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「そして冬が来て」

 

                佐 藤 悟 郎

 

 

 私その村は、海にそそぐ大西川と横から大西川に流れ込む古井瀬川の合間にある。大西川は川幅が七百メートルもある大河で、古井瀬川は川幅が五間ほどの用水である。村の中程は、小高い岡となっていて稲荷神社がある。
 初夏の頃になると村は、濃い朝霧が立ち籠める。稲荷神社境内の松林の影が、霧に霞んだ姿を浮かべている。冷たい空気が流れ、間もなく乳白色の光が暖かく、そして鈍く周囲を包む。
 程なく霧は川に吸い込まれるように晴れていく。岡の西に位置する大西川の流れは、遠くに見える海に流れ込んでいる。岡の四方は、村の家並みが見える。北は海に面し住家と漁港があり、西と南は村の商店が並ぶ通りとなっている。東には大きな硫安工場がある。
 木々に覆われた古井瀬川が、見え隠れしながら深い緑色を放っている。その川は、近郷の田圃の水を潤す、古い用水で古井瀬の川と呼ばれていた。
 古井瀬川は、村の中を、岡を東から迂回するようにして、大西川の水門に通じている。その村は、古い村で、村の人々は、古井瀬川を大切にしている。
 古井瀬川の川沿いには、大きな屋敷があった。その広く古びた屋敷に塀垣が巡らされ、塀垣の上に屋敷の中の木々が見える。その屋敷は、古くからの地主近江家の屋敷である。

 神社の境内から参道の木々をくぐり、階段を下りると、村の家々がある。道はやや狭いけれど舗装がされ、道は右に左に曲がり、右や左に入る道がある。村の家々の造りは、新しい臭いのする家が多く、ブロック塀や生垣が程よく巡らされている。一番太い通りを歩いていくと、約十五分で古井瀬川の堤に出る。そこには、古くなったコンクリートの橋が架かり、川の北側との通路になっている。

 古井瀬川の水は淀み、緑に似た色の水を湛えている。堤は低く、小道となっているが、なだらかな堤の裾が、水の流れ近くまで広く伸びている。堤の上には、大きな枝が空に広がっている木々が、しっかりとした姿を見せている。古井瀬川の橋から川上に向かって立ってみると、左の堤の、そう遠くないところに、丘から見えた大きな近江家の屋敷と黒塗りの古い板塀が、重々しく長く見える。その長い塀の、古井瀬川に近い所に、開けられたこともないような木戸がある。
 その村から大西川の大西橋を渡り、車で三十分も走ると、喧噪たる都会の中心部に着く。その都会は、年を追うごとに膨れてきた。この村にも、その風が吹いて来ていた。田地を埋め立て、新しい新奇な家が建ち並び、スーパーマーケットや商店なども、一角に集まってできていた。それらの、少し不安定な風情は、まだ古い村には、一見、馴染めないように見えた。

 その古い村の大きな近江家の屋敷に、まだ年若い女がひっそりと暮らしていた。
「東京で、追い出されてきたんだって。」
「そうじゃねえ。男が浮気をしたんで、謝りに来るまで、引き籠もっているんだとさ。」
村の人々は、色々憶測めいた話しを茶の間で寄り合っては、話し合っていた。
 女の名前は、近江多可子と言う地主の長女だった。彼女は落ち着きのある美しい女性で、或る程度の知識を持った少し高慢な性格だった。

 彼女は、都会の女学校を卒業すると、東京の女子大に進み、高慢な性格も手伝ってか、或る程度の成績を修めて卒業した。大学を卒業して一年間、東京で遊び、その若さと美しさで、某会社の跡取りと結婚をした。

 村人は、地主の、その娘の幸福を羨み止まなかったのだが、二年過ぎた秋にひょっこり帰って、再び東京へは行かず、家の離れで暮らすようになったのだ。
 地主の娘、多可子が上京しないことについては、暫く村人には知れなかった。それは、彼女が意識して外出をしなかったことと、彼女の家では、訪問する人を中庭に入れなかったことからである。そして冬の訪れと雪の深さに、彼女のいることが隠されてしまった。
 春になると、多可子が女中を伴って古井瀬川や、大西川の堤を散歩しているのが噂になった。初めの内は
「病気なんだろうて。」
と言われていたが、その健康的な美しさや、時折の美しい声に、全てが否定された。
 村の噂が広まるのを追うように、彼女の父は村の人に、
「娘は東京で結婚に失敗して帰ってきた。相手の男が悪かったのだ。」
と言いふらした。

 彼女は、晴れた日の朝や午前は、いつものように散歩に出かけた。屋敷の裏木戸を、大木の薄い緑の葉を宿した、木漏れ日を見上げながらくぐり抜けた。そして、少し丸味帯びた頬に、冷たい風を当てらい、草を踏みしめて、古井瀬川の堤に出た。柔らかい黒髪を、左前から掻き上げ、大きな川との水門の方へ歩いて行く。
「京子さん、村の人、私のことを、何と噂しているの。」
女中は、彼女が振り返って問いかけるのに、黙って首を横に振って見せた。
「知りません。私には、話してくれないのよ。私が通ると、皆、黙ってしまうの。」
多可子は、白いスカーフを首に巻き、白い薄いセーターと水色のスカート姿で、草の露を避けるように歩いていた。

 朝靄が古井瀬川の川面を流れていく。その向こう岸に、山笠を着けた釣り人が、片手を頬に当て、膝頭に肘をついて、川面を窺っている様子だった。
「あの人、時々釣りに来ているのね。」
「どこの人だか分かりませんが、村の人ですね。」
「どうして分かるの。」
「だって、遠くの人は、皆んな大きな大西川へ行ってしまいます。」
突然、女中は、手を上げて、その釣り人に大きな声で言った。
「そんなところで、釣れるの。」
釣りをしている男は、腰を下ろしたまま、手を振って応えた。
「まあまあだよ。大きいのが二匹だけだ。」
「頑張ってね。」
女中の、まだ少女らしい高い声が、古井瀬川の川と林によく響き、男の声も返ってきた。
 多可子と女中は、まだ霧のさめやらぬ堤を、水門に向かって歩いた。途中、二人連れの中年の村の女にあった。二人の女は、多可子に挨拶をして、歩いていく後ろ姿を見送り、急に声を小さくして、何か話しながら歩いていった。

 大西川の堤に登ると、風が少し強くなり、多可子のスカートを弄んでいた。多可子は、大きく両手を挙げて、深呼吸をした。大西川の、その朝は、まだ醒めやらぬ深い霧に包まれて、堤の上を低く、川の外に向かって流れていた。樹木のない大きな川の堤は、薄緑の草を見せて、前方に消えていた。
「年寄りと思っていたのに、若い人なのね。誰かしら。」
多可子は、両手を下ろしながら、誰に言うでもなく呟いた。その言葉に促され、多可子の横から、女中が多可子の顔を覗いた。別に答えを求めている様子もないので、黙って自分も、深く息を吸ってみた。快い寒さが、体に感じた。

 多可子は、結婚して一年程経つと、生活に対して、落ち着きを持って見つめるようになった。自分の夫については、何をしているのか、何も知らない状態だった。苛立ちを覚え、噂の女性関係や、人間的な素質を、悪い方向に考えるようになった。
 世間によくある話しだが、夫も、やはり女性秘書と懇ろになっているのではないかと推察した。女性秘書は、夫と同じくらいの派手好みの女性だった。社用と称して、家まで車を運転し、出かけていくことが度々だった。最初の頃から愛想が良く、軽く言葉をかけてくれるので信頼もし、相談もしていた。

