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「約束」

 

         佐 藤 悟 郎

 

 

 亮子の母は、不安だった。そして、娘の心を疑っていた。その娘、亮子は朝起きると、長い時間をかけて衣装を凝らし、念入りに化粧を施していた。亮子は二十五歳になっていた。

 その朝、母が亮子の部屋を訪れた。

「今日、私の夫となる、浩介さんが来るわ。」

亮子は、母に笑顔を見せてそう言った。

「本当に来るんだかね。」

母は、単調な口調で不安そうに言った。一瞬、亮子の顔から笑顔が消えた。亮子は気を取り直し、鏡台に向かって念入りな化粧を始めた。

 亮子の母は、浩介と会ったことはなかった。素性なども一切知らなかった。知っていることと言えば、亮子と高校の同学年だということである。そして亮子と浩介が、高校の卒業式の日に、亮子の二十五歳の誕生日に、浩介が結婚の申し込みに来ると言って、接吻を交わした仲だということだった。

 

 母が、そんな話を聞いたのは、そう古いことではなかった。母は、亮子の結婚が遅いのを心配していた。それで、縁談を亮子に持ちかけ、亮子は一旦交際をしたが、浩介の話を出して断ってしまった。

 浩介に関しての話はなかった。亮子への音信もなかったようだった。母は、亮子に浩介の現在の様子を聞いたが、頑なになって何も教えてくれなかった。亮子も何も知らないのだと気付いた。浩介の話を尋ねると、亮子が苦悩に満ちた顔をするからだった。

 母は、結婚という大事なことを、親にも告げない浩介の態度が無責任のように思った。何も不自由のない家庭にあって、母は亮子の心を測りかねていた。亮子が年を追うに従い、男性に対して頑なな態度をとっていくように見えた。

 母は、亮子が果たして浩介のためにのみ純潔を保っているのだろうかと、疑いを持っていた。亮子が、他の男性と交際していた噂を耳にしており、縁談を持ちかけた時も、相手の男性と暫く交際していたからだった。身の潔白さを守ったにしても、心が清いものだったのか、大きな疑問だった。男女の契りの約束を守ること、それは尊いことであるが、亮子の場合は夢物語であり、到底成就されるものでないと思った。

 

 亮子の父も姉も心配をしていた。人生というものは、夢物語ではない。ことに結婚に関しては、高校時代の契りが、その後も埋めるべき交際もなくて、何故、成し遂げられるものであろうか。亮子が、浪漫を追っているに過ぎないと、目に写るだけだった。家族にとって、浩介を待つ亮子の姿を見るのは不安だった。失望の後に訪れる亮子の生涯、どのようなものになるのだろうか。時が経つと共に、若いころの約束は色褪せていくものである。

 そして、亮子の二十五歳の誕生日が訪れた。初夏の緑の美しい日だった。家の者達は、疑いながら「亮子の夫」となる浩介を迎える支度を始めていた。それは、全く当てのない迎えの支度のように思えた。

 

 父も母も、姉妹も浩介が来るのを待っていた。亮子は、自分の部屋に閉じ篭っていた。亮子自身にも、浩介が来るという確信はなかった。しかし、自分は約束を果たし、二十五歳の誕生日を迎えたことを快く思っていた。真の女性像を、自分自身に認めることで満足感を持っていた。

 その反面、亮子は不安を抱いていた。長い間、浩介と会話も、心のやり取りもなかった。浩介がどのように変わったのかも心配だった。自分は、浩介に満足するだろうか、浩介は自分に満足してくれるだろうか、そんなことを思うと亮子は、浩介が来るのを恐怖にも似た思いも持っていた。

 

 昼を過ぎても、浩介の訪れはなかった。昼の客を待ちそびれたように、家の者が遅い昼食を取った。亮子の着飾った姿を見て、家の者達は一層不安を募らせるのだった。

「亮子、一体いつになったら来るの。」

「今日中に来るわ。きっと。」

食卓に居合わせた家の者達には、言葉がなかった。亮子自身が知らないのが、はっきりしているからだった。一体、何の真似なのだろうかとも思った。それでも、誰も亮子を責めるものはいなかった。来なければ、それはそれで良いと思っていた。それで亮子の夢物語にケリがつくことになるからだった。

 

