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「老舗」

 

                 佐 藤 悟 郎

 

 

 彼は、銀世界の雪国の都市の駅に降り立った。日本でも有数の総合商社の社長で、水沢という男だった。十数年振りに降り立ったその都市は、都会らしく垢抜けをし、昔の面影もない程変貌していた。駅前の一つのビルは、昔と変わっていなかった。水沢は、ビルの地下へ降り、居酒屋に寄って安酒を煽った。隣の席に、植村部長と呼ばれている男が、四〜五人の若い男と女にちやほやされながら、嬉しそうに酒を飲んでいた。植村部長は酔っていたのだろう、しきりに水沢に話し掛けてきた。水沢は微笑み、頷きながら受け流していた。その内に若い者達は、植村部長に愛想を言って店から出て行った。若者達が店から出ていくと、植村部長は、水沢に言った。

「若い者は、若い者達の自由にさせるのが一番さ。東京から来たんだって、一緒に飲みましょう。今年も、もう終わりなんだ。」

水沢は、植村部長の誘いに乗り、雪の降る銀世界の町の中を一緒に飲み歩いた。二軒ほど植村部長の知っている店を飲み歩き、その後に一見して高級割烹へと、水沢を誘った。

「綺麗な芸者さんが来るところですよ。」

飛び入りで二人は割烹に上がり込み、若い娘に八畳の部屋に案内された。部屋のテーブルに料理と酒が並べられた。程なくして、中年の美しい芸者が二人、襖を開け丁寧なお辞儀をして部屋に入ってきた。水沢と植村部長は、笑顔を見せながら芸者と話し、地唄を聞き、踊りを見つめた。酒は、天下の銘酒で、快く二人の腹に入った。

 

 時も過ぎ、酔いが回った二人は、芸者の姿が消え、帰らなければならい時だと知った。水沢は植村部長を助け、帳場へと行った。帳場には、髪を結い上げた若い娘がいた。客の二人は、囲炉裏を間に娘と向かい合った。

「お客さん、よくお遊びになりました。料金は、三十万円となります。」

植村部長は、突然の娘の勘定を聞き驚いた。突然、気の向くまま訪れた店で、それだけの現金の持ち合わせがなかった。植村部長は、水沢に目配せをしたが、水沢は首を横に振るだけだった。

植村部長は、名刺を娘に差し出し言った。

「三十万円か。今、持ち合わせがない。明日持ってきますから、それでいいですね。」

娘は、植村部長の名刺を見ながら、厳しい口調で言った。

「冗談を言っちゃ困ります。飛び込みのお客さんは、現金と決まっています。どうにか都合をつけて払って下さい。」

娘の啖呵を切ったような言い様に、植村部長と水沢は顔を見合わせた。植村部長は、物柔らかに娘に言った。

「今日は、いいじゃないか。私の会社も、時々この店を使っているじゃないか。」

植村部長の言葉を聞いて、娘は分別くさくはっきりと言った。

「どういう意味か分かりませんが、貴方の言葉が気に入りません。金輪際、この店を使っていただかなくても結構です。今夜の分は、今、お支払い願います。」

植村部長は、娘の言葉を聞いて苛立ちを覚えた。そして店の電話を借り、家に電話をかけた。妻と思われる人に、お金を工面して持ってくるように言った。

「妻の父は社長なんです。借りて持ってくると言っていました。」

植村部長は、寂しそうな顔を水沢に見せた。水沢も、心当たりに電話をしていた。

 

