リンク:TOPpage 新潟梧桐文庫集 新潟の風景 手記・雑記集
「角突き場」
佐 藤 悟 郎
角突き場から山の背に抜ける上り坂は、浅い緑を見せる欅林である。初夏の晴れた日に、京子はその坂道を登っていた。欅の若葉の香が流れ、どこからか木蓮の匂いがする。潅木の小さな花の彩りと香、欅の柔らかな葉の間に差し込む柔らかな光が、淡く一面に広がっていた。
その欅の林を抜け出ると、若葉が深い谷の急な傾斜の底まで落ちていた。谷底にキラキラ光るのは、川の流れだと思った。何の混じりもない、地下から湧いたばかりの雪融けの、冷たい清らかな川だと思った。こんもりと木々に囲まれた川だとも思った。
山の背の上り道を登っていくと、左右の空を遮っていた山の背から、広い世界が次第に開けてきた。京子にとって、期待するものは何一つ目に入らなかった。大きな町の姿は、周りの山々に遮られて見えなかった。見えるのは、点々とした山の斜面にへばり付いている、部落の家の屋根のみだった。
この山の中に来て、一週間も経っただろうか。女性教師不足から、代用教員を頼まれたのだった。部落の区長の家で下宿住まいをしていた。都会や平野から隔絶された山の中、雪が降らないうちに山から下りるという約束だった。この一週間は、耐え切れない寂しさを味わった。そんなことは、部落の人に言えないことだったし、先生方にも言えなかった。冬近くまで、不安の中で過ごせるものではないと、京子は思った。
晴れた日に、二十分もかけて山の背に歩いてきたが、町の姿さえ見ることができなかった。京子は、大学の試験を受けて教員になろうと思っていた。代用教員の話をもってきた先生が、
「山での生活は、少々辛いぞ。」
と言ったのを聞き流していた。将来自分の職とする仕事に、山とか平野とかは関係ない、ましてや生活がどうのこうのという悩ましさは、露程も抱いていなかった。何とも言えない寂しさを感じ、自分の心構えが甘かったと後悔をしていた。
山の背の道は、次第に山腹へと下り、大きな欅に囲まれた社へと続いていた。学校のある部落から相当離れているところだった。丈の低い浅い緑の葉をつけた木々の間から、小奇麗に地均しをしたところに小さな社があった。京子は、その社を見つめながら、ゆっくりと近付いていった。その社の林を通して、越後の高い山脈が、青空の中に浮かんでいた。京子が社の周りを歩いていると、日の当たる社の縁で本を読んでいる男がいるのに気が付いた。歩くのを止め、暫くその男を見つめた。
縁に寝転がって、小さな本を片手に持ち、読んでいる。野良仕事で汚れた服は、褐色になっていて、本を持つ手は骨ばっていた。別に京子に気を止める様子もなく、木株を枕に寝転んでいた。京子はその側を通り抜けた。男は、京子に少し目を投げ
「こんにちは。」
と声をかけた。京子は急に胸がドキドキしてしまい、少し俯いた。「こんにちわ。」
生徒達にするように、ゆっくりと頷くように、首を傾けながら返事を返した。男は部落の青年のようだった。縁には鍬が立て掛けてあり、その柄の先には麦藁帽子が置いてあった。
京子は山に来て日は浅く、自分が先生であることを改めて思い出した。ただ、見知らぬ人に声をかけられると、自分の立場が似つかわしくないように思い戸惑うのだった。京子は通り抜けはしたが、すぐに踵を返し男に言った。
「すみません。この辺に水を飲むところはございませんでしょうか。」
見向きもしないその男は、片手を伸ばした。
「そっちの方に、藪に入る道があるだろう。その道を真っ直ぐに行くと、清水が湧いている。松の木が一本あるから、すぐ分かるよ。」
そう言って男は手を引っ込め、相変わらずの姿で本を読み続けていた。京子は、男が指し示した道に入ろうとした。少し急な坂道だったが、丈の低い木々の中に一本の松の木が頭を出していた。
小道に入ろうとした京子は、男に声をかけられた。振り向くと、男は縁の手摺に両腕を置いて、胡座をかいて京子の姿を見ていた。
「どこのお嬢さんだか知らんけど、スカートはいけないよ。山でのスカートはいけないよ。」
京子は、そう言われて、自分がズボンなど一本も持ってきてないのを思い出した。家を出発するとき、母でさえそれに気付かなかったのである。
「仕方ないのよ。ズボン忘れたの。」
京子は、スカートの裾を広げておどけて見せた。そして、男に向かって明るく手を振ると、清水に向かって小走りに小道を下りていった。
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