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「酔いどれの子供」 佐 藤 悟 郎
太平洋線戦争が終わって、やがて十三年が経った。日本経済はまだ再建途上だった。貧しさも続く新潟県の海辺に、ある村があった。多くの人は、漁業や農業に携わっていた。
海と村の間には、黒松が茂る砂防林があり、村は冬の厳しい風から守られていた。小さな港には小舟が多く、捕れた魚介類などの海の幸は、近くの大きな港に運ばれるか、十数キロほど内陸の新発田の町へ、女性達が行商に出かけていった。
その海辺の村には、小学校と中学校が隣り合わせとなっていた。中学校を卒業して高等学校に進学する者は少なく、男は東京方面、女は名古屋方面へと就職する者が多かった。
北原赳夫は、中学校になって若い教師から、高校そして大学へ行かないと、将来、豊でしっかりした家庭を築けないと言ったのを聞いた。赳夫は、その若い教師に尋ねた。それは校庭の外れで、二人きりだった。
「先生、どうしたら高校に行ける。どうしたら大学に行ける。どうしたら金を多く稼げる。教えてくれ。」 そう尋ねられた若い教師は、確たる自信はなかった。
「俺の知っている者で、大学へ行って、船長になった者がいる。大金持ちになったと聞いている。」
若い先生は、真剣な顔をしている赳夫に話した。先生にしてみれば、冗談交じりの話しだった。
赳夫は、勉強に励み、中学校の成績は優秀だった。或る日、赳夫は、両親に高校に行きたいと言った。父文三は、酔っ払っていて答えてくれなかったが、母タミが承諾してくれた。村で成績が優秀と言っても、新発田高校に受かるかどうか、赳夫の母も学校の教師たちも疑っていた。赳夫は、船長になるということは口にしなかった。
中学校の同学年には、秋川文江という優秀な女生徒がいた。文江の父は、秋川幸造と言って、秋川組という土建業を営んでおり、母浪江は近所の娘たちにお花やお茶を教えていた。また、浩司という二つ下の弟がおり、学校では優等生だった。
文江は、赳夫に好意を抱いていた。赳夫の父が、酔いどれと呼ばれるほどであるが、父幸造と戦友で、幼い時から赳夫とは仲良しだった。
赳夫の父は、戦争に行く前は、秋川組の右腕として働いていたが、戦地で多くの知人が死んでいく中、気を紛らわせるためか、終戦を迎えると酒を煽るように飲むようになったのだった。
文江の父幸造は、酒を多く飲めなかったが、赳夫の父文三と酒を嗜んでいた。赳夫の父が酔い潰れる心の中を察していた。別に悪さをする訳ではなく、ほろけ、度が過ぎれば潰れてしまうのである。それを見て、他の人たちは、「酔いどれ親父」と呼ぶようになった。
赳夫は新発田高等学校へ、文江は新発田西高等学校へ、それぞれ進学した。時々、父の迎えなどで、秋川の家を訪れる赳夫は、少し待つ間、文江や文江の母と小話をしていた。
文江の弟浩司は、高校受験のため、あまり顔を見せず、見せても挨拶もせず、直ぐその場を去った。浩司は、 「酔いどれの子供が、どうしてくるんだ。」
と言う思いを抱いていた。
赳夫の父は、酔いどれ男だった。毎日、朝に酒を飲み、仕事に出て行く。そして家に帰ると、酒を飲む。そういう平日は、変わらなかった。日曜になると、朝から飲み始め、夕方になると、さすがに飲み疲れるという感じで、場所を構わず寝込んでしまうのだった。
赳夫は、もう高校三年生になっていた。村中に、酔いどれの息子と評判されていた。父をそう嫌っていた訳ではないにしろ、やはり気になることだった。
「酔いどれ息子、酔いどれ。」
これが赳夫の仇名だった。赳夫の父は、決して暴れはしなかったが、酔いの衣服の乱れ、何についても、はっきりとした行動の取れない様は、だらしのない格好だった。
