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「生き残った長男」

 

                  佐 藤 悟 郎

 

 

彼は、自分の下の娘が交通事故に遭い、病院に運ばれたのを息子からの電話で知った。取り急ぎ病院に駆けつけ、病室に入った。娘は、頭を包帯で巻かれ荒い息をしながら、ベッドに横たわっていた。彼は、涙を流し悲しみに胸を痛めた。そんな彼の背後から、荒々しい声が聞こえた。

「何しに来たのよ。貴方なんか出て行きなさいよ。」

言葉と同時に、彼は服を掴まれて引きずられた。振り返ってみると、別れた妻が服を引っ張っていた。その後ろに、別れた妻の父と母の姿があった。彼は、摘み出されるように病室から追い出された。彼は、力無く俯いて病院の廊下を歩いた。病院から出ると、空を仰いだ。青空の中に、小さな雲が流れていくのが見えた。彼は、また俯いてアパートへと向かって歩いた。

 

 彼は、ふと過ぎ去った日のことを思った。別れた妻は、彼を愛し求めて、彼を婿として迎え入れた。妻と睦まじく暮らし、女二人と男一人を設けたが、彼と妻の両親との関係は良くなかった。彼は、一生懸命働き続けたが、働いて帰りが遅ければ、遊んできたと疑われる始末だった。

 子供が全て学校に通うようになったころだった。彼は、妻が若い男と遊んでいることを知った。彼は、その確証を得て、妻に遊びを止めるように説得した。妻の行動は治まらず、時が過ぎて、妻の遊びが表に出るようになった。妻の両親は、彼を責めた。全てが彼の責任であると言った。彼は、妻に頭を下げて改めるように言った。妻は、行動を改めないばかりか、冷たい態度を彼に示すようになった。

 彼は、妻の説得を諦め、何事もないように生活をしていた。平然としている彼が気に入らなかったのだろう。彼は、妻の家から追い出されてしまった。三人の子供を残し、彼はもう四十歳を越えていた。

 彼は、子供を除いて妻の家に未練がなかった。子供達が心配で、妻の家と遠くないアパートを借り、一人暮らしを始めた。仕事を真面目にしておれば、生活に困ることはなかった。彼は、妻やその両親がいないころを見計らって、妻の家を訪れて子供達に会い、お金や欲しい物を与えていた。

子供達は、彼を父と呼び、笑顔で彼と会っていた。それも家の者に知れ、厳しく監視されるようになった。彼には、子供達が登下校するとき以外に会うことができなくなった。

 

 上の娘の病室から追い出され、アパートに向かって歩きながら過去のことを思った。子供達が悲しく、哀れに思えてならなかった。彼の心に、別れた妻やその両親に対する激しい憎しみが生まれた。それは、殺意となって彼の頭を支配した。夜になって、アパートから出ると、別れた妻の家の前に立った。忍び足で庭に回り、廊下のカーテン越しに中を覗いた。別れた妻とその両親の姿が見えた。彼は、タオルで包んだ包丁を取り出した。その時、長男の姿が見えた。長男は、別れた妻と短い言葉を交わし、姿を消した。

 彼は、これから起こるであろう凄惨な人殺し現場を思い浮かべた。子供の目に触れ、子供達が驚き悲しむだろうと思った。包丁で人殺しはできない、家に火を付けて何もかも燃やしてしまおう。そう思いながら、ただ茫然として立っていた。

「どこかへ行こう。誰にも分からない、思い出さないような遠くへ行ってしまおう。」

突然、彼は我に返って思い、決断したのだった。彼は、子供達に哀惜の情を抱き、頭を一度下げると、別れた妻の家を後にした。

 

 彼は、遠く離れた南の土地を転々として移り住んでいた。仕事は辛くとも、心安まる時を持つことができた。その真面目な生活態度を見て、彼の過去を全て承知し、添ってくれる女性と結婚した。その妻は、彼だけを見つめ愛し合い、楽しい生活を送った。そして小さな運送会社を始めた。

 

 彼は、ある日、新聞で別れた妻の家で放火があったことを知った。火災で、別れた妻の両親と二人の娘が焼け死に、放火した男が逮捕されたとの記事だった。生き残ったのは、別れた妻と長男だけだった。年からすれば、長男はまだ中学生だった。この事件のことについて、彼は妻に話すことができず、一人心を痛めて過ごしていた。

 

 別れた妻の家の放火事件記事を目にして、暫く過ぎたある日のことだった。彼と妻が、店の事務室で伝票の整理をしているとき、一人の見窄らしい少年が、黙って戸を開けて入ってきた。彼が椅子から立って、少年に向かい合った。少年は、少し彼を見つめ、両目に涙が溢れ、両頬に流れた。

「お父さん、助けてください。」

彼は、長男の疲れ果てた姿を見ると、涙を浮かべ、しっかりと長男を抱きかかえるのだった。その二人の姿を見つめる妻は、目を潤ませ、優しい眼差しで見つめていた。