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「大人と子供の喧嘩」
佐 藤 悟 郎
彼は、その秋の夕方、役所から家に帰るのに、小学校の校庭の裏を通っていた。校庭と道路の間に、柳の並みがあって、遠く校舎の近くで、子供達が野球をして遊んでいるのが見えた。
肌寒い風が、彼の頬を掠めた。手に、まだ幼い子供のために、菓子を携えていた。家では、妻と子供が、彼の帰りを心楽しみに待っていることを、彼は思い浮かべていた。 「こら、浩ちゃん、待ちなさい。」 前の方から、女の声がすると、小路から小学生らしい子供と、その後を追いかけるように、母親らしい女が走ってきたのが、目に入った。
子供は、道路と校庭との側溝を飛び越え、片手にグローブを抱えて、柳の下を通ると瞬間、急に前に転んでしまった。少年は、直ぐ起きたが、後ろを振り返ると、直ぐ腰を下ろして、グローブを前に投げ出し、右肘を撫で回していた。
白いエプロンをした母親らしい女は、その子供の転んだところに着くと、直ぐ子供の前に屈み込んで、子供の右手を取って、撫でていた。 「浩ちゃん、痛かったでしょう。あんなに走るからよ。」 「何言ってるんだい。お前が、お前が追っかけてくるからだ。」 彼は、丁度二人の側を通る際、その言葉の遣り取りが聞こえた。そして生意気な子供の口振りに、多少驚いた。彼が、二人の方を見ながら歩いていると、一瞬、母らしい女は、周辺を気にするように見渡した後に 「浩ちゃん、お母さんに向かって、何という口の利き方するの。」 と、彼に聞こえるように、子供をたしなめて言った。 「痛い。何言ってるんだい。お前が悪いんじゃないか。この婆め、痛てえ。」 「怪我なんかしていないじゃないですか。さあ、帰りましょう。浩ちゃん。」
彼は、その場に立ち止まって 「どうかしたんですか。」 と二人に向かって声をかけた。彼としてみれば、通りがかりに困った人に、一寸声をかけたつもりだった。母親の顔が、彼に向かって喋り出そうとした。その矢先、その子供は、彼に憎しみを抱いたように、目を釣り上げた顔を見せたか思うと 「バカヤロー、他人は黙ってろ。」 と大声で言った。彼は、瞬間、身が動かなくなるのを感じた。そして、温かい自分の血が、冷えていくのを感じた。彼の顔は、微笑みながら、ゆっくり二人の方へ歩いていった。しかし、彼の心は、多少興奮気味だった。
彼は、丈の低い雑草の中を歩いて、二人の側に行き、立ち止まった。子供は、痛そうに、右肘を盛んに撫で、小言をぶつぶつ言いながら、下を向いていた。母親は、心配そうに彼を見た。その顔には、微笑みがあった。 「どうも済みません。失礼なことを言いまして。浩ちゃん、おじ様にお謝りなさい。」 子供は、黙って下を見て、さすっていた。母の言うことには、耳がないらしい。 「いいんですよ。奥さん。」 そして、少し間を置いて 「一体、どうしたんです。」 と彼は、その母親に尋ねた。母親は、立ち上がりながら、その子供が、毎日の決まった時間の夕食を、今日に限って、野球に行くと言って、外に出てしまったと言った。夕食が終わると勉強の時間になるのだし、時間を遅らすこともできないとも言った。彼は、子供に自由にさせることもいいのではないかと言った。 「いえ、私の家では、父が煩いものですから。勉強しないと、私に当たるんです。」 母親が、彼にそう話し終わると、直ぐ少年が、上を見上げて 「クソ婆、黙ってろ。そんな男、関係ねえじゃないか。ベラベラ喋って。」 と声を張り上げて言った。 「浩ちゃん、そんなこと言っちゃいけません。お父さんに言い付けますよ。」 「幾らでも言うがいい。あのクソ爺なんか、俺を怒りやしないよ。俺が、おっかないんだ。」 子供は、喋り捲ると、立ち上がり、彼に向かって 「お前は、一体何だい。関係ねえじゃないか。家に帰ってねたらどうなんだ。このバカヤロ。」 と目を釣り上げ、歯を剥き出しにせんばかりに、彼に言った。彼は、向かっ腹を立てた。そして、深い息をして、眉を寄せて、子供を睨んだ。母親は、不安そうな眼差しを彼に投げかけると、そのまま俯いてしまった。 「君、子供の癖に、そんな口を利いちゃいかんよ。」 「何言ってるんだ。誰が、どんな喋り方をしたっていいだろう。バカヤロ。」 彼は、子供に向かって、右手で拳を握って見せた。 「殴るなら、殴れよ。警察に突き出してやるから。」 彼は、呆れたように、顔を情けなく緩めると、右手を下に下ろした。