自然と赳夫は、友達もなかったし、自分から友を作らなかった。いつも自分の部屋に閉じ籠もり、勉強していた。浜のこの村では、勉強する人は、殆どいなかった。そんな中で、赳夫は、毎日勉強する他やることがなく、中学校を優等で卒業したのは、当然であったかも知れなかった。浜の男は、中学校を卒業すると、殆どが漁船に乗ったり、農業や大工仕事をしたりしていた。
夏も近い、ある蒸し暑い日に、赳夫の家に男友達の田中市蔵が訪れた。市蔵は、赳夫のたった一人といってもよい幼い頃からの友達だった。市蔵は、中学校を卒業して、浜の区長の船に乗っている漁師だった。
「おい、久し振りに、浜に行こうぜ。」 市蔵は、赳夫の顔を見て言った。 「外を出歩くの、嫌だな。」
赳夫は、父のこともあり、外に出歩くことを嫌っていた。 「とにかく、ここでは、暑くて適わん。」
市蔵は、彼の肩を「ポン」と叩くと、赳夫を起こし、背中を押し、居間を通って玄関へ出た。小さなテーブルに、彼の父と母が向かい合って座っていた。父は酒を飲んでおり、母はその相手をしていた。二人は、それを見ながら玄関に出たのだった。
「浜に、夕涼みに行ってくらあ。」 赳夫は、両親に言った。 「あいよ。早く帰ってくるんだよ。」
母の明るく、威勢の良い声がした。玄関を出ると、市蔵は言った。 「お前の親父は、よく飲むな。全然、前と変わらんじゃないか。」
市蔵は、赳夫の顔を見て、笑いながら言った。 「今始まったことじゃないさ。」 赳夫は、頸を回しながら答えた。
「俺が感心しているのは、お前のお袋さんさ。いいお袋だよ。いつも明るい顔してさ、親父に尽くしてさ、俺も、お前のお袋のような、嬶、貰いてえよ。」
市蔵が、いつも母のことを良く言うのに、嬉しいと思っていた。父については、もう好い加減、諦めていた。その分だけ、赳夫は母が好きだった。彼の家は、母で保っていた。少ない田畑の仕事、そして魚行商、母は、まだまだ父以上に、そして、他の家の母以上に逞しい母だった。
二人が浜に出てみると、浜小屋の一軒に明かりがついているのが見えた。月夜の光に、岸近くに泡立つ波が見え、涼しい風が二人を吹き抜けていった。
二人は、灯りのついた浜小屋まで、自転車を引いていった。浜小屋の前に、ジープが二台止まっていた。
「秋川のジープが止まってらあ。社長のところに挨拶してくらあ。俺一人で行ってくらあ。」
赳夫は、ジープの陰に隠れて、市蔵が浜小屋に入っていくのを見つめた。赳夫の父は、秋川組という土建屋の人夫仕事をしていた。秋川組に勤めている者に弄ばれ、父は酔っ払っていて、いつも冗談を受けていたのだった。浜小屋の中から、女の声も混じって、陽気な話し声が聞こえてきた。市蔵は、直ぐ戻ってきた。
「秋川組の奴ら、酒、飲んでいる。仲間に入れと言ったけれど、断ってきた。これ、俺にくれたよ。」
男友達は、酒の二合瓶とジュースの二本ずつを彼の目の前に突き出した。
「お前、酒飲まないだろう。俺、酒を覚えてな。浜辺で火を焚いて、飲みたくなったよ。貝を採って、抓みにしょうや。」
そう言って二人は歩き出した。二人は、波打ち際に近いところで、枯木を集めて火を炊き、浜小屋の軒下の鉄板を火に載せて、波で打ち上げられたアサリを焼いた。塩の効いた新鮮な味が、口の中に広がった。赳夫は、ジュースを飲んだ。市蔵は、酒を飲み、少し酔ったようだった。
「大学へ行くんだろう。お前、勉強好きなんだから、大学へ行けよ。そして、大きな船の船長になれよ。俺、それに乗るからさ。」 市蔵は、赳夫に話しかけた。
「大学行くたって、金がなきゃ。」 赳夫は、首を横に振りながら答えた。
「金なら、俺が出すさ。こう見えても、金はいっぱい貰っている。貯金も、してらあ。」 赳夫は、尚も首を横に振りながら
「市蔵の金、当てにはしないさ。他に金の出所さえあれば、大学へいくさ。」
と答えた。そして波間を見つめた。月明かりが、波間に輝き眩しく美しいと思った。市蔵の好意を嬉しく受け止めた。 「これを食べてください。」