 毎日、多くの雑誌や本に読み耽り、近くの公園を散歩している自分に満足していた。
「母さんの話だと、君は、毎日ブラブラしていると言うことだ。ちゃんとしてもらいたいと思うよ。」
そう注意をして、部屋を出て行く夫の後ろ姿を見つめて不満に思った。女中もいる家で、一体何ができるであろう。他の人との付き合いが悪い、ものの趣味が良くない、時々夫から出る言葉だった。

 夫は、一緒に出かける社交場では、絶えず自分に寄り添って、冗談交じりの話しをする。役人や利益関係のある者については、調子の良い偽りを並べ立てていた。多可子が、何事か話しをすると、後から必ずと言ってよいほど
「君は、何も知らないのだから、喋り過ぎないようにしたまえ。笑っておればいいんだ。碌な人物ではないのだから、喋り過ぎると、却って困る。」
と文句を付ける夫だった。部下に対しては、高慢とも、威圧とも思えるほどの辛辣な言葉を浴びせて、平然としていた。
 多可子は、人間関係とは、このようなものである筈がないと思っていた。隔てある人間の絆を見るのは、心苦しい思いだった。

 結婚は、特別、自分の止むに止まれぬ末の結婚ではなかった。故郷出身の代議士の仲介で、夫の方からたっての望みと言うことで申し出があり、父も母も意義はなく、一見、良さそうな人柄でもあったことから承知したものだった。
 秘書との関係ばかりでなく、女を囲っていることが露見した。
「君には、済まない思いをさせた。成り行きで、仕方がなかったのだよ。」
多可子は、ただ沈黙していた。夫に対する信頼は消え失せた。当初は、夫も、その母も素直な態度を見せていたが、それも、直ぐに元に戻ってしまった。夫は、女との関係を続けていた。
 多可子は、夫の家に、また夫との将来について、全然未練はなかった。自分の父や母の諫める言葉に、従順に従っていた。
「男なんて、皆んなそういうものなんだよ。病気なんだよ。その内に治って、反省するんだよ。その後は、信じられない幸福が来るんだよ。」
多可子の母は、父もそうだったと、同情してくれた。しかし、夫に対して、一生、信頼や幸福というものを期待はしていなかった。

 ある日、多可子は、家の者に黙って外出し、遅くなって帰ってきた。大学の友達の家へ遊びに行ったのだ。家に帰ってくると、居間に、少し酔った夫と、その母が座っていた。
「こんなに遅くまで、どこへ行っていた。浮気女め。出て行け。」
荒々しく夫は捲し立てると、音を立てて机を叩いた。冷たい目で多可子は、夫とその母を見つめた。夫は、顔を伏せた。夫と女性秘書の間に子供ができたのを知っていた。
「私は、実家に帰ります。」
多可子は、それだけ言うと、立ち上がり部屋を出て、そのままの姿で家を出た。夫は、それを止めようとした。多可子は、冷たい軽蔑の目を投げかけ、表に出て、車を拾うと駅へと走らせた。
 多可子には、悲しみとか憎しみ、昂ぶる感情は湧かなかった。冷たいほどにまで、冷え切った自分であることに気付いた。

 湿り気のある生暖かい風が、海の方から吹いてきた。多可子と女中は、急いで大西川の堤を川上に向かって歩いていた。空には、海の方から足早に、低い黒い雲が追いかけてきた。
「お嬢様、急ぎましょう。あれは、きっと雨雲です。海が、段々姿を消していきます。」
風は次第と強くなり、まどろんだ大西川の川面に小波が立ち始めた。堤の裾の緑の雑草も、波打ち揺れていた。
「京子ちゃん、とても間に合いそうもないよ。雲は、あんなに早く追いかけてくるし、家は、まだまだ遠いわ。」
多可子は、堤から遠く、大西川の側の田圃の、青みのある中の村を指差し、女中をからかうように微笑みを見せていた。
「濡れても、私は構わないのよ。京子ちゃんの言うことを聞かずに、海辺で長居したんだから。罰が当たったのね。」
周囲は、急に血の気が失せていくように、大地が暗くなっていった。大きな川の対岸が、雨にくすぶり、姿が見えなくなった。霧雨が、二人の頬に強い風に運ばれ、冷たく吹き付けた。一瞬、雷光が一面を明るくすると、地鳴りを立てて轟いた。
「お嬢様、走りましょう。」
女中は、多可子の手を引いて駆けだした。雷は、二人にとって恐ろしい存在だった。激しい雨が、そして暗い世界が二人を覆い包み、その中を二人が走っていた。近くの草が渦を巻いて荒れ狂い、大粒の雨が強い風で、激しく二人を打ち付けていた。堤の道は、泥水となって流れ出し、二人はズブ濡れになった。まだ、村は遠いに違いなかった。
 髪は濡れ、頭に頬に、目にこびりついた。服は肌に吸い付き、まるで体に水が伝い落ちていた。多可子は、急に足を止めた。
「京子ちゃん、もう濡れたのよ。歩きましょう。私、疲れたの。走れないわ。」
また、稲光が走った。一瞬、周囲が明るくなった。底知れない景色、漠然とした自然を、二人は垣間見た。二人は、直ぐ耳に手を当てた。雷音は、それでも体に激しい響きで、直ぐ二人の体を震わせた。女中は、多可子に腕を取って寄り添い、殆ど体を着けるようにした。二人は、恐ろしい世界の中を、身を強張らせながら歩いた。雨の冷たさが、体に感ずるようになった。

 多可子と京子は、断続的に鳴る自動車の警笛の音に気付いた。二人が後ろを振り返ると、ライトを点けた自動車がノロノロと、後ろを走ってきていた。女中は、両手を挙げて、左右に振った。自動車は止まった。
 女中は、運転手に車に乗せてくれるように、手振りをした。運転手の手招きをするのを見て、二人は車の後ろに乗り込んだ。
「済みません。古瀬まで乗せてください。」
運転する男は、別に振り返りもせず軽く頷いて、ゆっくり走り始めた。多可子と女中は、抱き合うようにして、暖を取っていた。すると直ぐ、生暖かい空気が、車内に溢れてきた。
 多可子は、暖房を入れてくれたのを心で感謝した。運転しているのは、若い、髪の毛が少し長目の男性だった。時折、鋭い稲光が走り、窓に流れるような雨が叩き付けられていた。車は、少しの振動を、二人の体に与え、快く、ゆっくり走って行った。

 恐怖から逃れたことと遊びの疲れ、暖かさが二人を眠くさせた。二人は、少し微睡みに入った。車は、その内に、坂を下り、道を幾つか左に右に曲がっていった。二人は、車がどこを走っているのか分からなかったし、暗い窓の外を見つめる元気もなかった。十五分も走ると、雨の叩き付けるような音はなくなった。風も、少し収まったように思った。多可子は、村の中に入ったと思った。車は、停車して、初めて運転手が振り向いた。多可子は、その男の顔を見つめた。見覚えのある顔だった。名前は思い出せないが、確かに村の見覚えのある顔に違いなかった。男は、直ぐ顔を戻すと、暫く黙っていた。少し、雑然と右の方に顔を向けた。
「着きましたよ。」
男からの言葉は、それだけだった。多可子は、慌てて窓の外を見た。自分の家の門が間近に見え、仄かに玄関が、木々の間に見えていた。
「助かりました。有り難うさまでした。」
多可子と女中は、そう男に言いながら降りて、ドアを閉めた。少しの間、車は動かなかった。雨の中を、二人は、運転席の見える蒼門の下に身を隠して、車を見送ろうとしていた。稲妻が走ると、一瞬にして周囲が青白く見えた。女中は、悲鳴を上げて玄関へと走った。
 多可子は、その青白い光の中で、運転手が自分に視線を投げているのを、はっきり見て取った。それも悲しい、哀愁に満ちた瞳で、長い時間のように思った。

