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「分校の女性教師」

 

          佐 藤 悟 郎

 

 

 小千谷市の浦柄から山に向かって入っていく。幾つもの集落を通り、バスは終点に到着する。バスから下りると、山に向かい、一本の手掘りのトンネルがある。そのトンネルを潜り抜けると、小さな集落に出る。その集落から沢を降りて、再び登ると比較的大きな集落に出る。その集落には、中学校の分校と小学校があった。山の頂に近いところに中学校の分校があり、三百メートルくらい下りたところに小学校があった。教務室は、中学校の分校にあり、中学校と小学校の教師が同居していた。教務室には中学校の分校主任がおり、教務室の隣には小学校の校長室があって、小学校の校長がいた。校長室の隣は音楽室だった。

 

 秋になって私は、急遽中学校の代用教員として勤めた。高校時代の担任の教師からの要請だった。瞬く間に秋は通り過ぎ、冬となった。吹雪になって電灯が消えてしまった。夜になって音楽室には、ロウソクの明かりの中で、分校主任の諸橋先生と、ある音楽短期大学を卒業して春に新任として赴任した関根先生の姿があった。関根先生は、ピアノの前で天使のように微笑み、ピアノを弾いている。

 諸橋先生は、煙草とウィスキーで冒されたのか、枯れた声を出して、関根先生の伴奏で歌を歌っている。彼は、諸橋先生の後ろに隠れるように、二人の先生の姿を見つめ立っていた。関根先生は、時折、彼に目を投げかけていた。彼は、関根先生が、流行歌の伴奏をしているので、少しかわいそうだと思った。一曲終わった時、関根先生は私を見つめた。

「西脇先生は、歌わなかったですわ。西脇先生も歌いなさいよ。一緒に歌ってもいいんですよね。そうでしょう、諸橋先生。」

関根先生の問いに答えようともせず、諸橋先生は陰鬱な眼差しを私に投げかけた。その目を見て、私は音楽室から出たいと思った。

「私は、喉がおかしくて、ドラ声しか出ないんです。」

私は、関根先生に言った。関根先生は、私から諸橋先生に目を移した。諸橋先生は、私の答えに満足そうだった。

「ロマンチックだな。こんな山の中で、外は吹雪、ロウソク一本の明かりで、関根先生の姿が浮かび、そして先生の後ろに私がいて、私が歌っている。とてもロマンチックだ。」

諸橋先生は、いかにも感傷的に関根先生に言った。関根先生も苦笑を浮かべていた。私は、諸橋先生の言うことが、馬鹿ばかしく聞こえた。

 

 関根先生は、楽譜を一枚めくるとピアノを弾き始めた。それと共に、表現のない多少音痴の諸橋先生のドラ声が、煩く響きだした。ピアノに写る関根先生の顔は、少し呆れたような顔付きだった。私は二〜三曲、諸橋先生の歌を聞いて感心をした。諸橋先生が、歌詞を間違えずに歌っているからだった。諸橋先生が歌い終わるごとに、関根先生は私に言った。

「何故、西脇先生は歌わないの。」

私は、歌詞が分からないと素直に答えた。

 また二〜三曲が終わった。関根先生は、向きをクルッと変え、諸橋先生と向かい合った。

「諸橋先生は、ピアノが上手なのでしょう。」

微笑みながら、関根先生は言った。

「貴方よりは少し下手ですが、幼い頃よく弾いたものですよ。」

憶目もなく、諸橋先生は答えた。関根先生は尤もとばかり頷き、更に尋ねた。

「作曲もなさるのでしょう。それに詩人でもいらっしゃるから、作詞もね。」

諸橋先生は、満面微笑を浮かべ、得意そうに言った。

「それ程でもないですが、その辺の作曲家や作詞家よりも増しだと思っていますよ。」

関根先生は、尤もだと言わんばかりに頷いて聞いていた。ローソクの明かりの中に浮かぶ関根先生の顔は、雪のように白く見えた。豊かな黒髪、時折私を見つめる瞳は微笑み、温かく思えた。

