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「追 憶」
佐 藤 悟 郎
激しい雨が降っている。梅雨の終わりとなると、例年のように豪雨が襲ってくる。大きな川にも、街中を流れる川にも、水が溢れんばかりに流れている。舗装された歩道にも、車道にも、そして車は水を蹴散らしながら走っている。木々は、その雨で緑をいよいよ増し、紫陽花も花を並べていた。
隣の市の中学校の教員をしている英子は、自宅からの列車通勤だつた。自宅から出勤する時間は決まっていたが、帰りの時間は遅くなることもよくあった。その日は、雨脚は夕方になっても収まらなかった。英子は、足早に学校を後にして帰りを急いだ。
家に着くと、雨で衣服がかなり濡れていた。直ぐ着替えを済ますと居間へと行った。英子の父は、やはり地元の中学校の教員だったが、来年は定年である。英子の兄も教員であるが、結婚して遠くの学校にいることから、中々帰ってくることができなかった。父は、居間で新聞を読んでいた。
「おう、早めに帰ってきたな。」
父は、娘の挨拶に笑顔を見せて、新聞を畳の上に置いた。
「中々活発に勤めているそうじゃないか。」
「誰から聞いたの。」
「教頭だよ。教頭に、お前のお目付を頼んであること、忘れるなよ。」
「何のことか、さっぱり分からないわ。」
「隠したって駄目さ。高橋という立派な先生だと言っていたよ。」
「何だ、そんなこと、馬鹿馬鹿しい話ね。」
英子は、そう言いながら、父にお茶を注ぎ足し、自分もお茶を飲み始めた。そして、部屋の中を見渡した。カレンダーに予定が入っている。
「お父さん、町内会、あったんでしょう。だらしない程、酒を飲んだんでしょう。」
「いや、そんなに飲みやしなかったよ。体が辛くてな。外じゃ、もう駄目だ。」
母は、台所から枝豆を茹でて持ってきた。テーブルの上に置きながら、英子の顔を見て、笑っていた。
「翌日、具合が悪い程、飲んだのよ。懐かしい人に会ったと言ってね。いつもの言い訳なんだけどね。」
父は、茶碗を両手で回しながら肩を窄めていた。枝豆を一つ食べると、皮を手にして母の方に顔を向けた。
「いや、本当に珍しい人に会ったんだよ。お母さんは馬鹿にするけど、ほら、英子も知っているだろう。菊地先生の弟の、彰君に会ったんだ。一番離れの、川上さんの家で、下宿しているんだって。」
母と娘は、驚いた表情を浮かべて父の顔を見た。
「お父さん、本当なの。菊地先生には、お世話になったでしょう。あの時、私の家は、ひどい暮らしだったんですよ。そんな大事なこと、はっきり言ってもらわないと、困ります。」
母は、小言めいた口調で、父に話をしていた。英子は、暫く俯いてしまった。
「お母さんが、ひどく怒るもんで、言えなかったんだよ。悪かったよ。」
父は、右手を上げて、妻に向かい、勘弁してくれという様子を見せた。英子は、立ち上がると
「じゃ、私、行ってくる。」
と言うと、部屋を出て行った。母は、英子の後を追って玄関まで行くと、英子は、もう、つっかけを履き、コウモリを手にしていた。
「英子、お前は、どこへ行くんだい。」
「決まっているでしょう。彰君のところ。」
「何をしに行くんだい。お前は、立派な大人なんだよ。先生なんだよ。」
「何しに行くって、見に行ってくるだけよ。部屋で倒れていると悪いから。」
「早く帰ってくるんだよ。夕飯なんだから。何だったら、彰君も連れてきなさい。」
英子は、返事代わりに、片手を上げると、家から外に出た。激しい雨が降っており、コウモリに打ち付ける音を聞きながら、英子は、暫く考えながら歩いていた。
彰と別れて、もう八年も経つと思った。自分が大学に進み、彰は東京に就職した。そして同じ年に、彰の家は、遠く新潟へ引っ越し、自分の家は、反対の方向の現在の地に転勤となり、引っ越したのだった。それ以後、彰とは会っていなかった。どんな顔をして言葉をかけようかと思った。英子は、下宿先に着くと、玄関の戸を開け、声をかけた。
「あら、野口さんの、お嬢さん。久し振りですね。さあ、どうぞ。」
