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「春の香」 (その四)

 

             佐 藤 悟 郎

 

( その一  その二  その三  その四 )

  

 娘は、玄関先の水道で、手足や顔を洗っていた。私は、娘の後ろに立って、娘の仕草を見つめていた。娘は、洗い終わると、私に右手で洗い場を指した。私が足を洗うと、娘はスーとタオルを差し出した。
「着替えたら、直ぐ行くわ。先に、上がっていてね。」
娘は、タオルを受け取ると、足早に家の中に入った。私は、床の間に入りにくく、土間の上がりに腰掛けていた。薄い水色のワンピースに着替えた娘が、私を迎えに来た。私は母の隣り、娘は父の隣に腰を下ろした。娘は、昔話の腰を折るように、
「満夫さんのお母さん。初めまして、光枝です。よろしくお願いします。」
と割り込んで言った。
「光枝か、大きくなった。別嬪になったな。西条の家の女は、昔から別嬪ばかりだ。光枝も、そろそろ、嫁に行く年頃だろう。」
「嫁に行くなんて、まだ早いです。やりたいこともあるし、そうでしょう。」
「それもそうだ。新しい女は、やりたいことをやるがいい。そうだろう、春吉さん。」
私の母は、娘の父に同意を求めるように言った。娘の父は、私の母が少し厳しい顔付きだったのだろう、下を向いた。
「ヨキさんは、そう言うが、乙の三浦の家に嫁にやる約束をしている。訳もないのに、約束を破る訳にはいかない。」
下を向いたまま、娘の父は、力なく答えた。
「私が三浦の家に行って、反故にしてこようか。光枝が、何か困っているようだから。」
娘の父は、驚いたように顔を上げて、右手を顔の前にして横に振った。
「それだけは、止めてくれ。みっともないし、中に入った、石田様にも顔が立たない。」
娘の父は、また、下を向いて、力なく言った。
「三浦の家が、何か言ってくるまで、こっちからは何も言わん。光枝が、その気になるまで待って貰うさ。」
「分かったよ。春吉さん、光枝のことを思っていること、安心したよ。」
側で聞いていた、老婆と娘の母は、微笑みを浮かべて、安心したかのように頷いていた。

 私の母は、娘に目を向けた。娘は、微笑んで母を見つめた。
「お願いがあるの。聞いてくれる。」
「どんなこと、話によっては、聞くよ。」
「私、長岡の女子大学へ行きたいと思っています。受験する時、泊めていただくかも知れません。良いでしょうか。」
「そんなことなの。良いですよ。学校の先生にでもなりたいの。学校の先生になる大学よ。」
「まだ、決めていないわ。大学に受かるかどうかも分からない。」
「受かれば良いね。そしたら、下宿をして大学に通えるよ。」
娘は、私の母の言葉に、大満足の様子だった。帰りのバスまで、少し時間があった。娘は、私を誘って裏の鎮守様に連れて行った。社の階段に腰を下ろした。

 娘の言葉は、明るく軽やかだった。私の母の好意に感謝している。勉強も捗っている、と言った後に、許嫁の話をした。
「私、春、満夫さんと別れて家に戻り、父に言ったの。大学へ行くから、結婚なんて考えていないって。父は怒りはしなかったけれど、難しい顔をしたわ。」
私に顔を向けて、話を続けた。
「私、乙に友達がいるの。許嫁なんて言ったら、笑われたわ。でも、その友達に頼んだの。私の許嫁の行状や、噂など調べて教えてくれること。悪い話があれば、父に言ってケリをつけるわ。父だって、本当は許嫁なんて、馬鹿馬鹿しいと思っているのよ。」
と言った。私は、娘が意外とたくましい人だと思った。そう言い終わると、娘は腰を上げた。
「光枝さんの意思に適わないなら、許嫁なんて、気にしなくても良いんじゃない。」
と、私が言うと、娘は頷きを見せて
「私は、もう怖くないの。でも、父が可哀想になって、何とかしなくちゃと思っているの。」
娘の言葉を聞いて、私は安心をした。娘の家に戻ると、私の母は、玄関を出て庭先で待っていた。私は、娘が出した手帳に、仙台のアパートの住所を書き返した。