「私も歌ってみたい。諸橋先生の伴奏で歌ってみたい。いいですか。」

唐突に関根先生は、諸橋先生に言った。

「いいですよ。喜んでお引き受けいたしましょう。」

諸橋先生の返事に、関根先生は注文を付けた。

「でも、流行歌なんて嫌ですわ。歌詞を全然知らないんですもの。」

そう言いながら関根先生は立ち上がった。ピアノの上にある中学校三年生の音楽の教科書を取り出した。

「これに伴奏が付いてますわ。」

関根先生は、教科書をピアノの鍵盤の前に綺麗に広げ、椅子から離れた。

 

 諸橋先生は、大音楽家気取りでピアノの前の椅子に座った。両手を広げながら言った。

「こんな夜は、シューベルトの冬の旅がいいですね。」

関根先生は、軽く答えた。

「はい、何でもいいですわ。」

関根先生は、音楽の教科書をめくりながら、私の方に歩いてきた。もう、私と目と鼻の先だった。快い香水の香が私を満たした。

 関根先生は、教科書に目を落としたままだった。首筋が白く浮かんでいる。黒髪から覗く耳朶は、少し赤みを帯びている。私の間近で、教科書のページをめくっていた。急に関根先生は顔を上げ、私に瞳を投げかけた。熱く輝く瞳に、私は微笑を返した。関根先生は、花が咲くように明るく微笑み、深い呼吸をついた。

「私一人じゃ心もとないの。一緒に歌ってください。」

そう問い掛ける言葉に、私は頷いた。関根先生は私に寄り添い、そして目の前に音楽の教科書を広げた。白い清潔な指が、柔らかく本を挟んでいた。次の瞬間、諸橋先生が振り向き、鋭い眼差しを私に向けた。

「うぬは、本当の教師ではないくせに。」

諸橋先生の眼差しは、私にそう語りかける陰険なものだった。まるでロウソクの明かりの中で、悪魔が顔を覗かせているようだった。

「関根先生、また、今度にしましょう。」

私は、隣に寄り添っている関根先生の顔を見つめて言った。

「どうかしたの。」

怪訝そうな問いかけに

「寒いんです。教務室に行きます。」

私は、そう答えた。関根先生は、藪睨みをしながら疑うように言った。

「ジャンパーあるんでしょう。着てらっしゃいよ。」

私は、首を横に振りながら答えた。

「ストーブに当たりたいんです。」

そう言って、私は一礼をして音楽室から出た。私は、諸橋先生が関根先生を好きだということは知っていた。高慢な諸橋先生は、自分の気持ちを素直に言うことができない人だった。諸橋先生が、関根先生の好意を得るために振舞えば、振舞うほど関根先生の心が離れていくことも知っていた。

 

 関根先生は、私が気付かない間に、私の背後に近寄って、私を見ていることがある。放課後に、図書室で本を読んでいた時もそうだった。私は、来年の大学受験勉強を放課後にすることとしていた。放課後になって、生徒がいなくなると図書室によく出かけたのである。受験勉強とは余り関係のない、小説を主に読んでいた。その時は「ガリバー旅行記」を読んでいた。

 突然、耳元でクスクス笑う声が聞こえた。私が振り返ると、関根先生の滑らかな黒髪が私の頬に触れた。私の目の前に見えたのは、関根先生の白いレース編みに覆われた豊かな胸元と、白い首筋だった。関根先生は、私の肩越しに本を覗いていたのだった。だから私が、まるで関根先生の胸元に顔を埋める格好になってしまったのだった。

「これは、どうも失礼。」

私は、椅子から横飛びに立ち上がった。恥ずかしさの余り、顔が紅潮していくのを感じた。関根先生も、暫く私の顔を見つめ、みるみる顔を赤くなっていくのを見つめた。

 

 私が、遊び半分でピアノを弾いている時もそうだった。放課後、音楽室のピアノが空いていると、「バイエルン」を見ながら鍵盤を叩いた。そんな時である。私の右指の上に、急に白い手が出てきて、指を重ねるように鍵盤を叩くのだった。ピアノのメインボードに関根先生の姿を見ていたから、私は慌てこそしなかった。平気を装って弾き続け、弾き終わった。スーと白い手が引いていった。