柔らかな女の声がした。二人が驚いて声の方を振り返ると、五メートルほど離れたところに、白い半ズボンに、白い半袖シャツの髪の長い女が立っていた。二人は、それが秋川の娘、秋川文江だと直ぐ分かった。文江は、両手に皿を置き、火の明かりで目を大きく輝かせ、二人の間に入ってきた。
「これは、うまそうな蟹だ。」
市蔵は、文江が皿を下に置くが早いか、その一つを取り上げた。赳夫は、文江がじっと自分を見つめているのを感じた。彼は、目を伏せて、炎の方を見つめた。
「久し振りですね。話をするなんてこと、なかったんですね。」
文江の問い掛けに、赳夫は黙っていた。況してや、文江を見ることができなかった。同じ年の中学校の同級生、文江も村では珍しい女学校に通う生徒だった。赳夫は、ずっと見続ける立場だった。酔いどれの父は、文江の家の秋川組に勤めていること、文江が余りにも美しいこと、赳夫には羞恥心があった。赳夫は、文江と話すことも、見ることもできなかった。
市蔵の荒々しく蟹を食べる音がしたが、赳夫と文江の間には、沈黙が流れた。息が詰まるほどの沈黙だった。赳夫がやっと顔を上げると、文江の顔をまともに眺めた。文江も、その目を反らさなかった。赳夫も、文江も、お互いに、自分に向けられた微笑みを感じた。快い思いが、心に満ち足りた。文江は、顔を伏せてしまった。
「お前は、人の顔を、穴が開くほど見るなんて、女性に対して、失敬だぞ。」
市蔵は、蟹を頬張りながら、無造作に言った。赳夫も、急に文江から目を外すと、直ぐ伏せてしまった。
「そうじゃないんです。火が熱くって、顔が火照って、熱いもんですから。」
文江は、そう言うと耳元まで赤くなって、頸筋までが染まるほどだった。浜小屋の方から、酔っ払いの大声が聞こえた。
「父が呼んでいますわ。また、近い内にお会いする気がしますわ。」 文江が立ち上がると、赳夫も立ち上がった。赤い顔を、精一杯の微笑みを見せた。
「私の父、あんな父ですけど、私好きなんです。大事にしてやってください。」 赳夫は、そう言って文江に向かって頭を下げた。
「ええ、分かりましたわ。私のできる限りのことをしますわ。貴方のお父様なんですもの。」
そうして、文江は小走りに浜小屋の方に向かって行った。何度も、何度も振り返り、立ち止まり、二人に向かって手を振りながら。
「秋川も、女ぽくなったな。あの体じゃ、いつでも嫁に行ってよ、子供を産めるぜ。」 市蔵は、冗談にも聞こえるように言った。
「そうかな、もう十八だものな。」 と、赳夫は、砂浜に腰を下ろして言った。市蔵は、少し鋭い目を赳夫に向けた。
「俺は、余り良い噂は聞いてないぜ。あの女、男のものになったということだ。」
市蔵が言う言葉を聞き流した赳夫は、浜小屋に消えていく文江の、女性らしい体の膨らみ、若桐のように伸びた足、さっき見せた恥じらいだ姿を思い浮かべていた。
「よりによって、内山の健一と、くっついているという話だぜ。」
と話す市蔵の言う言葉を信じなかった。赳夫は、文江が自分に好意を持っていることを確信した。そして、自分の胸の裡に、熱い想いが湧くのを認めた。浜小屋に、また新しい自動車が一台着くのが見えた。
赳夫と市蔵は、それから暫く話をしていた。そして火を消し、肩を並べ、添うようにして歩いた。市蔵は、足元がふらついていた。
浜小屋の方でも、人が帰るらしく、車の周りに人が群がっていた。その車の側を、二人が通り過ぎようとしたとき 「おい、酔いどれじゃないか。」
赳夫は、人の群がりに向かって立つと、酔っ払いが多くいるのが見えた。声をかけたのが内山健一と分かると、軽く会釈をして、市蔵を肩にして、立ち去ろうと振り返った。
「酔いどれ、満足な挨拶もできないのか。」 背後から、赳夫に絡みつけるような声、そして罵声と嘲笑、 「酔いどれ。」
