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「急病人」

 

                              佐 藤 悟 郎

 

 

 彼女は、病院の玄関を出て空を仰いだ。今にも雪が降りそうな鉛色の雲が漂い、風が鳴っていた。彼女は、遠くの山々に囲まれた小さな町の病院の医師だった。彼女は、ひかれる思いで都会からこの小さな町に移り、そして数年が過ぎたのである。南の高い山の峰は、彼女にとって苦しい思い出があり、また希望の思いもあった。

 数年前、彼女が大学生の頃、大学のO・Bと一緒にその峰に登山をした。そして雪崩に遭い、彼女を除いて全ての仲間が死亡したのである。彼女は、幸いにも通りかかりの登山者に命を救われた。彼女を救った登山者は、彼女を安全な所まで運ぶと、名前さえ告げずに去って行ったのである。それ以来、彼女は友を弔う心と、救ってくれた登山者を思う心に支配されたのである。

 

 数年が過ぎ、彼女は都会に戻り、父の経営する病院の医師として働くようになった。生活は豊かであり、何も不自由をすることはなかった。大学病院の若い医師と結婚をすることも、多少のこだわりがあったが承諾をしていた。多少のこだわりとは、山で自分を救ってくれた登山者への思いであった。それも月日が経って、遠い思い出として消えかかっていった。

 

 彼女が彼に再び出会ったのは、些細な出来事からだった。彼女と婚約者が一緒に連れ立って繁華街を歩いていたところ、ある店からいきなり男が飛び出してきて、彼女の婚約者とその男がぶつかったのだった。その男が持っていたアイスクリームが、彼女の婚約者の服に溢れるほどにかかってしまった。

「君、この服をどうしてくれるんだ。」

彼女の婚約者は、その男に大きな声で言った。その男は、何処にもいるような勤め人のような風体だった。しきりに謝るその男を、彼女の婚約者は許すこともなく、近くにあった洋服店に連れ込み、補償を求めていた。

 結局、彼女の婚約者は、高価な洋服代をその男に弁償させることで話を決着させたのである。その時、彼女はその男が自分の命を救ってくれた登山者だと気付かなかったのである。ただ見覚えのある人の印象を抱いており、しばらく経った冬のある日に、ふと気付いたのだった。

 

 彼女は、彼を知りたかった。彼女は、繁華街の洋服店を訪れ、彼の住所や名前を教えてもらった。そして彼の住居に出かけたのである。彼女の家から意外と近いところにあった。それは小さなアパートで、見晴らしの良い高台にあった。彼女は、彼が自分の存在に気付いていないと思った。彼女は、今更会っても、仕方のないものと思っていた。感謝をしているけれど、それ以上の何ものでもないと思った。

 

 ある日、彼女の婚約者が彼女の家を訪れ、彼女とその家族に彼についての話をしたのである。

「この前、私の服にアイスクリームを塗った男に会ったよ。タクシーに乗って、転げながら病院に来たんだ。丁度、私が病院に用事があっていたんだ。あの男、看護婦にしつこくまとわりついていた。手術でも、何でもいいからしてくれと怒鳴っていたんだ。ところが、私の顔を見ると、何だ、あんたの病院か、駄目だなと言って諦めて病院から出て行ったんだ。」

彼女の家の人は、笑いを交えて聞いていた。

「それで、あんたのみたてじや、その人はどんな病気なんだね。」

と彼女の父も笑顔で彼に尋ねた。

「盲腸炎か腸捻転だっただろうな。脂汗を流して、タクシーで帰っていったよ。」

そう彼が言い終わらないうちに、彼女は血相を変えて喚き散らした。

「貴方、帰ってよ。この家にもう来ないでよ。貴方、それでも医者なの。」

そう言うなり、彼女は家を飛び出し、真っ直ぐ彼のアパートに向かった。そのアパートには彼はいなかった。アパートの住人は彼が何処へ行ったのか誰も知らなかった。

 

 彼女は、夕方になって病院に戻った。間もなくタクシーで降りたった、弱り切った姿の彼が病院を訪れた。

「お願いです。腹が痛いんです。助けてください。」

彼女と彼女の父が駆け付けたとき、彼は意識朦朧とした状態だった。

「貴方のところには来たくはなかった。余りにも恩着せがましと思ったんです。でも、もう我慢ができないんです。」

彼女は、彼のその言葉を聞いたとき、心がひどく痛んだ。

「お父さん、お願いです。この人を助けてください。私を山で救ってくれたのは、この方なんです。だから、どうしても助けてください。」

彼女は、父の前に膝まづいて哀願をした。彼女の父は、哀願する娘の姿が、病院に訪れる重病人の肉親に似た姿だと思った。彼の病状は虫垂炎で腹膜炎を併発し、危険な状態だった。