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「陽 春」

 

                               佐 藤 悟 郎

 

 

 秋の夕陽が、この平野の木立の影を黒々と浮き立たせ、色づき始めた木の葉が風に揺れていた。彼は、遠い集落に向かって、自転車をゆっくりと走らせていた。俯き加減の彼の瞳には、輝きはなかった。時折、顔を上げて集落を見ると、遠すぎる程、遠く感じた。そして、足がひどく重く感じた。

…どうも、風邪をひいたらしい…

彼は、そう思いながら、手を額に当てた。冷たい汗が、手の甲に流れた。

 

彼は、この新潟市に近い蒲原平野の小さな町にある、普通高校の三年生だった。まだ将来の進路を決めていなかった。未知の社会に対して、少なからず恐れを抱いていた。

…冬になれば、この長い野原を歩かなくてはならない…

彼は、強い風の音と、激しい吹雪の冬景色を、一瞬脳裏に浮かべた。

 

 彼は、家の前で自転車を止め、玄関に入ると眩暈を感じた。黙って家の中に入り、廊下を歩いていると、母の声がした。

「康夫、どうしたの。黙って家の中に入ってくるなんて。」

「うん、少し具合が悪いんだ。寝るよ。」

彼は、力なく答えると、自分の部屋に入り、万年床に学生服のまま潜り込んでしまった。全身に寒さを感じ、暖まらない身体を丸め、寒さに耐えていた。そして眠りに入った。

 

 どの位の時間が経ったのだろうか、姉の少し甲高い声で目を覚ました。

「康ちゃん、どうしたのよ。学生服のまま寝込んで。あら大変、汗をかいているわ。湯気が立っているよ。」

姉は、慌てて彼の部屋を出ていった。彼は、眠っている間に見た夢のことを、朧気ながら思っていた。はっきりと覚えていないが、哀愁にも似た気持ちが、彼の心を捕らえていた。彼は、姉の持ってきた服に着替え、居間へと歩いていった。汗を出したためか、体は少し軽くなっていた。

 

居間は、ストーブが焚かれ、暖かくなっていた。

「元気を出して。ご飯を食べて、また眠れば良くなるさ。」

母は、大盛の茶碗を、彼に手渡しながら明るく言った。彼は、夢のことが、心から消えず、少し塞ぎ込んでいた。食事を中途で止めると、立ち上がった。

「康ちゃん、どうしたの。」

「うん…、まだ身体の具合がおかしいんだ。寝るよ。」

彼は、自分の部屋に戻ると、床の中に入った。湿った床は片付けられ、乾いた華やかな床が延べてあった。大方、姉が延べてくれたものと察しがついた。

 

 目を閉じると、夢の中の景色を思い浮かべた。葉の繁る、大きな木々の中にある、コンクリート建ての学舎、その大きな幹の下に、若い男と女の行き交う姿が見えてくる。大方、何処かの大学の風景なのだろうと思った。校舎を巡り、明るい洋風の庭園が見える。彼は、池の側にあるベンチに座り、噴水を眺めていた。

「康夫さ〜ん」

女性が、彼に声をかけて、そして手を大きく上げて、振りながら駆けてくる。彼女は、激しい吐息が耳に聞こえるくらいに、胸を高鳴らせ、彼に寄り添うようにベンチに座った。長い髪は、肩を越えていた。大きな瞳は、明るく輝き、口元の柔らかな、美しい人だった。そして、彼女は、目を閉じると、スーと顔を近付けてくる。その夢は、無惨にも姉の声で、遮られてしまったのである。

 

 彼は、翌日になると身体も元に戻り、自転車で学校に向かった。

「お早う。」

隣集落の一年下の香奈が、自転車で脇道から出てきた。

「お早う。昨日は、寒かったな。」

二人は、並んで野原の道を走った。町に入ると二人は別れ、彼は、同級生と一緒になって走った。町の中は、道が狭い上に、朝は車で混雑をしていた。時々、車の運転手に怒鳴られながらの登校だった。

 

 学校の授業は、彼にとって別に苦痛ではなかった。理解できないほどの授業内容でもなかったからである。生徒の態度は色々で、遊び惚けた真似をする者、一刻を惜しみ勉強をしている者など、様々だった。特に休憩時間は、はっきりとしていた。彼は目立つほどの優等生でもなかった。

「おい、康夫、大学決めたんか。」

級長の青柳が、彼に声をかけた。青柳は、この高校でも一・二番の優等生で、口も余り利いたこともなく、急に話しかけられ、彼は怪訝そうな顔を見せた。

「別に決めていないさ。大学へ行くかどうかも分からん。」

「俺はさ、大学、決めたんだ。お前だけに言うんだ。お前も行こうよ。」

青柳は、彼の前に大学の案内書を置いた。彼は、一見して笑いながら、青柳を見つめた。

「俺が行ける訳がないだろう。お前のように頭が良けりゃ、何処の大学でも選べるけどな。」

「康夫なら行けるさ。お前が、頭の良いことは知っているんだ。俺一人じゃ寂しい。」

青柳は、その案内書を、更に彼の手前に押し付けるように動かした。

「これは、お前の分だ。良く見ておいてくれよ。一緒に行こうぜ。」

青柳は、そう言って彼の側から離れていった。彼は、何気なく、その案内書を開いてみた。さっと、押さえ切れない哀愁が、心の奥深くを走った。

…何故だろう、どうして、ここに私の夢があるのだ…

その案内書の風景は、紛れもなく、彼が夢に見た風景に間違いがなかった。

 