「お上手になったわ。」

関根先生は、そう言った。

「冗談でしょう。二週間もして、まだ二頁にもならないのに。」

私は、関根先生がからかっていると思い、そう答えた。

「でも、西脇先生はお上手ですわ。少なくとも私よりは。」

そこまで言われると、私は関根先生に小馬鹿にされていると思った。私なりに一生懸命弾いたつもりであるが、お粗末だったことに変わりがなかった。

「そんな冗談を言うのは、少し酷いんではないのですか。」

「冗談?」

「もうピアノを見るのも嫌になりました。」

私は少し腹を立て、椅子から立ち上がった。

「もっとお弾きにならないの。」

「見込みないんでしょう。先生にピアノを譲ります。」

私は、関根先生と向かい合ってそう言うと、クルッと背を向けて音楽室の出入口へと歩いた。振り向くと、寂しそうな顔をした関根先生の姿を認めた。私が腹を立てたのを気にしているに違いなかった。私は戸を開けながら、笑顔を見せた。

「怒りん坊。」

関根先生は、急に明るく嬉しそうに、そう言って私に言葉を浴びせた。私は軽く頭を下げ、戸を閉めると、わだかまりもなく廊下を走った。

 

 私が知らない間に、関根先生は、私の間近に近寄り、そして去っていくことがよくあったらしい。秋の展覧会に出品する絵を描いている時だった。山の紅葉の風景を描くのに、手間がかかった。色彩感覚のない私には、無理からぬことだった。全体想像するというより、画用紙の端から色を定めて描いていかないと、絵画とは程遠いものとなってしまうのだった。同じ色でも繰り返し筆を洗って、塗り直さなければ色彩豊かな絵とはならなかった。

 私が絵を描いているのは、図工室だった。雑然とした部屋だったが、部屋を独占することができた。時折、私の背後に黒い服をまとった関根先生が訪れた。関根先生は私に見つかると、貼り絵の道具を私の隣に置くのだった。

「一緒にやっていいでしょう。」

私の顔を覗き込んで言うのだった。関根先生は、言い訳をするように言った。

「一人でやるのは詰まらない。邪魔にはならないわ。」

私は、振り向きもせずに答えた。

「ええ、どうぞ。」

関根先生は、嬉しそうに私と並んで座り、貼り絵を始めるのだった。時々、私は絵筆を置いて、関根先生の貼り絵を見つめた。そんな時、決まって関根先生は優しい瞳を私に投げかけた。

 

 日差しが眩しい、秋の午後のことを思い出す。

「西脇先生って、散歩がお好きなんでしょう。」

山の頂近くにある校舎から、底抜けの青空が広がり、遠く越後三山の山々は輝いていた。

「どうしてそんなことを聞くのですか。」

私は、関根先生に尋ねた。

「だってそうでしよう。小学生が、時々道端で先生とお会いしたことを話しますわ。そして、一緒に遊ぶこともあるって。」

私は、頭を掻きながら答えた。

「それは本当です。そんなことがよくあります。私は、山の中が寂しいと思っているのです。」

私が、そう答えると、関根先生は怪訝そうに尋ねた。

「寂しいって、どういうこと。」

私は、余り口に出さないことを話した。

「先生方とばかり付き合っていたのでは、窒息してしまいます。時々、山を降りて家に帰りたくなります。私は、他の先生方のように、生徒たちの家を訪問することが禁じられています。だから、道草を食っている生徒を捕まえては、散歩の案内をさせるのです。生徒がいなかったら、私は気が狂ってしまうんでしょうね。」

関根先生は、少し考えてから言った。

「そうなんですか。西脇先生と私達とは、そんなに気まずいのかしら。」

関根先生の言葉は、心配そうな言葉だった。窓際に向かって、椅子を持ち出し読書をしていた私の隣に関根先生は立ち、窓の外の山々の景色に目を投げていた。

「そうね。先生は、一生先生なんですものね。」

関根先生の言葉を聞きながら、私も遠くの山並みを見ていた。その空の山々は眩しく、私は目を細めた。この学校の先生は、関根先生を除いて、ほとんど利己的な先生だった。型にはまった教育者だけに、代用教員の私に心を開くことはなかった。そんなことから、私が窒息しそうになるのだった。

