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    「少女とお兄様」

 

                          佐 藤 悟 郎

 

 

 その大きな社の夏祭りが、賑やかに行われていた。境内の参道の両側は、露天が立ち並び、裸電球で明るくなっていた。工員風の青年の後ろに、少女が歩いていた。

「私、道に迷ったの。だから一緒に歩いて。いいでしよ。」

少女は、境内の門の前で、その青年に言って、後ろを歩くことになったのである。

「お兄様と呼んでいい。」

少女は、青年の前に出て、見上げるように言った。青年は、少し照れたように

「お兄様か。いいだろう。」

と少女に目を落とし、少女に向かって言った。

「でも、今夜限りだよ。」

と付け加えた。少女は、頷くと嬉しそうに微笑み、青年の逞しい右腕に頬を寄せて歩いた。

「お兄ちゃんは、まだ君の名前を知らないんだ。」

少女は、明るい瞳を上げて言った。

「信子よ。」

二人は、ゆっくりと露店の前を進んで行った。二人の姿は、年の離れた兄妹そのものだった。ぼんぼりと露店の明かりが、二人の表情をはっきりと映していた。少女が、突然青年の手を強く引いた。

「あれを買って。」

「綿飴か。よし、買ってあげよう。」

青年は、初めて知った少女との短い出会いだった。だから、少女の言うことは、何でも聞いてあげようと思った。少女の言葉には、穢れがないと思った。少女の求めに従い、少女を肩車にして歩いた。少女は、綿飴を高く掲げていた。時々、軽く青年の額をたたいた。そうすると青年は、その露店の前に立ち止まり、少女がはしゃいでいる様子を見て、歩き出すのだった。何度も同じことを繰り返しながら、青年と少女は、賑やかな人ごみの中を巡り歩いた。

 露店の賑やかな通りを外れ、松の木の下で、少女は青年の肩から降りた。ベンチに腰を下ろしている青年の前に立ち、少女は言った。

「お兄様は、何でもできるのね。」

「ああ、そうだよ。信子の言うことなら、何でもかなえてあげよう。」

少女は、青年の言葉を聞くと、嬉しそうに青年の座るベンチと松の木の下を、ステップを踏んで駆け巡っていた。少女の髪は、薄暗い明かりの中で踊っていた。

「嬉しいな。本当に、信子の言うこと、本当に、何でも聞いてくれるの。」

青年は、少女の度々の問いに、豊かな微笑で答えていた。少女の躍動の中に、美しく穢れのないものを見たのだった。

 

「お兄様、家に帰りましょう。そこで私の願い事を言うわ。」

百合が咲いているような小さな可憐な白い手が、青年の前に差し延べられた。

「そうか、じゃ、帰ろうか。」

青年は、少し躊躇しながら答えた。

「帰るの。そう、一緒に帰ってくれるの。一緒に帰ってくれるのね。」

少女は、道すがら、青年の周りを子犬のように駆け回っていた。青年も、幻の世界で過ごしているようで、楽しく思った。妖精のような少女を、微笑みながら見つめ、清らかな気持ちに包まれた。涼風が木々の葉と囁き、少女は微笑みながら問いかけ、全てが清らかに、涌いている泉のように時が流れていた。青年と少女は、おとぎの国の城の門を入って行った。

「お兄様、着いたわ。信子の家よ。」

暫くの間、青年は目を閉じていた。目を開けると、ゆっくり言った。

「信子、楽しかっただろう。」

「ええ、とっても楽しかったわ。おとぎの国にいたみたいだった。」

青年は、その言葉を聞いて、少女と離れがたい思いを抱いた。少女の瞳を見つめると、少女の瞳は輝いていた。

「目を閉じよう。信子も一緒にね。」

目を閉じると、二人の心におとぎの幻の世界が広がった。二人が寄り添って、おとぎの国を旅している。少女は、静かに青年の腕を求め、頬を寄せた。青年の腕は、少女の小さな両腕に包まれていた。

「お兄様、このままずっと、目を閉じていたい。」

 「私もだよ。」

二つの寄り添う影が、木立に囲まれた玄関の前で、淡く浮かんでいた。

 

