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「春の香」 (その一)
佐 藤 悟 郎
( その一 その二 その三 その四 )
未だ山々は、白い雪で斑となっていたが、この荒川の岸辺には春が訪れていた。昔から荒川の水は、青く澄み、川底の石がはっきりと見え、それでいて決して浅くない流れの早い川だった。樹木や草の若い芽が浅く萌えだし、薄らとした緑を見せていたが、道の法面は黒々とした地肌を見せていた。高鳴る荒川の音を聞きながら、私は坂町へ向かっていた。
坂町に着いたのは午後になった。もっとも母の実家のある集落からは二里程であるが、ゆっくり歩いたために時間がかかったのである。母の実家を訪れたが、従兄弟達は出稼ぎに出ており、叔母が家にいるだけだった。面白くもなく、散歩がてらに坂町まで本を買いに来たのだった。
書店は、この町の人通りも少ない商店街にあった。大きな看板のある書店には、五十にもなると思われる女主人がいた。私は、本棚の前に立ち、本を手当り次第、漁り読みをしながら暫く時を過ごした。女主人は、近所の若い娘が来ると話し込んでしまい、私のことを邪魔者扱いせず幸いだった。二人の話を聞いていると、娘は隣の家の子で、高校生らしいことが分かった。
暫くして私は腹を空くのを覚え、「明治名作集」という赤い表紙の本を取り出し、女主人に手渡した。 「この辺に食堂はありませんか。」
本を包装もせず、代金を受け取る女主人に私は尋ねた。女主人は、隣の娘に食堂を教えるように言った。娘は私の前を歩いて店を出ると、私の横で右手を上げて指差した。
「ほうれ、ここを真っ直ぐに行くと突き当たりでしょう。右に曲がれば駅になります。駅前に食堂がありますよ。」
娘の声は少し甲高く、それでいて親切な柔らかい仕草だった。
私はテーブルの汚れた暗い食堂を出た。母の実家のある集落へ向かって、のんびり歩いた。そよそよと風が吹き始め、その風に春を感ずることができた。坂町から離れ、木々に包まれた集落を、遠くあるいは近くに見つめながら歩いていた。道は大きく右に曲がり、林の陰から荒川の堤が見え始めた。二〜三十メートルも先だろうか、私よりもゆっくりとした足取りの若い娘と老婆の二人連れが見えた。私も歩調を落とし、その二人連れに負けまいとゆっくりと歩いた。それでも私の方が早かったのだ。堤の芝焼きの跡を見やり、川からの風は少し強くなったと思った。あたりの田圃は入り組んでいて耕地整理もされず、昔ながらの風景を見ながら、私は老婆と娘の二人連れに近付いた。
娘は、老婆の肩に手を掛け、何やら話しかけている様子だった。娘は目を閉じており、瞼は細い線をなし、眦を少し上げていた。娘の頬はうっすらと赤味を帯び、両手を老婆の肩に置き、顔を手の甲に乗せて背を丸くして寄り添っていた。近付くに従って、娘の軽やかな、それでいて深い呼吸に気付いた。それは何かを味わっている様子とも思われた。
娘は口を丸め、いたわるように老婆に声をかけた。 「お婆ちゃん、私が荷物を持つわ。」
もう荒川の橋のたもと近くになっていた。私は娘と老婆連れを追い抜いた。歩いている以上、仕方のないことだった。荷はまだ老婆が持っていた。
「あの…、あんちゃん」 私の背後から、老婆の声が追いかけるように聞こえた。私は立ちすくんで横に首を回し、老婆を見つめた。
「ここから、葛籠山は近いかね。」
そう老婆が私に尋ねた。私は、老婆と娘を代りがわり見つめた。娘は目を閉じている。何か、香りを感じているかのようだった。私にも葛籠山に親戚があって、集落が何処にあるのかは知っていた。
「葛籠山ですね。この橋を渡って、土手伝いに川上に歩いていけば、直に集落に行く道があります。」
指差して説明する私の言葉に、老婆はいちいち頷いて聞いていた。それまで黙っていた娘が口を開いた。 「荒川ですね。」 「えぇ…、そうです。」