 その日は、晴れた爽やかな日だった。田圃は青々と若い稲が続いて、水が張られていた。多可子の家は、朝から華やいでいた。玄関は掃き清められ、明るい光を放って、飾られた水仙の白や黄色は、穏やかな雰囲気を示していた。玄関から門に至る通路には、その両側の灌木の花が咲き乱れていた。

 床の間にも、明るい日差しが差し込み、金刺繍の座布団が敷かれていた。多可子の母と父は、喜びを浮かべ、待ち遠しげに、居間で語り合っていた。
「上手く行ってくれればいいがな。帆苅様の家であれば、何も言うことはないが。」
「そりゃそうですよ。でも、多可子も少し変わった娘ですからね。」
父と母は、居間の縁越しに、離れ家の方を見つめた。木々の幹の間、灌木の上に離れが垣間見られた。
「俺が、少し強く言ったら、多可子は、ふて腐れて言いよったわ。本当に会うだけです。もう、私は、男なんて、真っ平ご免なんです。そんなこと言っても、会ってみれば多可子も好きになるさ。教養もあるし、円満で人望も厚い人だと言うことだからな。」
「そりゃ、勿論ですとも。何せ、帆苅様の坊ちゃんなんですから。」
帆苅家の訪れる十時近くになってきた。父と母の居間に、多可子が姿を現した。
「どうしたというの。そんな着物を着て。」
多可子は、黒の紋付きを着て、薄い緑の帯を締めていた。髪は梳かれて右前から分け、薄化粧をしていた。眉は少し濃く、口元は引き締まり、少し固そうな顔立ちだった。多可子は落ち着きを見せて、向かい合っている父と母の間の横に座った。
「私は、一度結婚したことのある女です。着飾って、人様と見合いをすることなんて、できることではないと思います。」
「そうかい。多可子や、ぶち壊さないでくださいよ。恥のないようにね。」
母は、娘に諭すように言った。多可子の、一見厳しく、難しそうな表情は変わらなかった。

 帆苅の坊ちゃんは、羽織、袴の装いで訪れた。両家向かい合って、型どおり見合いが執り行われた。多可子の父と母が安心したことに、娘の顔から厳しい表情は消え失せていた。
 多可子が少し驚いたのは、見合いの相手が、朝散歩するとき、時々、大西川の堤上で出会う男だったと言うことである。男の方では、少しも驚きを見せないのは、承知の上でやってきた証拠だった。
 多可子は、相手の男の経歴を聞いていた。そして、自分の経歴が紹介されているのにも耳を傾けた。男は、東京の大学を優等で卒業したと紹介された。なるほど、知識人のような雰囲気が見えた。現在は、男の父の経営する会社の役員をしていると言うことである。近在では、名の知られている土建会社である。行く末は、父の跡を継いで、市会議員になるとのことであった。

 多可子は、自分が紹介されるのが終わると言った。
「私について、言い落としがあったようですので、私の口から言っておきます。私は、昨年まで、東京で夫婦生活をやったことがある、結婚歴を持っております。ご承知置きください。」
その男を除いて、席にいた人々は、多可子を見つめ、表情を強張らせた。
「そのことですか。私は、よく存じております。今まで、何度も大西川の堤で、お会いしました。若々しい貴女を見て、結婚されたことがあると聞きまして、少し驚いたのは事実です。私は、それを承知して、私の希望で今日、こうして来たのです。良い返事をいただきたいと思います。」
落ち着いた、朗らかな男の返答が、場に居合わせた者の中に割って入った。険しくなりそうな、その場も息を吹き返したように、華やかになってきた。

 帆苅家とのお見合いが終わってから、半月ほど経ったが多可子は返事をしなかった。心配したのか、帆苅家から食事の誘いがあった。多可子は、夕食を軽く済ませると、間もなく訪れた帆苅の息子と父の三人で、タクシーで新開地にある飲食店街に出かけた。
 そこには、古い料理店があり、小路に入ったところに、松に囲われた料理店の玄関があった。表通りの方に背を接して寿司店も開いており、その料亭の主人は、いつも寿司店の方に出ていた。帳場には、老夫婦と女将がいて取り仕切っていた。
 三人は、料亭の玄関に回るのが面倒なことと、主人に挨拶することもあって、寿司店の方の玄関の暖簾をくぐった。
「いらっしゃい。」
と言う、威勢の良い声が、店の三人から飛んできた。右にカウンター、左に小座敷となり、店は、水で清められていた。檜造りの店は、清楚で、木の香りが漂っていた。
 新しく開けた、少し騒々しい人の往来も、ネオンの光も、嘘のような静かさだった。昔は、村から離れた遊び場だった店が、その店を中心にするように、歓楽街を成していった。
 店の主人は、三人連れを認めると、調理場から来て、深く頭を下げた。多可子の父は、主人に何か小声で耳打ちをすると、並んで立っている二人に、奥に来るように手招きをした。多可子は、ふと我に返った。

 一番後ろから店に入った多可子は、カウンターに座っている一人の客を見つめた。その客は、一瞬振り返って、店に入った多可子を見ると、目を反らし、顔を少し横向きにしたまま俯いた。
 多可子は、その男が、何か物悲しい、哀愁を帯びた目付きをしているのに気付き、以前に会ったことのある男のように思った。男の俯いている姿が、自分にも挨拶しているように見え、多可子は、軽い会釈を男に返した。多可子は、その男を思い出そうと努め、男を見つめていた。男は、左手で指を目頭に当て、無理に顔を下に向けようとしていた。

 父の呼びかけに、ふと我に返り、多可子は帆苅の息子と並び、店の中を歩き、店から料亭への通路に入るときに、もう一度振り返った。男は、カウンターで項垂れていた。
 多可子は、男の哀愁を帯びた瞳を拭い去ることができず、自分の記憶を色々辿ってみた。そして、その男が、以前、嵐の日に、自分と女中を車に乗せて、家まで送ってくれた男であることを思い出した。しかし、多可子の心は、それだけの思い出だけでは不十分に思え、絶えず考え続けていた。料亭の六畳の部屋に、三人は案内された。床の間の古い掛け軸が、落ち着きを見せていた。
 酒や刺身などが運ばれ、飲食を始めた。多可子は、まだ、寿司店にいる男を思い、酒を少し嗜んでいた。
「多可子さん、何を、ぼやーとしているんです。」
帆苅の息子に声を掛けられ、一瞬狼狽えて笑顔を作り、息子の方に目を投げたが、忽ち微笑みも消え失せて厳しい目を投げかけた。

 一週間前、多可子が帆苅の家を訪れたときのことを思い出した。彼の部屋で二人切りになって、ロシア文学のことについて話しているとき、急に帆苅の息子が、背を向けていた彼女に抱きつき、ソファの上に伏せ唇を奪い、体を奪おうとした。その時、彼女は、心には、何も燃え上がる物は感じなかった。冷たい、卑しい者を見る目を自分で感じていた。
『この男は、私の期待する何ものも持っていない男だ。』
後から、体を抱かれ、唇を奪われるときまでは、別に多可子は抵抗しなかったが、そう思うや否や激しい抵抗をした。足をバタつかせ、悲鳴を上げ、肘を男に当てがわせた。一瞬、男の力が緩むと、男の手から逃げ出し、男の部屋を走り出た。
 玄関まで行くと、帆苅の親達が、顔色を失った態で出てきた。そして、息子も追いかけてきた。息子は、親の前に少し狼狽えていた。彼女は、乱れた服装を整え、髪を手で掻き上げ、帆苅の家の人々に一瞥を投げて、挨拶もせずに帰ってしまった。多可子は、別に憤りを感じていた訳ではなかった。ただ、帆苅の息子には、東京での生活、夫の臭いが感じられ、好きになることは、到底できる相手でないことを、確信したのだった。