と叫ぶ声が、赳夫を襲った。赳夫は、その人の群れが憎いと思った。そして立ち止まった。赳夫は、数歩のところで振り返った。
「秋川組の皆さん。親父をよろしく頼みます。」 赳夫は、酔っ払いの群れに向かって頭を低く下げた。 「酔いどれ親父なんか、使い物にならんよ。」
「そうだよ。あんな酔いどれ、情けで使って、金をくれているんだよ。」 赳夫には、聞き難い罵声が返ってきた。赳夫は忍んだ。そして、また帰ろうとした。
「いつでもクビにするぜ。お前の家は、メチャメチャさ。」
赳夫は、酔っ払いの言うことと思って耐えてきたが、悲しみの余り、目に涙が溢れてきた。赳夫は、震える声で言った。
「貴方達は、ひどいことを言う人達だ。やれるものなら、やってみるが良い。」
赳夫は、その人の群がりを蔑み、立ち去っていった。文江が、目に涙して泣いているのが、赳夫の目に朧に見えた。
秋川組の倅、文江の弟、浩司は、赳夫と同じ高校に入学していた。浜の子には珍しく、赳夫と同じ高校に入学していたのだった。浩司は、日頃、赳夫の姿を見ても挨拶もしなかった。
「酔いどれの子供」 そう思ったのだった。
浩司が二学期も中頃になると、一年生から三年生までの全国模擬試験の結果が、体育館の板壁に張り出された。勿論、成績優秀者の名前だった。一年生の中に、浩司の名前はなかった。浩司は、三年生の名前を見ると、トップクラスに北原赳夫の名前があるのに気付いた。浩司は驚いた。
「酔いどれの子が、優等生なんて。」
浩司は、午後の授業中も、ずっと考えていた。赳夫は、家に帰れば、畑の仕事をし、土曜、日曜には、アイスキャンディ売りのアルバイトもしている。
「勉強する時間もないのに、どうして優等生になれるのだろうか。」
浩司は、そんなことを思った。浩司自身は、勉強をして大学の土木の勉強をして、家業を継ぎたいと思っていた。できれば国立大学であれば、学費も安いと思っていた。ただ国立となると、相当勉強をして、良い成績でなければならないと思っていた。
浩司は、家に帰ってからも、赳夫のことを考えていた。 「優等生であるのは、事実なのだ。」
「今まで、俺は馬鹿扱いをしていた。これからは、馬鹿にできない。」
浩司には素直さがあった。赳夫を尊敬すると、その父親も馬鹿にできないと思った。父、幸造から言われたことがあった。赳夫の父、文三が酔っ払っている姿を見て、
「酔いどれ、おい、酔いどれ。」 と言った。それを見た浩司の父が、浩司の手を引っ張って、誰もいない事務所に連れ込んで言った。
「何も知らない癖に、北原さんを馬鹿にするな。分かったな。」 父は、厳しい顔だった。浩司は、俯いて 「分かった。」
と答えた。父は、優しい顔となって、机の中からチョコレートを取りだし、浩司に手渡した。
文江は、赳夫がどれ程高校で成績が良いのか心配だった。浜の中学校で優等生といっても、町の高校では並みの生徒なのだろうと思った。浜の中学校を出た先輩達の優等生は、全てそんな風に職に就いているのを知っていた。高校を卒業すれば、金になる漁師の船に乗るのだろう。地元には、ある程度の漁業を営む大蔵漁業という会社がある。それに乗れれば上出来だと思った。自分は、新潟にある女子短大に行くつもりだった。父が決めたコースだった。大学を卒業したら、父の経営する秋川組に勤め、できたら赳夫と結婚前提で交際するつもりだった。
ある日、赳夫は母に大学へ行きたいと話した。母は、軽やかに言った。
「分かったよ。お前が大学へ行くなんて、夢のようだよ。父ちゃんには、言っておくよ。でも、分かっていると思うけど、仕送りは多くできないよ。」
母の返答を聞くと、赳夫は笑った。 「分かっているよ。大学に入れば、何とかやっていくよ。」 そう言って、赳夫は部屋に入り、勉強を続けた。