彼は、苦笑を浮かべながら言った。 「誰に向かっても、馬鹿野郎なんて、言っちゃいけないよ。」 子供は、彼が言い終わるか、終わらないうちに、甲高い声で言い返した。 「馬鹿に向かって、バカヤロと言ったっていいじゃないか。お前は、平だろう。課長じゃないだろう。社長じゃないだろう。」 彼は、急に、心の中から怒りが湧いてきた。 「何だと。生意気な小僧だな。お前は。」 「お前だって。お前だって、悪い言葉を使うじゃないか。腹を立てちゃって。やっぱり、お前は平なんだな。大学も出ていないんだな。やっぱり、バカヤロウだ。」 子供の母親は、子供の肩や背中を、少し抓んで引っ張るだけで、口も開けず、青ざめてオロオロしていた。 「平だっていいだろう。大学出てなくたっていいだろう。え、悪いのか。」 彼は、完全に冷静さを失っていた。額に筋を立てて、威圧的に、言葉を子供に投げた。 「悪いに決まってらあ。大学出てないで、平で、最低に決まってらあ。お前みたいのをバカヤロウて言うんだ。先生だって、クソ爺だって、皆言ってらあ。」 「じゃ、お前は頭がいいのか。大学出て、社長でもにれるのかよ。」 「そんなこと、分かってらあ。勉強して、一番になればいいんだ。勉強すればいいんだ。お前みたいなバカヤロウににるか。バカヤロウ。」 「大学出て、社長になれるンかよ。」 彼は、子供に向かって、言葉を吐き捨てた。子供は、膨れ面をして、そっぽを向いた。彼は、少年の向いた方向に目を投ずると、彼を見つめて、目に涙を浮かべている、子供の母親の顔が目に入った。 「お前のような餓鬼は、最低の餓鬼だよ。」 彼は、腹立ち紛れに、母親を見つめながら、怒鳴った。母親の目から、一筋、涙が頬を伝った。 「どうか止めてください。人が見ています。子供には、家に帰ってから、よく言って聞かせます。」 母親は、子供の両肩に手を載せて、子供の肩の上に崩れるように、顔を伏せた。子供は、膨れ面をして、そっぽを向いたままだった。
彼は、通りの方を見た。帰りがけの勤め人風の大人が数人、彼の方に目を投げていた。二人の、主婦らしい女が、自転車を止めて、静かに彼の方を見つめていた。
彼も通りに立っている一人ひとりの顔を見つめていた。静かに、黙って通りにいる人は、一人、また一人と去り始めた。
彼は、校庭の奥を見つめた。子供等は、まだ野球に遊び興じていた。長い、赤い日差しが、コンクリート校舎に、眩しく照っていた。柳の下を通り過ぎる風が、新しい風のように、彼の頬に伝わった。それは、冷たい風だった。 「どうも済みませんでした。余計なことをしてしまって。」 子供の母親は、顔を上げるのが精一杯で、唇を震わせていて、何を言っているのか、彼には分からなかった。 「坊や、良い子になれよ。頑張れよ。」 子供は、まだそっぽを向いていた。彼は、軽く頷いて、苦笑を見せながら、その場所から、通りに向かって歩き出した。側溝を跨ごうとしたが、彼の心には、その側溝が、とても深いように感じられた。
側溝を跨いで、彼は、子供の方を振り返ってみた。柳の木の下に、母と子の寄り添う姿があった。 「おじさん、俺、頭が悪いんだ。俺の父ちゃんだって、大学出てないんだ。」 子供が、そう言って手を上げた。彼も手を上げて、二〜三回振り、救われた思いで通りを歩き始めた。柳の下の二つの姿が、彼の目に、赤い夕陽を受け、小さな、遠い温かい姿と写った。
彼が通りに出て、三十メートルくらい歩いたところで、ついさっき子供と母親が出てきた小路から、四十歳くらいで、七・三分けの会社員風の、痩せた男が出てきた。彼の姿を見ると、伏し目になって歩いてきた。彼は、その男が、先程、子供と言い争いをしているとき、通りから見ていた男だと分かった。
彼と擦れ違い様、その男は、上目を使って、彼の顔を一寸見ると、低いお辞儀をして通り過ぎていった。彼は、何のための挨拶なのか、歩きながら思った。そして、急に苦笑すると 「クソジジイか。」 と呟いた。
昭和五十三年十月二日
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