 彼は、その日から、考え込むことが多くなった。冬になり、自転車での通学は無理となった。雪で白くなった道は、風に晒されて凍りついていたからである。彼は、バスの通る隣集落まで歩き、そこからバスに乗り、通学をした。その停留所から、バスに乗る学生は、数人しかいなかった。時折、一年下の香奈も、彼と一緒になることがあった。

 

 ある冬の日、彼がバス停留所に歩いて着くなり、香奈は少し恥じらいながら目を細めて彼に言った。

「康ちゃんって、素晴らしい人なのね。」

彼は、肩を窄めて彼女に微笑みを見せた。

「一体、何のことだい。」

香奈は、紺のセーラ服を着て、髪を後ろに束ね、鞄を前にして両手で下げていた。

「詩を書いたんだって。読んだわ。それに、とても成績が良いんですね。模擬試験の発表を見ましたわ。」

真剣そうな顔で喋っている香奈に、彼は笑って応えていた。

「笑わないで、私、康ちゃんに付いていけるかしら。」

香奈は、彼の瞳を覗き込み、顔を背けることもなく見つめ続け、そして急に顔を赤らめた。

 

 香奈の家は、裕福な家だった。集落の旧家でもあり、その長男は、町の中でも有望な会社を経営していた。彼の家と香奈の家は、父同志が幼い時から仲がよく、また戦友でもあり、家同志の付き合いは古くからあった。香奈は、時々、バス停留所で、またバスの中で、彼の優しそうな瞳を覗き込み、激しい恋心を感じた。

「康ちゃんと一緒に、一生暮らしたい。毎日一緒にいたい。自分の一生の幸せは、それしかない。康ちゃんが、恋しい…。」

香奈は、そう思い込むと動悸が高鳴り、切ない気持ちにさえなった。彼が望むなら、身を投げ出してでも、追い縋ろうとさえ思うようになっていった。

 

 彼は、青柳と共に、その大学へと進んだ。生活は、決して楽ではなかった。あの過ぎ去った時の夢が忘れられなくて、よく大樹の下を歩いた。そして、噴水のある池を訪れ、本を読むことが多い日々だった。しかし、夢のように、女性は現れなかった。青柳は、生活が変わっていき、女性を見つけて貢がせて、暮らしている有様だった。秋が過ぎ、春が訪れた。彼は、大学にいる間は、決して逃れようとはしなかった。ただ真面目に、自分の将来の生き方を考えていた。本を多く読み、文章を多く書き続けることだと思った。

 

 香奈は、急に勉強を始めた。彼が進んだ大学へ行くには、余程の実力がなければ進めないことを知っていたからである。彼女にとって、勉強はとても辛いことだった。香奈の父や兄は、心配していた。

「大学に行かなくてもいいじゃないか。」

「そんな大学は無理だ。もっと他の大学にしたらいいだろう。」

家の人が言うそれらの言葉は、彼女に何の意味もなかった。ただ、黙々と勉強を続け、人柄も変わっていった。しっかりした言葉、質素でいて品のある人間となっていった。

 

 香奈は、自分の思いを兄に打ち明けた。それを知って、兄は時々口にした。

「彼が卒業したら、お前の方から近付けばいいと思うよ。簡単なことだ。私が話してもいい。お前が、身体をこわしては、何もならないと思うよ。」

香奈は、決まって同じ言葉で答えた。

「私は、一日でも早く、一日でも多く一緒にいたいの。康夫さんに似合った、しっかりした女性の姿でね。」

そして、遅くまで机に向かい、勉強を続けていった。

 

 そしてまた秋が訪れ、春になった。彼は、大学の池のベンチに座り、無味乾燥とした毎日の生活に、心が崩れそうになるのを感じていた。

「康夫さ〜ん」

若い女性の声が聞こえた。声のする方を彼は見つめた。その女性は手を高く上げ、振っている。そして駆け寄ってくる。

…誰だろう。夢だ、幻だ、気が触れてきたのだ…

彼は、自分を疑いながら、それでもなお駆け寄ってくる女性を見つめていた。長い髪、白いドレス、大きなはっきりとした瞳、口元の柔らかい美しい女性であった。

「一年遅れたけれど、やっと追いついた。会えて嬉しい。」

それは、女性として一層成熟した、香奈の姿だった。そして、彼は、心から香奈を愛らしく思うとともに、止めどもなく心が明るくなっていくのを感じた。