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「春の香」 (その二)
佐 藤 悟 郎
( その一 その二 その三 その四 )
少し桃色帯びた羽織を着ている娘、色々話し掛けてくれた娘、しかし別れはすぐだった。葛籠山へ行く道は、この堤から分かれていた。私達三人はその分かれ道に立っていた。
「お婆ちゃん、この道を、ほうれ向こうに見える竹薮あたりが葛籠山だ。」 私は荷物を手渡しながら、指差して教えた。
「とてもいい春の風ですね。もう一度、このまま土手伝いに歩いてみたい。」
娘は、閉じた目を風の通る川上の方に向け、少し感傷的に言った。そして何かを探るように、顔を傾け軽く微笑んだ。何か私に微笑みかけているようにも思えたが、どう答えてよいものか分からなかった。
「お嬢さん、失礼ですが、目が見えないのですか。」 私はそう尋ねたが、娘の答えはなかった。 「あなたは、この辺の土地の方ではありませんね。」
私は小さな詰まった声で 「はい」 と答えた。俯きながら、私は娘に悪いことを尋ねてしまったと思った。盲目の人に、私が尋ねたことは不親切だった。
私は立ち止まったまま、二人を送ろうとしていた。二人は連れ添って歩き出したが、四・五歩のところで立ち止まった。娘に促されたように、二人は私と向かい合うように振り返った。娘は相変わらず老婆の肩に両手を置いていた。老婆の顔に添うほどに近寄せ、長い黒髪を風に当てらいながら立っていた。娘の細い目の線が動き始めた。幾度となく川の方に向かって深い呼吸をしながら、春の光に向かって瞳を大きく開け、瞬きを始めた。老婆の頬から顔を遠のけながら、娘は私を見つめた。
「目が見えるの」 私は驚いて大きな声をかけた。軽く頷く娘の姿に、酷いことだと思った。娘は老婆から離れ、私に近づいてきた。
「思っていた人にそっくりや。三次郎にそっくりや。」 短い道中、私のことを考えていたのかと思うと嬉しくもあり、腹立たしくも思った。
「あら、お前さん本を持っているのね。知らなかった。」 何もかも知っているような口ぶりの娘は、若々しく清楚な感じのする美しい娘だった。
「光枝や、行こうよ。」 老婆のところへ戻りがけに娘は言った。 「今度、どこかで会ったら、読んでくださいね。」
私は軽く頷いて見せた。見ず知らずの人と、どうしてまた会えるのだろうかと思った。 「また会えるんですか。」
私は小さな声で問いかけた。娘には聞こえていたのだろう、老婆のところで振り返り、少し黒目勝ちな瞳を凝らして、静かに首を横に振っていた。
私は茫然と立ったまま、二人を見送った。葛籠山はもう近くなっていた。娘は、また目を閉じたのだろう。老婆に寄り添って歩いていた。軽い感傷が、春風の中に流れていった。少しの腹立たしさの中に、甘い心が残った。
娘の真似をして、目を閉じて深い呼吸をしてみた。すーと、川の香りが体の中に入り込んできた。私は川上に向かって、時々目を閉じて歩いた。老婆と娘の二人連れには回り道を教えたのだ。だから、私は娘と老婆の二人連れと反対の方向に向かって歩いた。
私は叔母の家に戻り、縁側に籐椅子を持ち出し、坂町の書店で買ってきた本を読み出した。印象的な小説が、次々と現れてくる。時が過ぎていくのを忘れ、読み耽っていた。ふと寒い風が頬を撫でて通り過ぎ、夕暮れ時になったのを感じた。
そんな時だった。誰か、客が訪れた。叔母が応対している。 「遠いとこから、難儀だったろうに。さ、入って休みなさい。」
叔母の言葉で、遠くからの客だと思った。 「長いこと、ご無沙汰しましてね。明日、武四郎の墓参りをしに来た。」