 多可子がそんなことを思い出しているとき、帆苅の息子が多可子に声をかけた。
「この間のこと、怒っているのですか。」
多可子は、迷うこともなく
「当然でしょう。」
その言葉を聞くと、帆苅の息子は拝むように手を合わせ
「勘弁してください。二度と、手荒なことをしませんから。」
とて言った。多可子は、少し厳しい声で
「当然なことでしょう。」
と言った。多可子の口から、もっと痛烈なこと、別れるという話が出ないのに、帆苅の息子も、多可子の父も安堵していた。
 多可子は、酒に頚を少し赤くして、顔が熱くなったのを感じた。彼女は、言葉がなかった。男二人が、盃を煽っていた。

 多可子は、男というものを考えた。自分の不幸が男から出ていると思った。これからも、不幸が続くだろう。男の中に、心の安らぎを見付けることはできないだろうと思った。そう思うと、夫になるかも知れない帆苅の息子が、頼りない、卑しい男にしか見えなかった。
 多可子は、自分の過去を、幼い頃から辿ってみた。何不自由なく、村の人からお嬢様と呼ばれて育った。そして自分が、お嬢様として気位と誇りを持って、生きていかなければならないと思った。幼い頃から、委員だ、世話役だ、模範生だと言われ、それを見事にやってきた。寸暇を惜しんで勉強もしてきた。今のような状態になって、それらの全てが否定されてしまったように感じた。出戻りという言葉が、彼女を萎縮させ続けてきた。
 彼女は、急に目に涙をためて、咽び泣き始めた。酔いが覚めたように、二人は心配そうに多可子を見つめ、慰めようとしたが、言葉が見つからない風だった。

 彼女は、頭をガックリ落とした。
「健一さん。」
二人の男に聞こえるはずがない、微かな声で呟いた。多可子は、溢れる涙を湛えて、立ち上がると、駆けるように部屋を飛び出した。彼女には、もう何も気にならなかった。何も考えることはなかった。ただ、一つの確信、全てを包んでくれる確信があるだけだった。
 自分の側にいてくれた男の人、幼い頃から土地を離れるまでの、自分の心にあった男の姿、故郷を離れて、妙に頑なに陥ってしまった自分の姿、男に対する期待の不満足、常に抱ける信頼できる安定した心、それを考えた時、多可子は、嵐の日に車で送ってもらった男に集中して、思い出させるのだった。

彼女は、昔の快活の眼差しが、哀愁を帯びた眼差しに変わっていた男を、思い起こした。そして、その男の中に、男の全てを見出したのだ。

料理店から、家に帰ると多可子は自分の部屋に入った。棚から手文庫を取り出し、中にある一通の手紙を取り出した。
『同じ村に住んでいることから、前略ということにいたします。
 私は、多可子さんに、私の思いを知らせるのに、色々考えました。伝えることが良いことか、悪いことなのか、それすら私の悩みでした。しかし、この手紙が、全ての解決を私に与えてくれるものと私は決断し、手紙を書きました。哀れみを抱いても結構です。また、笑われても仕方がないでしょう。できたら最後まで読んで欲しいと願っております。
 多可子さん、私は、貴女と幼い頃から、いつも一緒だったような気がします。今、こうして机に向かっていても、面影が現れます。小学校、中学校、村の学校の思い出は、私の胸から消えません。
 多可子さんの、明るい、美しい笑顔、少し大きめな黒く輝く瞳に、私は、毎日、どれだけ胸をときめかしたでしょう。
 多可子さんは、女子校へ行かれました。私は、共学校に入りました。私は、当てが外れてしまったのです。でも、私は、落胆はしませんでした。毎日の通学の時、バスで多可子さんと一緒だったからです。私は、貴女が、何時のバスで行くのか、何時のバスで帰ってくるのか、幾時間も、幾日もかけて調べたりしました。私は、毎日貴女の姿を見ないと、落ち着きがなくなるのです。
 そう言えば、私は、いつも近くにおりながら、いつも見ている役しか演じなかったようです。それで自己満足していたのです。時々、少なめに話しかけてこられるとき、私は興奮の余り、長く話すことができませんでした。中学校の海水浴の時、波間に戯れている貴女を見つめました。息の無くなるまで潜り、一緒に戯れたかったのです。
 女学校に通われてから、多可子さんは、朝早い頃、時々裏木戸から古井瀬川の堤に出ることを知りました。私は、それから毎日と言ってよいほど、その向かいで釣りをするようになりました。
 他の人が聞けば、陰険な行動と言われるかも知れません。でも、私には、それが精一杯の勇気だったのです。
 私が多可子さんに言いたいことは、私が、多可子さんを好きだということです。少なくとも、遠くに離れるようなことがないようにと、祈っておりました。
 多可子さんが、東京の大学へ進まれるということが分かってから、本当に、私の心は、掻き乱れてしまったのです。私は、もう役所に勤めることが決まりました。私も、東京に出ようと、何度も考えました。そこまでの決心はつきかねております。
 多可子さん、東京の学校を卒業したら、村に帰って来てください。私は、待っております。私は、そう信ずることで、四年間を忍べると思います。そして、その時こそ、胸の張れる人になって、貴女の前に姿を見せましょう。呉々も、お体を大切にお過ごしください。
(追伸)
 もし、宜しければ、便りをください。大切にしておきます。私が便りをいたしましたことを、悪くお取りにならないようにお願いします。封筒の中に、迷った末の決心です。私の写真を一枚同封しておきました。

                  高須健一
  近江多可子様
  昭和四十八年三月             』
読み終わると、その手紙を胸に抱いて眠りについた。

 翌日は、雨が降っていた。早起きの多可子は、床から寝間着姿で飛び起き、緑の木戸を開けた。庭の椿や山吹の灌木に、大きな木々の薄緑を、斜めに走る雨が降っていた。そして、濃い緑の灌木の葉から幾度となく雨滴が流れ落ちていた。
 多可子は、几帳の半纏を肩にかけ、少し忙しそうに腕を通すと、手早に紐を結び、軒にあるコウモリを手にして、庭下駄を履いた。庭を駆け抜け、裏木戸を開けて古井瀬川の堤に登った。対岸には、山笠を着けた男が、釣り糸を垂れているのが見えた。

 その釣り人の姿が、雨に濡れた草むらの中に、いかにも静かだった。そして釣り人のいる場所への細い道ができているのを、多可子は、はっきりと認めた。両手を胸の前に合わせ、激しい動悸が胸を圧迫するのを覚えた。雨の降っている古井瀬川は、暗く流れていた。

 多可子は、何も考えなかった。大きな木の根を張る堤を、足を取られながら川下の方に、橋のある方へと、次第に早く歩いていった。多可子の心は、荒んでいた。村に帰ってきたとき、何もかも失われていると思っていた。その釣り人の姿を見つめた時、多可子の心からは、卑屈な思いは、たちどころに消えてしまった。その釣り人の傍に行きたいと、ただひたすらに思うだけだった。

 多可子は、駆け出した。見失うまいと、釣り人を見つめながら。コウモリは、ただ肩に掛けているだけだった。雨は、多可子の髪に、顔に、そして着物に降り注いだ。泥を撥ねあげ、足は泥に染まっていた。

 多可子は、橋の上で急に立ち止まった。
「恥ずかしくたって、構いはしない。」
多可子は、堤を走り、釣り人の背後まで辿り着いた。そして、直ぐ堤から駆け下りた。不安定な歩みは、泥濘に足を取られ、転んでしまい、コウモリを投げ捨てるように、その釣り人の側まで転がり落ちていった。