玄関に出てくるなり、老婆は言った。この川上の家も、子供が遠くに勤めていることから部屋が空き、下宿人を取って、老夫婦で世話をしているのだった。
「お婆ちゃんも、お元気そうで。彰君、いえ、菊地さんおりますか。」
老婆は、目を見開いて、首を出して英子の顔を見つめた。何か、疑わしげな目である。
「お婆ちゃん、そんな目をしないでよ。昔、学校時代の同級生、友達なのよ。」
「そうですか。この町には、知っている人は、いないと話していましたがね。」
疑い深い言葉を残して、老婆は奥へ行き、二階の彰に声をかけた。
「彰さん。お客さん。同じ町内の野口さんよ。娘の、ええっと、名前忘れましたが、お嬢さんよ。学校の先生よ。」
彰は、かなりくど言い方をする婆と思いながら、階段を下りてきた。彼は、下宿の婆さんの後に従いながら歩いた。玄関に、女性が立っているのが見えた。老婆は、指差しながら
「あの人ですよ。ええと、名前は。」
「英子さんでしょう。」
「そうだ、英子さんだ。よく知ってるね。」
「そりゃ、何年も隣同士だったもの。見れば分かるさ。」
彰は、好意は認めるが口煩い老婆に、時々、煩わされていたのだった。彰は、玄関に出ると、軽く会釈をした。
「やっぱり、彰君だわ。間違いないわ。」
挨拶代わりの英子の、突然の言葉だった。
「久し振りね。ねえ、何年経ったと思ってるの。時々、心配してたのよ。ねえ、久し振りだわ。本当に。」
そう言いながら、英子はコウモリを玄関のコウモリ差しに入れると、板の間に、ひょっこり上がり、彼の間近に立ち止まった。
「英子さんも、中々な娘さんだこと。先生って、図々しいものなのかね。」
老婆は、そう言うと、居間に入ってしまった。彰は、指で付いてこいとばかり合図をして、英子を自分の部屋へと案内した。部屋に入ると、落ち着く間もなく、階下から老婆の声がした。
「彰さん、夕飯は、何時にします。一人分しかしてないのよ。」
彰は、英子の顔を見た。英子は首を横に振っていた。
「今日は、悪いけど、要らないよ。外で食べることにするよ。」
「彰さん、二人分作っても良いんだよ。」
「折角ですけど、良いんです。」
「今日は、ご馳走したの、食べなさいよ。」
「いいんです。今日は、外で食べるから。」
彰と老婆の言葉の遣り取りを終わりとするように、彰は戸を閉めた。英子の顔を見て、肩を竦め、笑って見せた。
「まるで、漫才さ。多少しつこいんだ。」
「そうよ。川上さんの家は、変わっているって、近所じゃ評判なのよ。」
「そうらしいな。町内会、何で、下宿人の私が出なけりゃならんのか。それも、休暇まで取ってだ。貴方だって、町内の住人です。自分の主張ができない人は、下宿させておく訳にはいかないんです。そう言うんだ。今に見てろ、適当なところがあったら、直ぐにでも出てやる。」
「そうよ、彰さん出なさいよ。直ぐに出るべきだわ。私の家に、下宿しなさいよ」。
「そうしたら、君の家と、ここの婆との、熾烈な戦いが始まるだろう。」
「いいんじゃない。私の母も強いわよ。川上さんのお婆ちゃんなんかには、絶対負けてはいないわよ。」
丁度、その時ドアを叩く音がした。彰は、口に指を当てると、英子に黙るように合図した。
「私はね、何も聞いてませんよ。たしなみはありますからね。お茶道具はありますね。お湯、ありますか。」
「ええ、さっき、お婆ちゃんに入れてもらったばかりで、ありますよ。」
「そう、お菓子ありますか。何か食べながら話さないと、人間って、考え込んでしまうんですよ。さあ、町で買ってきた大福餅ですよ。」
案の定、老婆は、許しも乞わず、ドアを開けて中につかつかと入って、彰と英子の間のテーブルに、大福餅を一皿盛ったものを置いていった。
「何か、用があったら言ってください。」
彰の返事を待つまでもなくドアを閉めると、部屋から出て行った。彰は、また口に指を押し当て、英子に合図をした。暫くして、階段を下りていく音を確かめると、彰はドアのところまで行き、ドアをぴったりと閉めた。