青年が、先に我に帰った。

「信子、さあ、家にお入りなさい。」

少女は、その声で目を開け、驚きの表情で青年を見上げた。

「お兄様も、一緒に入ってくれるんでしょう。そうでしょう。」

青年は、静かに少女を見つめ、首を横に振りながら聞いていた。家の中から、ピアノの音が流れていた。

「今夜は、もう終わりなんだよ。また、明日ね。」

青年は、少女の手を握って、諭すように言った。少女は、首を横に振って聞き入れようとはしなかった。

「お兄様の行くところへ行くわ。どこまでも行くわ。お願い、一緒に行って。」

少女に言われ、青年は頷いた。青年は、少女に手をひかれて玄関に入った。広い屋敷だった。広い部屋を通り抜け、サロンに向かっていくと、ピアノの音が近くに聞こえるようになった。

「誰が弾いているの。」

「お姉様よ。きっとそうよ。」

二人は、小声で言葉を交わした。音がしないように、そっとサロンの中へと入っていった。

 

 そこには、少女の母と姉がいた。姉は、白いドレスを着飾って、ピアノを弾いていた。母は、物思いに耽っているように、窓ガラス越しに外を見ている様子だった。少女と青年は、姉の演奏が終わるまで、ドアの側で寄り添うように立っていた。

「信子、一緒にいる方は、どちらの方なの。」

母は、振り返りざま、驚いたように少女に言った。少女は、嬉しそうに答えた。

「お兄様よ。」

姉は、驚いて振り返った。そして少女に駆け寄り、屈み込んで両手で少女を押さえた。

「信子、私たちには、お兄様なんて、いないのよ。どうかしたの。」

少女は、黙って微笑んで、青年の顔を見上げるばかりだった。少女の母も、青年に目礼して、少女を見つめながら、戸惑いと困惑の表情で近寄ってきた。

「困ったわ、この子には。今日は、大切な演奏会だというのに。レッスンは、まだなのでしよう。」

青年は、そのサロンを見渡した。広くて素晴らしく飾られたサロンだと思った。シャンデリアは黄金に輝き、大理石の床は豊かな色を放ち、ピアノは黒く光り、姉の姿は清楚だった。青年は、何か懐かしいものを見つめる思いだった。

「お祭に行ってきたのよ。とても楽しかったわ。お兄様は、私の言うことを、何でも聞いてくれるの。」

少女は、明るく母と姉に向かって言った。

「どうしてお連れしたの。今夜は、とても大切なお客様が来るのを分かっていたでしょう。 お兄様が、せっかくきたのに、おもてなしができないでしよう。」

母は、時折青年を見つめ、少女に言った。青年は、静かに見守っていた。少女の姉は、恥じらいだ様子を見せていた。

 

 青年は、少女の愛らしい両腕から、自分の腕を抜いた。

「さあ、行きなさい。ピアノのところに行きなさい。私は、もう帰らなくては。」

少女は、青年の言葉を聞くと、再び腕を抱いた。

「お兄様、信子も一緒に行くわ。」

青年は、少女の腕を解きながら言った。

「もう、私には、用がないんだよ。」

「お兄様は、用がなくなれば帰ってしまうの。本当に。」

「そうだよ。」

青年は、少女の腕を解くと、注意深く少女の両肩に手を当て、母のところまで歩かせた。そして青年は、サロンの入口へと後ずさりを始めた。少女は、母の手を振り払うと、振り向きざま青年に向かって走った。

「信子、いけません。」

少女の母の声がした。少女は、青年の前に立った。

「お兄様、信子のお願いを聞いてくれる。」

青年は、戸惑った。青年は、少し考えて、少女に微笑を見せ、幾度も頷いた。

「今日は、信子、ピアノを弾くのよ。中村先生と言って、日本で一番ピアノがうまい人の前で弾くの。お兄様、私のピアノを聞いてくれるでしよう。そして、お兄様も、ピアノを弾いてくれるでしょう。」

青年は、少女の母の顔色をうかがった。少女の母は、無表情で何も答えることはなかった。少女の姉を見つめた。優雅とも思える頷きを見た。少女の姉の瞳は輝き、青年は美しい人だと思った。

 

 少女の姉の目からも、その青年の目の輝きが、何にも増して美しく写った。身なりは貧しそうであったけれど、その瞳の光が、苦労や能力を超えた尊い光であることを感じていた。青年が、他人に優れて優しく雄々しい人であることを、楽に通ずる少女の姉は見てとったのだった。

 

