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「松風」

 

                 佐 藤 悟 郎

  

 

 蒋童は、放浪の旅に出た。多くの内弟子を残し、行き先も告げずに、突然と旅に出た。人間の本当の姿と、人間の中にある心の叫びを求めるためだった。自然の姿を求め、その中に生きる人間の姿を求めたかった。蒋童は、尺八の音を通じて、高い感情を身に付けていた。

 

 蒋童は、ある町の歓楽街の小路を歩いていた。喧騒とした音が流れている。その歓楽街の小路を抜け、静かな欅の並木道を歩いた。彼は、この町に大きな河が流れているのを知っていた。夜の大河の姿を見ようと思った。並木道を歩いていくと、堤に出た。堤に上がり、月明かりを照り返す大河の流れを見つめた。河の堤を歩いていると、琴と尺八の音が聞こえてきた。琴は爪弾き、尺八はレコードの音だと思った。

 

 その曲は、「松風」だった。堤に近い家から聞こえ、琴の音は磨かれた音だと思った。蒋童は、川縁近くまで下り、暫く「松風」の曲を聴いていた。川縁の大きな石に腰を下ろし、尺八を取り出した。琴の音に合わせ、尺八を奏でた。琴の音は、数回「松風」を奏で、蒋童は琴の音に合わせるように尺八を吹いた。

 

 稽古が終わったのだろう、琴の音が聞こえなくなった。蒋童は、尺八を袋に納め、きらめく川面を見つめた。暫くすると堤を駆け上る足音が聞こえ、堤の上で止んだ。足音は、川縁に続く階段を静かな音をたてて下りてきた。蒋童は、階段の川縁近くを見た。そこには和服も凛々しい若い女の姿が、月明かりの中に浮かんでいた。

「先程まで「松風」を吹いていた方ですね。」

その問い掛けに、蒋童は頷きを見せた。

「私は、この付近に住む春菜と申します。明日、演奏会があります。私は「松風」を弾きます。どうか教えてください。」

蒋童は、頷きを見せると立ち上がった。蒋童は、案内されるまま若い女の家に立ち寄った。

 

 蒋童は、小奇麗な庭に面した部屋に案内された。琴が置かれ、蒋童は右斜めに座り、尺八を取り出した。音合わせをした後、合奏が始まった。尺八と琴の音は高鳴り、夜の闇に響き渡った。そして静かに合奏が終わった。

「不思議ですわ。私が、こんなに上手く弾けるなんて。」

若い女は、蒋童に向かって笑顔を見せて言った。蒋童も微笑み、頷いた。

「明日の演奏は、私の兄が尺八を吹く予定だったのです。その兄が、つい最近病気で倒れ、病院へ入院してしまいました。一緒にやってくれる人がいないのです。」

若い女が、兄の尺八を蒋童に差し出した。蒋童は尺八を手に取り、刻印を見ると「道夫」となっていた。蒋童は、若い女の兄の尺八を口元に寄せて吹きこみをしたかと思うと「千鳥の曲」を吹いた。哀愁を帯びた響きは、若い女の心深くに入った。

「明日の演奏会、私の付き添いをお願いしたいのですが。」

蒋童は、若い女の願いを受け入れるかのように、二度頷きを見せた。演奏会の会場と若い女の演奏開始時間を確かめると、蒋童は立ち去った。

 

 蒋童は、若い女の演奏時間の二十分前に会場に入った。会場の席には、これから演奏する人々の姿があった。蒋童は、懐かしい人の顔を見た。控え室に行くと、春菜と言っていた若い女がいた。若い女は、薄紺色の和服に身を固め、彼を微笑んで迎えた。蒋童は、屏風越しに服装を整えた。

「今日は、東京からの先生も大勢来ております。琴の先生もおりますが、大方、尺八の先生が多いのです。」

屏風越しに、若い女は言った。蒋童は、紋付羽織に袴姿で屏風から現れた。若い女は目を閉じ俯くと、意を決したかのように蒋童の顔を見つめた。

 

 出番を迎え、蒋童と若い女は楽屋に入った。前に演奏を終わった尺八の奏者は、擦れ違うとき一瞬立ち止まり、驚いた様子で蒋童に会釈をした。

「お知り合いの方ですか。」

若い女は蒋童に尋ねた。擦れ違った尺八の奏者は、若い女も知っている高名な東京の人だった。

「そんなところです。長く会ってはおりませんが。」

蒋童は、短く答えた。幕の下りている舞台に、若い女は琴を据えた。蒋童は、若い女の右脇に座った。音合わせをして、幕が上がるのを待った。演奏曲目と、演奏者の紹介があり、幕が上がった。尺八の演奏者は、目録の通り若い女の兄のままだった。

 

 幕が上がると、会場からざわめきが起こった。それを打ち消すように、滑らかに演奏が始まった。若い女は、曲に溶け込み流れるように奏でた。尺八の音と共に十分な潤いを持って演奏は終了した。幕が下りた。

「素晴らしいお琴でした。これからも、もっと育つでしよう。」

蒋童は、優しい言葉を若い女にかけると、立ち上がった。

「どちらへ行かれるのですか。御礼をしたいのです。」

若い女は、心配そうな顔で尋ねた。

「私は、旅の途中です。先を急いでおります。また、お会いできるでしょう。」

蒋童は、若い女に笑顔を見せ、丁寧なお辞儀をして幕間の舞台から立ち去った。

 

 若い女は、控え室に戻ったが蒋童の姿はなかった。間もなく、東京の琴の女師匠が控え室に入ってきた。

「とても見事な演奏でした。」

女師匠は、若い女の演奏を褒め称えた。そして、何かを捜すように控え室を見渡した。

「蒋童先生は、どちらにいるの。」

女師匠は、若い女に尋ねた。若い女は、女師匠が何を言っているのか分からなかった。

「蒋童先生と言う方、どなたなのですか。」

女師匠は、不思議そうに若い女を見つめ、頷きを見せると小さく笑って言った。

「貴女、知らなかったの。一緒に演奏されていた方、神村蒋童先生です。長い間、旅に出ておられる。私もお世話になった、立派な先生です。」

若い女は、女師匠に、一緒に演奏することとなった経緯を話した。女師匠は、いちいち頷きながら聞いていた。若い女は、蒋童のことを語っている内に、蒋童が愛苦しい程、心の奥に入り込んでいることを感じた。そして寄り添う希望の人物であることを強く感じてもいた。