「悪い癖なんだな。人の話を聞きたがるんだ。ドアはいきなり開けるし、最後まで閉めていかない人なんだ。」
「まあ、姑婆のようね。嫌らしい婆ばぁだわ。私は、あんなにまでにらないわ。私が、あんなになれっこないでしょう。」
「そんなこと分からんぞ。英子さんが、婆になるまで、結論は出ないさ。」
「私、性悪じゃないわ。だったら、私のことを貰って、確かめてみない。」
英子は、そう言って彰の瞳を見つめた。彰は黙っていた。英子は頬を赤く染めると、俯いてしまった。
「英子さんを貰って、確かめるって、それは考えなくちゃ駄目だな。」
元気だった英子は、急に温和しくなった。そして、お茶道具を引き寄せると、お茶を出し始めた。
「考えるって、何か、考えることあるの。」
と彰に問いかけるように言った。彰は、黙って彼女の顔を見つめていた。
「八年って、長いですものね。人間、色々と変わったりしますわ。」
「そうだよな。高校卒業して、君は大学へ行き勉強して先生になったし、私は就職してが、すぐ親元に帰ってきて、やっと警察官になれた。変わったと言えば変わったと思う。でもお互い、元気に過ごしている。いいことだと思うよ。」
「そうね。今、ここでこうやって会えたんですもの。気持ちも変わってないわ。約束した訳ではないけれど、私、ずっと彰に好意を持っていたの。」
「そう、嬉しいことだね。ただ、思い描いた人生でないと漠然と思うことがあるんだ。君が先生になったこと、少し羨ましいと思うよ。」
彼は、薄っすらと笑顔を浮かべて彼女を見つめた。それは、彼女に話しても、理解してもらえない男の複雑な気持ちだった。
英子は、彰が近くにいると分かると、毎日のように口実を設けては、彼のところに通うようになった。英子の父や母は、別に止めようとはしなかった。彰は英子に会うと、高校時代の頃を思い出した。将来に希望を抱いていたが、大学の入学試験に失敗して就職の道を選んだ。暫くの間、彰は大学の入学試験に失敗した原因が怠慢さにあり、自身を責めた時期があった。
両親に進められて警察官の道に進んだ。そこで新しい道を見付けたように思った。警察官は新しい理念に基づき変化を遂げ、社会に奉仕するという尊い職業と思った。そして警察官に必要な知識、精神、技術等の習得に真摯に向き合い努力することが大切だと思った。過去への拘りを捨てると、意外と居心地の良い世界が広がってきたと思った。
そんな中で、英子が毎日のように訪れ、笑顔で話すのを見るのは楽しいことだった。
「英子、君と会うと楽しくなる。高校生の時のおしとやかさが嘘のようだ。本当に懐かしくもあり、心が明るくなる。」
彰は、初夏を迎えたある日、そう英子に言った。
「それは、どういうことなの。」
彰は、少し黙って窓辺に行き、外を見つめた。
「お互いが、まだ若い。歩み始めた道は、違っているように思うんだ。」
彰は、窓から首を出して青空を見上げた。
「どうして、そんなことを思うんです。」
彰は、明るい顔を英子に向けた。
「英子は学校の先生。俺は警察官。職業が違っても、社会、国民に奉仕することは同じだろう。」
英子は、立ち上がった。そして、窓から首を出して青空を見上げた。
「そうね、お互い公務員なんだから、当然よね。高校生の時は先生になりたくて、脇目も向かず勉強したわ。それがおしとやかと、彰の目に映ったのね。」
そう言うと、英子は笑顔で彰を見つめた。間もなく祭りの警備のため出勤する彰と別れ、英子は楽しさを心に抱いて家に帰っていった。
ある雨の激しく降る夕方、大衆酒場で彰は、英子の父に会った。二人で酒場を二軒程歩き、彰は英子の家を訪れた。居間に上がり込んで、二人で酒を飲み続けた。ふと彰は、英子が部屋にいないのに物足りなさを感じた。
「今日は、英子さん、帰ってこないのですか。」
母は言った。
「文化祭だから、友達のアパートに泊まると言っていたよ。」
彰は、昔の話を語った。
「私は、馬鹿なことに取り憑かれて、勉強もせずに、成績も碌に出やしなかった。」
「いいんじゃないか。人生の何かは、早かれ遅かれ分かるときが来るんだ。特に、男にゃ、いつ来るか分からんのだが。」
