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「雨の降る夜に」

 

                             佐 藤 悟 郎

 

 

 冬も近い秋の夜に、冷たい雨が降っていた。時折通る車のライトに、彼の姿が浮き沈みをしていた。彼は、何も考えていなかった。考える余裕もなかった。ただ、雨に叩かれながら、惨めな心を抱いて歩き続けていた。激しく降る雨が、心まで清く洗い流してくれることを祈りながら歩いた。

 

 彼は、決して若くはなかった。四十の年を迎えようとしていたとき、妻子と離別してしまった。離婚の非は、彼にあった。水商売の女と浮気をしたことが妻に知れたのである。彼は、心から妻に詫びたのであるが、彼の妻は許すこともなく、荷物を取りまとめ、娘を連れて生家へと帰ってしまったのである。彼は、急に寂しくなったのである。

「あなたは、身勝手な方です。私の人生を踏みにじったのです。私にだって人生があるのです。私だって幸せに生きたいんです。」

彼は、別れるときの妻の言葉を思い浮かべた。暗い空に向かって顔を上げた。冷たい雨が、彼を責めるかのように、彼の顔を打ち続けていた。妻の生家を訪れ、妻の父親から冷たい言葉を浴びせられ、妻に会うどころか家の中へも通されなかった。最終列車に乗り、誰もいないアパートへと、とぼとぼ歩いて行くのであった。

 

 彼は、町の役場に勤める公務員であった。彼の父も公務員で転々とする人だった。彼の父がこの町で勤めているころに、彼はこの町の高校を卒業して役場に就職したのである。間もなく父も母もこの世を去り、彼はその町に住むことになったのである。彼は、雨の中を歩き、アパートの玄関の前にたどり着いた。暫く入ることもなく、玄関の前に立っていた。近所の家々からは明りが灯り、自分の部屋から明りが見えないのを寂しく思った。彼は、振り返り、静かに降り続ける雨を見つめた。人影もない通りに、やがて冬が訪れ、寂しい一人だけの生活が続くのかと思い、寂しさだけが彼の心を覆った。

 

 彼は、静かに部屋の中に入り、電灯を点けた。部屋は汚れ、荒れていた。めぼしい家財道具もなく、ガラ〜ンとした寒々とした状態になっていた。ごみの中に布団が敷いてある。彼は、ようやく寒さと腹の空いているのを感じた。ストーブを炊き、服を着替え、風呂を沸かし、体を温めた。

「三郎さん、あんたは酷い人だよ。これ以上、娘を我慢させる訳にはいかないんだよ。もう二度と、ここには来ないでくださいよ。」

妻の父の冷たい言葉を思い返した。彼の頼れる親戚の者は、近くにはいなかった。二人の兄は、東京と横浜に住み着いており、便りも途絶えがちであった。

 

 彼は、即席ラーメンを拵え、卵を入れて食べた。そしてどうやって身を立てていったら良いのか考え始めた。考え始めると、毎日のように、夜になると飲み歩いている自分の姿を、悲しく思い出した。そして、酔った勢いで妻や娘に怒鳴り声を上げている、哀れな自分の姿を見つめた。妻や娘が、腹を立てるのも無理がないと思った。

 

 もう近所の人や職場の人も、彼が離婚をした事実、その離婚の原因も知っているだろうと思うと、外に出歩くのが嫌になった。布団の中で、自分の将来を不安に感じた。それとともに、妻や娘に対し、済まない心で一杯になり、涙が止めどもなく頬を伝わるのだった。

「とにかく生きよう。生活をしていこう。」

彼は、それだけを心に思うと、眠りに陥った。雨の中を、一人で歩く悲しい姿を、夢に見ながらの休息だった。

 

 翌日は、土曜日だった。彼は、人の顔を避けながら役場に出勤した。彼は、住民課の係長でもあった。登庁して、課長と助役に離婚したこと、その原因などについて話した。そして、進退について伺いを立てた。

「それは、君自身の個人的な問題だから、辞職するには及ばないだろう。しかし、公務員として褒めたことではない。不利益を被るかもしれないな。」

助役は、彼に小声で言った。その顔は少し笑っているようだった。

「君、忘れるんだ。人の噂も四十五日と言うではないか。それにしても、実際辛いよな。一人暮らしなんて、不自由なことだぜ。身を崩さないようにするんだな。」

彼は、とにかく職を失わないことを知って安堵した。当面の辛さは、耐えなければならないと思った。人間として正しい道を探し、人生を歩き直さなければならないと思った。

 

 彼は家に戻ると、家の中の掃除をした。洗濯をし、買い物に出かけた。過去を忘れて明るく正しく生きようと思った。自分の罪を隠そうとは思わなかった。人々の中で、罪なる者であり、悔い改める者でありたいと思った。生活は質素で、心から優しい人間でありたいと思った。過ぎ去った、遠い幼い日々の心に帰るつもりだった。毎日が、本当の実践の場だった。多くの欲を捨て、心が幸せになるように生きることを決めたのだった。

 

 規則正しい生活は、彼を苦しみから解き放つための良い薬となっていった。酒については、たしなむ程度で、決して深酒をしないようになった。忘年会でも、飲み歩くようなことはなかった。彼は、自分自身を変えていった。家では本に親しみ、休日になると散歩やハイキングに出かけた。冬の雪の中でも、歩くことを止めなかった。健康を失えば、全てが終わりであることを知っていたからである。

 