「でも、関根先生は、そうじゃないように思います。」

私は、関根先生の顔を見て言った。関根先生は、明るい顔を青空に向けて語りかけるように言った。

「そうよ。私だって、一生先生なんかしていないわ。」

ゆっくり顔を私に向けて微笑んだ。

「だって、続ける理由なんかないんですもの。それは、子供たちの中に喜びを見つけるのも楽しいことです。それ以上に、もっと私自身の喜びがあれば、とても楽しいことだと思います。」

私は、関根先生の喜びとは何なのかと思った。漠然としたことではあるが、娘らしい大らかな女性としての喜びを求めているように思った。

「私って、そんなところが、他の先生と違うんでしようね。」

私は、そう言っている関根先生を眩しく見つめた。しばらく静かな無言の時が流れた。急に関根先生は大きく笑った。私に向かって白い歯を見せながらだった。

「私は、そんなことなくってよ。そんな夢みたいなことはなくってよ。その辺にいる、気取り屋の先生に騙されて、楽しくもない一生を送るわ。きっとそうなるわ。嫌でしょう。こんなことを考えている私って。」

関根先生は、首を振りながら、今にも泣き出しそうな顔を私に見せると、振り向きざま教務室から飛び出していった。

 

 諸橋先生が得意そうにピアノを弾いていた夜、私は音楽室を出た。身支度を整えて、校舎を後にして教員住宅に向かった。冷たい吹雪が顔を打ち付け、雪明りを頼りに確かめるように歩いた。

「所詮、私は代用教員でしかない。立ち去る日も間近だ。」

そう思うと、甘い思いは消えていった。

 翌日の午後、教務室に一人でいるときだった。関根先生が入ってきて、いきなり言った。

「西脇先生、有難う。六年生の掃除を手伝ってくれるんだって。」

私は、笑いながら

「中学校や高校時代の癖が抜けないんですよ。」

と答えた。私は、校舎を磨くことが好きだった。そんな癖を学校中に広めたこともあったことを関根先生に話した。

 この山の分校に来て、卓球を上手になろうと思い、第二校舎まで行って小学生と一緒に卓球の練習もしていた。時々、第二校舎に早く着くことから、六年生と一緒に掃除をすることがあった。

「子供たちがとても喜んでいるわ。生徒達、とっても丁寧に掃除をするようになったわ。」

ストーブを前にして、関根先生は向かい合い、そう言った。関根先生は、自分の机に向かって歩きながら

「私も一緒に掃除をすればいいんだわ。」

と言った。私はストーブに手を当てながら、何気なく言った。

「でも、先生方がやるというのは、格好の良いものじゃないと思います。子供たちに嘗められますよ。」

私の言ったことに対して、関根先生は直ぐに言い返した。

「貴方だって、先生じゃありませんか。」

私は、曲がりなりにも教師だったということを思った。雑用も少ない私は、暇の多い人間だった。そして年若いこともあって、生徒たちと直ぐに仲良くなれるのだった。

「私はまだ、子供なんです。だから、小学生の子供達と一緒なんです。」

私がそう言うと、関根先生は机の引き出しにかけた手を休め、振り返って私の瞳を覗いた。

「まあ、嘘おっしゃい。私と一年と四か月しか違わないくせに。」

関根先生の言葉に、私は言い返した。

「へえー。関根先生は私の生まれた日を知っているんですか。」

私は、関根先生を見つめた。

「知らないわ。」

関根先生は、顔を赤らめて俯いた。私は気まずくなって、ストーブに向かって両手を当てらい俯いた。

 関根先生が近付いてくる足音が聞こえた。俯いている私の目に、関根先生の赤いスリッパーが眼に写った。

「掃除をしてくれたご褒美よ。」

関根先生は、ストーブの側の椅子に腰掛けるなり、右手を私の目の前に差し出した。その手には、小さいけれど光沢のある甘柿が二つ載っていた。私は俯いたまま、両手を関根先生の前に出した。

「そんな、もらい方ってないわ。顔を上げて。」

私は、素直に関根先生の言葉を聞き入れ、顔を上げた。

「朝方、生徒から貰ったのよ。女って食いしん坊なの。食べるのを我慢していたのよ。」

関根先生は、私の手に柿を一つ置くと、おちょぼ口を大きく広げ、もう一つの柿に噛り付いた。関根先生には似合わない格好だと思いながら、私も柿を口に運んだ。

 

