。音楽学校へ行くつもりなの。でも練習をしなくちゃ駄目よ。剣道で怪我でもしたら大変でしょう。剣道を止めなさいって注意したの。」

目崎先生はそれだけ言うと、音楽教室に戻ると言って足早に歩き、遠藤先生と別れた。

 

 遠藤先生は、初夏の香りが漂う校門を出た。クラブ活動も終わり、遅い生徒達も帰る時間だった。時折空を仰ぎ、気の抜けた寂しい自分の姿を思いながら、ゆっくりと歩いた。下宿に帰ってからの予定を思った。夕食をとって風呂に入る。それから、おそらく机に向かうことだろう。小説を読み、音楽を聴き、そして小説を書き、思想書を読み、最後に酒を飲み、疲れて眠っていくだろう。それも毎日の下宿での生活だった。

 ゆっくり歩く遠藤先生を、生徒達は追い越して行く。表通りに出ると、商店街の雁木となっている。商店の品物が店からはみ出し、雁木の通りは狭苦しくなっていた。店には明かりが点き、人通りも多くなっていた。一瞬、振り返るかのように遠藤先生を見つめ、通り過ぎて行く堀井の妹の姿があった。その姿も、人込みの中に消えていく。三人連れの女生徒の後姿を、遠藤先生は見送った。

 

 町裏の狭苦しい通りにある、古い木造の二階建ての家が、遠藤先生の下宿だった。声をかけて家の中に入った。帰ってきても、誰も返事を返さない下宿だった。奥の台所へ行くと、五十を超えた奥さんが夕食の支度をしている。遠藤先生は、軽く挨拶をして、学校で洗ってきた昼食の弁当箱を奥さんに渡し、二階へ行こうとした。

「遠藤先生、最近、何か元気がないようですね。」

奥さんは、遠藤先生に声をかけた。

「やはりそう見えますか。心配はないんですが、少し憂鬱なんです。」

苦笑しながら遠藤先生は、そう奥さんに言って二階へ上がって行った。

 部屋の窓は開いていて、隣の家からピアノの音が流れてきた。浴衣に着替えて窓の縁に腰掛け、隣の家の下の部屋で、ピアノに向かっている少女の姿を見つめた。まだ幼い少女が、何のためにピアノを弾いているのだろうかと不思議に思った。

「私は、何のために教師をやっているのだろうか。」

世の中に、確かに教師は必要であるが、自分が何故それに関わりを持ったのか良く分からなかった。ある単純な思いから、遠く離れた地で教師をしている。その思いも、どこかに消え去っていると思った。そう思うと、小説を書くことや本を読むことも意味が薄れてくるのだった。

「人間の目的や結果は、実現しないままに幕を閉じるだろう。人間の生甲斐とは、現実にしか現れないのだろう。満足できようができまいが、刹那的な現在だけなのではないのだろうか。」

全ての行動や活動は、到底人生の目的となり得ないと感じた。

 隣の少女は、本当にピアノの練習に熱心である。将来は偉大な演奏家になるかもしれない。それは素晴らしいことであり、少女もそれを夢見ているだろう。しかし実際となると、実現することは先ずないだろうと思った。

「先生、何を考えていらっしゃるの。」

突然、下宿の娘の声が降りかかってきた。遠藤先生は、驚いた様子で娘を見た。下宿の娘は、落ち着いた健康そうな微笑をいつも浮かべている明るい娘だった。

「いえ、なんでもないんですよ。隣のお嬢さんのピアノにうっとりしていたんですよ。」

下宿の娘は、相槌を打つと遠藤先生の脇に腰を下ろして、暫くピアノを聞いていた。そして下宿の娘は、思い出したように夕食を告げると、遠藤先生を残して下へと行ってしまった。遠藤先生はゆっくりと窓を閉め、ゆっくりと階段を下りていった。

 

 

 夕食が終わるころ、下宿の娘の恋人が訪れた。結婚も間近ということは聞いていた。来年になれば長男が大学を卒業して、家に帰ってくるという。その時になれば、遠藤先生は、この下宿を出て行かなければならないと思っていた。夕食を済ませ、読書をして小説を書いていた。ふと窓から空を見上げた。深遠な空に星が輝いていた。その星を、初めて見たもののように不思議そうに見つめていた。

「人間は脇見ばかりしている。そうしなければ生きていかれないのだ。」

遠藤先生は、そう思うと寂しくなった。自然に支配された人間には、本当の自由はないものと思った。更に人間は、社会の中へと、そして自己の中へと引き篭もり、縛られていくのだと思った。

 

 ある日、遠藤先生は世界史の授業で、突然に生徒から質問を受けた。質問をしたのは、堀井の妹だった。

「先生、何故、私達に、歴史の本当の意味を教えてくれないのですか。」

堀井の妹は、澄んだ瞳を向けて立ち上がって言った。遠藤先生は、質問の趣旨がよく分からないので、説明を堀井の妹に求めた。堀井の妹は言った。

「私達は、確かに先生から歴史的事実を教わっております。でも何故、私たちが歴史を学ばなければならないのかを教わっておりません。」

堀井の妹は、少し言葉を休めて、更に言った。

「私は、国語の谷沢先生から、歴史で学ぶものは歴史的事実でなく、歴史を総体的な流れとして捉えることだと言われ、とても印象強く思っております。谷沢先生は、歴史には必然性があり、その必然性に向って歴史的事実が生まれていくと言われました。谷沢先生が言われたことが正しいのであれば、私たちが習うのは、現代が必然的に現代になったことを教えていただきたいのです。更に、未来が必然的にどのようになってゆくのか、それが重要であり、教えていただきたいのです。」

遠藤先生は、堀井の妹の言葉に呆然とした。その問いかけは、受け止め方によって、授業内容が悪いということになるからだった。歴史というものを、その教える手順を超えて自由気ままに言い、生徒に特異な影響を及ぼしている谷沢先生に反発を感じた。遠藤先生は、堀井の妹に答えた。

「堀井さんの言った意味は分かった。私が思っていることは、堀井さんとは違っております。歴史の基本は、あくまでも歴史的事実であると私は思っております。その歴史的事実を研究し、体系付け、意味付けるのはそれぞれ人の自由です。私は、必然だけで現代を迎えたものであると決して思っておりません。現代と言っても、歴史的事実の連続の過程、あるいは不連続の結果ではないかとも思っています。未来から見た場合、現代は断片的歴史的事実でしかないと思います。歴史を総体的に見るということは、歴史を見る時点、現代であれば現代における観点に立った、歴史的事実の体系として捉えた結果でしかないと思います。」

遠藤先生は、そう言いながら堀井の妹を見つめていた。遠藤先生が言い終らない内に、語気を強めて堀井の妹が言い出したのを、訝しく思い見つめ聞いていた。

「谷沢先生は言っているのです。現代は、歴史の中で最良の時代であると。歴史は、人類の良心に向って流れ、現代にたどり着いた。未来の歴史は、良心のより良いところへと向っていく。それは誰でも止めることはできない。そう言っておりました。谷沢先生の言っていることは正しいと思っております。遠藤先生は、これについてどう思っているのですか。」

遠藤先生は、静かに聞いていた。高校生程度であれば、堀井の妹が言っている程度は、特に害にもならないだろうと思った。歴史の見方は、個人によって違い、考えによっても異なってくるものである。人類は色々と歴史的事実を積み重ねてきた。そして現代から見れば、多くの誤りや無駄と思えることをやってきた。これからの未来に向っても、色々と歴史的事実は積み重ねられるだろう。果たして現代は、人々が満足を得られる時代なのだろうか。未来も果たして人類が満足する時代となるのだろうか。遠藤先生は、大きな疑問を抱いていた。歴史をいくら研究して理論立てをしても、未来の世界は知り得ない。希望的観測で、物を言うことだけは言えるだろうと思った。ただ、人類滅亡という最悪の誤った事実だけは、造り出してはならないと思った。そんな不安定なことを生徒達に話す勇気はなかった。

「谷沢先生の言われたこと、確かに良いことだと思います。歴史を見つめて体系付ける、科学的社会主義という、人々に共感を及ぼした考え方もあります。歴史は、良心に従って動いていかなければならないと思いますが、それは希望であって、私が教える歴史とは異なる分野となるものです。現代を歴史の結果として捉えることは、非常に危険であると思います。それは現代そのものも歴史の一コマでしかないからです。」

遠藤先生は、更に続けて言った。

「歴史的事実を、誰の影響もなく、静かにそして深く見つめ、自分に問いただし、自分の考えを見つけ出すことが大切なのではないでしようか。現代が、誰のどういう意思で成立したとか、現代が最良の時代とか、未来がどのような歴史として動いていくかなど、それはそれぞれの人が考える問題です。私自身の考えはありますが、それは私個人の考え方であり、授業として言うつもりもありません。」