 冬も過ぎ、春を迎えた。役場の前の桜が咲き誇っていた。晴れた春日和は、暖かかった。彼が家に戻ると、一通の手紙が届いていた。それは、妻の父からだった。

…娘、千草は、村の酒屋の後添えの良縁があって嫁ぐことになった。幼い頃から、気心の通い合った者同志故、私は心配しておらぬ。ただ、そなたとの娘、薫も嫁ぎ先の家の籍に入ることになった故、ご連絡する次第です。…

彼は、その便りに接して、どう考えたらよいか分からなかった。深い悲しみが、心に流れたのを感じた。彼は、身を正しくすれば、妻や娘は自分の元に戻ってくるだろうと、確信していたのだった。彼は、机に向かい手紙を見つめていた。熱い涙が、頬を伝っていくのを感じた。妻も娘も、手の届かないところへ行ってしまうのか。そう思うと、身勝手な時代だったが、それでも家族の絆のあった日々を思い出すのだった。喜ぶべきなのか、悲しむべきことなのか、彼には分からなかった。

「決して、喜ぶべきことではない。」

彼は呟いた。自分が演出した、最も軽蔑すべき悲劇だと思った。彼の希望は、消えてしまったのである。それとともに、生活の目的を失ってしまったのだった。妻の家の前に跪き、迎えに行きたい気持ちだった。妻や娘の幸福を考えたとき、そして妻の決心を思ったとき、彼はただ沈黙を守るしかないと思った。

 

 彼の娘は、中学三年生になる。来年は高校生である。妻に似て、美しく頭の良い子であることは、彼も知っていた。多分、養女となっても大切にされるだろうと思った。彼には、家族を養うという苦しみも、幸せもなくなった。家族を持つことが、それ自体生きていく目的だったことを知ったのである。それは、余りにも遅い後悔だった。

 

 彼は、夕食の支度にとりかかった。一体、何のために働くのだろうか、たかが自分一人が生活をするために働くのだろうか。たった一人で生き長らえ、年老い、一人で死んでいくのかと彼は思った。恐怖に近い戦慄が、彼の脳裏に渦巻いていた。 何のために働き、生活をし、生き長らえるのかという人生の目的が、どこにも見当たらなかった。ただ、一人で寂しく横たわる自分の屍を見つめるだけだった。仕事の中に、自分の生きがいを見つけることは、到底、彼にはできなかった。

 

 彼は、失意のまま、重い心で毎日を過ごすようになった。彼の顔から、喜びや明るさが失われたのだった。人生の悲しみに、じっと耐えるようにひっそりと生活をしていた。必死になって、生活を乱すまいと闘い続けた。酒や女に溺れても、生きていけることは知っていた。そして、生活に行き詰まれば、死ぬこともできることも知っていた。彼は、正しく清い道を選んだ。ただひたすら、そう生きることを心の支えとしたのである。ただ運命に従って生きるしかないと思ったのである。

 

 桜も散り、青葉が目に染みる季節となった。彼は、広報室の係長へと転属になった。それは、左遷だったかもしれなかった。彼にとっては、そんなことはどうでも良かった。時折、各家庭を巡り、あるいは史跡を歩いて町の歴史を整理することに没頭を始めた。山や野辺の新緑を見つめ、いくらか活力が湧いてくるのを感じた。

 

 彼は、自宅で机に向かい資料を紐解いていた。風が雨を伴って窓を打ち付けていた。彼は、質素な調度品を買い入れ、部屋も明るくしていた。夜も十時を回った頃だった。彼の部屋の電話が鳴り響いた。滅多に彼のところへは、電話がくることはなかった。

「警察ですが、貴方の家に、薫さんという娘さんがいるでしょうか。」

「はい、おりますが、何かあったのですか。」

「いえ、今、保護をしているんですが。ずぶ濡れになって歩いているところ、変に思って保護をしたのですが、余り喋ってくれません。来てくれますね。」

彼は、タクシーを呼ぶと、すぐ警察署へと向かった。一体、何が起きたのか、不安が横切った。この激しい風雨の中を、何の目的で歩いていたのだろうか。彼は、昨年の晩秋の雨の夜、悲しみの中で歩いていた自分の姿を、一瞬思い浮かべた。雨の中を歩く人間は、悲しみを抱いている。娘も、悲しみを抱いていると思った。

 

 彼は、タクシーを待たせ警察署に入ると、彼に向かって立っている娘の姿を目にした。彼の娘は、セーラー服姿で、リュックを背負い、鞄を持っていた。髪は濡れて乱れ、服は肌に吸い付くような哀れな姿だった。そして父の姿を見ると、急に目に涙を浮かべ、滝のように涙が頬に伝い流れ落ちていくのだった。

「薫、どうした。大丈夫か。」

彼は、瞼の裏が熱くなっていくのを感じた。彼は、娘に近づいていった。とにかく抱いてやりたいと思ったのだった。

「お父さん、家に入れてくれる。」

彼は、娘を抱き、頭を撫でた。濡れた頭に、バスタオルをかけ、いたわるように拭いていた。

「お父さんと一緒に暮らしたいの。」

娘は、彼の胸に顔を埋めると、声を出して泣きじゃくっていた。彼の目からも、大筋の涙が流れていた。彼は、簡単な手続きを済ませると、娘の鞄を取り、娘を小脇に抱えながらタクシーに乗り込んだ。止め処もなく流れる涙を、彼は払おうとはしなかった。その父にとって、娘は大切な希望であり、人生の目的となった。ただ娘だけを見つめ、二度と失うことがないように、しっかりと抱き続けていた。