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「束の間の想い」

 

                          佐 藤 悟 郎

 

 

 ある日、彼は妻と町のデパートに出かけた。彼は、そこで偶然に彼女と出会い、軽く会釈をして通り過ぎた。彼女は、夫らしい人と連れ立ち、幼い子の手を引いていた。彼女の名前は、真理子であることを思い出した。彼の脳裏を、過去の思い出が素早く通り過ぎていった。 彼が中学三年生のころである。彼の家は、鉄筋の市営アパートの三階にあった。毎日の勉強に疲れ、ふと彼の部屋の窓から、下の小さな公園を見つめた。彼と同学年の女の子達が、二〜三人集まって、笑いながら話をしていた。明るい日差しの中に、黒髪が揺れ、色白のふくよかな肌と体つきに、彼は異性を感じた。

「いいなあー。毎日俺は、机に向かっているのに。」

彼は、勉強が嫌いという訳ではなかった。彼は、勉強をして大学を卒業し、将来は大学の教授か学校の先生になろうと思っていた。

 

 彼は、朝登校するため、アパートの階段を降りるとき、時々、二階に住んでいる同級生の真理子に会う。小学生のときは、一緒に登校していたが、中学校に入ってからバラバラに行くようになった。真理子は、少し眦の上がった大きな目の、顔の輪郭のはっきりした、綺麗な女の子だった。

 

 中学二年生の秋のころだった。彼が、部屋で勉強をしていると、真理子が遊びにきた。彼の母と少し話をした後、真理子は彼の部屋を訪れた。真理子は、彼の椅子の後ろに回り、彼の方に両手を置くと、彼の左の肩越しに顔を覗かせた。彼は、清々しい香りを感じていた。

「難しい本を、読んでいるのね。」

真理子が声をかけると、彼は顔を左に向けた。そこには真理子の黒髪があり、瞳があり、柔らかい唇があった。彼の唇が真理子の唇に触れた。真理子は、咄嗟に体を後ろに退き、頬を赤らめた。彼がなおも顔を回し、真理子を見上げると、真理子の上気した優しい瞳が見えた。

「好きです。私、好きです。」

真理子は、小さな声で言うと、足早に彼の部屋から立ち去って行った。

 

 三階の窓から真理子の姿を見て、彼はそんなことを思い出していた。真理子が何気なく空を仰いだ。彼は、小さく手を振ってみた。真理子には見えなかったと思った。彼は、また机に向かって勉強を始めた。

 十分程して、玄関の呼び鈴が鳴った。彼は、玄関へ行きドアーを開けると、真理子が、少し息遣いを荒くして中に入った。

「さっき、手を振ったでしょう。何か用。」

そう言って、真理子は靴を脱いで居間に入った。

「あら、おばさんいないの。私帰るわ。」

彼を振り返って、真理子は慌てて玄関に戻ると、靴を履いた。

「もう帰るのか。遊びに来たんだろう。」

彼は、真理子の背に声をかけた。真理子は、硬直したように立ちすくんでいた。真理子は、少し間を置いてから、一旦俯き、意を決したかのように居間に向かった。真理子は、居間に入ると、彼の体に身を寄せ、両腕を彼の背中に回し、強く抱き締め、胸を強く押しつけた。彼は、静かに両手で真理子の頬を押さえ、顔を持ち上げるようにして唇を重ねた。真理子は目を閉じ、唇を震わせていた。

 

 彼と真理子は、それぞれ違う高校へと進学した。時々、二人は駅の近くの公園で待ち合わせ、学生服をコインボックスに入れて着替え、一緒に町中を散歩に出かけていた。海岸に出ると、他人の目に付かない松林の中で並んで座り、手を握り、体を寄せ合い、時には唇を重ね、体を重ねて、お互いの存在を確かめ合った。

 彼は、東京にある大学に進み、真理子は街中の会社のOLとして勤めた。それぞれが異なった社会へと歩き出した。彼の目の前に、多くの女性が現れ、真理子の前にも多くの男性が現れた。少しずつ、彼と真理子の思惑が変わっていった。彼は、控え目ながら、美しい女子大学生を見つめていた。彼女は、一緒に働く優秀なサラリーマンを見つめていた。そして、彼の家も、彼女の家も市営アパートから離れ、お互い遠く離れた郊外へと移った。そして、いつしか二人の音信は途絶えてしまった。

 

 彼は、大学を卒業して山間地の学校の教員として赴任した。年が過ぎたころ、その学校に、美しい女性教員が赴任してきた。彼は、その女性と愛し合い結婚した。彼は、父母の家に帰り、子供をもうけた。

 素早く過ぎる過去の思い出に、彼は少し立ちすくんでいた。彼は、妻の声に我に帰ると、微笑みながら歩き始めた。彼は、真理子との思い出に苦痛は感じなかったが、人の世界の空々しさを心に感じていた。