遠藤先生は、堀井の妹が納得していないと感じていた。いずれは自分で解決する問題と思い、それはそれでよいと思った。堀井の妹は、それ以上言わず、椅子に座った。そして静かに授業は再開された。

 

 遠藤先生は教務室に戻り、自分の机に向って歩きながら、谷沢先生の姿を見た。明るく楽しそうに、向いの目崎先生と話をしていた。遠藤先生は、何故か腹立たしかった。そして谷沢先生のように、自己主張が強く調子がよい、無責任な人間になりたくないと思った。

 遠藤先生は、授業での堀井の妹の質問をもう一度考えてみた。思ったことは、人間は、余り人類の歴史を深く考えるべきでないということだった。広大な宇宙の流れの中で、生物とか人間とかは、余りにも儚い一粒の泡でしかなく、現れては消えていく物でしかないと思った。現実にある自分の生涯を考えることで十分であり、自分の本質を思い、現在の自分の姿を考えることだと思った。

「遠藤先生も行かない。NHK交響楽団の演奏会、今晩あるのよ。」

目崎先生の声に遠藤先生は振り返った。目崎先生は、肘を机に突いて、右手に入場券をブラブラさせていた。

「谷沢先生も一緒に行くのよ。」

その一声で、遠藤先生はその演奏会に行きたくなくなった。

 

 その日は土曜日で、授業は午前中で終わることになっていた。午前中の最後の授業が始まった。遠藤先生は、授業もなく机に向って日記を書いていた。授業が始まって間もなく、堀井の妹が教務室に入って、遠藤先生の右脇に寄って立ち止まった。遠藤先生は日記を閉じると、肩越しに堀井の妹を見上げた。

「谷沢先生の机、どこでしょうか。忘れ物をしたので、私に取りに行くように言われたのです。」

堀井の妹は、遠藤先生に尋ねた。緊張したその顔には、先程教室で見せた反抗的とも思える表情はなかった。澄んだ瞳で遠藤先生を見つめていた。遠藤先生は、立ち上がって堀井の妹と向かい合った。堀井の妹は、遠藤先生から目を反らそうとはせず、唇を少し強張らせながら見つめ続けていた。

「さっきの授業での質問だけれど、君なら大丈夫だろうと思う。私の言ったことを忘れてもよいし、私の説明は結果的に押し付けになってしまうだろう。君は、君でよく考えなければならないことと思うんだ。」

堀井の妹は、遠藤先生を見つめながら頷いていたが、顔が熱くなって俯いてしまった。

「私は、谷沢先生の言われたこと、全てを信じてはおりません。歴史は、本当に過去のことでしかありません。人間の未来には、滅亡があるように思えてなりません。先生の今日のお話、とても好きでした。私は、私の心を大切にしていきます。」

堀井の妹は、小さな声でそう言い終えると、赤くなっている顔を上げ、潤んだ瞳に微笑を浮かべ、遠藤先生を見つめた。

 

 遠藤先生は、堀井の妹の顔を見つめ、心に熱いものが走り動悸が高鳴るのを感じた。少し二人は気まずくなり、遠藤先生は、谷沢先生の机まで行って、机の上に置いてあるプリントの束を持って来て、堀井の妹に渡した。二人の手が触れ、遠藤先生は、堀井の妹の手が震えているのが分かった。堀井の妹は、俯いて黙ったまま向きを変えると出口に向って歩いた。遠藤先生の目に、急に堀井の妹に元気がなくなったように見えた。

「堀井さん、ちょっと待って。君に上げたい物があるから、来てくれるか。」

堀井の妹は救われたとでも思われるように、明るく微笑み遠藤先生の脇まで歩いて来た。遠藤先生は、机の引き出しから演奏会の入場券を取り出し、堀井の妹の前に差し出した。

「先生も行かれるんでしょう。」

堀井の妹の声に、遠藤先生は苦笑をしながら言った。

「行きたくなくなったんだ。君に上げるよ。」

堀井の妹は、首を横に振りながら、詰まらなそうに言った。

「先生が行かないのであれば、私も行きません。私、先生が以前から音楽の演奏会に、必ず行っておられたのを知っていました。今夜は、素晴らしい演奏会でしょう。先生、私と一緒に行きましょう。隣の席の券は私が持っております。私と一緒に行くのは嫌ですか。」

堀井の妹は、もう恥ずかしさを隠そうとはしなかった。そして更に遠藤先生に向って言った。

「先生、私はもう隠しません。どうしてか分からないのですが、ずっと先生が好きでした。そして今も好きです。これからもずっと好きになっていくと思います。」

遠藤先生は、突然の言葉に、何と言って返事をしてよいか分からなかった。自分に好意を示した女生徒、瞳は輝き微笑んでいた。

「専正寺の門のところで、待っています。」

そう言う堀井の妹の言葉に、遠藤先生は頷きを見せた。堀井の妹は、一層深い微笑を返すと、丁寧に礼をして向きを変えた。教務室から出るまでの間、二度も遠藤先生を見つめ、頷く姿を確かめると生き生きした歩調となって廊下に消えていった。

 

 土曜日の午後になると、遠藤先生は決まって散歩に出かけた。夕方には演奏会があるので、学校を早々に出て街の食堂で昼食を済ませた。食堂から出ると大きな川の橋を渡り、川の堤に降りた。川下に集落の森影が遠くに見えた。その集落を目指してゆっくりと歩いた。時々川原に下りては、冷たい水を手にして遊んだ。絶えず微風が遠藤先生の顔を撫で回し、快く雲が空に流れていた。

 小一時間も歩くと、川は大きく右に曲がり、川岸に深い渕を作っていた。集落の社の影が水面に落ち、渕の傍で一人の女性が絵を描いていた。筆を使い慣れた女性らしく、描くことに熱中している様子だった。遠藤先生が近くに行くまで、その女性は彼に気付かなかった。

 振り向いたその女性の顔を見て、遠藤先生は美術部の部長だと分かった。彼女は軽く会釈をすると、また絵を描き出した。遠藤先生は少し距離を置いて、彼女の絵を見つめた。多くの日数をかけて描いている絵で、明るい中に暗い影がある絵だと思った。彼女は片足が不自由だったが、長い距離をいつも歩いて通学していることを思い出した。

 

 遠藤先生は、近くにあった切り株を見つけ、腰を下ろして黙って彼女の後ろから見つめていた。

「先生は、無口なんですね。」

彼女は振り返り、遠藤先生と向かい合い、筆を休めて言った。

「大抵の人は、私が絵を描いていると褒めたり、貶したりするんです。酷い人になると、私の筆を取り上げて、ここが足りないと言って塗ったくってしまうんです。」

遠藤先生は、微笑を見せて頷いた。

「私は、黙って見ていた方がよいと思うし、絵そのものよりも、絵を描いている姿そのものが素晴らしいと思います。」

遠藤先生がそう言うと、彼女は微笑んで足元のスケッチブックを拾い上げると、彼の前に差し出した。

「先生も、描いてみてください。」

断ろうともせず遠藤先生は、彼女からスケッチブックと木炭を受け取った。彼は、彼女が絵を描いている姿を入れた風景のデッサンをした。明るい日差しが、雲間から幾度も差しては消えていった。時間が流れた。

「先生は、上手いんですね。」

遠藤先生は、彼女のその声で我に帰った。

「本当に、お世辞でなくってよ。とても上手いわ。」

彼女は、遠藤先生からスケッチブックを取り上げると、目を細めて見つめた。

「私も、高校生のころ、絵を少しやっていたんだ。」

遠藤先生は、照れるように言った。時間も遅くなったことから、遠藤先生は彼女に別れを告げた。堤に上がり、彼女に向って手を振った。明るくなった彼女の柔らかな声を聞き、手を振っている姿を見た。美術部長の彼女は、遠藤先生を人間として好意を抱いた。そして人は言葉や態度ではなく、その人に漂う人間らしさが心に捉えられるのだと思った。

 

 陽が傾き、物影が長くなっていた。街に向って歩いている遠藤先生は、焦りを感じていた。

「もしかすると、待っているかもしれない。」

街に着くころには、もう暗くなるだろうと思った。彼は、杉の大木に囲まれた専正寺の門で待っている、堀井の妹の姿を思った。

「待っていたらどうしよう。とにかく行かなければならない。」

自分が行かなければ、堀井の妹も演奏会に行かないだろうし、何よりも人の信頼を裏切りたくはなかった。そう思うと、彼は急いで歩いた。通りがかりの自動車に拾ってもらい、ようやく彼は街にたどり着くことができた。