 一瞬多可子は、左足に激しい痛みを感じた。
「痛い。助けて。」
釣り人は、多可子の手を取って上体を起こそうとした。多可子は、縋り付くように、釣り人の手と、そして腕と胸に手を伸ばしていった。
「泥道を走るからだよ。泥だらけじゃないか。」
多可子は、その釣り人の顔を覗いた。見覚えのある顔だった。急に、懐かしい思いが込み上げて、涙が目を熱くしていくのが分かった。言いようのない哀愁が込み上げてきた。そして、その釣り人の静かな目に、涙が浮かんでいるのを認めたとき、切ないほどの心の響きが、潔癖な愛が、自分の心に満ちていくのを感じていくのだった。
「健一さん、ご免なさい。」
多可子は、啜り泣いていた。健一は、山笠を多可子の頭に乗せると、背を向けて屈み込んだ。
「おんぶしなよ。家まで送ってやる。」
多可子は、健一の肩にしがみつくように、両手を頚の元に回して、背に縋り付いた。足の痛みと、幸せな気持ちが、瞼に交錯していた。健一は、腰を上げ、両足を両手で抱えると、軽々と多可子を背負い、堤の道へと上り始めた。
 多可子の父は外出しており、多可子の母はタクシーを呼んで、健一を伴い市内の病院に向かった。多可子は、痛みも薄らいだのだろう落ち着いていた。診察の結果、骨折はしておらず捻挫で暫く湿布薬で安静するよう言われた。

 翌日から、健一は多可子を見舞うため近江家へ訪れた。三日経つと、縁側にあるテーブルに、多可子と健一は、向かい合って籐椅子に座り、アルバムを見ていた。
「私はね、正直なことを言います。怒らないでくださいね。」
「どんなことです。」
「貴方のことです。貴方から手紙をいただいたとき、驚きましたわ。何故、私にあのような手紙をくれたのか、不思議でしたの。」
「やはり、私の片思いだったのかな。」
「悪い風に取らないでください。私は、貴方に対しては、男らしい好感は持っておりました。でも、近寄りがたい人でしたわ。」
健一は、頷きながら、多可子の話すのを、調子を取るように聞いていた。見上げると、庇の上に、強い日差しが降り注いでくるのが見えた。大木の高い枝の葉は揺れ、ざわめいている。静かな庭の中に、相手の声はよく聞こえた。
「貴方がおっしゃるように、私は貴方をいつも身近に感じていたことは事実です。だから、挨拶と、軽い、快い瞬きは、いつも感じておりました。実を言いますと、私のところには、かなりのラブレターが、他の多くの男の人から来ておりました。それらは、私を嬉しくさせましたが、私は、誰にも返事は出しませんでした。」
「私は、人から恋される女なんだと思っていたのです。人を恋するという、激しい気持ちなんか分からなかったのです。」
健一は、何か、怖いことを聞くように、黙って目を閉じて聞いていた。まだ、中学生、高校生の頃の自分の心のさ迷いを辿っていた。確かに、多可子を見つめていたこと、そして手紙を出した頃の自分が、初めて彼女を目の前から失う現実に、激しい心の動揺の起きたのを思い返した。
「私が、貴方の手紙をいただいたとき、不思議に思ったというのは、改まって今更、というような気持ちでした。身近にいるものが消えるというようなことは、感じなかったのです。私は、貴方の手紙を手文庫に収めて、東京の叔母のところへ行ったのです。」
「私は、東京の生活を始めて間もなく、激しく故郷が懐かしくなりました。何か、大切なものを置き忘れた。自分の全てを忘れたと思い、悲しくさえ思うようになったのです。」
「私は、故郷にいるとき、やはり私は、貴方を意識して生きていたということに気付きました。乗り物に乗っていても、街の中を歩いていても、貴方の姿を捜すほどになったのです。私は、毎日のように、貴方のことを思い出しました。そして、私は、貴方に恋していることが分かったのです。手紙を書きました。でも、出しませんでした。」
「今思ってみると、私は高慢な女だったのです。お嬢様育ちの、周囲のことばかり気にしていて、高慢な気の小さな女だったのです。」
「私は、貴方からの便りを待っていました。便りが来たら、直ぐ返事を出そうと決心しておりました。でも来る便りは、他の男の人からのばかりで、私は、引き裂き、破り捨てました。私は、便りもくれない貴方を憎くなったのです。憎もうと思いました。そして、私は、貴方は冷たい男の人だ、誠意のない人だと、決め付けることによって、けりを付けたのです。」
「私は、夢で貴方の姿を見た時や、街中でふと思い出したとき、気が滅入ってしまいました。大学四年は、長いものです。私は、都会の生活にも慣れ、友とも打ち解け、また社交的に男性を見つめました。そして私は、貴方を、殆ど忘れたのです。思い出すときは、何か遠い思い出のように、少し懐かしく思い出すようになったのです。」
「私は、夫と別れて家に戻り、貴方に二度お会いしました。私は、貴方と気付きませんでした。見覚えのある人と思っていましたが、余りにも、貴方は変わられたように思いました。」
「私は、貴方を思い出したとき、悲しくなりました。私が、激しく思いを寄せたことのある男の人は、貴方一人しかいないと思ったのです。もう、理性など、私には持ち合わせはありませんでした。私は、貴方を恋しいと言うこと、会いたいと言うことで、心がいっぱいになったのです。」
「時々、朝の散歩に出るとき、必ず釣り人がおりました。私は、貴方を思い出し、手文庫の手紙を見たとき、心が張り裂けそうになりました。釣り人は、貴方なんだと。」
 そう言って、急に、多可子は、話を止めて、黙ってしまった。健一は、多可子を見つめた。両手を組み合わせ、胸に合掌して、唇を震わせて俯いていた。何か、祈っているように見えた。多可子は、大きく目を開くと、不安そうな目を投げかけた。
「健一さん、私は、人の妻になったことがあります。汚らわしいと思いですか。」
「汚らわしいなんて、人間、その時になれば、結婚するものなんです。」
「でも、好きでもない人と、その男が、下らない男だったらどうなんですか。」
「結婚ということ、私は、それ自身疑わしいものと思っております。人を汚らわしいとか、間違っているとか、良くない人とか言う判断の根拠となるものとは思っていません。その人が、その人であることさえ変わらなければ、心さえ失わなければ、問題となるとは、私は思っておりません。」
「健一さんは、優しい人です。私を慰めてくれるのですね。健一さんのこと、好きよ。」
「貴女から、そういう言葉を聞くなんて、もうないと思っていました。」
「本当よ。好きよ。好きです。」
多可子は、顔を頚まで赤く染めて、健一の瞳を見つめた。そして、健一の瞳に涙が潤い、輝き、じっと自分の瞳を覗いているのを感じた。多可子の顔から、落ち着きのない、不安の面影は消え失せ、清らかな輝きが、瞳に宿っていった。

 夏の盛りも過ぎた日曜日、多可子は、健一の家の茶の間に、健一が帰ってくるのを心待ちに、その母と話しながら時を過ごしていた。学校の夏休みで健一の妹は家におり、多可子に背を向けて、テレビを見ていた。大学四年生で、もう卒業も間近であった。

