リンク:TOPpage 新潟梧桐文庫集 新潟の風景 手記・雑記集






「沢の上の御堂」

 

                 佐 藤 悟 郎

 

 

 真夏の暑い日、私は近くの山に行き、ある沢に迷い込んだ。沢は、急な岩肌深く流れていた。岩に腰を下ろし、足を沢の透き通った水に入れると、快い冷たさが体中に伝わってくる。見上げると、岩肌は五メートルくらいの高さがあり、さらに上方は欅や楓の木々があった。それらの木々の葉は、重なり合って夏の明るい空に揺れていた。

 

 暫くして、私は、岩伝いに沢を登ることにした。浅瀬では、冷たい沢の水に足を入れて歩き、沢の深みでは岩にしがみついて落ちないようにして進んだ。時々、小鳥が沢の中空に舞い降り、上空に飛び去って行く。涼風が通る谷間の沢を、小一時間ほど歩くと、二メートルほどの高さの滝に行き着いた。滝は、勢いよく流れ落ち、白い泡を水面に吹き上げていた。滝の両脇の岩肌を見つめ、足場を捜した。誰かが登ったのだろう、右手の岩肌に、丁度良い足場があった。私は、注意深く、ゆっくりと岩肌を登り、滝の上に出た。

 

 滝の上の沢は、木々に囲まれていたが、少し広い野原の中を流れていた。野原は、草地となっており、誰が刈ったのか草の丈も短く、庭のような景観だった。私は、草原の上に寝転び、空を見上げ、目を閉じると爽やかな風を感じた。そして眠りに陥った。

 

 私が気付いたのは、雷の音を聞いてだった。空には、暗い雲が足早に流れ、冷たい風が私の身を包み通り過ぎていった。夕立が来ると思うと、私は慌ててしまった。自分が一体、何処にいるのか皆目分からなかったからだ。沢を下って帰るにしても、夕立が来れば沢は濁流で溢れ、危険である。他の道を捜そうと思った。

 

 空は、暗くなり雷音と共に、大粒の雨が降り始めた。周囲を見渡し、林の上に僅かに見える小さな屋根を見つけた。私は、屋根の見える方向へ、一目散に走った。道のない林を抜けると、小屋のような建物に辿り着き、軒下に入ってハンカチを取り出し、顔や腕を拭きながら空を見つめた。空は、一層暗くなり、時折雷光が走った。大粒の雨は、横に勢いよく流れ、一瞬の雷の光で、草や木々が青白い姿を見せた。雨と風の向きは、次第に変わり、その度に小屋の軒下を巡るように歩いた。小屋の軒下を巡り歩き、軒が飛び出しているところまで行った。そこには、五段の階段があり、階段に向かって見ると、上が格子となっている戸があるのが分かった。私は、小屋だと思っていた建物が、御堂であることを知った。その階段の一番上に上って、腰を下ろした。

 

 雷光の中、斜めに激しく流れる雨を見つめ、背筋が寒くなるような、得体の知れない感情をひたひたと感じていた。一体、何だろうと思い、目を凝らし、耳を澄ませ、周囲に注意深く気を配った。目を閉じてみると、嵐の雄叫びの中に、細々とした女の泣き声が伝わってきた。私の体に、恐怖に似た緊張が走った。振り返ってみると、御堂の二枚の戸の格子が、激しく目に飛び込んできた。雷光の明かりの中、何か蠢くものを見た。女の泣き声は、まさに御堂の中から流れて来るのが分かった。

 

 私は立ち上がり、戸の格子から御堂の中を覗いた。そこは、暗くて物影はよく見えなかったが、生き物の気配を感じた。一瞬の雷光の明かりに、奥に向かって両腕を立て、項垂れている女の姿が、青白く見えた。小袖の着物姿だった。度々の雷鳴の中で、その女は、身を震わせ、細い声を出して泣いているのが分かった。私は中に入って、話を聞き、慰めようと思った。しかし、その女は恐ろしい妖怪であり、私を襲う魔物であるかと思うと、躊躇せずにいられなかった。

 

 私が思いあぐねている間に、雷鳴は次第に遠くなり、空にも明るさが戻ってきた。私は、振り返って御堂の前を見つめた。雨は止み、間もなく雲が切れ、陽光が差し込んだ。澄んだ空気の中に、草や木々の深い緑が、鮮やかに目に映った。私は、階段を下り、数歩のところで振り返り、御堂に向かって立った。沢の激しく流れる音が、耳に入った。

 

 暫く経って、静かに御堂の戸が開いた。私は、身構えてじっと御堂を見つめた。御堂から現れたのは、静かで落ち着いた、若くて美しい娘だった。古くから私を知っているかのように、親しげな視線を私に投げかけ、微笑みすら浮かべていた。遠くの空を見つめ

「綺麗な虹が見えますわ。」

と、澄んだ声で私に言った。左手で小袖を払いながら、右手を伸ばし、東の空に向けて指差した。私も振り返って、東の空を見つめた。多くの低い山々を覆うように、鮮やかな七色に輝く大きな虹が浮かんでいた。

 

 着飾った娘は、御堂の階からゆっくりと降りてきた。大きな瞳を輝かせ微笑み、芳しい香りを私に吹きつけ、私を見つめた。私は、懐かしい心に捕らわれ、何処かで逢ったことがあるように思った。