 大杉の林に囲まれた専正寺の門には、裸電球一個が赤い光を放っていた。電球の周囲には、羽虫が群がっていた。遠藤先生が正専寺の門に着いた時、堀井の妹の姿は見当たらなかった。門の下の石に腰を下ろし、堀井の妹が来るのを待っていた。演奏会の始まる時間が過ぎた。

「帰る訳には行かない。来ようと来るまいと、演奏会が終わるまでは待っていよう。」

遠藤先生は、堀井の妹が健気もなく待ち続けていると思った。そうでないことを知った今、何故、自分が待ち続けているのかを考えた。時々、門の脇の道を人が通って行く。遠藤先生の姿を見ると押し黙って通り過ぎ、遠くに行ってから話をする声で聞こえてくる。遠藤先生には、それが自分を嘲笑う声に聞こえた。ただ、求められた約束を反古にしたくないために、そこに居座り続けた。

 

 演奏会が終わる時間が過ぎ、暫くたって母親と一緒に歩いてくる堀井の妹の姿を認めた。白い和服で着飾り、豊かな髪を高く巻き上げた大人っぽい姿だった。専正寺の門灯の明かりで、ほの白く浮かんだかと思うと、脇の道を二人は通り過ぎて行った。遠藤先生は、自分の足元を見つめた。そして全身から力が抜けていくのを感じていた。目の裏が熱くなり、目を細めるとたわいもなく涙が浮かんでくるのを感じた。

 堀井の妹は、確かに親友の美しい妹である。未成熟の女性であったが、やはり好意を持って接していたと思った。そんな思いは、単なる慰めでしかなかったとも思えた。素知らぬ風に通り過ぎて行く。遠藤先生の心に空洞が開き、冷たい風が吹き始めていた。苦しく辛い思いが流れた。

「先生、どうしてそんなところに座っているの。」

遠藤先生は、その声でゆっくり顔を上げた。涙越しに、確かに通り過ぎて行ったはずの堀井の妹の姿が、目の前にあった。遠藤先生は、涙を拭きながら立ち上がった。目の前に立っている堀井の妹は、大人びた美しい娘だった。堀井の妹の目からも涙が溢れ、頬に伝っているのが見えた。

「何でもない。少し寂しくなって、涙が出ただけだ。」

遠藤先生はそう言って、右手を堀井の妹の肩に置いた。彼女の背後に、心配そうに立っている母の姿が見えた。堀井の妹の震えるのを感じ、手を離した。沈黙が続いて、遠藤先生はその場に居づらくなった。立ち去ろうと、堀井の母に一礼をした。

「先生、待ってください。このまま帰らないでください。私が悪かったのです。」

遠藤先生は、堀井の母の横で立ち止まった。堀井の妹は、震えた声で言った。

「私が誘っていながら、約束を破ったのです。私が悪かったのです。このまま、先生に帰られると、私は困ります。」

そして母に向って

「お母さん。これから先生を、家に誘ってもよいですか。」

と哀願するように言った。母は少し当惑していたが、少し微笑んだ。

「ええ、いいですよ。それが一番よいようね。お父さんも家にいるからね。」

母は、そう答えると、腹を決めたように遠藤先生に話があるからと言って、一緒に家へ行くことを承知させた。

 

 堀井の妹とその母は、先立って歩いた。遠藤先生は、不安を抱きながら二人の後ろを重い足取りで付いていった。堀井の妹は、時々遠藤先生が来ているかどうか確かめるように振り返った。

 堀井の家に着くと、遠藤先生は応接室に通された。遠藤先生は、暫くソファーに腰掛けて待っていた。堀井の父と母が応接室に現れた。二人の顔は、不安と怒りの表情を浮かべていた。無言のまま、お互いが相手の目を見つめていた。堀井の父は、タバコを口にくわえ、火を点けた。堀井の母が、話を始めた。

「遠藤先生と言われましたね。私は、由美子のことを心配しております。先程、先生と由美子の仕草や姿を見て、残念に思っております。子細については、主人にも話しました。先生と由美子の間に、何か特別なことがあったのですか。本当のことを教えていただきたいのです。」

堀井の父は、怒りを抑えているかのように、目を閉じて遠藤先生の返答を待っている様子だった。

「私と由美子さんの間には、特別なものは何もありません。授業で私は世界史を教えているだけです。」

遠藤先生はそう言って、午前中のこと、その後のことを素直に話した。そして最後に言った。

「私が誤解を招くような行動をしたこと、教師として反省しております。」

謝罪とも受け取れるその言葉に対して、堀井の父の表情は厳しい物だった。

「私は、教師に、娘の情まで教えてもらおうとは思ってもいないのですよ。教師ごときに弄ばれたんじゃ、娘が一生駄目になってしまうんだ。失礼だが、娘も、あれの兄も優秀な子と思っていますし、実際優秀なんだ。将来を破壊するようなことはしないでもらいたい。今回の件は、学校と県の方に届けて、貴方を厳しく処分してもらいますから。」

堀井の父は、厳しい口調で言った。遠藤先生は、これが親友の父の言うことかと思うと、情けなくなって涙が溢れた。

「堀井さん、それまで言われるのですか。私が、娘さんに悪戯をした訳でもないのに。私も言い返すようですが、言わせてもらいます。所詮、人の心というものは、先生であるとか、生徒であるとか、親であるとか、子であるとか、友達であるとか…。」

遠藤先生は、語気を荒々しく言ったが、その話を折るように、堀井の父は怒鳴り声を上げた。

「頭に血が上ったのか。どう見たって、君は教師でしかないのだ。私は、長ったらしい話は、聞きたくないんだ。疚しいことがなかったら、弁解などするな。」

堀井の父は、そう言うと荒々しく立ち上がり、右手で応接室のドアーを指差した。

「君、帰りたまえ。」

堀井の父は、声を低くして、そう付け加えた。遠藤先生は、立ち上がると堀井の父に浴びせ掛けるように言った。

「人の心は、誰の自由にもなりはしません。なるようにしかならんのです。」

そして足早に応接室のドアーに向って歩いた。ドアーの前で立ち止まると、堀井の両親に向って姿勢を正した。

「お騒がせしまして、本当に済みませんでした。お休みなさい。」

遠藤先生は静かに言ったが、恥辱で胸が一杯だった。ドアーを開けて応接室から出てドアーを閉めた。

「貴様のような奴、徹底して叩いてやるからな。」

応接室から、堀井の父の罵声が彼の背後に飛んできた。

 遠藤先生が応接室から出ると、廊下に泣き伏している堀井の妹の姿が目に入った。彼は、屈み込んで言った。

「心配することはない。自由に生きよう。そして強くなるんだ。」

堀井の妹からは、何の返答もなかった。ただ泣き続けているだけで、何をするすべもなかった。

 

 堀井の父は、月曜日の午前中に校長室に訪れた。遠藤先生の処分を求め、怒鳴り込んだのだった。校長は、少し取り乱した堀井の父の話を、静かに聞いていた。堀井の父が言ったことは、要するに遠藤先生が、自分の気に入った女生徒を自分の物にしようともくろみ、教師という立場を利用して、何も知らない純情な女生徒を誘惑したというものだった。親の立場からすれば許せないことであり、処分して欲しいと言い、更に言い続けた。

「私は、処分のことについては、その筋を通して県の方にも訴えるつもりです。校長先生も存じていると思いますが、私の娘は、あれでいて将来のある本当に可愛い娘なんです。あの年で、男心を得させるためにこの高校に入れたのではないのです。」

校長は、堀井の父がもう言うことがないのを確かめるように間をとった後、落ち着いて話し始めた。

「これは、私が遠藤先生を庇って言う訳ではありませんが、遠藤先生が貴方の言うように、非難される人とはとても思えません。事実関係については、私の方でも本人から問い質し、調査しましょう。ただ、処分ということになれば、私の方から県には言えないと思います。」

校長がそう言うと、堀井の父は不満そうな顔を示した。

「堀井さんにとっては、不満と思うでしょうが、貴方の娘さんがこの学校で特別に優秀であるように、遠藤先生も冗談抜きで特別に優秀な方です。私は、教育者としても立派な人だと思っております。こんな田舎の高校には珍しく、京都の大学の法科を、優秀な成績で卒業された方です。そうそう、堀井さんのご子息の浩二君と一緒の年頃の方です。」

校長は、静かに堀井の父の顔を見つめていた。堀井の父の顔から不満そうな色が失せ、青白い顔に変わっていった。堀井の父の脳裏に、不安が流れた。自分の長男の浩二のことを思った。二人が同じ大学で同じ学部、年が同じということが心の重圧となったのだった。