 青年は、少女の前に、その汚れた手を差し延べた。インクが皮膚に染みていて、骨と皮のような痩せた手だった。

「こんな手でピアノを弾いたら、ピアノが泣くだろう。ピアノは、この世で一番大切な楽器なんだよ。それを、こんな汚い手で汚しちゃだめなんだよ。」

少女は、青年の言うことを聞き入れなかった。

「嫌よ、お兄様が弾いてくれなきゃ。」

「信子、無理を言うのはよしなさい。」

少女の姉は、目に涙を浮かべていた。そして、妹を諌めた。青年の前で、深く頭を低くして言った。

「ごめんなさい。妹が、貴方を苦しめて。」

少女は、自分を譲らなかった。青年はとうとう言った。

「弾けるものなら、弾いてあげよう。信子の願い事なら、聞いてあげよう。分からないけれど、ピアノを弾いてあげよう。」

少女の姉は、その言葉を聞いて驚いて彼を見つめた。その逞しい心に、顔を上げて青年の瞳を見つめた。その瞳は、あくまでも静かだった。

「ドレミ…、それでも結構です。」

少女の姉は、そう言った。青年は、落ち着いて少女に微笑みかけた。少女は、手を叩いて喜んだ。少女の母は、戸惑った様子だった。

 

 その時、玄関の方で呼び鈴が鳴った。母と少女はサロンから出て行った。少女の姉は、青年の瞳を恥らいながら、じっと見つめていた。

「今、分かったの。信子が、あんなに貴方にお願いしたことが。私も、貴方を信じていますわ。」

「どうして、こんな私を、信ずるのですか。」

「知りません。でも、信じたいのです。信じさせてください。たとえ、本当に弾けなくてもいいんです。」

「私は、本当に弾けないんだ。」

少女の姉は、首を激しく横に振っていた。

「貴方は、私にとっても、とても大切なお客様となってしまいました。もしものことがあったら、私が貴方の代わりに弾きます。その音は、貴方のものですわ。」

少女の姉は、そう言うと、頬を赤くして、サロンから出て行った。

 

 もうじき、青年が弾く番が近づいてきている。彼は、最後に弾くこととなったのだった。少女の母は、この演奏会が台無しになることに苦痛を感じていた。青年は、部屋の隅で人と離れ、貧しい姿で目を閉じ、椅子に腰掛けていた。主催主らしく、姉と妹は、ピアノの側で他人が演奏するのを見守っていた。

 

 少女と姉の演奏は終わった。中村女史の演奏も終わりに近づいていた。中村女史は、ピアノの演奏家として、誉の高い名の通った人だった。そのためもあって、サロンには市内の心ある聴衆が大勢集まっていた。中村女史の演奏に耳を傾けていたのだった。

 

 中村女史の演奏が終わると、聴衆はざわめいた。みすぼらしい青年が立ち上がったからだった。

「最後は、私の招待した人です。」

少女の姉は、言った。演奏会の最後を飾る弾き手が、中村女史以上なのであろうが、その身形からして不安と囁きが、聴衆のざわめきとなったのである。

 

 青年は、ぎこちなく部屋の隅から、ピアノへ向かって歩いた。辺りは、静けさを取り戻した。青年は、暫くピアノの鍵盤を見下ろしていた。

「どうなさったの。弾いてください。」

青年は、静かに、ゆっくりと首を振った。そして、目に涙を浮かべ、その涙は間もなく下へ落ちていった。

「私は、ここまで歩いてくるのが、精一杯です。」

青年は、小さな声で、少女の姉に言った。

「お兄様、弾いてください。お願い。」

少女の大きな声がした。少女は、手を抱え、涙を流している青年の顔を見上げていた。最後の演奏者が、本当にピアノを弾けない者らしいということが、聴衆に知れわたった。

 