 二十分程経って、植村部長の奥さんがやってきた。奥さんは、帳場に入り一言二言小さな声で植村部長と話した後、現金を娘に手渡した。

「もう、この店には来ないよ。」

植村部長が言うと、娘は見下げた様子で、人を小馬鹿にするように鼻を鳴らした。その娘の仕草を見て、水沢は苦々しく言った。

「娘さん。仮にも私達はお客ですよ。そんな態度はないでしょう。」

娘は、目を釣り上げふてくされたように、そっぽを向いた。帳場が少し変だと思い、主人と女将が帳場に現れ、事の成り行きを水沢と娘に聞いた。

「お前、そんなことを平気でやったのかい。」

女将は、娘を諫めると、植村部長に頭を下げた。

「後から、娘にはよく言って聞かせます。今日は、どうかお帰りになってください。」

水沢と植村部長、それに植村部長の奥さんは席を立って、それぞれが不愉快な思いを抱いて玄関まで歩いた。主人と女将、少し遅れて娘が彼らの見送りのため玄関まで従った。娘は唇を噛み、女将が諫めたことが気に入らないと言わんばかりに、少し俯いていた。

 

 女将が、水沢等の靴を揃えている時、二人の年輩の会社員風の男が、勢いよく玄関に入ってきた。娘は、笑顔を見せると、前に進み出て言った。

「いらっしゃいませ。前田さん。お待ちしておりました。」

娘の声で、前田と呼ばれた男は、一瞬、無表情で娘に目をやった。そして主人と女将の愛想の良い顔を見た。前田と呼ばれた男は、水沢の前に立ち、深々とお辞儀をした。

「社長、どうされました。遅くなって申し訳ありません。言われた物をお持ちしました。支社の方に連絡をいただければ、社長のお困りにならないようにしましたのに。」

水沢は、前田が差し出した封筒を受け取ると、封筒の中の現金を改め、三十万円を植村部長に渡しながら言った。

「今夜は、色々お世話になり、有り難うございました。楽しかったです。これを縁に、私の会社ともお付き合いください。」

水沢は、そう言い終わると、前田と呼ばれた男に尋ねた。

「確か、支社長の前田君だな。この店をよく使うのか。」

前田と呼ばれた男は、困惑した目で店の者を見渡した。

「はい、よく使っております。系列の会社も、よく使っております。」

水沢は、その返答を聞き、俯いて暫く考えていた。店の主人と女将、そして娘は、水沢の素性を知り、血の気が引くのを感じた。

 

 水沢は、顔を上げると前田と呼ばれた男に向かって、静かに言った。

「支社長、今後一切、この店を使ってならない。系列の会社にも、使ってならないこと、間違いのないように言っておきなさい。」

前田と呼ばれる男は、承知の返事をして深々とお辞儀をした。水沢は、植村部長等と共に靴を履き始めた。

「植村部長さん、それに奥さん、嫌な目をさせましたね。どこかで飲み直しましょう。」

水沢は、二人の男に目配せをした。二人の男は、水沢等の前に立ち、案内するかのように歩き始めた。

 

 割烹の玄関先は、乾いた雪が灯りで白く浮かんでいた。娘は、前田という男を信頼し、この上もない上客として接していた。娘は、いきなり足袋のまま玄関を駆け下り、前田と呼ばれる男等の前に小走りに出ると、雪の上に跪いた。前田等は、立ち止まった。

「全て、私が悪かったのです。お許しください。」

娘は、それだけ言うと雪に額を付くように頭を下げ、伏した。結い上げた髪の輪郭が似合う、美しい娘は、伏したまま身動きをしなかった。娘に、声をかける者はいなかった。前田と呼ばれていた男が、娘の脇を通り過ぎた。続くように、植村部長夫妻が連れ立って通った。水沢は、もう一人の男を後ろに従え、一歩足を進めると、娘の前に立ち続けた。

 

 暫くして、娘は顔を上げ、水沢を見つめていた。水沢は、頬に涙が流れ、滴となって落ちていくのを見た。娘が、顔を伏せていたところは、雪が溶けて濡れていた。

「今夜のこと、私が間違っていました。どうか、お許しください。」

そう言うと、娘は再び雪の上に伏した。水沢は、娘の涙を認め、縮まるように伏している姿を見ると、不憫でならなかった。そして水沢は、自分がとった大人気のない振る舞いが、娘を哀れな姿に追いやったと思った。

「泣かなくとも良い。私も随分酷いことを口にした。謝ります。お立ちなさい。」

水沢は、優しい声を娘にかけると、心が和らいでいくのを感じた。