 亮子の口数は少なかった。亮子は、軽く食事を済ますと、広い庭に出て歩いた。庭の一番奥まった場所まで行き、家を見た。そこには父や母、そして姉がいた。亮子は、朝早くにも浩介が来ることを疑わなかった。浩介との約束を絶えず疑い、それでもその日を迎えたのだった。彼が来ないのを思うと、自分が一体何を騒ぎ立てていたのだろうかと思った。亮子には、強い感情と確実性を帯びた不安があった。浩介は、来ないだろうと思った。何の為の装いだったのだろかと、自分自身を嘲笑うほどだった。それでも、その装いは人と人との神聖な「約束」という誓いの証であると思った。

 亮子は、庭の池の水面を見て、長い間自分を揺り動かしてきた事柄について、思い巡らした。卒業式での清い思いである。浩介との約束、その後、自分がどのように過ごしてきたのか、幼い者の笑い話にでもなりそうな思いが巡ってくる。いよいよ今日を迎え、精神を左右する不安が襲ってくる。自分の心が、破壊されるのを感ずるのだった。

 

 型どおりの卒業式が行われた。亮子は、多くの人との別れということに実感がなかった。友達と話をしながら、亮子は廊下を歩いていた。その時、浩介が前に立ちはだかった。横合いから出てきたのである。それも突然に、多くの人が見ていた。

「亮子さん、少し話をしたいのです。時間を頂けませんか。」

亮子は、突然のことで驚いてしまった。

「何よ、用件なら、ここで言ったらどうです。」

亮子は、浩介がどのような学生なのか知らない訳ではなかった。他から見ると、極端なほど勉強好きの優等生だった。平凡な学生だった亮子にとって、浩介は縁の遠い、話を一度も交わしたことがない学生だった。それに、かなりの数の女学生が、浩介に好意的な行動をしているのを知っていた。亮子自身も好意を抱いていたが、外面に表す立場でもなく、自信もなかった。とにかく遠い存在の学生だった。

「私は、貴女に大切な用があるのです。人前では、とても言えない話なのです。」

浩介は、亮子の瞳を正面から見据えていた。亮子は、愛情に溢れた好意的な男性の目を、初めて見たのだった。

「少しの間なら良いですわ。もう、家の者が迎えに来る時間ですわ。」

浩介は、亮子を校庭の並木に誘い出した。暫く二人は並んで歩いた。亮子は、歩きながら熱い感情が、無言の中から伝わり、体が震えるのを感じていた。亮子は、高校生活の間、異性というものに関心は持っていたが、積極的な行動もせず、感動的な場面を味わったこともなかった。

 

 校庭から外れ、人気のない川岸に出た。浩介は、亮子の右手を握って亮子を見つめた。亮子は、彫刻像のように体が強張り、間近に立っている浩介の瞳を茫然と見つめた。浩介は、身動きをしない亮子の顔に顔を近づけ、亮子の唇に唇を重ねた。亮子は、右手がしっかりと浩介の手に握られ、自分も強く握り返すのを感じた。

「私は、ずっと貴女を見て過ごしてきました。貴女が好きです。」

亮子は、何も言えなかった。茫然と彼の顔を見つめるだけだった。そして彼の瞳の中に、憧れが見えた。

「私と、結婚してくれることを、約束してください。」

浩介の問いに対して、亮子は頷いて見せた。亮子は、幸福感に満ち、両手を彼の首に投げつけ、浩介の体に体を寄せ、唇を求めた。浩介の激しい動悸と、柔らかい唇を感じていた。

 

 亮子は、呼吸が苦しくなるほど浩介の唇を吸い、浩介は亮子を両腕で抱きしめていた。長い間二人は抱きあい、そしてお互い腰に手を回して川縁を歩いた。

「直ぐには、結婚できない。忘れないように、二十五歳の貴女の誕生日に、貴女を貰いに行きます。」

浩介は、亮子の顔を見ながら、明るい声で言った。

「本当に、約束してくださるの。亮子、信じても良いの、待っていて良いのね。」

亮子は、浩介を見返しながら言った。

「信じていて欲しい。私が迎えに行くのを待っていて欲しい。六月七日、君の誕生日だね。君の家の庭で、君が待っているところに行くよ。」

浩介は、亮子に約束をした。亮子は、嬉しそうに浩介の胸の中に顔を埋め、両腕でしっかりと彼を抱いた。浩介は、亮子の顎を手で上げると、顔を近づけ接吻をした。

「私が迎えに行く時、君が結婚していたら、私は死ぬほど悲しむだろう。」

別れ際に、浩介が言った。

「そんなこと、決してありません。」

亮子は、そう答えて浩介と別れた。

 

