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「魂」

 

                新潟梧桐文庫 佐藤悟郎

 

 

 確か、十キロメートルを走った。まだ、俺はそう疲れていない。最後まで走れるだろう。しかし、いやに暑い日だな。もうそろそろ日が傾き、涼しくなってもいいんじゃないか。彼は、そう思いながら走っていた。オリンピックのマラソン競技である。選手は百数十名、その中の中位を保てればよいと思っていた。

 

 補欠でもいいから出してくれ。俺は、そのために頑張ったんだ。現に四位になったではないか。彼は、選考マラソンで四位になった。生まれて初めての上位の成績だった。選考会の人選は、三位までだった。そのうちの一名が怪我をして、代役として彼が出場したのだった。彼の目的は、その競技で完走することだった。順番はどうでも良かった。人生を振り返った。自分の人生は、いかにも満足のいくものではなかった。

 

…青春とは、何だったのだろうか。人からは馬鹿にされ、恋する人には振られ、いじけた人生ではなかったか。人の華やかさは、関係のない存在だ。…

 

 彼は、生きていくのに、オリンピック選手の肩書きだけあれば十分だと思った。彼は、自分の将来を思った。二度とこのようなことはないだろう。誰も彼に期待をしていないことを確信していた。何もない人生だった。

 

 ただ、残ったのは、この競技だけだった。彼は思った。ただひたすら走るだけだ。この競技は、自分の最後の生命だと思った。二時間五分であれば、彼はそのペースを考えた。今であれば、間に合うかもしれないと思った。彼は、時計を見た。ペースを上げるしかない。倒れるかもしれない。屈辱があるかもしれない。負けても屈辱、倒れても屈辱だ。それでもいい、走ろう。

 

 彼は、ペースを上げて走り続けた。前に人がいる。追い越せ、ペースを守り追い越せ。苦しい。この苦しさをどうする。倒れるまで、走れ、走れ。先頭まで、そこに行き着くまで何人いるかわからない。ただ、走るだけだ。今、何キロだ。自分の決めたペースにあっているか、とにかく走れ。

 

 三十キロ地点です。二名、おります。もう一名は、遥かに遅れています。期待する選手は来ません。他に選手はないのでしょうか。いや、追い上げてくる選手がおります。村山です。意外です。走りは乱れています。

 

 あれは、どこの集団だろうか。大分、人を抜いてきたつもりだけれど。日本人がいる。頑張れ、俺も頑張る。その前にも集団があるかもしれない。

 

 村山は、かなりのハイペースで追い抜いております。先頭に出ました。ぐんぐん差を開いていきます。しかし、足が体が乱れています。相当な疲労の模様です。

 

 先頭かもしれない。でも、違うかもしれない。ペースを守れ。駄目だ、守れない。走るだけ、走るのだ。命の続くまで走るのだ。

 

 驚異です。二キロの差を開き、先頭を走っています。倒れそうです。全身疲労しています。しかし、目だけは光っているように見えます。恐ろしい光景です。人間の限界のようです。

 

 コロシアムだ。俺は何位なんだろうか。転ばないように走ろう。テープが見える。一位なのだろうか。ゴールだ、よく頑張った。テープを切った。もう疲れた。寝よう、走れない。

 

 驚異的な記録です。二時間二分台です。誰が予想したでしょうか。彼は倒れています。医師団によって運ばれています。彼は意識不明のようです。偉大な彼に、人々の心が痛みます。どうでしょうか。

 

 彼は表彰台から、国旗を見上げております。誰が、こんな記録を持って、戦いを終わることを予想したでしょうか。今世紀、最大のランナーでしょう。この記録は、破られそうもありません。