「遠藤先生というのは、和歌山の方ですか。」

校長に尋ねる堀井の父の声は、震えていた。

「堀井さん、よくご存知ですね。私は誰にも言っていないんですよ。誰も知らないと思っていましたよ。私の娘は、今、音楽大学校へ行っていますが、遠藤先生が相手になってくれると言うなら、何も言わずに承諾しますよ。」

堀井の父は、校長の言葉を聞きながら、首筋まで蒼白となり、頭を小刻みに震わせていた。念を押すように言った。

「遠藤先生のお姉さんと言う人は…。」

校長の静かな落ち着いた返事が、すぐに返ってきた。

「そうです。貴方のご存知のとおり、ピアニストの高子女史ですよ。音楽界のまさに才媛です。」

堀井の父は、それを聞くと目を閉じ、体を強張らせながら暫く俯いていた。もう頭の中は、何も考える力がなかった。ソファーの中に潜り込むように、小さくなっていった。

「遠藤先生には、私から注意をしておきましょう。今後、二度と貴方の娘さんと誤解を招くような、親密な態度をとることがないようにと注意しましょう。」

堀井の父は、放心状態だった。校長の言う言葉を聞いて、ただ頷いているだけだった。

「堀井さん、それでいいのですね。」

校長は、少し大きな声を堀井の父に投げかけた。堀井の父は驚いたように目を開けると、叱られた子供のようにまた俯いた。

 

 堀井の父は、自分が情けなかった。遠藤先生は、単なる長男の親友ではなかった。堀井の父が、会社の経営を失敗し、大きな負債を抱えたころ、長男が大学に行ったのである。家計も破綻状態で、長男には何もしてやれなかったのだった。何年も学費や生活費の仕送りもできなかったとき、遠藤先生は早くから長男と一緒に暮らしたのだった。長男が半病人のようになって、遠藤先生のところに転がり込んだのだった。遠藤先生は、和歌山の豊かな家の子供で、何よりも優しい人だということを長男の口からも、便りからも聞いて知っていた。遠藤先生は、自分の部屋の半分を長男に与え、書籍も学費も食事も、そして小遣い銭まで長男に与えた。休暇の時など、和歌山の遠藤先生の家まで開放し、遠藤先生の父や母、そして姉までが暖かく長男を迎え入れてくれたのだった。

 堀井の父は、そんなことを一度に思い浮かべた。そして自分が遠藤先生にとった態度が、残念でならなかった。自分が再び経済状態も好転し、高慢な人間として生きてきたためだと思うと、誰にも言い訳できることではなかった。

「校長先生、私は、何と言う馬鹿な人間だったのでしょう。私が、今まで言ったこと、一つ残らず忘れていただきたい。そした、ただ遠藤先生に深くお詫びしたい。私の娘なんて、どんなになってもいいんです。あれは私より賢いんだから、私程の人でなしにはならないでしょう。」

堀井の父はそう言うと、涙がどっと流れ、顔中を涙で濡らしていた。深く校長に一礼すると、力無く校長室から出て行った。

 

 堀井の父は、家に戻ったが誰もいなかった。応接室に入ってソファーに座り込み、無念さで胸が溢れ、時折流れる涙を手で拭っていた。外出から戻った妻を呼び、簡単に言った。

「校長先生のところに行ってきた。遠藤先生という人は、浩二が世話になった親友の、和歌山の遠藤君だと分かった。本当に私は、情けないし、馬鹿なことをやってしまったと思っている。」

堀井の母は、信じられぬという表情を浮かべた。

「その話し、本当のことなの。」

父の頷きを見て、堀井の母は急にテーブルの上に上体を倒すと、泣き崩れてしまった。

「恩を仇で返すって、きっとこんなことなんだわ。」

気違いじみた言葉を何度も繰り返し、泣き続けた。堀井の父は、ただ項垂れて妻の泣き声を聞いているほかなかった。

 

 遠藤先生は、その日の午後になって校長室に呼ばれ、校長から堀井の父が訪れたこと、その話し合いの状況を聞いた。

「堀井の父は、帰る時には、もう君を責めるとか、非難するという気持ちは無くなったと思うが、とにかく女生徒には注意するんだな。堀井の娘とは、当分の間、距離を置いたほうが良いと、私は思っているよ。」

校長は、最後にそう言って彼に注意をし、話は簡単に終わった。遠藤先生は、教務室に入り自分の席に向って歩いていた。

「遠藤先生、どうしたんですか。顔色が良くありませんわ。」

目崎先生は、自分の席を立ち上がって声をかけた。谷沢先生も、振り向いて同じことを言った。

「何でもないんです。少し考えなければならないことが、持ち上がったものですから。」

遠藤先生は、そう言って椅子に座ると、片肘を突いて額を寄せて考え始めた。意味もなく、漠然と頭が回転していくのだった。

 

 大学時代の堀井との生活、確かに楽しい思い出だった。二人の間には、生涯切っても切れない絆が生まれたと思った。堀井は、貧しかったけれど、成績は抜群であり、生活態度も整然としていて、思想的にも優れていた。金銭では得られないものを、堀井から多く学んだと思った。そして、彼に妹がいるということから、朧気ながらの浪漫を感じて堀井の故郷にやって来た。

 校長の話からすると、堀井の父は、自分の素性を知ったに違いないと思った。そして自分に対して負い目を感じたに違いないと思った。そんなところに近付く訳にはいかないと遠藤先生は思った。遠慮している家庭に、どかどかと土足で入っていけるはずがなかった。堀井が近寄ってくるまでは、自分から近寄ってはならないと思った。

 

 遠藤先生は、堀井の妹を気にするまいと思った。そうは思っても授業中に、堀井の妹の瞳や姿が目に入った。一人の女生徒としてではなく、一人前の女性として見えるのだった。堀井の妹は、長い髪を時々手で掬い上げて後ろへ撫で、白い耳や首筋が成熟した女性のように、丸みを帯びた肌を感じさせるのだった。いつも、ただ微笑みを湛え、遠藤先生を見つめ、視線を外さなかった。

 ある日の放課後、遠藤先生と目崎先生は、連れ立って静まり返った校舎を、顔を見交わしながら、楽しそうに語り合いながら出て行った。二人が大きな銀杏の木の傍まで歩いて行った時、両手で体の前に鞄を垂らし、道を塞ぐように立っている女生徒の姿があった。

「どうしたの、堀井さん。誰か待っているの。」

目崎先生は、驚いたように尋ねた。堀井の妹は、少し俯いていたが、顔を上げるとしっかりした声で言った。

「私は、遠藤先生を待っていました。」

目崎先生は、遠藤先生を見つめた。遠藤先生は、知らないとでも言う風に、首を横に振って見せた。

「遠藤先生は、今日、私と大切な仕事の話があるの。」

目崎先生は、堀井の妹に向って言った。暫くの間、堀井の妹は、思いつめた表情で遠藤先生を見つめた。遠藤先生は、二〜三回頷きを見せただけで、言葉をかけようとはしなかった。

 堀井の妹は、急に顔を崩したかと思うと、顔を背けて駆け出した。遠藤先生は、校門の方に小さくなっていく堀井の妹の姿を見つめていた。そして、それで良いと思った。

 

 堀井の妹は、その事があってから、もう決して遠藤先生を見つめようとはしなかった。授業中は、俯いて本に目を投げているか、前を見ても視線は遠藤先生に向いていなかった。時々視線が合っても、堀井の妹の方から直ぐ背けてしまうようになった。

 堀井の妹は、剣道部を辞め、生徒会の活動に少し首を突っ込むようになった。放課後は、ピアノの練習をするか、早々と家に帰るようになった。クラブ活動が終わって教務室に入ってきた目崎先生は、遠藤先生に言った。

「堀井さん、人が変わったね。何か、冷たくなったみたいね。高校なんて詰まらないわ、人に負けないようにもっと勉強して、大学に行く。大学は、きっと楽しいわ。色々な人がいて。そう言っているのよ。あれ以上勉強したら、天才と言われますよね。」

遠藤先生は、笑いながらその話を聞いていた。内心、堀井の妹の行動は、自分への当て付けではないかと疑ってもみた。

 

 夏休みに入って間もなく、遠藤先生は、大学から帰ってきた下宿の長男に誘われて、海に出かけた。下宿の主人の運転する車は、海水も景色もきれいな海へと向った。

 昼近くになって海に着くと、直ぐ下宿の父と子は海の中に入っていった。海の光が眩しく、麦藁帽子の庇の下から光が飛び込んでくる。波打ち寄せる海の水は冷たく、遠藤先生は足を洗ってみた。爽やかな風と足の冷たさに、心が洗われる思いを感じた。多くの純色が砂浜に広がり、人の姿が入り混じる海辺だった。遠藤先生は、波打ち際の砂浜を歩いて、人影も少ない岩場の方へ行った。そこには大きな日傘があった。その日傘の陰に腰を下ろしている水着姿の三人連れを、何気なく見つめた。

