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「文芸」

 

      佐 藤 悟 郎

 

 

「無題」

 

 今日の小説、大衆小説も推理小説も、又映画、テレビ、全ての作品が恋愛関係の作品が多い。私は、それを好む。しかし、今、日本文学が恋愛文学一色にされることは、好ましくない。浪漫文学にも連なるかも知れないけれど、その中に美文あり、理知あり、その他色々な要素が必要だ。ただ、筋だけの恋愛小説というのは、弱い人間にとって、文学的意義を為さない。

 

「文学と脚本」

 

 文学小説を脚本に変える時、文学を変えてもいいのだろうか。文学的観点と脚本的感動とは、如何に違う物だろうかと思う。

 私は、文学を少し曲げても、脚本としての価値とは違う物だろうか。感動を与える文学でも、人々は色々なケースを考えるだろう。だから脚本家は、その場面、場面のことを考えるだろう。文学小説を脚本家の感動によって、その筋を脚本家自身の感動として発表することができないのだろうか。

 文学小説が汚されると思うならば、脚本家の感動は、結局胸に閉じておくことになる。あるいは、その作品の題を変え、違う作品として発表することになるだろう。このようなことは、多かれ少なかれ盗作と言われることになる。

 脚本家の文学小説への感動は、その文学小説を直に対象作品として脚本を書き上げ、そこで初めて何らかの機会が訪れるだろう。

 脚本家が、文学小説を読んで、作品から受ける感動により、読者が受ける感動と同じであるのに、脚本として発表できないのは、可哀想である。脚本家は、それでも耐えなければならない立場なのだろうか。

 

「創作の意義」

 

 体験記と言われる物、自伝的小説と言われる物、それぞれ深い感銘を与える物である。作家は、創造性を持つ人間、そうでなければならないと思われるが、そうでもない。空想小説、推理小説などは、作家の知識力で書き上げる物である。しかし、作品の全体、あるいは細部の中に一貫した真の感情は見られない。作品の性格から来る欠点であり、人の感情を得ることができない。自分自身でも、感動を得ることができない。

 人間の感銘を得る作品、特に日本文学は、半自伝的な作品が多く、感動的である。感動を持たない作品の作家は、何処に救いを求めるのだろうか。自分の過去を持たない作家、そう言う作家の取るべき手段は、創作だけである。単なる創作だけでは、人間の心に感銘を与えることができない。

 このような貧弱な作家は、読者に錯覚させるため、文書の技巧、筋書きの暴走となっていく。更に、真の言葉、感動、自然発生的な物語を非難さえするようになる。自伝小説の感動、技巧もなければ模倣もない、自然的な流れとして創作しなければならない。

 

「主観による個人の描写」

 

 向かい合う人を探ることは、興味のあることである。その人の人生を参考とし、創作することによって感動を得る。また、忘れた自分自身の感動を思い起こす。向かい合う人の性格を読み取り、素性を知ることが大切である。

 

 私が生まれる以前の母や父、兄貴達の姿を知らない。親族の姿は、知る必要がないのだろうか。私は、自分の一生しか知ることができない。それだけでは、無経験過ぎる。他人の人生を調べることによって、人生の多くの有様を得ることができる。

 

 他人の人生は、本人が一番よく知っている。全てを知ることができないが、他人の人生をできるだけ正確に捉え、私の主観を加えながら描写することが大切である。

 

「創作者の立場」

 

 私の文学作品が、他の作家に理解されないならば、大変恥ずかしいことである。譬え、大衆に読まれたとしても、悲しむべきことである。

 

 作家である以上、他の作家の作品を読み、理解し、分析していき、私自身の心に留めなければならない。

 

 他の作家の作品に触れることによって、私独自の考える余地がなくなっていく、そんな恐怖を払拭しなければならない。同じ考えがあるということを喜ぶべきである。

 

「作家の神聖度」

 

 作家とは、心の探究をしているとき、神聖な姿である。作家は、神と同じ程度の知識と崇高さがなければならない。果たして、作家とはそのような立場なのだろうか。

 

 理想的な作家は、自分のための文学を築くだけである。作家とそうでない人との区別は、特にないと思っている。作家でない人でも、自分の経験、遊び戯れたこと、心に深く残った出来事などを書いている。そして自分の人生が存在したことを確認している。世の中の人々は、全て作家だと言える。

 

 私は、作家として世に出たいというのではない。文壇に名が残り、歴史に名が残っても、作品はそれだけの価値しかない。人々に感動を与えることもあるだろう。作品を求める人も多くいるだろう。

 

 作家を神聖視する必要はない。また、作家は、神聖視されることを望んではならない。作家には、とかく奢った心を持つ者がいる。それが高ずれば、文学が知識人だけの世界であると錯覚してしまう。民衆を愚弄し、民衆から遊離したものとなる。小説や詩歌、その他の作品など、知識人たる作家の専権のように振る舞っている現状は、決して好ましいものではない。

 

 作品によって、自分の過去を見つけ出す。心や行動の過去、自分が生あるものとして今日まで生きてきた者であることを、懐かしく思うことである。

 

「長編小説」

 

 長編小説も良いものである。私は、短編小説が全てであると思っていたが、そうとも言えないと思った。長編小説から受ける感動は、時々にさほど強く感じないが、後々まで美しく心に残る。

 

 短編小説は、長編小説に及ばないところがある。しかし、短編小説を否定するのではない。長編小説の基礎は、やはり短編小説にあると思っている。心情の推移が、中核となっていることに変わりがない。

 

「私の著作態度」

 

 今迄、多くの作品を書いてきたが、どれを取っても良い物がない。私の弁解がある。

「もっと勉学を重ね、もっと研究し、今迄の作品を書き変えて、立派にする。」

この弁解だけで、良い結果が生まれないことは確かである。力を集中し、作品を完結させる態度が必要である。書くことが大切であり、作品が良いか、悪いかは別問題である。作品が完結しなければ、進歩を望むことはできないだろう。書いた作品を読み返し、痛烈な批判を浴びせるようにならなければならない。

 

「文学の世界性」

 

 文学に対する感受性は、各国民によって違う。何故なら、イギリスと日本では、人々の生活態度が違っているからだ。日本の自然詩は、自然の偉大さを謳歌するものが多い。日本の文学者は、自然を賞賛する人が多い。