英子の父が言うと、母も、時々合いを打つように言った。
「お父さんは、絵がやりたかったんだね。そればかり言うんですよ。」
彰は、年老いてきた二人と、そんな話をして過ごした。
「男ってのは、諦めきれない人間なんですよね。彰君が何を考えていたか、よく分からんけど。でも、好きな道を続ける手段は、私にもあったと思っていた。今になって、それをやれなかった自分が恨めしく思っているよ。」
と英子の父が話した。そんな時、荒々しく玄関が開く音がした。
「お母さん、ただいま。高橋先生をお連れしたわ。」
彰は、英子の乱れた声と分かった。英子は酔って少し上気していると思った。間もなく酔った英子の姿と、真面な様子をしている若い青年教師が部屋に入ってきた。英子の父は、丁寧に高橋先生に挨拶をしていた。
英子は、部屋に入ると、直ぐ父の前にいる彰の姿を見つめ、戸惑いを現した。そして、苦笑いをしている彰の顔を見た。
「彰さん、来ていたの。もっと早く帰ってくれば良かった。ご免なさい。」
英子は、彰の隣に座ると、テーブルの上に両手を組むように載せて、顔をその上に落とした。
「彰さん、こんなに酔っ払った姿を見せて、ご免なさい。反省してます。」
彰は、高橋先生の姿を見つめていた。英子に取り残され、居場所のない様子だった。それを見た彰は、
「明日、仕事が早いから、帰ります。遅くまで、ご馳走様でした。」
と丁寧に礼を述べて立ち去った。
「折角帰って来たのに、もう帰るの。」
帰り際に、英子の言った呟きが彰の耳に残っていた。大方、英子は泣いていると彰は思った。
翌朝になると、早々と、英子は、彰の部屋を訪れた。少し、晴々とした顔になっていた。
「昨日、泣いたら、気持ちが晴れたの。馬鹿だと思ったわ。私の心、知らない内に、曲がったんだわ。」
そう言って、彰に向かって深々と頭を下げ出勤していった。
秋の晴れたある日、英子は、断りもなく川上さんの玄関に入った。川上さんのお婆ちゃんは、留守らしかった。二階の彰の部屋の戸をノックした。部屋から返事があった。英子が部屋に入ると、彰は机に向かって勉強をしている様子だった。英子は、戸を閉めると彰の背後まで歩いた。
「ねえ、彰さん、私高橋先生から、プロポーズされたの。どう答えたら良いの。」
英子が、彰に問いかけた。彰は、少し間をおいて椅子を回転させて、英子の顔を見た。英子は、肩をすくめてやぶにらみをした。
「そんなこと、俺に聞くな。答えようがないじゃないか。」
彰は、少し呆れたように言った。英子は、机の上の皿に大福があるのを見付け、手を伸ばして一つ取ると、口にくわえた。
「勉強しているの。大変なのね。何の勉強なの。」
英子は大福を食べながら、机の上に開かれた本を見た。分厚い本で、脇には六法全書が置かれていた。
「英子は、大福が好きなんだろう。」
彰は、そう言った後に、
「色々と実務を勉強しなければならないんだ。一つ誤ると人権問題になるからな。大変なんだ。」
と言った。川上のお婆さんが帰る音がした。
「お婆ちゃん、お邪魔しています。」
英子は、彰の部屋の戸を開けて、階下に向かって声をかけた。
「野口さんのお嬢さん、声で分かりますよ。黙って家に入ったのでしょう。それ位分かりますよ。」
川上さんのお婆さんの、返事が返ってきた。次には、お茶を運んでくるものと思い、英子はそそくさと家に帰った。
英子は、家に帰ると母に言った。
「彰ったら、私が高橋先生にプロポーズされた、どう返事したら良いのと聞いたら、そんなこと、俺に聞くなと言ったの。ひどいと思わない。」
英子の母は、しげしげと英子を見つめた。
「お前は馬鹿だよ。先生になったんだから、少しは大人になったかと思ったんだが、何も分からない馬鹿だよ。」
英子の母は、少し呆れたように言った。そして更に言葉を続けた。
「高橋先生とのこと、お前が決めることじゃないか。そういう話しを、彰君にする自体、おかしいことでしょう。お前には、常識というものが分からないのかね。」
英子の母は、少し厳しい口調で言った。英子は、母の前で俯いてしまった。英子の母は、英子が機嫌を直すように優しく言った。