「遠藤先生。いらっしゃい。」

女性は、そう叫びながら手を振っていた。遠藤先生は、それが目崎先生だと気付いた。遠藤先生は、軽く手を上げて応え歩いた。遠藤先生の目に目崎先生の肌が多く見え過ぎ、眩しい姿に思えた。そこには、谷沢先生も一緒だった。

「生徒会の人達に誘われて来たの。」

そう言えば、もう一人の男は、生徒会長だったことを遠藤先生は思い出した。

「遠藤先生は、泳がないのですか。」

谷沢先生が尋ねた。

「泳ぎは、得意じゃないんです。海は、少し怖いものですから、泳がないようにしてるんです。」

遠藤先生は、海の方を見つめ小さな声で答えた。海から上がってくる若い男と女の二人連れを見詰めた。二人は、手をつないで走ってきた。女は堀井の妹で、男は生徒会の副会長だった。

「最近、急に仲が良くなったな。」

谷沢先生がそう言うのを、遠藤先生は眩しそうに、目を細めて黙って聞いていた。間近に来て、二人は手を解いた。堀井の妹は、挑戦的で、蔑むような鋭い視線を遠藤先生に投げつけた。遠藤先生は、堀井の妹に憐れみの視線を一瞬投げ返し、目を反らして遠くの入道雲を見つめた。

 太陽の光は、いよいよ強く、暑かった。遠藤先生は、黙ったまま暫くそこに座っていた。誰も話し掛けてくれる訳でもなく、遠藤先生にも話し掛けるような話題もなかった。ジュース一缶だけ受け取った。

「下宿の人が心配していると悪いから、失礼します。」

遠藤先生は、そう言ってジュース缶をぶら下げて立ち上がった。そして背を向けると、その場から遠のいていった。誰の声もなかった。遠藤先生は、寂しく、胸が熱くなって重苦しく感じた。

「これでいいんだ。そう、これでいいんだ。」

遠藤先生は、何度も自分に言い聞かせながら、ゆっくりと歩いた。

 遠藤先生は、堀井の妹も目崎先生も、自分の知らないところで、自由に生きていけばよいのだと思った。そして、自分の甘い感傷が音を立てて崩れていくのを感じた。暫くの間、何も聞こえず、ただ空しい思いと、絵に描かれた熱い静かな浜辺を歩いている思いがするだけだった。

 

 夏休みは、一人で近くの山や野辺を歩き回って、遠藤先生の夏は終わった。二学期も始まり、昼下がりの秋の日差しを受けながら、日曜日の新聞を読んでいた。文芸欄に目を移した。

 その地方紙の懸賞募集された短編小説が、日曜日になるといつも掲載されていた。遠藤先生も小説を書くのが好きだった。将来、なれるものだったら小説家になりたいと思っていた。地方紙の掲載される小説は、いつも劣悪な作品ばかりだと思いながら読んでいた。その日の小説は、身体障害者の目から見た、他人の世界のことが書いてあった。簡単に言えば、身体障害者として大切に扱われていることは、差別であり、それが不満だという内容だった。遠藤先生は、そのような話はどこかで聞いたことがあると思った。

 筆者の名前を見ると、驚いたことに谷沢先生だった。遠藤先生は、谷沢先生に文才があると聞いていたが、その程度だったのかと思った。でも、原稿用紙に書かれた文章が、活字になって世の中の人々の前に出たことは、素晴らしいことだと思った。

 翌朝、学校の教務室に入ると、谷沢先生の周囲には、先生や生徒達が群がっていた。口々に、掲載された小説に、高い賞賛を浴びせていた。遠藤先生は、物音がしないように、そっと自分の椅子に座った。後ろから、騒がしい声を聞いていた。遠藤先生は、今まさに、この学校に文士が生まれたと思った。谷沢先生も、このことが良い機会となって、本気で文学の勉強を始めることだろう。そしてある程度の名誉と地位を得るだろうと思った。

 遠藤先生は、更に思った。人間考えることは似ていると。谷沢先生の小説の発想も、自分と幾らも違わない。そして、下宿での生活の多くを執筆の時間として費やしている自分を思った。何が、一体成長なのだろうかと思った。毎日、想い、そして書く。それが果たして何になるのだろうか。自分がこの世を去るとき、悲しく残る遺品でしかないように思えた。

「先生の構成、それに文章表現、素晴らしいですわ。さすが文学専攻の人でいらっしゃるわ。」

目崎先生の少し興奮した賛辞が耳に入った。遠藤先生は、谷沢先生のこれからが大変なんだと思った。

 

 放課後、生徒会室でも谷沢先生の小説が話題となっていた。堀井の妹は、それが別に自分に適った小説でもなかったし、興味もなく、強いて多くの言葉を出さなかった。そんなことより秋の文化祭のことが気になっていた。美術部の部長は変わった人で、生徒会室に全然顔を出さず、その活動状況が心配だった。

 そんな心配を抱いて、堀井の妹は美術部の部室に向って歩いた。廊下の前方に、片足を引き摺るように歩いている部長を見つけた。部長は、部室の鍵を開けると、堀井の妹が手を上げて歩いてくるのに気付いた。部長は、堀井の妹を待つでもなく、部室に入って絵を描く準備を始めた。

「私、初めてなの。入ってもいい。」

戸を開けて顔を覗かせた堀井の妹に、部長は無愛想に言った。

「どうぞ、お好きなように。構って上げられないけれど。」

部長は、もうカンバスに向って絵を見つめていた。堀井の妹は、足音を立てないように歩いた。部長の背後から、その絵を見つめ、もう出来上がっていると思った。その奥に、堀井の目を惹く絵があった。

 堀井の妹は、その絵の方に近寄った。寂しい、美しい絵、それでいて清楚で心が洗われるような感じのする絵だった。更にその奥に、和服姿の清楚な美しく、若い女性の絵があるのに気付いた。その絵にも気を奪われ、堀井の妹は近寄り見つめた。丁寧な筆で描かれていた。ただ寂しく、美しく感じた。二枚の絵を交互に見つめ、堀井の妹は飽きることがなかった。

「やはり、人を惹き付ける絵なんですね。遠藤先生の作品よ。」

いつの間にか来たのか、背後から部長の声が聞こえ、堀井の妹は驚いた。遠藤先生という名を聞いて、堀井の妹は背筋に冷たい物を感じた。それは自分が、遠藤先生という名に、未だ好意を感じていることを感じたからだった。

 堀井の妹は、遠藤先生が、何を表現しているのかを見つめた。椅子に腰掛け、長い間二枚の絵を見つめた。清楚な、そして寂しく、美しい心が伝わってくるのだった。時がたつにつれて、その二枚の絵の奥に、巨人のような遠藤先生の姿が見えた。厳然たる人の魂が、自分を圧倒しているのを感じた。堀井の妹は、相手も知らずに、とんでもない人と向かい合っており、気が付くと自分がいかにも卑しい者であり、襲われてしまえば根底から木っ端微塵に砕ける者でしかないのだと思った。

 

 秋の夜の澄んだ月が、野辺を照らし、空気の中に虫の音が流れていた。薄の穂が風に揺れ、それが動くのを見つめながら遠藤先生は、小道を歩いていた。郊外にある目崎先生の家からの帰りだった。車が迎えにくるのを断り、ほろ酔い加減で野辺伝いに歩いてきたのだった。一緒に目崎先生の家を訪れた谷沢先生は、彼女の父と酒を大いに酌み交わし、話し込んでいた。遠藤先生は、谷沢先生が今夜、目崎先生の家で泊まるかもしれないと思った。

 丘から下り、住宅のある静かなところを歩いた。遠藤先生の耳に、澄んだ秋の空気の中を流れてくる、甘美なピアノの音が聞こえた。遠藤先生は、そのピアノの音に誘われるように、ピアノの音が流れてくる方向へと歩いて行った。そして、自分が堀井の家に向って歩いているのに気付いた。ある程度予期したとおり、ピアノの美しい音は、堀井の家から流れてきていた。垣根の傍で足を止め、暫く遠藤先生はピアノの曲を聞いていた。

「中々上手に弾いている。大学も大丈夫だ。」

遠藤先生は、そう思った。

 

 酒の勢いも手伝ってか、急に遠藤先生は堀井の家を訪ねたいと思った。遠藤先生は、堀井の家の玄関の前に立つと、直ぐ呼び鈴を鳴らし、家の誰かが出てくるのを待った。少し間を置いて、堀井の母が玄関に姿を見せた。堀井の母は、訪問者の顔を見て、彼だと気付くと驚きの表情を見せ座り込んでしまった。