三月に入ると、高校三年生の卒業式は、早々と終わった。大学の入学試験や就職のためだった。浩司は、三年生がいなくなった、体育館に行った。そして壁に張り出された大学合格者を見つめていた。北海道大学合格者が二人おり、赳夫の名前があった。浩司は、見上げ、心が熱くなって、暫く見つめていた。家に帰ってみると、事務室で父と赳夫の父が酒を飲み交わしていた。短期大学に合格した姉が、酒の肴を持って事務室に入るところだった。浩司も、鞄を持ったまま事務室に入った。
事務室に浩司が姿を見せるのは、珍しいことだった。父幸造は、浩司を脇に座らせた。姉の文江は、事務室から出るとジュースを持ってきて、浩司の前に置いた。幸造と文三は、戦争での話をしていた。フィリピンでの戦争の話しだった。多くのフィリピンの人を悲惨な目に遭わせたこと、そして戦友も多く死んだことを話していた。教師の中でも、戦争の話を静かに語る教師がいた。ただ、あまり具体的に話をすることを避けていたのである。時に、浩司に語りかけるように話す赳夫の父だった。
頃合いを見つけると、浩司は父幸造に話すように言った。
「今日、高校の体育館に張り出された大学合格者の中に、赳夫兄ちゃんの名前があった。北海道大学、以前の帝国大学に合格していた。」
それを聞いた父幸造と姉文江は、驚いた顔で浩司を見つめた。赳夫の父文三は、しらけた顔をしていた。 「大学に合格したって、どうするつもりなんだろう。」
そんな調子で文三は聞いていたのだった。 「大学で、なにを勉強するつもりなんだ。」 幸造は、文三に聞いた。文三は、
「何をするのか、分からない。大学なんか、受かりっこないと思っていたから。」 と答えた。そして更に
「大学だって、金がかかるんだろう。うちのタミは、大学に行くことを承知していたから、どうにかなると思っているが、満足なことにはならないだろう。」
そんな時だった。黙っていた文江が言った。 「赳夫さんなら、きっと大丈夫よ。この村から、そんな有名な大学へ行く人なんてなかったもの。」
文江は、口にこそ出さなかったけれど、お金の援助くらいするつもりだった。
暫くすると、赳夫が父を迎えに来た。事務室に入った赳夫は、秋川の親子から大学合格の祝いの言葉を受けた。赳夫の父は、
「大学受かって良かったな。でも、金の仕送り、できないかも知れんな。」 と言った。赳夫は、文三の後ろに立ち
「親父、それくらいのことは分かってるよ。迷惑はかけないから。」 と言って、帰りを促すように手を差し延べた。それを見ていた浩司は、
「赳夫兄ちゃん、大学で何をするのですか。」 と尋ねた。赳夫は、微笑みを見せて、浩司に答えるように言った。
「大学では、水産学部を専攻した。努力すれば将来、大きな船の船長になれるんだ。大きな漁船の船長になるつもりだ。でも大学を卒業するまで七年かかるんだ。長いが、頑張るしかないよ。」
そう答える赳夫の顔には、意気揚々とした勇ましさが見えた。
赳夫は、北海道へ旅立つ前日、いつものように父文三を迎えるため、秋川組の事務所に顔を出した。事務室には、幸造と文三がテーブルを間にして向かい合って酒を飲んでいた。脇には、文江が座っていて、時々二人の話に相づちを打っていた。事務室のラジオから演歌が流れている。
「赳夫さん、いつ北海道に行くの。」 文江が、文三の後ろに立っている赳夫を見上げて言った。赳夫は、文江を見つめて
「明日の朝の列車で、出発することになったよ。」 と答えた。 「そうなの、赳夫さんのお父さん、知らないと言っていたわ。急なのね。」
文江は、少し驚いた顔を赳夫に見せた。赳夫は、笑いながら 「親父には、前から言っていたんだ。酒を飲んでいるから忘れるんだよ。」
と文江に答えた。文三は、そんな話は聞いていないと言い張っていた。赳夫は、宥めるように父文三の肩に手を置いた。文三は、見上げて赳夫の顔を覗いた。その顔は、少し笑っているようだった。文三は、立ち上がって秋川の親子に挨拶をすると、赳夫に凭れかかるようにして事務室から出て行った。赳夫は、文三の右腕を抱えていた。秋川の父と娘も、立って見送りのため、北原親子の後ろを歩いた。