 年の瀬が近くなった。山々は、白一色だった。私は、年の瀬とともに、代用教員を辞めなければならなかった。代用教員として終わりに近い宿直勤務だった。私は余り家に帰ることがなかった。そのためか、私に休日にわたる宿直勤務が多く割り振られた。

 その日の宿直勤務も宿直室で眠り、翌朝早く目を覚ました。炬燵の火種で教務室のストーブの火を熾していた。玄関の方から、誰かが雪を払い落とす音が聞こえた。そして間もなく教務室の戸が開いた。

「西脇先生、お早ようございます。」

関根先生の明るい声が飛び込んできた。私が振り向くと、丁寧に挨拶をしている。関根先生は、バスケットを持ち、私が立っているストーブに近付いてきた。

「今日は、本当に寒いですね。」

関根先生は、起きてから直ぐに出かけてきたようだった。大きな目を細くして、眠たそうに見えた。近くの机の上にバスケットを置くと、ストーブを挟んで真向かいに立った。

「西脇先生、朝ご飯まだなのでしょう。」

関根先生がそう言ったのを聞き、バスケットの中身のおおよその察しがついた。

「即席ラーメンを食べるつもりです。」

私は、答えながら、ストーブの上の薬缶を見つめた。

「それはいけません。私が温かいご飯を作りますから。」

私は、関根先生の好意を断った。

「どうしてですの。朝は食べなくては。」

私は、関根先生を見つめた。

「私は、これから家に帰ろうと思っているんです。」

困ったような顔をして、関根先生は優しく言った。

「バスには間に合いますわ。直ぐ作りますから。きっと間に合いますわ。」

さりげなく関根先生は言った。

 

私は、昨夕の先生方の宿直室での出来事が頭を離れなかった。その思いは先生方との決定的な隔たりを感じたからだった。

「昨日は、とても賑やかでしたね。あんなこと、よくやるんですか。」

口に出すまいと思っていたが、関根先生だったから尋ねた。

「ええ、時々やっていたわ。話し合いをすることって面白いことよ。」

私は皮肉を込めて言った。

「私も仲間に入っては、まずい話だったんですか。」

関根先生は、顔を小さく横に振って、笑顔を見せた。

「いけない話ではなかったわ。教育論ですもの。」

私はストーブに石炭を入れた。関根先生は、水屋へ行こうとした。

「関根先生、こんなことを言って良いのか分かりませんが、皆さんの教育論は結論が出るものだったのでしょうか。随分宿直室が荒れていましたので、実を言うと私は少なからず驚いたのです。」

関根先生は、一瞬立ち止まった。そして肩の力を落として、力なく水屋の方へと向かった。

 昨夕、先生方が帰った後、私が宿直室の掃除をしたのだった。煙草の煙が残り、雑誌や新聞が散らかり、一升瓶が転がっていた。宿直用の布団や枕を引っ張り出し、炬燵を中心に寝転んだ跡があった。とても、教育論と言う高尚な話の場だったと思えないようだった。

 

 私は窓辺に立ち、秋の色が遠くに消えてしまった越後三山を見つめた。何か悲しい思いだった。先生方は清らかな人々と思っていた。そんな感情が大きく破壊されてしまった。

「昨日は、荒らし放題で帰ってしまい、申し訳ないと思っていますわ。私も酒が入ってしまい、西脇先生にはご迷惑をかけてしまって。」

その声で振り返ると、関根先生がぽつんと立っていた。盆の上にコーヒー茶碗が載っていた。私は、関根先生が謝る必要がないと言って首を横に振り、盆の上のコーヒー茶碗を受け取った。

「新年を迎えないうちに、関根先生ともお別れですね。将来、先生になれるかどうかも分からない私です。今日は、荷物の一部を持って帰ります。」

関根先生は、じっと私の顔を見つめていた。そして唇をかみ締めて俯いてしまった。若い私の人生は、これからである。関根先生は、これからもずっと先生を続けていくだろうと思った。