「今晩は。遠藤です。少し酔っ払っていますが、遊びに来てしまいました。」

遠藤先生は、堀井の母に向って挨拶をしたが、不意の彼の訪れに、堀井の母は声も出なかった。どう答えてよいのか分からなかった。

「私の家の、誰に会いに来たのでしょう。」

堀井の母は、暫くたって言うことに窮したかのように、そう言った。遠藤先生は、その問いかけに返事をすることができなかった。何の用件もなく訪れたことであり、急場凌ぎの言葉も見当たらなかった。そして、堀井の母のその応対が、いかにも冷たいとも思った。

「近くまで来て、つい寄ってしまったのです。本当に、私は酔っ払っているのですね。また、出直してきます。」

遠藤先生は、そう言って深く一礼すると、寂しそうな笑いを浮かべて、玄関の戸を閉めようとした。

「遠藤先生、何故帰るのですか。寄っていってください。余りにも突然で、失礼なことを言ってしまいました。」

堀井の母は、そう言いながら、急いで玄関を降りると、遠藤先生の側に行き、腕を引っ張って家の中に入れた。

「さぁ、どうぞ、家の中に上がってください。」

堀井の母は、そう言いながら遠藤先生の手を引きながら、床の間に通した。遠藤先生を座布団に座らせると、綺麗に一礼をして床の間から出て行った。そして、慌しく堀井の父が浴衣姿で現れた。

「家内が、失礼なことを言ったそうで。いや、よく遊びに来られました。ゆっくりしていってください。」

そう言って堀井の父は、遠藤先生と向かい合って腰を下ろした。そして、姿勢を正したかと思うと、丁寧に頭を下げた。

「早いころ、私も妻も遠藤先生に大変な暴言を吐き、また失礼なことをいたしました。お詫びのしようもないのですが、是非とも勘弁していただきたいのです。」

遠藤先生は、少し寂しくなった。自分は、何のために来たのだろうかと思った。廊下には、やはり頭を下げている堀井の母の姿が見えた。詫びる姿を期待してはいなかった。

「あの時のことは、なんとも思っていないんです。私の方が悪かったのですから。どうか忘れてください。浩二君に知れたら、お互いに笑われてしまいますから。内緒にしてください。」

遠藤先生は、優しく言った。ようやく顔を上げた堀井の両親の顔には、明るい笑顔と涙の溢れる瞳が輝いていた。遠藤先生は、堀井の家を訪れたのは、堀井の妹に、何か惹かれる思いがあったためだと思った。

 

 彼は、堀井の父と酒を酌み交わした。ピアノの音も、酔う痴れるごとに一層甘美な音を増して聞こえた。母が呼びに行ったけれど、とうとう堀井の妹は姿を見せなかった。堀井の妹は、遠藤先生が帰るまで、ピアノを弾き続けていた。訪問者が遠藤先生だと知ってからは、一層微笑みを増し、心豊かにピアノを奏でることができるのだった。堀井の妹は、遠藤先生に好意を抱いていることを見せるのを、自ら禁じていたのだった。床に就く前に、堀井の妹は次のように日記に記した。

…今夜、思いもよらず遠藤先生が、私の家に訪ねて来られました。私は、心が熱くなり、ピアノを引き続けておりました。顔も出さず、本当に済まないことをしたと思っております。

 私は、遠藤先生が好きです。何度も嫌いだと私自身に言い聞かせ、好きになることを禁じて納得したのです。

 私は、自分のことを知っています。先生の嫌がることを多く見せていること。本当に先生を嫌いだと思っていないこと、却って一層好きになってきていること。私は、素直な女でないことを知っています。私には、どうすることもできません。

 見栄や外聞など、本当は構っていられないのです。私は、全てを捨てて先生の胸に飛び込みたい。もう父さんや母さんも、先生に対する誤解はなくなって、好意的になっているのです。どうしてそうなったのかは、分かりません。変なのは私だけです。

 もう、目立たないように静かにしていたいと思います。でも他の人は邪魔をしてくれます。私は、一人のときは、先生を嫌いだなんて思いません。

 遠藤先生、好きです。私の唯一人の好きな人です。一人のときは、心まで偽らないようにします。先生、私一人の時に来てください。その時、私の悪い物が全て破壊するでしょう。私に、そうする力があります。

 以前の私は、こんなではなかった。もっと親しく、幸せな心になっていた。懐かしく、恋しく、悲しい想いで、毎日が苦しいのです。こうして後悔している毎日なのです。助けてください。先生!…

 堀井の妹は、書き終わると遠藤先生の面影を追いながら、眠りに入った。しかし、若い娘に有り勝ちな反抗心は、行動になって現れ、自分でも抑えることができなかったようである。

 

 ある日、堀井の妹は、遠藤先生の授業中、教科書を読み、その感想を述べるように言われた。堀井の妹は、終始黙っていた。

「堀井君、君が黙っていたのでは、授業が進まないんだ。」

遠藤先生は、叱るように言った。堀井の妹は、顔を背け、誰の目からも反抗そのものに写った。遠藤先生は授業が終わると、堀井の妹を相談室に呼び出した。青色の整頓された部屋で、遠藤先生は和らいだ言葉で、授業中の態度を尋ねた。遠藤先生は、黙り通す堀井の妹を腹立たしく思った。

「何故かは分からないが、君がそれ程、私に反抗したいのか。」

目が合ったとき、遠藤先生は鋭い目を投げ言った。堀井の妹は、静かに言った。

「私は、別に先生に反抗しているとは思いません。先生が、そう思われるのは勝手ですけれど、私、帰ります。」

堀井の妹は、反抗的な瞳を崩さなかった。

「君がそう言うのであれば、私が勝手に思っていたことでいいだろう。君の態度が、反抗でなかったのなら、私はもう心も悩めないし、君に耐える必要もないだろう。それでいいんだな。」

堀井の妹は、遠藤先生の言葉にハット思った。皮肉のようにも思えるが、本当に怒っているようにも思え、急に不安が広がるのだった。

「私は、君の前では、以前から先生と言う立場なんて捨てていた。もう分かったから帰りたまえ。」

堀井の妹は、暫く茫然として遠藤先生を見つめた。生まれて初めて恐怖心が、心の中を駆けずり回った。

「私が言い出したことだ。私の方から出て行く。」

遠藤先生は、堀井の妹に背を向けると、部屋から出て行った。堀井の妹は、急に悲しみが湧いてきた。

 

 その日、生徒会の仕事が遅くまであり、終わったのが相当暗くなっていた。堀井の妹は、生徒会の副会長と一緒に、教室へ鞄を取りに行くため廊下を歩いていた。音楽室からピアノを弾く音が聞こえる。目崎先生とも違い、音楽部の人にしては上手過ぎると思いながら、音楽室の方へ回ってみた。

 音楽室の奥の戸が開いており、そこから月明かりで一人の男がピアノを弾いているのが分かった。暗い音楽室に、堀井の妹は、生徒会の副会長と一緒に入った。教頭先生とも違うと思った瞬間、堀井の妹は目を疑った。ピアノを弾いている人は、紛れもなく遠藤先生であることを、月明かりで見えたのだった。

「そんなことがあるはずはない。楽譜も見えないのに、モーツアルトを弾いているなんて。」

驚きと恐怖が、堀井の妹の背筋を激しく伝わった。そして遠藤先生の姿が、巨人のごとく見え、圧倒されていくのを感じた。何にも変えがたい物を見つけ、それを失っていくのを感じた。

「私は、真実を失っている。」

それは、堀井の妹が自分に投げた、悲しい問いかけだった。

「青山さん、帰ってください。私は、一人で聞きたいんです。」

堀井の妹が、生徒会の副会長に言うと、副会長は心配そうに彼女の肩に手をかけた。堀井の妹は、荒々しく払い除け、奥の椅子に腰掛けた。

「暗いことは、良くないな。」

副会長は、そう言うといきなり音楽室の明かりをつけた。明かりが、異様な雰囲気を壊すことを期待したからだった。明るくなって、副会長は初めてピアノを弾いているのが、遠藤先生であることを知った。何の変化もなく、遠藤先生はピアノを弾き、堀井の妹はそれを聞いていた。副会長は、違和感に包まれ、音楽室から出て行った。

 