事務室から出て、通用廊下を歩き、外に出た。そこは車を止める広い駐車場となっていた。丁度、浩司が高校の部活動が終わったのだろう、自宅玄関に向かう姿があった。
「浩司、赳夫さん、明日の朝、北海道へ行くんだって。」
文江は、少し大きな声で、浩司に向かって言った。浩司は、振り向いて赳夫の姿を見つけると、お辞儀をして赳夫の側にやって来た。
「赳夫兄ちゃん、いよいよですね。頑張ってください。大いに期待してますから。」
浩司は、明るい声で赳夫に言った。赳夫は、右手を肩まで上げて、何度も頷きを見せた。
北原の親子が、秋川親子に挨拶をして、背を向けて駐車場を歩いて行った。一台の自動車が駐車場に入って止まるなり、内山の健一が下りた。健一は、赳夫に向かって
「おい、酔いどれ、高校卒業して、どこへ行くんだ。俺んとこの船にでも乗るか。俺が親父に頼んでもいいぞ。」
赳夫は、健一に一瞥を投げると、何も答えずに父の腕を抱えて駐車場を出て、家に向かって歩いた。 「何だ、偉そうに、酔いどれが。」
健一は、赳夫の背に声を浴びせた。健一は、向きを変えると秋川の親子の前にやって来た。 「文江さん、大学へ行くんだって。お目出度う。」
健一は、文江に言うと、文江は軽く頭を下げた。文江は、くるっと向きを変えて、家の玄関に向かって歩き出した。
「文江さん、次の日曜、一緒に映画を見に行かないか。」
健一が、文江の背に向かって言うと、文江は首だけ回してベロを出して返事に代えて、玄関に向かって歩いて行った。
「文江さん、今日は、機嫌が悪いのかな。変だな。」
健一は、そわそわして幸造と浩司を見て、首を一瞬すくめた。幸造と浩司は、様見ろとばかり、笑っていた。浩司は、健一が赳夫を馬鹿にしたことに腹を据えかねていた。
「健一兄ちゃん、さっき赳夫兄ちゃんを馬鹿にしただろう。良くないよ。」 浩司が、健一に向かって言うと、健一が何でもないという風に
「本当のことだろう。言って当たり前だろう。」 と答えた。浩司は、健一を睨みながら
「健一兄ちゃんは、何も知らないんだ。赳夫兄ちゃんは、酔いどれではないよ。酒なんか飲んでいないよ。」 と言った。更に続けて、
「赳夫兄ちゃんは、北海道の大学へ行くんだ。大きな船の船長になるんだ。健一兄ちゃんも、車ばかり乗り回していないで、船に乗って働いた方が良いよ。」
と言った。健一は、浩司の言葉を聞いて、暫く下を見つめた。健一は、顔を上げて、 「浩司、お前も、随分大人になったな。俺の親父と同じことを言って。」
と言うと、幸造と浩司に頭を下げ、車に乗った。車を急発進させると、けたたましい音を残し去って行った。
健一は、家のガレージに車を入れると、俯いて玄関に入った。奥の方から賑やかな声が聞こえてきた。大方、家の船に乗る漁師連中と酒を飲んでいると思った。自分の部屋に入って、ベッドに仰向けに寝転んだ。賑やかな声は、小さくなったがザワザワと聞こえてきた。天井板を見つめたが、文江が憎らしそうにベロを出した姿が映っている。
「確かに、俺は、文江に嫌われている。」
そう呟いた。文江の姿を吹き消そうと、口を丸めて息を吹きかけた。文江の姿は消えなかったが、それでも幾らか気持ちが和らいだ。そう思うと、次に浩司の姿が浮かんできた。
「生意気な奴だ。何で俺が悪いんだ。」 そう思うと、急に腹立たしくなった。 「酒でも飲もうか。」
そう小言を呟くと、起き上がりベッドから下りて、部屋を出た。
皆が飲んでいる部屋に入ると、一瞬そこにいた漁師たちは康夫を見つめ、黙ってしまった。康夫は、父重雄の左隣に座った。
「俺、酒が飲みたくなった。親父、いいだろう。」
父が頷くのを見て、近くにあった茶碗を右手で持った。それを見た右近くにいた漁師が、一升瓶を傾けて、なみなみと康夫の茶碗に酒を注いだ。