 浩介の一家が高校卒業して間もなく、東京へ引っ越したことを、亮子は彼からの手紙で知った。亮子は、一年間は浩介からの手紙をよく受け取った。それが成人式を迎えた頃から、音信不通となり、亮子からの手紙はそのまま戻ってくるという有様となった。亮子は、浩介の身の上に何事が起きたに違いないと思った。東京に出た多くの友達に、浩介の所在を尋ねたが分からなかった。浩介が入学した大学へも問い合わせたが、教えてもらえなかった。

「私との約束、信じてもよいのだろうか。」

亮子は、疑いを持ち始めた。友達は、次から次へと結婚していった。そんな状態の中、亮子は親友から、ある男性との交際を勧められ、交際をすることになった。浩介の音信が絶えて、二年も過ぎた頃だった。

「幼過ぎる時のことだった。」

亮子は、浩介との約束が破滅したものと思った。破滅した責任は、浩介にあると思った。

 

 親友に紹介された男性は、地方大学を卒業した優しそうな好青年だった。親友の夫の知人で、大手商社に勤めていた。亮子は、自分から誘わなかったが、青年からの誘いは何時でも受けていた。

「私との結婚を考えてください。」

その青年は亮子に言ったが、亮子は即答を避けていた。亮子は、青年の家へ遊びに行き、青年も亮子の家を訪れた。亮子の家の者達は、亮子がその青年と結婚するものと思っていた。亮子自身ですら、そうなるのではないかと思った。

 ある日、亮子が青年の部屋にいる時だった。青年が亮子に近寄り、接吻をしようとした。亮子は、反射的に青年を突き放し、再び近寄る青年の顔を平手打ちにして、青年の家から飛び出した。その時、亮子の心に浩介の姿が見えたのだった。

「浩介さん、きっと来てくれるわね。」

亮子は、浩介のことを打ち消すにも、打ち消せないと分かったのだった。少なくとも、自分は約束している身であることを、体全体が知っていた。

 

 亮子に青年を紹介した親友は、取り持ちをしようと彼女の家に訪れた。亮子は、浩介のことを秘密にして、青年との交際を拒絶した。

「他に好きな人でもいるの。」

親友の問い掛けに、亮子は無言だった。

「そう、いるようだね。卒業式に会った彼氏でしよう。その人、近くにいないでしょう。私自身もそうだったのよ。好きな人がいたわ。でも、突然現れた彼と結婚したのよ。とても幸せだわ。」

親友は、一呼吸置いて、付け加えるように言った。

「待っているだけでは、辛過ぎるわ。その人が現れなかったらどうなるの。」

亮子は、親友の言葉に悩んだ。音信もない浩介を待つ不安、それを「約束」という希望を強くすることで克服しようと思った。

 

 亮子は、意固地になって「約束」を守ることに拘ることが良いことなのか、疑いを感じていた。道徳的であろうが、特殊な生き方でないのかと思った。多くの人は、もっと自由に人生を送ることが許されている。人の本当の人生は、厳格な道徳の中だけにあるとは思えなかった。でも亮子は、浩介を選ぶことが、正しいことだと信ずることに決めた。

 

 亮子は、それから男性と交際をしなくなった。できるだけ家の中におり、男性からの交際の誘いを全て拒絶した。自ずと、亮子は周囲から取り残され、寂しい人間となった。寂しさを感ずれば感ずる程、浩介への思いが募った。

「二十五歳の誕生日」

それだけを信じ、希望を抱いていた。

 

 一年半ほど前のことだった。どう思ったのか、亮子の家の者が、突然と町の有力者を仲人に亮子の縁談を進めたのだった。亮子は、家の者の立場もあり、勧められるがまま見合いをし、三度ほど相手の家を訪問した。相手の家で丁寧にもてなされた。相手は、良家の長男坊で、三十近間の知識人らしい男性だった。感じの良い人で、言葉には、何か浪漫的な香りのする人だった。相手の人も、相手の家の人も、明らかに亮子に好意を抱いていた。