 多可子は、何か、健一の妹が、自分に反発している感じがするのを心で捉えていた。部屋から降りてきて、最初にあったとき、妹は、多可子を軽蔑するように見下した一瞬があり、それが心から離れなかったのだ。
 健一は、中々帰ってこなかった。妹は、多可子を、健一が帰ってくるまで、自分の部屋に来るように誘い、自分の部屋に招き、東京での話しをしていた。妹は、暫く話を打ち切り、二人の間に、沈黙が横たわった。確かめるように、ゆっくり話し始めた。
「多可子さんは、結婚されたことがあるのでしょう。男の人って、どう思いますか。」
多可子は、妹が、何かを探るように話し始めたのを感じた。慎重に言葉を返すように努め、考え、考えながら言葉を述べた。
「私には、はっきり分かりませんわ。でも、私は、男の人の思い出は、苦しいことが多かったように思います。」
「私の兄については、どうですか。」
「健一さんは、良い方ですわ。優しい方ですし、思い遣りのある方と思います。」
「私の兄のこと、好きですか、愛していますか。」
多可子は、妹の瞳を見つめ、その中に冷ややかな輝きを見つめ、偽りや曖昧なことを許さない、厳しい態度を見た。
「今の私には、それは、はっきり言うことができます。健一さんを、私は好きです。愛していると言っても間違いとはなりません。」
妹の顔には、パッと明るい光が満ちると、恥ずかしそうに顔を伏せてしまった。
「済みません。不躾なことを聞きまして。後から、兄に叱られそうだわ。」
「私は、健一さんには、私の心の中を話しました。健一さんも、知っておりますわ。」
妹は、優しい目を多可子に向けると、手を延べて、彼女の手を握り締めた。
「これで、私の暗い心も、無くなるわ。本当のことを言いますと、今の今まで、私は、貴女を憎んでおりましたの。」
「そのようですね。何故です。」
「貴女が、余りにも兄を苦しめたからです。私は、兄を尊敬していただけに、兄を苦しめた貴女が、憎かったのです。」
妹は、更に過去の兄の苦しみを多可子に話した。多可子は、真剣に、その話を聞いていた。

「兄には、内緒にしてくださいね。私が大学に入って一年目の冬休みに、雪で外に出るのも嫌で、兄の部屋に入って、本を捜しに行ったのです。兄は、本が好きで、高校時代から本の虫になっていました。悪いことに、私は兄の日記や、書いたものを見つけ出し、読みました。長いもので、その休み中、兄に知られないように読むのが大変でした。」
「勿論、貴女に関することが、多く書いてありました。一見、何もない様子の兄が、貴女を中心に悩んでいることが分かりました。幼い頃を振り返った喜びの思い出の綴りや、詩、貴女が東京へ行かれてからの心配している様子、そうそう、高校時代、バスの中で貴女を垣間見たときの様子や、自分の思いなども書いてありました。主として、貴女が大学を卒業されて、村に帰ってくるのが一番恐れ、心配しているようでした。」
「貴女が手紙をよこさないことや、休みで帰ってきても会ってくれないことや、直ぐ上京してしまうことの不満が書いてありました。大学を卒業されたとき、兄は、貴女が村に帰ってくるものと、本当に信じていたのですね。帰ってこないとは、どういうことなのだ。私に対して、何を意味していることなのだ。と怒りを書いたかと思うと、いや、明日は帰ってくる。明日があるのだ。多くは望まない。毎日姿が見たい。と言う、願望になったりしたのです。」
「ところが、貴女が結婚をされたとき、何と言うことだ。結婚することなんて、信ずることができようか。間違いだ。確かめなくては。」
「私は、その時の兄が、次第に陰鬱な表情になっていくのは、一緒にいて分かりました。原因が何なのか、日記を見て、初めて分かったのです。その時は、兄の精神の、そして生命の一番危険なときでした。
『信ずると言うことは、如何に儚いものだろうか。全てが消え去ってしまった。私の目の前には、何もない。生きる屍となるべきだろうか。いや、そうではない…』
私は、兄の生命の危険が、その時襲いかかっているのを知りました。
『私の幸せは、あり得ない。これが、私の結論だ。私の心の温みは、全て氷の中に没却してしまった。もう話さない。』
兄は、無口になり、感情を表情に出さなくなったのです。それは、長い間でした。私の家は、このために暗い家となってしまったのです。私は、日記などを読んで、貴女を深く恨むようになったのです。」
多可子は、握り締める妹の手の中に手を重ね、震わせながら、俯いて妹の言葉を聞いていた。
「他から見れば、兄の独りよがりな、甘い思いに憑かれていることなのです。人が知れば、一笑に付してしまうことを、兄も知っていたのです。
『しかし、私は、変えてはならないし、変わらない。狂人と呼ばれようも、変わらない。もっと、もっと考えるのだ。前進的に考えるのだ。私は辛い、もっと、もっと辛くなる人がいるはずだ。あの人の魂は、さ迷っていると考えればよいのだ。私が受け容れなくては。』
兄は、やっと出口を見付けたようでした。それは、何も知らない貴女に対する、徹底した犠牲と言うことです。
『生きる限り、望めなくても、報われなくともよいのだ。真実は、自分が変わってはならないことだ。恨んではならないことだ。結婚という事実は、私には、何も影響することではない。』
『永遠に愛し、永遠に、それのみの心を保ち続けることだ。その真剣な私の心に、邪魔立てをするものは、何もないはずだ。ただ、それだけのみ、私は生きれるのだ。』
私の兄は、そう書いてありました。そして克服していったのです。私は、兄が、一層不憫でなりませんでした。」
多可子は、妹の話を聞いて、自分が、何か大きいものに覆い包まれ、それも幸せな、暖かく心安まるものを感じた。

 秋になって多可子は、母に用があり、女中が玄関でお客の応対をしていると言ったので、玄関へと向かった。廊下から玄関の方を見ると、上がり場に母が健一に話しをしているのが聞こえた。朝、電話で頼んだ本を母が受け取ったのだと思った。そして、立ち話をして、健一を中に入れないのを不思議に思った。多可子は、そっと二人の話を聞いていた。
「それは、時々、多可子のところに来ていただいて有り難いとは思っております。多可子も、元気を取り戻したと感謝すらしております。お前さんも知っていると思いますが、多可子には、良い話しがありましてな。時々来てくれるんですよ。今日も、来てくれるんですよ。悪く思わないでください。」
「はい、叔母さん、分かりました。また来ますから。」
彼は、母に一礼すると、その時、玄関の奥に多可子の姿を認めた。軽く頷きを見せると、背を向けて足早に歩き始めた。多可子は、駆け出して、急ぎ下駄を履いて健一を呼び止めた。彼の正面に迫ると、青ざめた顔を見せ、両腕を掴み、玄関の方に押し戻そうとした。
「恐ろしいことだわ。帰っちゃいけない。帰っちゃいけない。」
後ずさりをした健一は、やっと多可子の手を払い、逆に、両手で腕をしっかり押さえた。
「落ち着きなさい。」
それでも多可子は、健一を押し戻そうとしていた。そして、次第にその力もなくなり、項垂れていく多可子を見つめた。
「私、きっと馬鹿な、人の気持ちも知らない女なのよ。だから、皆んなに嫌われていくの。」
「泣いちゃ駄目だよ。皆んな、多可子さんのことを大切に思っているんだよ。心配しているんだよ。」
「健一さんも。」
潤んだ瞳を上げて、多可子は健一の顔を見つめた。健一の、微笑んで頷いている顔が見えた。多可子は、自分自身が無性に情けなく思うと、小声を立てて、肩を大きく動かし、咽び泣いてしまった。泣きながら、フラフラと力無く歩き、玄関へ入っていった。
「お母さん、こういうこと、初めてのことじゃないのでしょう。」
「ええ、何度もありましたよ。」
多可子は、また泣き出すと、夢遊病者のように玄関に上がり、奥へと消えていった。健一は、不安そうに多可子が消えていくのを見つめた。消えて、姿が見えなくなると、その母にお辞儀をして、背を向けて歩き出した。

 晴れた、日差しの強い、少し暑い日、多可子は、縁先で腰を下ろして小説を読んでいた。女中が、離れの多可子の部屋を掃除して、箒のサラサラという音が聞こえた。多可子は、膝の上に両手を置き、両手の平に本を載せ、顔を本に落としていた。白い頸筋が、柔らかく伸びて、時々、耳にかかる髪の毛を手で払い除けていた。