「英子、厳しいこと言って御免なさい。彰さんが答えないのは、英子に気があるからかも知れないんだね。」
そう言われた英子は、少し考え、顔を上げて母に言った。
「彰のところへ行ってくる。確かめてくる。」
そう言い終わらない内に、英子は玄関に向かった。英子の母は、英子の背に向かって
「急に、行かなくてもいいだろう。」
と声をかけた。英子は、早々と玄関から外に出て行った。間もなく、英子は帰ってきて、母に言った。
「残念でした。彰さんは、『事件があったのでしょうね、呼び出しがあって、出て行ったよ。本当に残念でした。』との川上のお婆ちゃんの言葉よ。」
川上のお婆さんの言葉どおり言うのを聞いて、子供同然の我が子に母は苦笑した。
翌日、英子が勤めている中学校に出勤すると、教務室では早く出勤していた先生達が、立ったまま校長室に目を向けているのが分かった。英子が、教務室に入り机の前まで行くと、向かいの高橋先生が唇に指を当てて、静かにと言う合図をしていた。
何か、校長室で言い争っている。突然、校長室の戸が開くと、中学校の問題児が飛び出してきた。それを追うように、彰も飛び出してきて、問題児を取り押さえようと肩をつかんだ。問題児は、腹に手を入れると短刀を取り出し、振り向きざま彰に切りつけた。彰はすかさず手で払い、手首を押さえて、腕ひねりで生徒を組み伏せ、後ろ手にして手錠をかけた。
彰は、短刀を拾い上げて、他の捜査員に手渡し、問題児を立たせて連行して行った。彰は、英子の側を通る際、
「お早う。騒がせたな。」
と声をかけて通り過ぎた。教務室から、警察官の姿がなくなると、向かいの高橋先生が小声で言った。
「昨日、隣の市内で、中学生を刺した疑いで、警察が来ていたのさ。あの生徒、本当に悪い生徒だ。」
英子は、この事件のため、彰が呼び出しを受けたのだと思った。
それにしても、彰の身のこなし方は、素早かった。彰の側にいれば安全だとも、英子は思った。誰よりも、彰を頼もしく思った。
正月三が日も過ぎた最初の日曜日のことだった。彰は炬燵に入って法律の勉強をしていた。夕方近くになって誰かが来たのだろう、玄関が少し騒がしくなった。乱れた足音が二階に向かってくる。彰が戸口の方を見ると、荒々しく戸を開け英子が入ってきた。重そうな紙袋を持って、戸を閉めずに崩れるように彰に向かって座った。英子から酒の匂いがすることから
「英子、酔っぱらっているのか。」
英子は、まどろんだ目を彰に向けて
「酔っぱらっているよ。午後から先生方の新年会、いっぱい飲んじゃった。」
彰は、少し呆れた顔を見せた。
「酔っぱらったら、家で寝た方がいいのと違うか。」
彰が問いかけると、用件を思い出したらしく
「これ、するのを忘れたの。冬休みのテストの採点、明日生徒に渡すの。」
そう言って大きな紙袋の中の書類を投げ出すように炬燵板の上に乱雑に置いた。英子は
「これが生徒の解答用紙、これが正解と配点表でーす。解答用紙の正解には○印、不正解にはレ印を付ける。生徒の名前の上に採点結果の点数を書くの。」
英子は今にも炬燵板の上に伏せるように、体を少し揺らしながら一名の生徒の解答用紙に印を付け始めたが、遂に顔を横にして眠ってしまった。暫くすると、英子は炬燵に足を突っ込み、仰向けになって眠ってしまった。
「仕方ないな。慣れない酒を飲むからだ。」
以前、高橋先生の肩を借りながら帰ってきた姿を思い出した。彰は、部下にも仕事はできるが酒にだらしない男がいるのを思った。やるしかないと思い、炬燵板の上の書類を整理した。解答用紙は、一クラス分の数しかなかった。
それから彰は、炬燵から抜け出して部屋の出入口の戸を閉めた。次に枕と夏蒲団を出し、英子の頭の下に枕を突っ込み、夏蒲団を体にかけた。
採点するのには、そう時間はかからなかった。英子は言わなかったが、各人の集計表があったので作成した。集計表の名簿順に解答用紙を取り纏め紙テープで巻き、他の書類をその上に載せて紙袋の中にしまいこんだ。あす英子が困ることはないだろうと思った。
