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「春の曲」 …続・秋の夕暮れ…

 

新潟梧桐文庫 佐藤悟郎

 

 

 歳月は巡り、野辺の草も萌えだす春が訪れた。妹の顔にも微笑みが戻り、妹は大学を卒業して大学病院の外科医として勤務していた。落ち着きのある優しい、美しい妹だった。私は春の暖かいある日、妹の様子を見るため大学病院を訪れた。妹はテニスコートで溢れんばかりの若々しさを見せ、ボールを追いかけていた。

 帰る時には妹を自動車の助手席に乗せ、父との待ち合わせ時間まで少し時間があったので、海岸までドライブに行った。自動車から降りると、海の波の音と松林を通り抜ける風の音が耳に入った。

「やはり海ね。潮の香りが強いわ。」

そう言って妹は黄昏の光の中で私に顔を向けた。最近の妹には軽快な心が感じられた。父との待ち合わせたホテルのロビーに行くと、父はお客らしい若い男性と話していた。

「あら、ご一緒でしたの。私には黙っていたのね。」

妹の知り合いらしく、二人は笑顔で握手を交わした。妹の紹介で、その若い男性は大学の医学部助教授で、市内の有名な開業医の長男であることを知った。

「お兄さん、道夫さんてあんなに根暗な人だった。まるで別人だわ。」

妹の言葉は当たっていた。突然ホテルのロビーで会った時、私ですら本当に彼だろうかと疑ったほどである。

 

 妹の顔には明らかに思い沈んだ表情があった。押し黙ったまま私の側を通り過ぎ、足早に部屋に入ってしまった。私が応接室に入ると、迷惑そうな顔をしている父が彼と向かい合って座っていた。彼は苦笑をした顔で私を見つめた。

「昭市君、少し外へ出てみないか。」

彼は私に言うと、席を立ち早々に父に帰る挨拶をしていた。私は彼と夜の街へと出かけた。

 

 彼は現在何をしているのか話してはくれなかった。あの悲しい別れ以来、彼は母の家の姓を名乗り、東京に出て大学に通い、好きでもない仕事をしている程度の話だけだった。仕事の関係で、調査のために来たと言っていた。私はその後の妹について、大学を卒業して大学病院の医師になったこと、そして大学の医学部の助教授とのロマンスについて話した。彼は私の話を聞き終わると苦笑を浮かべて言った。

「そう、君の妹さんはきっと幸せになれるさ。でも、私も妹さんを好きだということを忘れないようにね。長い間、ずっと妹さんを考えていたんだ。もう諦めた方がいいのかな。」

彼の瞳は潤んですらいた。寂しそうな目を私に向けていた。暫くして目を反らすとベンチから立ち、遠くを見つめていた。そこには越後の山脈が見え、遠くに雲が流れていた。

「この地を訪れ、私はこの国の人でないと思った。訪れてはならないところだったんだ君の家に迷惑をかけたと思っている。済まないことをした。」

自分の言葉を確認するように彼はゆっくりと言った。私は黙って彼の言葉を聞いていた。   「もし機会があったら、君のお父さんに言っ てほしい。できれば、妹さんにも言ってほし い。人間は決して、寂しさと一緒に、何時ま でも寂しさと一緒になって生きていける訳は ないってね。」

彼は二歩、三歩と歩き、急に振り返ると右手を上げ手を振った。そして駆け出し公園の外に向かった。私は咄嗟に立ち上がり、彼を追いかけた。彼はタクシーに飛び乗ると目を閉じ、私の前から去ってしまった。

 

 彼は思い出の場所にその本を置いた。彼の妹が見つけてくれるだろうと確信をしていた。

  …君が最初にこの本を見つけてくれるだろう。

   君に返さなければならない本だから…

     東京大学医学部 助教授 平野道夫

 

 「私は泣いたりはしません。でも、私はとて も醜い女だわ。自分でも許せないほど、心の 卑しい、汚らわしい女だわ。」