「何処かでお会いしたことがありますね。何処でしたか。」

娘は、微笑みながら首を右に傾け、横に振った。柔らかく口を開き言った。

「貴方が尋ねてきました。そして私は、貴方をお迎えに来たのです。」

私は、娘が御堂の中で泣いている姿を見た。そして今、美しく艶やかな姿を見ている。それは不思議な世界だった。娘は、ゆっくりと近付いてくる。

「あちらの方へ行ってみませんか。美しい景色が見えます。」

なおも娘は、私に向かって近寄り、遂に眼と鼻先まで歩いてきた。そして、娘はスーと私の体を通り過ぎていった。私の心に、人を思う温みが残った。

 

 私が振り返ると、娘は私を見つめ、微笑んで頷きを見せた。

「さあ、一緒に参りましょう。」

私は、娘の後ろに付いていった。林の中に細い道があり、林の先は明るくなっていた。林を通り抜けると、目の前が広く開け、遠くの山並みが霞んで見えた。下は緑の山間の郷と青く光る川の流れが見えた。

 娘と私が立ち止まっているところは、空恐ろしい程の崖の端だった。林からの道はそこで途絶えていた。

「さあ、先に進みましょう。」

娘は、恰も道があるように、崖の先の空中を少し歩いた。そこで私に向かって振り返ると言った。

「さあ、一緒に参りましょう。」

その言葉は、柔らかい言葉だった。娘が、現世の者でないことは確かだと思った。一歩前へ踏み出せば、私は確実に崖から落ちることになる。そうすれば、命は失われるだろう。

「私は、宙を歩く術を知らないのです。一緒に行くことはできません。」

私は、そう娘に答えた。娘は、暫く黙って美しい瞳を私に投げかけていた。

 

 娘は、誘惑的な微笑みを浮かべ、手招きをしながら言った。

「さあ、前に進んでください。一緒に参りましよう。」

私は、その言葉を聞き、そして下を見た。空恐ろしい崖で、岩肌が小さく、更にその下は緑の森が広がっていた。私は、顔を上げて娘に尋ねた。

「どうして、私が貴方の傍まで行くことができるのですか。前に進めば、崖から落ちてしまいます。」

娘は、私の問い掛けに小首を横に振った。

「大丈夫です。崖から落ちていくのは、貴方の抜け殻だけです。貴方は、私と一緒に歩くことができます。それは、私が見ているからです。」

そう言うと娘は、私に近付いて手を差し出した。娘は、私を促すように

「落ちる瞬間に、貴方は私の手を握ることができます。」

と微笑みながら言った。

 

 私は、微笑んでいる美しい娘を、暫く見つめた。娘の言っていることは本当かも知れないが、私は現世の者でなくなることは確かである。娘が住んでいるところが、どのような世界なのかも知らない。娘が天女なのか、それとも魔物なのかも分からない。娘の美しい姿だけを信じ、身を投ずることができないと思った。

「私は、貴女と一緒には行きません。」

私が、娘に向かって言うと、娘の顔から微笑みが消えた。不思議なことに、目の前に暗闇が訪れ、武者を従えた牛車が現れた。娘は私を見つめ、目に涙を湛え、牛車に乗り込んだ。簾を上げて、娘は私を見つめている。牛車の列は、向きを変え、小さくなって暗闇の中へと消えていった。

 

 私は、天空を仰ぎ、大きな悲しみと寂しさを感じた。娘の言うことに従っておれば、本当の幸福を得ることができたのではないかと思った。娘が住んでいる世界が、厳然として存在すると分かった今、大きな過ちをしたと後悔に似た感情が、私を支配した。私は、向きを変え、娘と歩いてきた道を引き返した。時折、私は振り返って後ろを見た。道は消え失せ、林と変わっていた。

 私は、御堂があった辺りまで戻った。御堂はなくなっており、古い祠が見えた。その祠は白色に輝き、周辺は雛罌粟の華やかな花が咲き、そよ風に揺れていた。私は、茫然として雛罌粟の広がりを見つめた。振り返ると、娘と歩いた道は見えず、林の迫りも止まっていた。華やかな花の中に立つ、祠を見つめた。華やいだ微笑みを浮かべる娘の姿、そして悲しみに沈んだ娘の姿を思い浮かべた。

 

 誰も信じない、夏の経験が終わった。沢伝いで山を下る訳にもいかず、小さな道を歩き始めた。すると、間もなく人が通う道に出た。山を下る方の道を選び歩き始めると、幸い二人連れの荷を背負った人が歩いて来る姿を見つけた。道を尋ねるため、立ち止まって二人が近付いてくるのを待っていた。先に歩いているのは、四十も越えたと思われる屈強な男だった。少し遅れて、菅笠をかぶった野良着姿の女が見えた。

 男は、立ち止まっている私の前まで来ると、立ち止まって訝しそうな目をして私を見つめた。私は、男に尋ねた。

「村に戻るには、どちらに行けばいいのですか。」

男は、黙って私の頭から足まで見つめた。そして男は、呆れたように言った。

「そんな格好で、よくこの山奥まで来ましたね。丁度、村に帰るところだ。私に付いてきなさい。あんたは、全く山を知らない人だ。」

男は、愚痴のような言葉を私に浴びせた。私は、後ろから歩いてきた野良着姿の女を見て驚いた。立ち止まって私を見つめている女は、紛れもなく御堂であった娘だった。娘は、明るい微笑みを私に見せ、軽く会釈をした。私は、男に向かって尋ねた。

「後ろから来た娘さん、貴方の娘さんですか。」

男は、歩いてきた方を見た。そして私の顔を見た。

「あんた、何を言っているんだ。娘の姿なんか、見えないぞ。」

私は、男の言葉に、返す言葉がなかった。男の目に、娘の姿は見えないのだと思った。私は、男の後ろについて歩いた。時々、後ろを振り返り、微笑んでいる娘の姿を確かめた。何処かへ消えてしまうのかと、心配しながら歩いた。