 長い演奏が終わり、堀井の妹は立ち上がると、遠藤先生の側まで歩いた。そして、放心したように遠藤先生を見つめた。

「先生、勘弁してください。私は、先生が好きです。だから、馬鹿なことばかりやったんです。」

遠藤先生は、首を横に振って、堀井の妹に厳しい視線を返した。遠藤先生は、立ち上がると堀井の妹に背を向けた。

「許すも、好きも、何もなかったんだよ。全てがなかったんだ。君には、素晴らしい未来がある。余計なことを考える必要は、まだないんだよ。私は、心が疲れ、涸れてしまった。」

そう言うと、遠藤先生は笑顔を浮かべ、振り返って堀井の妹の瞳を覗き込んだ。ピアノの上にある楽譜集を取り上げ、堀井の妹の前に差し出した。

「これを君に上げよう。私の姉が使っていた物だ。役に立つことがあると思う。大切に、練習してください。人の心というものを、暮れぐれも大切にしてください。」

遠藤先生は、堀井の妹の手を握ると、楽譜集を手渡し、静かに音楽室から姿を消した。堀井の妹は、甘えの時代が、全て終わったのを知った。

 

 堀井の妹は、悲しみで心が溢れ、どうしてよいか訳が分からなくなっていた。家に帰ると、茫然として、父と母の前に立ち、今にも泣きそうな声で言った。

「これ、遠藤先生からいただいたわ。これを一生懸命練習しなさいって言っていたわ。」

父と母は、突っ立っている娘を唖然として見つめた。

「先生は、失礼なことを言ったわ。私のことを好きだって。だから、これを思い出として、私にくれると言ったの。先生が生徒に言うことじゃないでしょう。」

堀井の妹は、父と母が無表情で、怒ろうともしないのが不思議だった。

「以前、お父様とお母様は、遠藤先生のことを怒ったことがあるわ。私だって、一人前の大人になったつもりよ。私言ってやったわ。何故、関係のない生徒に贈り物をするの、と言ったわ。先生は、きっと君の役に立つことがあるだろう、姉が使っていたものだ、と言ったわ。私は、ずっと先生を避けてきたわ。反抗もしてきたわ。」

堀井の妹は、母の目に涙が溢れているのを見た。

「お父様やお母様、何故、遠藤先生のことを怒らないの。前には、あんなに腹を立てたくせに。私は、この楽譜を受け取った時、急に悲しくなったわ。そして、私はとんでもない悪い子になっていたと思ったわ。」

堀井の妹は、父や母から何の反応もないのを知った。ただ、自分を憐れむように見つめている姿があるだけだった。堀井の妹は、唇を噛み締め、項垂れて自分の部屋へ行った。楽譜集を見つめ、悲しみだけが湧いてきた。

「この楽譜集は、別れの言葉と同じよ。」

堀井の妹は、そう確信し、自分に言い聞かせた。自分の数々の行動を思い返し、絶望感が心に渦巻いていた。何気なく楽譜集をめくった。

… 和歌山女子高校 遠藤高子 …

その表紙の裏を見たとき、堀井の妹に鋭い稲妻のような衝撃が走った。そして、不可解だったことが、急に理解することができた。遠藤先生が、兄の親友であること、切っても切れない縁がある者であることを知った。

「まだ、私には希望が残されている。私はまだ、未来に夢を見ていいんだ。良かった。」

堀井の妹は、その楽譜集を胸にして眠った。激しく、それでいて従順な女性になることを夢見ていた。

 

 秋の晴れた放課後、目崎先生は音楽部の生徒と堀井の妹を伴って川原を歩いた。秋の陽の強い光が、川面に跳ね返っていた。山の木々には、秋の彩りが訪れ、少し肌寒い風が吹き抜けていた。遠くに、水辺で佇んでいる遠藤先生の影が見えた。最近になって、何か遠藤先生は、川原によく出かけていくことを皆が知っていた。

 軽い合唱曲を歌いながら、目崎先生達は遠藤先生に近付いていったが、遠藤先生は動こうとしなかった。誰の目から見ても、肩を震わせ泣いていることが分かった。

「先生、どうなさったの。」

目崎先生が声をかけると、遠藤先生はゆっくり振り返った。頬に涙が流れ、秋の陽に輝いていた。遠藤先生は、本当に苦しそうだった。

「悲しいのです。自分が生きていることが、とても悲しいのです。」

少し震えていたが、遠藤先生の声は、誰にも聞き取れた。その声は本当に悲しそうだった。

「私は、ただ魂だけでありたいと思います。そうであれば、苦しみや悲しみも人から隠すことができます。」

堀井の妹は、目頭が熱くなるのを感じた。そして誰にも、自分が悲しんでいるのを気付かれまいと思った。

「魂だけになれない自分が悲しいのです。私は、毎日、毎日ここに来て泣いていました。自分は、魂でなくて人なんだ。そう言い聞かせて、言い聞かせ続けてきたのです。今に、きっと人になれると思います。」

遠藤先生の前に訪れた者たちは、皆押し黙ってしまった。一体、何を言って慰めてよいか分からなかった。

「私は、きっと気が狂ったものと思います。」

その言葉の中に目崎先生は、人の永遠の悲しさを思った。自分の祖母が言った言葉を思い出した。

「遠藤先生というお方、貴女が手の届くような人ではないよ。」

初めて祖母の言った意味が分かったような気がした。祖母は、それを知っていたから、谷沢先生と自分の間について、とやかく言わなかったと思った。

 皆が無言だった。一人去り、また一人去っていった。そして目崎先生と堀井の妹だけが残った。赤み帯びた夕陽の光が一面に差し込んでいた。二人の女性は、お互いが女性であることを認めた。一人の女性は彼を見つめ、もう一人の女性は涙を流していた。その三人の姿を見つめている二年生の女生徒の姿が、森影にあることは知る由もなかった。

 

 その冬は、雪が多く降った。三月に入っても校舎の周りの雪はまだ高かった。三年生の姿は、学校になかった。遠藤先生は、廊下を歩いていて寂しさを感じた。廊下には、窓からの雪の光が鈍く差し込んでいた。

「全てを、忘れなければならない。」

遠藤先生は、そう思った。教務室に入り、教科書を机の上に置くと、部屋の中央に据えられているストーブの側に寄った。遠藤先生は、軽く目を閉じて、この土地に来て過ごした日々を思い出していた。

「遠藤先生、どうなさったの。」

遠藤先生が目を開けると、心配そうに覗いている目崎先生の姿が見えた。遠藤先生は、別に驚きもせず、目崎先生の瞳を覗いた。目崎先生は、少し顔を赤らめ俯いた。

「少し風邪気味で、力が無いんです。」

遠藤先生の体は、この数日熱かった。

「お休みになったら。いつからです。」

目崎先生は、顔を上げ、心配そうに言った。

「一週間くらい前からです。風邪をこじらせたらしいんです。熱が下がらなくて。」

遠藤先生は、力無く言った。

「知らなかったわ。一週間も前から。私、よい医者を知っています。行って診てもらってください。」

目崎先生は、遠藤先生の同意を求めた。遠藤先生が頷くのを見て、直ぐ電話をかけるために走り出した。

 教務室には、谷沢先生がいるのを遠藤先生は知っていた。そんなことは、どうでもよいと思った。目崎先生の行動は、自分のためのものであり、それで良いと思った。

 

 遠藤先生は、肺炎を起こし、即刻入院した。個室の静かな部屋で、初めて安らかに眠ることができた。病人であるという自覚が、気を静めてくれたのだろう。目を覚ますと、まだ暗かった。寂しい思い出の中に浸って、もう直ぐ自分が故郷に帰ることを思った。遠い南の故郷は、雪がそう降らないことを思い出した。父と母がおり、田舎の古めかしい故郷の家を懐かしく思った。

 故郷から離れ、住むこととなった異郷のこの地、全てが浪漫に耽っていたためだと思った。浪漫らしいことは、確かにあった。それは苦しい思い出となった。故郷に帰り、そこから遠くもない有名な私立大学に職を見つけた。それを両親に話したとき、嬉しそうな顔をしたのを思い出した。

「帰って、また出発しよう。全てを忘れて出直さなければならない。」

遠藤先生は、行き詰まった自分の環境と心を払拭して綺麗にしたかった。堀井の妹は、希望どおり芸術大学の試験に受かった。目崎先生は、谷沢先生と結婚をするだろうと思った。

 

 遠藤先生は、入院して三日目に、余りよく知らない女生徒の訪問を受けた。遠藤先生は、その女生徒を不思議そうに見つめた。彼女は、恥じらいだ顔を隠そうともせず、花を活けたり、雑然とした部屋の本の整理を始めた。