 中村女史は、ピアノの前にいる三人に向かって、嘲笑うように言った。

「フィナーレに涙の演奏ですか。結構なことですこと。どこの工員か知りませんけれど、騙り者を引っ張ってきて、私の後に置くとは、どうかしているんではないのですか。」

少女の姉は、鋭い目を返し、中村女史に向かって言った。

「何を言うのです。そんな侮辱的な言い方はしないでください。この方は、私の大切なお客様なのです。」

中村女史は、チラッと注意するかのように、少女の母親に目を投げた。少女の母は、それに応ずるかのように、立ち上がって少女の姉に近寄った。

「もう、今夜は終わりです。失礼を先生にお謝りなさい。そして、その人に帰ってもらいなさい。」

少女の姉は、敢えてはっきりと母に言った。

「嫌です。この方は、私の大切な方です。」

「何を言うの。いつからそんな男の人に。」

「私は、恋する人が現れれば、一夜のうちに恋の虜になります。私の愛する方を侮ることは、誰でも許しません。」

それを聞いていた中村女史は、近寄り、憤った口調で言った。

「何よ、碌な演奏もできないくせに、そんなことがよく言えますね。芸術に愛だの、恋だのとはさんで、小娘のくせに。まあ、いいでしょう。とにかく、私に謝りなさい。許してあげるから。さあ、謝ってください。」

それまで、ただ黙って聞いていた青年は、拳を強く握り締め、その濡れた瞳を上げ、中村女史を激しく睨んだ。

「君は、そう言うが、心を知らぬ者が、どうして芸術を奏でることができるのだ。君の演奏は、オルゴールという機械と同じだ。」

青年は、毅然として言った。

「貴方は、黙りなさい。ドレミも弾けないくせに。それに、あなた方姉妹もピアノなんか止めなさい。とてもじゃないが、見込みなんかありませんよ。」

少女の姉も負けてはいなかった。

「何を言いますの。貴女こそ、心を入れ替えなさい。」

室内は、その様子を見ようと総立ちとなり、騒然としていた。

「確か、中村君と言ったね。わたしが、ドレミを弾いたらどうするかね。」

青年は、中村女子の目を射るように見つめながら言った。平静さを装って、中村女史は答えた。

「誰にでも弾けますよ。ピアノは音が出るようになっていますからね。でも、貴方にはできないようね。そんなに怒って、ピアノの鍵盤も見えないでしょう。」

そして、中村女史は、甲高い声を出して笑った。

 

 少女の姉は耐えかねるように、青年に言った。

「やってみてください。失敗したら、私がやりますから。」

青年は、ゆっくりと雄々しく椅子に腰をおろした。そして、大きく黒髪を撫で上げ、鍵盤を見つめた。その見つめる姿は、ついさっきまでのピアノへの慄きとは違って、瞳は美しいほどにまで輝いていた。それは、自分を愛し、信じてくれた姉妹へのものだった。

…ド、レ、ミ、ファ、ソラシド…

…ド、シ、ラ、ソ、ファ、ミ、レ、ド…

…ドレミ、ドレミ、ミファソ、ミファソ、ソラシド…

その部屋は、静かになった。立っている人は、立ったままだった。たった一オクターブの音に、サロンの人々の何か、砕かれたのだった。それは、人を侮った心であり、自尊心だった。青年は、じっと自分の手と鍵盤を見つめ、顔を上げようとはしなかった。

「先生、お兄様は、ドレミを弾いたわ。」

少女は得意そうに言った。

「そうですわ。私にはとても弾けそうもない、ドレミを弾きましたわ。」

少女の姉も、中村女史に向かって言った。中村女史は、ただじっと青年を見つめているだけで、言葉はなかった。

 

 少女とその姉は、中村女子に背を向けて、青年の姿を見守った。

「貴方、できたのよ。とても素晴らしく。」

少女の姉の言葉に、青年は微笑を返していた。

「ありがとう。君のおかげだ。」

青年は、幾度も頷きをみせ、再び顔を下ろし、何かを考え込んでいる様子だった。ピアノの、黒い光沢のある板に写る、自分の姿を見つめていた。誰に言うともなく、呟くように言った。

「こんな夜に、ベートヴェンのソナタをよく弾いたことがあった。思い出してくる。何から何まで思い出してくる。モーツアルト、リスト、私の思い出が湧いてくる。」

そう呟いたかと思うと、喜びに狂ったようにピアノを弾き始めた。

 

 青年の泉のように湧いてくる感情、激しい手や体の動き、全てが雄々しく、ピアノの音となって響いていた。聴衆は、その青年が素晴らしいピアノの演奏家であることを疑う余地はなかった。目の前で起きた奇跡と、その素晴らしい演奏に心を奪われていた。中村女史は、身じろぎもせず、青年の方に向かって頭を低くしていた。

 

