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「春の香」 (その三)

 

             佐 藤 悟 郎

 

( その一  その二  その三  その四 )

 

 翌朝、目が覚めると、すぐ隣の方を見た。床はその場に綺麗にたたまれ、娘の姿はなかった。居間を通り、風呂場へ行き顔を洗い、居間の囲炉裏端に腰を下ろした。従兄弟達は、朝早く仕事に出かけたらしい。私が腰を下ろすと間もなく、娘が明るい声で挨拶をしながら台所の方から姿を見せた。
「考えても仕方がないのですね。小説なんですもの。」
そう言って、私の脇にお茶と新聞を置いた。
「朝ご飯は、台所の方です。用意ができましたら、知らせに来ます。」
と、耳に顔を近付けて小声で言った。台所へと姿を消した。大方、手伝いをしているのだろう。

 従兄弟達がいないことから、墓のある場所を知っている私が案内することになった。墓は、集落から外れた山にあった。杉林のある小高いところにである。その杉林の奧に泉が湧いており、その水を墓前に供えるのが習わしとなっていた。彼は手桶をぶら下げ、娘と老婆の前を、ゆっくりと歩いていた。
「光枝さんは、学校なんでしょう。」
私は、振り向いて尋ねた。娘は、微笑んで頷きながら
「ええ、村上の女学校、今度二年になります。勉強なんて、お飾りなんです。特に、小説などを読むのは、避けているんです。」
と答えた。私は、違和感を覚えたが、聞き流すことにした。墓に着くと、墓の周りは綺麗になっていた。従兄弟達が、昨日草取りなどをしたのだろう。
「お婆ちゃん、あそこで腰掛けて、待っていてね。私、満夫さんと一緒に、泉まで行ってくる。」
娘は、老婆を近くにある四阿まで連れて腰掛けさせた。娘は、四阿のテーブルに花束を置くと、私と一緒に泉に向かって歩いた。

 泉に向かって、杉林の道を娘と私は並んで歩いた。歩き始めて間もなく、娘は私に話しかけた。
「もっと早く、貴方に会えたら。だって、私に小説を読んでくれたんですもの。」
私は、驚いて娘の顔を見た。娘は、恥ずかしそうに俯いた。
「どうしたのです。小説なんて、その気になれば自分で読めるのに。」
私が言うと、娘は俯きながら何度も頷いていた。そして考え込むように言った。
「私、あと二年経つと、十八の年の歳になります。十八になると、乙村の許嫁の所へ嫁に行くことになっているんです。会ったこともない人なのです。」
娘の言った言葉に、何と答えたら良いのか返す言葉に困った。
「許嫁がいること、高校で勉強することが意味のないことだと思いました。そうでしょう。許嫁の家は、農家なのです。」
娘は、言葉を続けた。
「特に、小説などの世界を知るのは、知ってはならないことだと思っています。凡そ思ってはならない、恐ろしい世界なのです。」
この地方では、古い風習が生きているのかと不思議にさえ思った。人の生き様を拘束する、そんな風習は良いと思わなかった。
「光枝さん、自分の人生は、自分で決めるのが良いと思います。」
娘に言ってやると、娘は深く頷いた。
「泉は、まだ遠くにあるの。」
と私に尋ねた。
「直ぐそこですよ。あの石灯籠から、右に曲がるとあるのです。」
指差しながら言った。

 泉の水を湛えた桶を下げ、杉林を戻り、墓地が見えるところまで戻った。娘は立ち止まると、突然私に言った。
「満夫さん、私の人生、私が決めることにします。満夫さん、相談相手になってくれますか。助けてくれますか。」
私は、古い風習に支配されている娘に、同情の気持ちを抑えることができなかった。
「力になれるか分かりませんが、できるだけの相談相手となりましょう。」
そう言って、娘の顔を覗いた。心配そうに私を見つめていた娘は、瞳を大きくして微笑んだ。
「満夫さんは、頼もしい人ですね。そう言っていただいただけでも、とっても嬉しい。」
娘は、空を見上げると、大きく息を吸い込んだ。再び私を見つめる娘の瞳は、輝きを一層増したように思えた。

 昼食をとって、娘と老婆が帰る時間となった。私は、見送るために下駄を履いて、庭先の道路まで、娘と一緒に歩いた。
「私、強くなります。貴方がいるのですもの。便り、書きますから。」
別れ際に、娘は私を見つめて言った。私の頷きを確認すると、明るい微笑みを浮かべ、深くお辞儀をした。私は、娘と老婆の姿が見えなくなるまで、道路に立っていた。娘は、時々、立ち止まっては振り返り、私に向かって手を振っていた。
勿論、私も答えるかのように、手を振って見送った。