 秋の爽やかな日、娘からの手紙を受け取った。女性らしい、丁寧で、綺麗な文字だった。
「私、乙村から通学している友達から、素晴らしい話を聞いたのです。満夫さんに、是非お知らせしたいと思い、手紙を書きました。
 素晴らしい話というのは、私の乙の許嫁に、昵懇にしている女性がいることが分かったのです。私の友達が、決定的瞬間を写真に収め、私に焼き増しをしてくれました。
 相手の女性は、同じ乙の女性で、中学校の同級生とのことでした。私は、父に話をしました。話を聞いた父は、許嫁の家に確認したのです。それが本当の話だと分かると、大変怒りました。許嫁の話はなくなったのです。私は、自由の身となりました。
 尤も、許嫁の家でも、許嫁が同級生だった女性と深い付き合いをしているのを知っていたようでした。許嫁の話がなくなって、却って喜んでいたと、私の友達から聞いています。
 父は、それ以後、晴々としたようで、晩酌をにこやかに飲むようになりました。良いように話が解決したのは、満夫さんのお蔭です。深く感謝をしております。
 私は、小学校か幼稚園の先生になろうと思っております。どこかの女子大学に入るつもりです。進学指導の先生が、勉強すれば大丈夫と言ってくれました。遅ればせながら、真剣に勉強を始めました。
 恥ずかしいのですが、貴方にお会いするのを楽しみにしております。お身体には、呉々もお気をつけください。」
娘が、許嫁の問題から解放された喜びに満ちた手紙だった。

 私は、大学の二年の終わりを迎え、仙台を後にして長岡の家に向かうため、列車に乗った。米沢を過ぎ新潟県境へと列車が走っていた。列車は山間の中を走り、車窓から見上げる山々は白く雪を抱いていた。荒川を右に望み、山ではマタギが獣を求めて駆け回っているのだろうと思った。

 私は、帰る途中に母の実家に寄って一夜を過ごし、それから長岡に帰る予定だった。坂町の駅で列車を降り、改札口を出て駅舎の前に出た。鞄を下に置いて大きく両手を上に伸ばし、深呼吸を一度した。駅前のたたずまいは、少しも変わっていなかった。町中の通りをのんびり歩いて通り過ぎた。荒川の橋近くになると、前を歩いている老婆の二人連れの姿が見えた。私は三年前のことを思い出しながら歩いた。荒川の透き通った川の流れと堤防の斑に残った雪を見た。遠くの白く雪をいただいた山の麓に霞がかかっていた。

 私は橋の中途で立ち止まり、橋の欄干に手をかけて目を閉じた。
「やはり、春の香りがするな。」
私は、そう感じた。そして光枝と祖母の姿を思い出した。光枝からは、乙の許嫁の話がなくなった手紙を貰ってから、音信は途絶えていた。先に歩いていた二人連れは、平林集落に姿を消した。夕方近くになって母の実家に着いた。突然の訪問にも関わらず、叔母は笑顔で迎えてくれた。

 早めに風呂を貰い、囲炉裏端で従兄と晩酌始めた。叔母は酒の抓みと言って、囲炉裏で鰍の干物を炙っていた。叔母は、囲炉裏の火を弄りながら私に言った。
「桃川の光枝、お前の家に行ったと聞いているが、元気にしているかの。」
私は叔母の言葉に驚いた。
「そんな話、始めて聞いた。」
と答えると、叔母は顔を上げて私を見つめた。
「へえ、知らんかったんの。」
と手を休めて、私に子細を話し始めた。

 話によると、光枝は許嫁の話がなくなってから、一生懸命に勉強したという。今年高校を卒業したが、長岡の女子短期大学に合格したという。そして私の家で下宿することになって、一週間前に荷物と共に私の家に移り住んだということだった。
「お前のかぁちゃん、光枝のことが気に入ったのだろう。」
そう叔母は言って、炙り物を串から外していた。別に私に拘りがある訳でもなかった。鰍の炙り物をかじりながら、少し多めに酒を飲んだ。

 私は、客間に敷かれた布団に入り、光枝の顔や姿を思い浮かべた。
「光枝は、偉く別嬪になってな、去年の盆に来たときは、とても明るい娘になっていたよ。」
そう言った叔母の言葉を心に刻みながら眠りに着いた。翌朝、朝食を済ませると、早々に身支度を調えて、母の実家を後にした。従兄は豚の世話のため豚舎に出かけて姿はなく、叔母は出かけに
「汽車の中で、これ、食べてくれ。」
と言って、笹の葉で包んだおはぎ三個を私に手渡してくれた。

 私は、母の実家を出て門まで行くと、脇にある桜の木を見上げた。大きな桜で一面に花が咲いていた。最初に光枝と会って別れた時のことを思った。光枝が幾度となく振り返り、手を振っているのを愛おしく見つめていた私だった。
 別れ際に、光枝は少し俯いて愁いに満ちた瞳を見せた。
「私、強くなります。貴方がいるのですもの。」
そう言って光枝は笑顔を見せて、私に丁寧にお辞儀をして別れた。そして幾らも行かないうちに振り返り、私に向かって手を振った。私もそれに応えるように手を挙げて手を振った。曲がり角で姿が見えなくなるまで幾度か手を振っていた。そして光枝の姿が見えなくなって茫然として立ちすくんだことを思い出した。私が桜を見ていると、ふと温かい風が顔を覆った。
「これも春の香りだ。」
そう思うと母の実家の門、そして桜を後にして、豊かな心持ちで長岡に向かった。

 

 

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