 狂おしくピアノを弾く青年の姿を見て、姉妹の心は、喜びの反面、近寄りがたい寂しさを感じていた。演奏に没頭する姿は、よそよそしく、青年が遠くへ行ってしまったと感じた。その素晴らしい演奏から、青年が得体の知れない人、自分たちの手の届かない名演奏家だったことを知ったのだった。少女とその姉は、底知れぬ慄きを感じ、嬉しさや親しさも心から消え、母の元まで後ずさりをしてしまった。その母は、両脇に姉妹を抱え、深い驚きの眼差しで、震えながら青年を見つめていた。

 

 夜は更け、青年の演奏はようやく終わった。青年は、座ったまま聴衆の拍手を浴びていた。青年は、暫くピアノに写る自分の姿を見つめていた。そして、狂気染みた自分の姿を見て驚いた。笑顔を作ろうとしたが、できそうもなかった。

 

 青年は、窓の方に顔を向けた。その庭には、月の淡い光が降り注いでいた。青年は、自分の過去を思い出そうとしていた。青年は、過去の不安さを思うと、笑顔を作ることができなかった。長い時間、ただ茫然と窓の外を眺めていた。聴衆は、サロンを去り、サロンには中村女史と少女とその姉、母の五人が、黙りこくったまま重苦しい空気の中に立っていた。誰もが、ただ黙っていた。今、何が起きたのかを知っていたのだ。余りにも超然とした事実が、目の前で起こったのである。誰もが、困惑の中にあった。

 

 中村女史は、青年の弾いたドレミを聞いて、青年が何者であるかを知った。それは、自分の過去、その人の演奏に感情と憧れを抱いていたからだった。その名演奏家は、行方不明となり、幻の名ピアニストとして、現在でも評価が高いことを思った。

 

 中村女子の心は、演奏家としての誇りもボロボロと崩れていった。いつの間にか、尊大ぶった、間違った方向に進んでいることを感じていた。深い反省の心は、熱い涙となって流れていた。中村女史は、少女等の前まで歩いた。ピアノの前で座っている青年を見ながら、少女の母に言った。

「今日は、本当にありがとうございました。私は、とても悪いピアノの先生でした。ごめんなさい、謝ります。あのピアノの前におられる方は、私も尊敬している名ピアニストです。私にとっても、とても大切な人なのです。」

そういって、次に少女の姉に向かって言った。

「本当にごめんなさいね。失礼なことを言って。あのピアノの前におられる方は、きっと貴女の大切な人になってくれるでしょう。私にとっても、憧れの人なのです。今の私には、ただの憧れとなってしまいました。でも覚えていていただきたいのです。私は、今まで、その憧れのために生きてきたのです。」

中村女史の言葉に、誰も返す言葉はなかった。中村女史は無言の中に、自分が到底受け入れられないことを感じていた。

「ただ、私もその憧れのために、生きてきたのです。」

中村女史の声は、震えていた。もう一度、中村女史は青年を見つめた。青年は、ただピアノの中に、自分の姿を見つめるだけだった。中村女史は、やるせない感情を抑えることができなかった。小走りにサロンから消えていった。そして、外を駆け続ける音が聞こえてくるのだった。

 

 月が雲に隠れるころ、青年は立ち上がり、静かに窓辺へと歩いた。そして、窓ガラスに写る、自分の姿を見つめていた。自分が、何者であるのか分からなかった、喪失の過去の苦しみ、やっと巡り会えた自分の姿を噛みしめていた。

 

 先ほどまでの狂気じみた顔色は、次第と消え失せていった。過去を思えば、寂しいはずの姿なのに、何故か寂しくはなかった。暖かいところにいると感じた。そして、その暖かさは、少女とその姉に抱擁された心であることを見つけ出したのだった。彼は笑ってみた。笑えるではないか。彼は、笑顔を浮かべ、両手を広く開けて少女等に向かって振り向いた。

「お兄様」

少女の喜びの声がサロンに響いた。そして、少女は駆けてくるではないか。急に顔を赤らめる少女の姉、それでも少女の後から歩いてくる。その後からは、少女の母が静かに歩き出した。

 

 青年は、少女を抱き上げると、窓の外を見た。

「まあ、お月様の明かりって、お庭をおとぎの国の庭にするのね。」

月の明かりが、再び庭に明るく差し込んでいた。何の拘泥もなく、小さな声で笑っている少女の姉と母の声が、青年の耳に快く入った。

…自分はこの家で生まれたのだ。これからは、この家で育っていくんだ。…

青年は、おとぎの国の庭を見つめながら思った。