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「雪の中」(その三) 佐 藤 悟 郎
(その一)
(その二)
(その三)
私と秀紀君は、先生に用があり、ずっと教務室にいたのです。用が終わった時には、もう暗くなっていたのです。恐る恐る教室に向かっていきました。教室の方から、水の音が聞こえました。
「誰、誰かいるの。」 教室に入って言ったのですが、何も返事はありませんでした。ただ、雑巾を絞っている音がするだけです。
「定男君ね。掃除しているの。」
定男君は、他の班が掃除をサボると、いつも一人、誰にも分からないように掃除をしていたのです。返事は何もせず、暗い教室に目が慣れてくると、定男君が教壇を拭いている姿が、微かに目に入りました。暫くの間、静かになった。
「返事くらいしたらどうなんだ。」 と秀紀君が責めるように言ったのです。定男君は、ただ黙って掃除用具をしまっていた。
「君は、喧嘩が強いんだってね。」 「なぜ、黙っているの。」 と言うと、ようやく定男君の声が聞こえた。 「喧嘩は、嫌いだよ。」
「でも、君は、子分と喧嘩をやったことがあるのだろう。」 「しなければならない人もいたな。でも、もうそんな人はいない。」
「ふん、一人前のことが言えるね。それじゃ、今日は、僕が喧嘩を売ってやる。」
二人は、喧嘩腰になったのです。私は、秀紀君が喧嘩をするのを、一回くらい見てみたいと思いました。私と秀紀君、定男君の三人は、体育館まで行きました。体育館は、明るかったのです。初めの内は、二人で口喧嘩をしていました。私も、秀紀君の肩を持って言い合いをした。
「サッチャン、サッチャンまで、そんなことを言っちゃ駄目だよ。秀紀君を止めてくれよ。」 「何を言うか。定男。」
それから喧嘩が始まったのです。初めの内は、定男君は、手を出さずに殴られていました。そして私に、秀紀君を止めるように言っていたのです。私は、何か知らないが、止める気になれなかったのです。
私が止めないのを知ると、定男君は本気を出して喧嘩を始めたのです。すぐ、秀紀君は泣いてしまいました。定男君は、
「君のような奴は、喧嘩なんかしても、無駄な男なんだ。」
定男君は、そう言いながら、秀紀君が泣いた後からも、顔や頭、腹を殴っていました。とうとう秀紀君は、大声を上げて泣きながら逃げて行ってしまったのです。
静かな廊下を、私は、黙って定男君の後について行きました。定男君は、怒ったように立ち止まったのです。そして、私に先に行けと命ずるように言いました。外は、雪が白く光っていました。玄関の明かりが、明々と灯っていたのです。私は、玄関のすぐ前で、足下をじっと見つめたまま、定男君が来るのを待っていました。ようやく、定男君も来ました。
「君は、女の子か。どうして止めてくれなかったのだ。」 私は、黙っていたのです。
「そうか、私が秀紀君に殴られるのが見たかったのか。頭の良い者は、頭の良い者同士だな。お前達のようなのを殴ると、一番後味が悪いや。」
「貴方だって、利口なのに。」
私は、つい口を滑らせました。定男君は、私が喋るのを待っていたのです。その時、私を殴ろうとしていることも分かっていました。
「だから、扱いにくいのよ。」
定男君はそう言うと、私は、定男君に一発、頬を殴られてしまったのです。そして、定男君は、私の胸を精一杯押し、私は脇の雪の中に棒倒しのように転んでしまったのです。
「よく考えろ。」
そう言うと、定男君は行ってしまいました。私は、右頬を雪に当てながら、定男君の走っていく姿を見送っりました。そして自然と涙が出て来ましたが、気持ちが晴々としたのです。これからは、定男君と心から話し合える友達になった気がしたのです。そうしなければならない勇気も湧いてきたのです。手で涙を抑えながら、降ってくる雪を見つめようとしましたが、中々見ることができなかったのです。
「好きなの。そうなのよ、小雪さん。」
私は、雪に話しかけました。小学校六年の時、初めて恥ずかしさを知ったのです。両手で顔を覆いながら、甘い涙を流していたのです。
幸子は幼いころの、この出来事を鮮明に思い出した。それは忘れがたい人生の大切なときめきでもあった。しばらく公園で遊ぶ子供たちを見つめていたが、幸子は障子戸を静かに閉めた。そして机に向かって椅子に腰かけ、コーヒーを口にした。右手を頬杖にして目を閉じ、その思い出の後の、変わりゆく人の有り様を思い続けていた。
(その一)
(その二)
(その三)
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