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「机の上の写真」

 

                          佐 藤 悟 郎

 

 

 彼女は、真理子という美しい高校生だった。考え方も行動も立派な女の子で、家庭も豊かだった。彼女は、恋することに憧れていた。時々、ラブレターを手にすることもあった。優しく思いやりのある、男らしい人を恋したいと思っていた。

 

 夏の暑い日、彼女は、家族と一緒に近くの海岸に出かけた。海に誘われ、兄と一緒にボートで沖に出たのである。突然、ボートが転覆し、兄と妹は、海に投げ出された。彼女は、近くに釣糸を垂れていた舟の青年に救い上げられた。その舟の青年は、溺れかけた二人を岸に揚げると、いずれかへ去っていったのである。

 

 彼女は、命を助けられたことに、心から感謝をしていた。そして命を救った人を想うようになった。どこの人なのだろうか、名前すら知らなかった。時々、兄とも話し合うこともあった。秋の日の午後、彼女は、車で大学の近くを通り過ぎた。その時、舟の青年に似た姿を見た。大学生らしい姿だった。彼女は、それから大学の周辺を歩くようになった。そして舟の青年が、大学生であることを確認したのである。

 

 彼女は、その大学に入り、その青年に近付くことを真剣に考えた。東京の女子大学を勧められていたのを断り、青年のいる地元の大学に入学した。美しい彼女は、すぐに大学でも評判になった。彼女は、彼の姿を探した。彼が、理学部の四年生であり、邦楽同好会で琴や尺八に関わっていることを知った。そして彼女も邦楽同好会に入会した。

 

 彼女が間近に彼と会ったのは、邦楽同好会の歓迎会だった。彼は、彼女の姿を見ても驚く様子もなく、話を交わすこともなかった。終始、人の陰にいる、物静かな学生だった。暫くして彼女は、彼が漁村の漁師の家で生まれたことを知った。

「物理なんていうものは、社会に出ても何にもならない。将来は、学校の先生になるのが精一杯だろう。」

そんな彼の言葉を聞いて、弱気で暗い姿の男性の印象を受け、少し落胆をしたのである。そして、自分の人生を変えてまで、求める人ではなかったと後悔を感じた。

 

 彼女は、医学部の四年生の男に恋を語られ、交際をするようになった。その学生は大きな病院の息子で、豊かな家庭で育った。若々しい姿には、男らしさも感じられ、言葉に優しさがあって、幸福な未来も感ずることができた。

 

 彼は、邦楽同好会から彼女の姿が消え、寂しく思った。彼が、東京の有名な大学の大学院に行くことを彼女が知ったのは、年も明けた正月のことだった。彼女は、邦楽同好会の新年会に出席して知った。彼は、その席で「春の曲」を尺八で奏でた。その音色は、彼女の心の深くまで入り込んだ。

「私の命を救ったのは、誰なの。紛れもなく、あの人よ。」

彼女が思った結論は、それだけだった。彼女は、彼の進む大学院のある大学へと移りたいと思った。

 

 彼女は、彼が東京に行く前に、彼と話し合いたいと思った。幸い同好会の発表会の帰り、雪の降りしきる中、会場を後にして二人で歩く機会があった。和服姿のままの彼女は、彼の下宿を訪れたのである。小さなアパート風の貧しいところだった。食事の時間の決められている食堂は、とうに閉まっていた。

「君の家は、歩いてどのくらいですか。」

彼は、彼女の家が随分遠いことを知ると、タクシーを頼んだ。タクシーが来るまで、少し時間がかかるという返事を受け、それまでの間、彼の部屋で待つことにした。

 

 彼の部屋には、多くの本があり、清潔であり、整頓もされていた。本は、科学書だけではなく、文学、哲学、思想に関するものも多くあった。彼女は、ふと彼の机の上を見た。小さな額に入った写真に、目を止めた。その写真は、紛れもなく彼女自身の写真だった。

 

 彼は、熱い紅茶を入れて部屋に戻ると、彼女が唖然として机の上の写真を見つめている姿を認めた。彼は、何気なく言った。

「やはり、貴女にすぐ見つかってしまいましたね。悪気は、無かったんです。やはり貴女は、美しいし、目の前に置いておくのが良いと思ってね。」

彼女は、彼の言い訳を聞きながら、それでも嬉しい気持ちで心が満たされていた。

「もっと良い写真がありますのに。どうして、私の写真を選んだのですか。」

彼は、彼女の問いかけに少し考え、落ち着いた声で静かに答えた。

「一昨年の夏、海で溺れかけている、美しい人を救ったことがあります。君に似た美しい人だったのです。それ以来、私は、名前も知らないその人を想うようになったのです。本当に、貴女に似ているのです。おそらくは、貴女だろうと思っています。だから、歓迎会の写真を引き伸ばし、私の前に置くことにしたのです。」

彼女は、彼の瞳を見つめ、真剣な眼差しで、彼の言葉を聞いていた。

「私の動機が、不純ではないかとも疑っています。今、貴女に叱られるかもしれませんが、そんなことはどうでもいいんです。君の姿を見るたびに、貴女は、やはりあの人だと思っているのです。」

彼は、机の上の写真の入った小さな額を手に取ると、彼女の前に差し出した。

「貴女に、この写真を返します。」

彼は、そう言うと、写真を彼女に渡した。彼女は、彼を見つめ、熱い涙が急に溢れ、頬を流れたのだった。彼女は、幸福感でいっぱいだった。

 

 しばらくして、彼の下宿にタクシーが来た。彼女は、彼に送られ車上の人となった。彼女は、窓を開いて、彼を見上げて言った。

「この写真、何時までも貴方の物ですわ。私は、海岸で溺れて、貴方に命を救っていただいた者です。貴方の面影、忘れたこともありません。」

彼女は、写真を彼に返した。二人は、手を固く握り合った。

 

 彼女は、タクシーの中で思った。彼と将来どのように過ごしていったら良いのかと。恋し合い、愛し合い、そして睦まじく、共に人生を歩くことだと思った。彼女は、そう心に思うと、止めどもなく楽しく、明るく、幸福に包まれてゆくのだった。