「若旦那、珍しい。私等と一緒に飲むなんて。」 康夫は、何も答えず、一気に茶碗の酒を全部煽り飲んだ。それを見ていた漁師連中は、手を叩いていた。
父重雄は、二杯目の酒が注がれた茶碗を持っている健一が、自分を見つめているのに気付いた。 「何だ、何か言いたいことがあるのか。」
重雄は、吐き捨てるように健一に言った。日頃、家業である船での漁師の仕事もせず、車を乗り回している健一に、重雄は不満を持っていた。
「酔いどれのところの赳夫が、北海道の大学に合格したと言うんだ。大きな船の船長になれるんだと、秋川の人が言ってるんだ。大学に行けば、そんなことができるのか。」
父重雄は、驚いた顔を康夫に見せた。そして手を数回叩いて、静かにするように両手を上下に振った。部屋が静まりかえると、重雄は喋り始めた。
「みんな、聞いてくれ。北原の倅が、北海道の大学に行くことになったと言うことだ。それも船長になるためと言っていることだ。北海道の大学は、漁船の船長だ。大船長になるだろう。」
それを聞いて、暫くみんなは黙ってしまった。漁師の中で、長年遠洋漁業に言ってきた五十も越えた漁師が言った。
「北海道の大学を出た船長は、大方、漁船を率いる船団の、母船の船長になっている。」 それに続いて、健一の父重雄も話した。
「そうなんだ。俺も若い頃、北海道で船団の漁師をしたことがある。母船の大船長は、漁労長も一緒にやっていて、それは近づくこともできない人だった。この村から大船長が生まれる、実に素晴らしいことだ。」
話が終わると、漁師たちはみんなで拍手した。中には、雄叫びを上げる者もいた。そして、一層賑やかに飲み始めた。そのとき康夫は、赳夫が同じ漁師であっても、全く違う立場になるということを知ったのだった。遠洋漁業ともなれば、外国にも行けると思った。
「親父、明日から船に乗るから、教えてくれ。」 康夫は、父重雄に言うと、暫く重雄は康夫を見つめた。 そして重雄は言った。
「覚悟はできているのか。」 康夫は、何度も頷くのを見ると、重雄は喜びを隠せなかった。
「よし、今日は飲め、ここにいる漁師たちと一緒に飲むんだ。」
そう言うと、父は近くにあった一升瓶を取ると、康夫の茶碗に酒を注いだ。康夫は、それを一口飲むと、席を立って漁師連中に酒を注ぎに回った。その姿を見て、父重雄は目頭が熱くなるのを感じた。
翌朝、赳夫が北海道に向かう列車に乗るため駅まで行くと、秋川組の娘文江が見送りのために待っていた。
「北海道って、随分遠いですね。これ食べてください。三食分ほどのお握りと果物です。」 大きな紙袋を手渡すと、文江は目を潤ませて
「体には、十分気を付けてください。」
と言って俯いた。文江が再び顔を上げると、赳夫が身を正して深く頭を下げている姿を見た。赳夫は頭を上げて文江を見つめながら言った。
「文江さん、身勝手な話ですが、私の父と母のことをよろしくお願いします。大学を終えるまで、長い月日がかかり、家に帰ることもままなりません。父母の面倒を見るのは、私の務めだと承知しております。それができません。」
赳夫はそれまで言うと、深く頭を下げて 「私が頼れるのは、文江さんしかいません。呉々もよろしくお願いします。」 と言った。文江は、
「赳夫さん、頭を上げて。そんなこと私分かっていたわ。赳夫さんのお父さんとお母さんのこと、心配しないで。今赳夫さんの言葉で、私も覚悟がついたわ。」
そう言った文江には、微笑みが浮かんでいた。赳夫は、そっと手を伸ばし文江と握手を交わした。
二人は改札を経て、ホームに出ると程なく列車が到着した。列車に乗り込んだ赳夫は、客席の窓を開けて幾度か頭を下げて手を振った。間もなく列車は動き出した。文江は、ホームに残り列車が見えなくなるまで見送るのだった。
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