彰は、お婆ちゃんの給仕で夕食を済ませた。その時お婆ちゃんは、
「英子ちゃん、相当酔っぱらっているでしょう。気を付けなさいよ。酔っぱらった女は、怖いのよ。」
と言った。彰も英子をどうしようかと思った。背負って家まで送るかと思ったが、悪い評判が立つだろうと思った。
九時過ぎになって目覚めた英子は、ポカーンとして天井を見つめた。そして上半身を起こすと彰の姿が目に入った。
「彰、私、何時ここに来たの。」
彰は、酔っぱらいの取り扱いには慣れていた。できるだけ自尊心を傷つけないように対応するのが要点だと思っていた。
「疲れていたんだろう。ここに来てすぐ眠ったよ。」
暫く呆然としていたが、英子は小声で尋ねた。
「大事なもの、テスト用紙を持ってきたような気がする。違ったら御免ね。」
彰は、英子が持ってきた紙袋を炬燵板の上に置き
「英子が説明したとおり、採点し、集計表を作成しておいたよ。」
英子は、彰の顔をじっと見つめ、涙が溢れ出した。
「彰、有難う。感謝をするわ。今日は、御免ね。迷惑をかけて。」
彰は、笑顔で頷きを見せた。
「家まで送ろうか。」
と彰が言うと、英子が頷きを見せたので家まで送り、英子の両親に挨拶をして下宿に帰ってきた。
北国の春は遅い。三月の中旬になって、先生方の異動の発表があった。英子は、異動の希望もなく、異動もしなかった。日曜日になって英子は、彰のところに訪れた。下宿先の川上の家に行き声をかけると、意外にも、二階の彰の部屋の方から、川上のおばあちゃんの声が聞こえた。
「丁度いいわ、上がってらっしゃいよ。」
「は〜い。」
英子は返事をして階段を駆け上がった。彰の部屋の戸が開いており、部屋の手前の廊下で英子は立ち止まった。部屋には、川上のお婆ちゃんと、見たことのある五十過ぎの女性が座っていた。その女性は、暫く英子を見つめて、微笑み声をかけた。
「英子ちゃんじゃない。先生になったって聞いているけど。中に入ってらっしゃい。」
英子は、その女性を見ながら部屋に入って座った。とにかく見覚えがあるが、思い出せなかった。
「私、彰の母ですよ。忘れたのかしら。」
そう言われて、英子は急に目を輝かせた。
「ごめん、何処かでお会いしたようだと思っていたの。色々とお世話になり、有り難うございました。」
彰の母は、頷きながら聞き流し、英子に尋ねた。
「英子ちゃん、どうしたの。彰のところには、よく来るの。」
「ええ、よく来ています。昔から仲が良かったんですもの。私の家の近くに下宿しているなんて、知らなかったんです。」
「え、英子ちゃんの家って、この近くなの。」
英子は、彰の母に向かって大きく頷いた。
「今、お母さんいる。」
「いるわよ。叔母様、私の家に行きましょう。」
彰の母は、丁寧に川上のお婆ちゃんに声をかけた。お婆ちゃんが英子の家に行く用意をすると言って下に降りて行った。
その少しの間に、彰の母は英子に言った。
「人には言えないのよ。彰がこの春に異動するらしいの。昨年の昇任試験に合格したの。合格すれば次の異動で転勤するのが当たり前なの。」
「今日は、彰、当直でいないことを知っていたのよ。身の回りのことが心配で、彰に黙って見に来たんですよ。」
英子は、彰の母の言葉を聞いて
「彰がいなくなる。」
と俯き、畳に目を落としながら困惑した。彰が転勤することなど思ってもいなかった。遠くでも行ってしまったら、会うことも話をすることもできなくなると思った。
下からお婆ちゃんの、用意ができたからという声で彰の母、その後を英子が階段を下りて行った。
三人は川上の家を出た。川上のお婆ちゃんと彰のお母さんが並んで歩き、その後ろを英子が俯きながら足取りも重そうに歩くのだった。その短い歩みの中で、英子は幼いころ、そして高校を卒業して彰と別れるまでの追憶で、多くの場面が目まぐるしい速度で頭を駆け巡っていた。英子は、今でもただ一人、彰だけが好きだと思いながら歩くのだった。
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