 私は、大学に入って、最初の盆に、母と一緒に、叔母の家に行った。墓参りのためだった。叔母は、母の弟の連れ合いである。母の弟は、不注意から怪我のために死んでしまった。叔母は、私の母にたいそう気を遣っていた。
「そうそう、桃川の光枝、十八になる。高校生だけど、乙へ嫁に行く頃だ。」
母は、叔母に言った。
「光枝は、中々承知しないようです。勉強して、大学へ行きたい、結婚なんてまだ早い、と言っているらしいんです。」
叔母は、囲炉裏の火を弄りながら言った。母は、頷きなから聞いた。
「桃川の親父も、頑固だからな。今時許嫁なんて、あったもんじゃないよ。光枝も可哀想だよ。明日にでも、桃川に行って、様子でも見てくるか。」
私の母がそう言うと、叔母は驚いて、火箸を止めて私の母の顔を見つめた。
「姉さん、争いにならないように、気を付けてください。」
叔母は、心配そうに言った。私の母は、幾度も頷きを見せた。

 私も、母と一緒に桃川に行くことになった。歩いて、坂町の駅まで行き、汽車に乗り岩船駅に下りた。岩船駅前から、バスに乗って二十分程で桃川に着いた。桃川の家は、旧家らしく、重々しい雰囲気の建物だった。突然の訪問で、桃川の家の人は驚いていた。
「ヨキ様ではございませんか。よう、御座いました。」
母は、スタスタと床の間に入ると、仏壇をお参りした。私にもお参りするように言い、私も仏壇の前に座った。水を替え、蝋燭の炎に、線香を近付け線香を立てた。両手を合わせてお参りをした。初めて訪れる家であり、何に向かってお参りするのか、不思議にさえ思いながらお参りを済ませた。主人らしい男が姿を見せ、私の母に丁寧な挨拶をしていた。
「家の皆さん、お元気ですか。長い間ご無沙汰して、思い立ってきたんだ。お婆も元気か。」
そう挨拶をすると、風呂敷包みを解いて、菓子箱を主人の前に出した。
「長岡の名物の菓子だ。皆で食べてくれ。」
私の母の、少しぞんざいとも思える言葉に、主人は丁寧にお辞儀をして、菓子箱を受け取った。奥の部屋から、老婆が出てきて、昔の話となった。私は、訳の分からない話に溶け込むことができなかった。
「少し、庭や付近を見てくる。」
と言って、私は席を外した。
「裏の方に、天神様がある。それでも見てきなさい。」
出際に、光枝の母が言ってくれた。私は、下駄を借りて庭に出た。前庭から、裏庭を巡った。梅や柿の老木が数本あり、躑躅や椿などが、程良く植えられていた。裏庭には、少し大きな池があって、錦鯉が泳いでいるのが見えた。

 裏木戸を開けて、外に出てみると社があった。社は、竹林に囲まれ、裏は竹林の中に小川が流れていた。社に上がり、裏手に出てみると、竹林を通して、田畑と木々の豊かな小高い山が見えた。小川の瀬音が、涼しさを増していた。社から下りて、小川の道を歩き、山に向かって歩いた。山から、籠を背負った、女の姿が見えた。もんぺをはき、手拭いを姉さ被りをしていた。女は、私の姿を見つけたらしく、止まってお辞儀をすると、右手を高く上げて振っていた。近くまで来ると、女は頭に被っていた手拭いを外し、首にかけた。私は、初めてその女が、光枝であるのに気付いた。
「満夫さん、来てくれたの。嬉しいわ。」
そう言うと、私の前で立ち止まり、私の顔を覗いていた。
「でも、何処へ行くの。山は、下駄では無理よ。」
娘は、私の上から下まで見つめて言った。
「母と一緒に来たんだ。でも、私の知らない昔話ばかりで、抜け出してきた。何処へ行くって、宛てもないよ。」
私は、頭を掻きながら言った。
「家に戻りましょう。お相手しますわ。」
娘の問い掛けに、私は頷いた。二人で並んで娘の家に向かった。道路から外れ、小川の道を歩いた。
「そうよね。昔の話なんて、分かりっこないよね。」
娘は、そう言ってから、学校のこと、山に山城があったことを話してくれた。娘は、小川の板で渡した橋を先に渡った。社の竹林を通って、娘の家に戻った。

 

 

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