娘の澄んだ声は、私の心を安堵させた。娘が目を開けないことが気にもなった。 …盲目なのだ、きっとそうだ… と、私はいとも簡単に思い込んだ。
「お婆ちゃん、荷物を持ってあげるよ。」 私は、大きな荷物を持つ老婆に声をかけた。
「いいんですよ。持ち物がないと、歯が抜けたようなんですよ。本当にいいんですよ。」
無理に持ってやるのも変だと思って、二人に歩調を合わせて歩いた。本当にゆっくりとした歩きだったが、娘が思い付いたように話しかけてくれたので、心苦しくはなかった。
娘は、時折老婆に話しかけ、老婆の肩に手を置いて身を寄せ、目を閉じてゆっくりと歩いていた。私は、そのあどけない様子の中で、一体娘が何を思っているのか知りたかった。娘の様子は春の微風に親しんでいる姿のように思えた。
「どちらの方に山が見えるの。」 居づらくなったころ、ぽつんと娘は私に話しかけてきた。 「右の方に見えます。前の方にも低い山が見えます。」
口下手な私は、少しぶっきらぼうに答えた。 「それだけ…。」 娘のその言葉を聞いて驚いた。 「ええ、山はそれだけです。ほかに何か。」
「何でもないの。」 娘は消え入るような声で答えると、また素知らぬ顔で老婆と話し始めた。
「お婆ちゃん、葛籠山に寄ったら、何処にも寄らんで帰ろう。」 二人は葛籠山と、他に何処かへ行くつもりらしかった。
「お婆ちゃんの姉さんのところに行くんだ。いいだろう。」 「遠いの。」 二人の会話は二人だけのもので、私が中に入る余地もないものだった。
「川岸に、まだ雪があるでしょう。」 急に娘は、私に向かって話しかけてくる。 「ええ…、山に少し。」
戸惑いながら私が答えると、娘はゆっくりと息をついて、春の微風に親しんでいる様子だった。老婆の頬に黒髪を擦り寄せ、静かに目を閉じている。手の甲に頬を載せ静かに歩いていた。
「川面に小波が立っているでしょう。」 私は、はっとして川面を見つめた。いつの間にか川面や山々に、薄っすらと霞が生じていた。
「川面が良く見えないのですが。」 「きっと立っている。聞こえますもの。」
そう言って、娘は老婆をそっと引き止めると、暫く静かに耳を澄まして聞いているように思えた。軽い溜め息をついて、小声で消えるように言った。
「何の香りかしら」 私に尋ねた言葉なのか、何がどのような香りがしたのか分かりかねたので、口に出さなかった。 …春の香りですよ…
そう言ってやりたかった。娘は伏せた顔に、一回肩をすぼめ微笑を浮かべた。 「お婆ちゃん、歩きましよう。」
そう言ったきり、娘は私に何も話しかけてくれなかった。老婆としきりに話をしていた。 「お婆ちゃんのお姉さん、生きているの。」
「いや、そうだねえ、お前が三つのときに死んだんよ。それきり墓参りも行ってないんだ。だから行ってもいいだろう。」
老婆は少し肩を揺すって、同意を求めている様子だった。 「かわいそうなお姉さん。」
長年どうして墓参りにも行かなかったのかも聞かず、娘は話題を変えてしまった。
軽く閉じた瞼で、老婆の肩越しから覗き込むようにして話す娘の姿は美しく見えた。疎外感が漂い、心苦しさに耐えられないものがあった。
「お婆ちゃん、その荷物貸しな。荷物を持って、橋の向こうのたもとで待っているよ。」 「そうなさいよ。」
娘もそう言ってくれた。老婆は荷物を私に渡しながら言った。 「きっと待ってなさいよ。」
私は一気に小走りで橋のたもとまで行った。一息ついて、体を欄干に寄せ、自分の甘だるい行動を思い返し苦笑した。それにしても面白い娘だと思った。盲目なのに、あれほど明るく振舞えるものかと思った。十分ほどして漸く娘と老婆は、橋のたもとまでやってきた。それから私が荷物を持って歩くことになった。
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