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「琴とある師匠」

 

                          佐 藤 悟 郎

 

 

 その養護施設のホールは、とても煩かった。一人の少女が、舞台で琴を演奏しているのを、彼は聞いていた。施設の子供たちは、ホールの中を走り、物を食べ、叫び声を上げていた。そんな中で、美しい着物で装い、琴に顔を落とし、演奏を続ける少女を、彼は優しい目で見守っていた。

 一つの演奏が終わると、その少女は項垂れていた。彼は、プログラムにはまだ多くの曲があるのを知っていた。それを奏でる、多くの人が来る予定であることも知っていた。

「誰も、来ないのかい。」

彼は、ステージの幕の陰から少女に声を掛けた。少女は軽く頷いた。

「簡単な曲を一曲弾きなさい。次に、私が側に行くから。」

少女は、彼の言うとおりに短い曲を弾いた。

 

 曲が終わると、彼は少女の側にいき、一つの譜面を広げた。

「この曲を弾くことができる。」

彼が問いかけると、少女は笑顔を見せて頷いた。彼は、少女をリードするように尺八を吹いた。それは美しい曲だった。その美しさが、ステージの前の人達に伝わった。

 幕が下りると、彼は優しく少女に言葉をかけた。

「誰でもできることではないよ。頑張ったね。おじさん褒めてあげるからね。」

彼は、少女が琴をしまうのを手伝った。

 

 間もなく、怪訝そうな顔をして、少女の母親が現れた。

「馬鹿な子ね。師匠さんのところへは、もう行けないよ。」

少女は、母の言葉を聞いて、寂しそうに俯いてしまった。

「私のお師匠さん、間違っていると思います。私が、ここに来ることを反対しました。施設で演奏するために教えたのではないと言ったんです。私、お師匠さんの言うことを聞かなかったんです。もう、お琴ともお別れです。」

彼は、悲しそうな少女の頭を撫でながら

「そんなことはないよ。元気を出して。」

と言った。そして少女とその母親を連れて、養護施設から出て歩いた。

 

 彼は、二人を閑静な住宅街の中の一軒の家に連れて行った。

「先生、この子を弟子にしていただけるかな。見込みはある。私からのお願いだ、承知して下さるでしょうね。」

少女とその母親は、奥に通された。そして手厚い持てなしを受け、少女は弟子になることが決まった。そして、彼は一足先に帰って行った。

「あのお方は、世界でも有名な尺八の先生ですよ。一緒に演奏できる人なんか、余りいないんですよ。いつまでも覚えていた方がいいですよ。」

彼が帰った後で、この街でも一番の琴の先生が、少女とその母親に話した。

「早く上手になって、あの先生のところへ行けるようになるのよ。あの先生が、私を頼って来て下さったこと、私にとっても本当に光栄なことなんです。」

少女の新しい先生は感激をして、彼のことを語り続けた。