 古井瀬川の堤に、子供達が遊んでいるのだろうか、甲高い幾つもの声が、遠くから聞こえてきた。庭の蝉の音に、多可子は、気に留めなかった。
 女中が、縁の廊下を拭き掃除をして、多可子の近くに来たとき、女中は、彼女に調子の抜けたように声を掛けた。
「この間、私が里に帰ったとき、健一さんを見かけましたわ。」
多可子は振り返って、手を休めている女中の顔を見つめた。
「本当、京子さんの里は、随分遠いのにね。何しに行ったのかしら。」
女中の里というのは、都会と正反対にある清原という古い町だった。やはり、広がる都市の渦に巻き込まれ、近年、その都会と街続きのようになったところだった。
「それがね、女の人と一緒だったの。」
女中は、多可子が少し唇を引きつるように震えるのを、そして顔が引き締まるのを見た。そして、顔を背けて、庭の大きな梢を仰ぎ見てから、また、本に目を落とす姿が見えた。女中は、休めていた手を動かし、黒色の廊下を拭き始めた。
「今の話、本当なの。」
「ええ、私、挨拶をしましたし、挨拶を返してくれましたわ。」
多可子は、本に目を落としながら、女中の確信を持った答えを聞いていた。女中は、心配そうに多可子を見つめていた。
「その時の様子を話してくれる。」
「ええ、お盆の昼過ぎだったと思います。私、丁度、家の者と近くのスーパーに買い物に出かけたのです。その日、スーパーが早く終りになるものですから、人が大勢行っておりました。私が、大通りに面した入口から入ろうとしたところ、若い娘さんと健一さんが、並んで話をしながら出てきたのです。私は、変だなと思い立ち止まって、二人が歩いてくるのを見つめていると、健一さんも私に気付いて、手を上げたのです。
『こんなところで会うなんて、どうしたの。』
と言ったので、私は、
『実家に帰ってきているのです。』
と答えたのです。一緒にいた娘さんは、私に、丁寧なお辞儀をしていきました。私も、深くお辞儀を返してやりました。」
多可子は、少し虚ろになった目を、庭の木々の奥に投げかけ、ゆっくり頷くように、女中の話に聞き入っていた。
「とても親しそうに見えました。確か、その娘さんは、私の隣村の吉原様のお嬢様だと思います。材木問屋をやっている家のお嬢様です。大きな屋敷の家の人で、そのお嬢様も、確か、健一さんと同じところにお勤めしているように聞いています。美しい人で、髪の長い人です。」
「京子ちゃん、もう良いです。母屋の方の掃除をしてください。」
多可子は、女中に腹が立って、言葉を遮り、女中を自分から遠退かせた。女中は、少し肩を窄めて、悪びれて水の入ったバケツを下げ、母屋の方へ消えていった。

 急に、多可子の耳に蝉の音が、騒々しいほどに気障りになった。女中が、自分と健一の親しい間柄にあるのを知っているのに、平然と、それ以上に調子に乗って喋っている、無感覚さに腹が立った。左手で顔を覆って、目を閉じて考え込んでしまった。
『何て、寂しい気がするのだろう。』
悲しみというよりは、孤独な、侘びしく、寂しい気持ちが、多可子を捉えていた。そして健一が、私が村から去ったとき、何も彼に与えないで、殆ど気にも留めないように結婚したときの気持ちを推し量ってみた。

 言いようのない寂しさが、多可子を離さなかった。庭の中をさ迷い歩いた。
『私は、とやかく言うことはできないのだわ。』
多可子は、幾度も幾度も、そう自分に言い聞かせた。
『でも嫌だわ。諦めきれない。』
そう分かっていたものの、言い聞かせても、抑えきれない感情が、時折、激しく起こるのを感じた。多可子は、長い時間、庭を巡り、考え、悩み続けていた。

 多可子は、父に紅葉見物の旅に誘われていたが、行く希望はなかった。どうも、父は一人で行きづらかったのだろう、遊びに来て、庭をぶらついていた健一に声をかけた。
「私も毎年、秋には旅行するのです。二泊三日で、そこには行ったことがないから、一緒に出かけますか。」
健一が、快い返事をして、庭石から玉石が音を立てて、父の方に向かっていくのを、多可子は見た。

 多可子は、健一が帰った後に、父に、すっかり治った足を話に持ち出して、素っ気なく言って、探りを入れた。
「足の捻挫には、温泉が効くから、お父さんと一緒に旅行に行きますわ。」
父は、娘の顔を、呆気に取られたように、じつと見つめた。何食わぬ顔をして、目を反らした娘の耳が、少し赤く染まっているのを見て、苦笑を浮かべた。
「足が痛むのか。そうは見えないが。」
「この頃寒くなってきたから、少し痛むの。温泉は、とても良いって話よ。」
「健一君を断ろうか。俺は何、お前が一緒でも良いんだが、健一君にとっちゃ、お前が足手まといになろうからな。」
意地の悪そうに父が笑っているのを見ると、多可子は、頬や、頚を赤くして、唇をきつくして、逃げるように離れへと逃げていった。

 多可子は、父を憎いと思った。父の言葉は、明らかに自分に向けられた皮肉だった。無性に悲しくなり、部屋の真ん中に、一人ぽつんと、暗い中に取り残された自分が哀れだった。
 暫く経つと、父の足音がした。足音は、部屋の障子の外で止まった。
「明かりをつけなさい。今、お前が一緒に行くことを、健一君に電話をしておいた。願ってもないことだと言って、快く承諾してくれたよ。幸せだよ。多可子は。」
父は、部屋の中には入らず、母屋の方へ立ち去っていった。多可子は、嬉しさが込み上げ、涙となって落ち、胸は幸せに満ちた。
 明かりをつけて、部屋の隅の鏡台の前に行った。鏡台の上の明かりもつけ、覆いを外して、自分の顔を見つめた。そして、美しくなろうと思った。床に入ると、多可子は、旅行に出かけることに、胸を躍らせ、色々想像をした。

 朝食を済ませると、健一は、自分の車を運転して、多可子の家の前に着いた。明るく笑顔を見せた父と娘が、待ちかねたように、玄関から飛び出してきた。
「まるで、子供だね。この父と娘は。」
笑いながら母は、段ボール箱に入れた、菓子や飲み物をトランクに入れ、健一の顔を見た。
「全くです。」
側で手伝っていた健一は言った。その顔も、朗らかな落ち着いた笑顔を見せていた。母は、小声で、心配げに、真剣な表情を見せ、言った。
「呉々も、間違いのないようにお願いします。いいえね、父親の方は、酒さえ預けておけば、どうと言うことはないのですが、娘はまだ若いですし、結婚したことがあると言っても、まだ子供と同じなんですから。また、嫁のもらい手もあると思いますし、間違いのないように、是非、頼みますよ。」
健一は、母の肩に手をかけて、何回も頷いて見せた。母は、不安な目を、健一に投げかけていた。多可子が側に来ると、母は、打って変わった表情を見せ、冗談を浴びせかけた。

 車は、心を軽やかにした三人を乗せて、村を出て国道に入り、紅葉を求めて北へと進んでいった。上気した顔を見せて、多可子は、秋の清々しい日差しに目を細めて、健一に時々話しかけた。父は、今まで旅行をしてきた土地のことを、ぽつりぽつりと話をした。紅を唇に少し染め、髪の櫛目の行き届いた多可子から、良い香りが漂っているのを、健一は感じた。