 

 ある日、亮子は相手の招きを断った。その日は、相手の家にとって大切な行事がある日で、親族や知人に亮子を披露しようとした。亮子が断ったことから、仲介人が早速亮子の家を訪れ、理由を尋ねた。

「私には、好きな人がおります。浩介さんという人です。私の二十五歳の誕生日に、私を貰いに来るという約束をしております。私も浩介さんを好きですし、待っております。」

亮子は、断った理由を、そう答えた。仲介人ばかりか、家の者も浩介の近況をしつこく聞いた。亮子は、それまでのことを有りのまま話した。

「私は、どう考えても浩介さんを好きです。浩介さんを悲しませたくないのです。」

亮子は、最後にそう付け加えた。仲介人も家の者達も現実離れした、取るに足らないことと受け止めていた。仲介人は、いずれは亮子が心変わりをするものと決め付け、亮子の家を引き上げていった。

 

 良家の相手の男は、異常なほど亮子を妻にしたいと思っていた。亮子の家の者達も、浩介が頼りない、信ずることのできない男だと思っていた。亮子は、家族の反目の中で暮らした。良家の相手の男は、亮子にいつまでも待っていると言った。

「二十五歳の誕生日に、浩介さんが来なかったらどうするの。」

家族の者達に言われた。暗に、家族は浩介が来なかった場合には、良家の相手と結婚させる同意を与えた。亮子は、そうなったことに苦しみを感じなかった。浩介を待っているのは、約束に対する義務を果たすだけという、軽い考えに傾いていた。

 

 日が傾き、太陽が山の端にかかる夕方になっても、浩介の姿は現れなかった。その日、この地域選出の国会でも有力な代議士が、町の体育館で演説をしていた。

 亮子は、浩介はもう来ないと思った。そう思うと、急に悲しみが胸に涌いた。庭の池の端に佇み、頬に熱い涙が伝わるのを感じた。七年もの間、色々なことを思った。その間、亮子は浩介を信じて生きてきたことを感じた。

 疑いながら過ごした長い年月、来なくても仕方がない、ついさっきまで、そう気に止めていなかったことを思うと、亮子は惨めにさえ思った。

 

 とうとう父や兄は、亮子に言った。

「来ないだろう。夢のような話さ。それで結構。」

亮子は黙って聴いていた。家族の者達は、膳について酒を飲み始めた。暗くなりかけた頃、町の有力者も訪れ、笑いを交えて家の者達と酒を酌み交わしていた。

「男なんて、そんなものよ。俺だって、何人もの女を蹴散らしたものだ。」

そんな話が、亮子の耳に聞こえた。確信もない亮子は、怒りが募ったがそんな話を聞く他なかった。亮子は、たわいもない話を聞いて、長い間培ってきた浩介への思いが、いかに大きなものだったかを知った。浩介の他に結婚するという考えはできなかった。

「今日は来なくても、いつまでも待つ。浩介が来るまで、命果てるまで待つわ。浩介を悲しませることはできない。」

そう決心すると、亮子は心が安まるのだった。そして、明日からの身の振り方を考えた。家を出よう、独立した生活を営もうと思った。一生寂しい暮らしとなるかも知れないが、それでも良いと思った。浩介が結婚をしているかもしれないと思った。それでも浩介を待とうと思った。今は、自分の信念を守ることが大切と思った。

 

 有力者である仲介人が庭に下り、佇んでいる亮子の後ろから声をかけた。

「美しい人じゃ。こんなに綺麗な人では、坊ちゃまも諦められないのは当たり前だ。本当に綺麗じゃ。」

亮子は、静かに立ち上がると、仲介人と向かい合った。流れる涙を拭おうとはしなかった。

「貴方は、人の良心を笑う、人でなしです。私は、浩介さん以外の人とは、結婚をしません。」

亮子は、大きな声で、はっきりと言った。

「浩介さんは、必ず今日きます。庭の木戸を開けてやって来るのです。」

亮子は、庭の低い木戸を指差した。薄暗い木戸から、人影が見えた。

「ほうれ、ちゃんと来ているじゃないですか。」

亮子は、木戸に向かって駆け出した。仲介人や家の者達の目には、亮子が、気が触れたように見えるばかりだった。