 女生徒がカーテンを開けると、早春の弱い日差しが差し込んだ。

「この部屋の空気、汚れています。少し戸を開けます。」

女生徒は、窓を開けると気持ち良さそうに、大きく息を吸った。小さな声で歌を口ずさみ、急に歌を止めると遠藤先生の方に振り返った。

「おかしいですか。私がこの部屋にいると。でも私、どうしても来たかった。」

遠藤先生は、その女生徒を見た時、どこの組の生徒か分からなかった。暫くして、二年生の目立たない生徒であることを思い出した。どのような家庭を持った女生徒であるとか、性格や成績などは、全く知らなかった。

「確か、君は二年生だったね。名前は河井さんだと覚えている。どうもありがとう。私のところには、余り人が来てくれない。本当に助かった。でも、一人で来るなんて、友達と一緒に来ればよかったのに。」

遠藤先生は、女生徒の好意が、過去に噂されたことを思い出した。急に寂しい想いが込み上げた。何故、あのようなことになってしまったのだろう。取り沙汰する方が間違っていると思った

「先生は、この町の学校に来られて、色々とお苦しみになったと思います。堀井さんのことや目崎先生のこと、色々と話を聞いております。私は、感情で物事を見る方です。何か、先生は決心されたように見えます。」

遠藤先生は、何を言っているのかと不思議に思った。

「私の決心とは、何だろうかね。」

少し腹立たしく思いながら、女生徒に尋ねた。

「言ってもよろしいですか。私の勘違いだったら嬉しいんです。先生は、近く、この地を去られてしまうと言うことです。何もかも、かなぐり捨てるようにして。」

遠藤先生は、その女生徒を見つめた。何故、この女生徒は、自分の心を知っているのだろう。不思議でならなかった。その女生徒は、その時の遠藤先生の顔を見て、この地を去っていくと言う確信を得た。そして、その女生徒は目に涙を浮かべると、涙が頬を伝って流れていった。

 無言のまま、二人は見つめ合った。遠藤先生は、その女生徒の中に人間らしさと優しさ、美しい女性らしさを感じた。

「私がこの地を去っていくのは、本当です。皆がこのことを知っているだろうか。」

その女生徒は、首を横に振っていた。

「和歌山って、随分遠いところですね。私、もう一度お見舞いに来ます。母と一緒に来ます。」

そう言うとその女生徒は、遠藤先生の右手を握り締めた。涙の流れる顔で、遠藤先生を見つめた。遠藤先生は、激しく心が動いた。これまで感ずることがない、深い心の昂ぶりだった。女生徒が部屋から出て行った後にも、激しい動悸を抑えることができなかった。

「並みの高校生ではない。どういう人なんだろう。何故、私に近付いてくるのだ。今更どうして。」

遠藤先生は、独り言を漏らした。そしてその女生徒が、自分に残した感動は、まさに「愛」だと思った。自分は、堀井の妹や目崎先生を見つめていた。そして、それしか目に入らなかった。そんな自分を静かに見つめていた人がいた。自分が見つめていた人達よりも、心豊かで静かな人だった。自分が、いかにも小さな者のように思えた。

 

 明日から春休みを迎える終業式だった。遠藤先生は何も感じなかった。堀井の妹の姿はなく、全てが終わったような気がした。

「何故、この学校の教師になったのだろう。何もならなかった。」

異郷の地で得たものは、苦しみや悲しみだった。それらは遠い将来振り返れば、浪漫と思える時期があるのだろうとも思った。

 定年で辞職する教頭先生と共に遠藤先生は、ステージに上った。もう何も考えることはなかった。教頭先生の挨拶が始まった。

「私は、教員生活を四十年近くもやってきました。この学校で辞める訳ですが、この学校では幾つもの想い出があります。」

教頭先生の長い別れの言葉が始まった。遠藤先生の耳に、それらの言葉は入らなかった。

 遠藤先生は、生徒や先生方が、自分の姿を静かに見ているのが分かった。そして別れることの悲しみを感じた。自分が思っているような疎外感はなかった。前にいる人、いや皆が優しい人に見えてくる。長い教頭先生の挨拶が終わって、遠藤先生は、落ち着いてゆっくり演壇のマイクロホンの前に立った。

「長い間、生徒の皆さん、そしてご参列の先生方、どうもありがとうございました。」

遠藤先生は、講堂に響く自分の声が良く聞き取れた。

「学校は、学問をするところと教わりました。そして私は、そのような態度で授業をしてきました。学問は、人間の良い点、広い意味での「愛」を覚えることだと、私は思っております。」

遠藤先生は、ゆっくりとした口調で話した。前にいる生徒に目を巡らせた。

「人は、心と実際とに左右されていくものです。そのズレが、色々な人生を織り成していくものと思います。結果だけを見つめてゆくものではないと思います。現在の自分の心と立場を、しっかりと見つめていかなければならないと思います。

 私は、生まれてきました。そして自分だけの人生を歩んでいるのです。人はそれぞれの人生を歩んでいるのです。人が、環境に支配されるのは自由さがなくなってしまいます。全くの自由とは、環境を全て自分の物であると考え、その上に立って考えることが必要だと思います。少なくとも、私はそう思いました。多く感ずるところがあって、私はこの学校から去っていきます。色々な思い出を、皆様から頂きました。感謝をしております。」

遠藤先生は、話しながら空しさを感じた。そして話すことを止めた。講堂は、物音一つなく静まり返っていた。遠藤先生は、一礼をすると、ステージから降りた。

 

 目を潤ませて自分を見つめる生徒が目に入った。遠藤先生は、急に涙が溢れてくるのを感じた。それまで意識もしていなかった生徒の熱い視線を見たとき、置き残したことが多くあり過ぎると思った。何かを耐えているかのような、目崎先生の固く唇を噛み締めている顔が見えた。彼と教頭先生は、先生と生徒の間を通り抜け、講堂から出て教務室に向った。

 教頭先生が、遠藤先生に声をかけた。

「遠藤先生、どうして辞めるのですか。」

「私、父のところへ帰るのです。」

遠藤先生は、教頭先生の問いかけにそう答えた。二人きりで歩きながら、教頭先生は言った。

「そうではないと、私は思います。私も最初の学校では、長続きしませんでした。悲しいと言うのか、苦しいのです。そして私も逃げ出しました。良かったと思っていますよ。」

遠藤先生は、何も答えなかった。遠藤先生は、大方の書類や本など必要なかった。持ってゆく物はなく、下宿の荷物も昨日全て送り出していた。もう帰る汽車の時間は迫っていた。

「俺は、やはり逃げていくんだ。」

遠藤先生は、そう思った。谷沢先生が息を切って教務室に入ってきた。遠藤先生の前に立つと、激しい口調で言った。

「何故、急に辞めるのだ。前触れもなしに、どうして辞めるのだ。」

遠藤先生は、話をしたくなかった。どうやら谷沢先生は怒っているらしかった。

「家の方が心配になりまして、どうしても家に帰らなければならないのです。」

そう遠藤先生は谷沢先生に答えると、一礼をして校長室へと行った。校長室に入ると、涙を流している目崎先生の姿があった。

「遠藤先生、今、何を思っていなさるの。」

遠藤先生は、目崎先生の問いに答えることができなかった。人に感情を表現するには、時、既に過ぎ去っていたのだった。

「今日、これから私の家に来てください。おもてなしします。」

目崎先生が言った。遠藤先生は答えた。

「私は、もう直ぐの汽車で出発します。行くことができなくて残念です。家の方々に宜しくお伝えください。」

遠藤先生は、目崎先生に深く丁寧なお辞儀をした。

「嫌です。そんなことは承知できません。」

目崎先生は、啜り泣いていた。そして更に言った。

「私にとって、大切な話があるのです。出発は、明日にしてください。遠藤先生、お願いです。」

遠藤先生は、黙っていた。目崎先生の哀願する声が聞こえた。長い時間が過ぎたと思った。校長は、遠藤先生の決心が固いことを知っていたが、静かに言った。

「遠藤さん。目崎先生の言っていること、聞き入れてくれないか。長い人生の一日でしかないと思う。私も最後に、君とゆっくり話がしてみたいし、どうかね。」

遠藤先生は、ゆっくり首を横に振って見せた。深いお辞儀をすると、校長室から出て行った。遠藤先生は、逃げていく自分だと思った。だから誰からも見送られたくなかった。

 

 玄関に待たせてあるタクシーに乗り込んだ。どっと悲しい涙が頬を止め処もなく流れているのを感じた。その地方の中心都市の汽車時間に間に合うように、タクシーはスピードを上げて走った。この土地の山や川、そして町並みを二度と見ることができるだろうか。遠藤先生は、大きな川沿いの道路から、風景を食い入るように見つめた。そしてその町から遠くなるにつれて、涙が甘い涙となっていくのを感じた。心の苦しみが少しずつ解れ、一条の光明に似た光が心の中に差し込んでいるのが分かった。