 平野を越え、国道は、海岸に迫る山地に入った。幾つものトンネルを過ぎると、海岸に沿って道が開け、海と、海に崩れ落ちるような山肌が一緒に望まれた。再び、山に入ると、また、明るい、広い平野に出た。平野を直線に伸びる国道を、更に北に向かって走って行った。
 昼近くになって、一日目の宿を取る地の近くの渓谷を目指し、国道を外れて山の方に向かって走った。渓谷の中途にある駐車場に車を置いて、三人は車から降りた。

 多可子は、昼食の入った籠を手にしていた。健一は、魔法瓶を肩にして、先頭を歩いた。大きな落葉樹が、渓谷に、山に、赤や黄色の色を、爽やかな秋の日差しに照り映えていた。渓谷の中程の高さに、歩道があり、それを伝って暫く歩いた。淀みのない、透き通る水が、音を立てて流れていた。渓谷の岩肌は、白や青、青筋の幾層もの斜めに走る断層を見せていた。空を見上げると、色付いた木々が、谷に落ちかかるように覆っていた。彼等は、川原に降りて、少し寒い風に当たりながら、昼食を取った。多可子の父は、酒を飲んでいた。

 彼等は、陽も落ちないうちに、湖の見える、小高いホテルに入った。六階の彼等の部屋からは、湖がよく見えた。父は、部屋に入ると、直ぐ寝転がってしまった。健一は、テラスのカーテンを開けると、椅子に腰を下ろした。そして煙草を取り出し、口に咥えた。多可子は、その煙草に、マッチで火を点けた。何気なく側に屈み込んでいる、多可子の顔を見た。嬉しそうな、軽い微笑みを見せ、テーブルの向かいに座った。健一は、煙草を吸いながら、また湖の方を見つめた。湖に近いところに、街並みが見られ、ホテルや旅館の看板らしいのが、雑然とした彩りを見せていた。

 日が暮れる頃、三人で部屋を出て温泉に入った。広い温泉の浴槽には、絶えず湯が注がれ、溢れだしていた。ガラスの外は、山が迫っているが、曇っているために、はっきりとは見えなかった。健一は、多可子の父が長風呂に入っているので声をかけ、先に浴場を出て部屋に戻った。

 部屋に戻ると多可子はお茶を出してくれた。暫くして多可子は、健一に尋ねた。
「健一さん、清原市の吉原伸子さんという方知ってます。」
「知ってます。市役所で一緒に働いている方で、清原市の材木問屋の娘さんです。どうしたのですか、突然に。」
「女中の京子さんは清原の方です。」
「ええ、知っております。」
「清原で貴方と吉原さんが一緒に歩いているのを見たと言ってました。」
「京子さんに、私も挨拶をしました。」
多可子は、暫く俯いて黙っていた。健一は、少し微笑みながら言った。
「吉原信子さん、来月同僚と結婚するんです。あの時一緒だったのは、同僚から付き添いを頼まれて行ったのです。勿論、同僚のご両親も一緒でした。」
多可子は、顔を上げて健一に向かって、頬を赤らめ微笑みを見せた。

 温泉旅行から帰ると多可子は、妙に塞ぎ込み、物思いに沈んだ暗い顔が数日間続いた。多可子は、一度結婚した女性が、無垢な男性と結婚することの不条理さに悩み続けていたのである。健一は結婚の話を一度もしないでいる。健一を見つめ、健一に相応しい女性は身近にいるのだろう。それを邪魔することはできないと思った。
 そう思った多可子は、真面目な顔で父と母に、東京の叔父のところに、身を寄せたいと話した。父と母は、娘に思い止まるように勧めたが、深い決心のように思われた。
「多可子や、それで、いつ帰って来るのだい。」
母は、心配そうな表情で言った。
「分かりません。帰ってこないかもね。」
多可子の声は、湿った、沈んだ声で、妙に明るく話そうと努めているのが分かった。
「東京で、いつまでもブラブラできないよ。」
「仕事を見付けて働くわ。心配ないわ。」
多可子は、両親に話すと、何かを吹っ切るように、その日の内に荷を纏め、翌日出発することとした。

 冬の訪れか、翌朝から小雪が舞っていた。多可子の父は、やはり心配だった。それで取り敢えず、東京まで、挨拶方々、娘を送っていくことになった。出かける前に、母と娘が向かい合った。真剣な眼差しで、母は娘を見つめた。
「いいのかい。後悔するようなことはないのかい。私も女だから、多可子の思っていることは、分かるような気もするんだよ。」
多可子は、母が何を話そうとしているのか分かっていた。悲しいことだった。考えたくないことだった。気持ちを落ち着け、堪えていた。
「私は、健一さんのこと、別に悪く思ってないのだよ。二人が、その気になってくれればと、願ってさえいたんだよ。」
と母が言うと
「いいんです。お母さん。」
と多可子は力なく答えた。
「ちっとも良くないよ。寂しいんだよ。」
と言う母の声は、寂しく聞こえた。部屋に父が現れると、母と娘は話を止めた。毛皮の白いコートを着込み、青ざめた顔に黒髪が光っていた。

 タクシーの後ろ座席に、父と娘は、並んで腰掛けた。通りに出て、バス停留所に、バス待ちの人の群れの中に、多可子は、健一の姿を認めた。窓に縋るように、顔を押し当て、健一の姿を貪り見つめた。熱い涙が溢れて、何も見えなくなった。多可子は、だらしなく座席に深く腰を落として、項垂れてしまった。

 多可子が東京に立った翌日、多可子の母は健一の家を訪れた。健一の両親と健一が居間で多可子の母を応対した。多可子の母が健一に宛てた手紙を健一に手渡した。健一は、直ぐ手紙を開いて読んだ。

『私は、東京の叔父のところに行きます。
 哀れな自分を悲しみで見つめています。私は、自分の幸せを夢見ていました。私は、健一さんが好きです。でも、私はそれを言うことができませんでした。
 私は、やはり結婚したことのある女でした。東京の学校など行かなければ良かったと思い、後悔しております。
 私は、東京で働き、東京の人となりたいと思っております。貴方の、お写真をお返しします。でも、私を憎まないでください。私は、何時までも、貴方の姿を支えにして生きていきます。
 お便りしたくなったら、また、手紙を差し出します。愛する健一、さようなら。』

 健一は手紙を読み終わると、その場で言いました。
「これから東京に行きます。多可子さんに結婚を申し込みに行きます。皆さん賛成していただけますね。二人で帰ってきますから。」
多可子の母、そして健一の両親は頷いた。そして多可子の母は健一に向かって頭を下げた。
「健一さん、よろしくお願いします。どうか多可子を幸せにしてください。お願いします。」
そう言うと俯いて、涙がこぼれ落ちた。
 健一はその場で多可子の母に勇気付けると、立ち上がり席を外し、身繕いをして現れた。その顔には、揺るぎない決意が浮かんでいた。
 彼が東京の多可子の叔父の家に着いたのは、夕方近くになった。呼び鈴を鳴らすと、間もなく玄関の戸が開き、白髪の女性が姿を見せた。彼は一礼して
「大西村の高須健一といいます。近江多可子さんにお会いしたいのですが、取り次いでください。」
と言った。白髪の女性は、
「分かりました。今、伝えてきますから。どうぞ中でお待ちください。」
と言って、家の中へと姿を消した。健一は、玄関に入り、戸を閉めると玄関内で立っていた。
 白髪の女性が姿を消して直ぐに、多可子と父が姿を見せた。健一は、多可子のに向かって一礼すると、多可子の瞳を見つめ
「多可子さん、私と結婚してください。大西村に帰りましょう。」
とはっきりと言った。多可子の目は潤み、微笑む目から涙が流れた。玄関に降りると、多可子は健一をしっかりと抱きしめた。
「喜んで結婚するわ。村にも帰るわ。」
そう言って、多可子は頬を健一の頬に摺り寄せた。多可子の父は、頷きながら寄り添う二人の姿を見つめていた。