年寄りの声が聞こえた。武四郎と言えば、十年程前に亡くなった祖父のことだった。祖母が旦那を若くして亡くし、農家の仕事もあり、後添えの婿として迎えた人だった。
玄関の方で、挨拶が終わると、客が居間の戸を開け閉めして、囲炉裏の端に座り込んだ音が聞こえた。私は、顔も向けずに本を見ていた。
「お婆ちゃん、明日、墓参りが済んだら帰るのよ。父ちゃんに念を押されているのよ。」
そう言っている若い女の声が聞こえた。その澄んだ声に聞き覚えがあり、私は驚いて囲炉裏端の方に振り返ってみた。そこには、紛れもなく目を閉じて歩いていた娘の姿があった。娘は、顔を私の方に向け、軽く会釈をした。私も慌てて会釈を返した。
「ヨキさんの倅さんの満夫さんです。春休みの勉強だと言って、来ているんですよ。近く、大学の受験にいくんですよ。」 叔母は、私を二人に紹介していた。
夕食は、お膳で囲炉裏のある居間に用意された。いつもは叔母の家族と一緒に、台所のテーブルで食事をしていた。その日の夕食は娘達と一緒に居間ですることになった。私は、娘と向かい合ったお膳だった。私が座ると、既に座っていた娘が、微笑んでいるのを見た。娘は、綺麗に私にお辞儀をした。
「桃川の西条光枝です。坂町で、お世話になりました。お陰様で、葛籠山の親戚の家行くことができました。」 娘は、そう言うとまたお辞儀をした。
「いただくかね。」
老婆言うと、娘も私も箸を手に取り、食事を始めた。時々私と娘の目がかち合うが、特に話すこともなかった。娘は明るく、微笑みが絶えなかった。老婆は、私の母の消息や、若い頃の母の話をしてくれた。
「ご飯のおかわりをしましょうか。」
娘は、そう言って、私の飯やお汁のお替わりをしてくれた。白くふくよかな手が、私の目に眩しく映った。私は、食事が終わり、お膳の始末をどうすれば良いか迷った。
「お膳は、私が片付けます。」
そう娘が言ってくれ、私は娘に一礼をして、席を立った。私は縁側に出て、窓から空を見上げた。月が明るく輝いていた。娘のお膳を片付ける音が聞こえた。
夜になって、本を読んでいると、娘が座布団を抱えて側に来た。私が腰掛けている籐椅子の右前に、裾を整えて、座布団に座った。
「その本を読んでくださるという約束でしょう。一つでもいいから、読んでくださる。」 娘は、微笑みを見せて言った。
「そうですね。約束しましたよね。」
私は籐椅子から一旦起ち、その座布団を外して床に置いた。その座布団に胡座をかいて座り、娘の顔を見た。娘は、上体を近付けるようにして、目を輝かせ、一層深く微笑んだ。
私は、本の目次を開き、短い小説を探した。伊藤左千夫の「野菊の墓」が目に止まった。
「家の人の迷惑になると悪いので、少し小さな声で読みます。「野菊の墓」という小説です。知っていますか。」
と娘に尋ねた。娘は、首を横に振り、座布団を私の近くにして座り直した。
読み始めると、私の声が小さなためか、尚も座布団を前に動かし、覗くように顔を近付けている。聞き漏らすまいと頷きながら、時折、私の顔を見つめていた。物語が終わり近くなると、顔を伏せたまま聞いていた。読み終わって、俯いている娘を暫く見つめていた。ようやく顔を上げた目は、赤くなっていた。涙を流したのは、袂をそっと顔に当てていたことから分かった。
「悲しい物語ですね。有り難うございました。」 娘は、それでも私に笑顔を見せて部屋を出て行った。
私は、受験のための勉強を済ませ、遅くなって寝間に行き床に入った。体を右横になって、隣の床を見て驚いた。何と、その床には、娘がおり私を見つめているのが分かったからだった。私は、てっきり隣の床には、従兄弟が寝ているものとばかり思っていた。薄暗い部屋の中で、娘の顔が美しく見えていた。
「野菊の墓、とても印象に残ります。」
娘は、そう言うと布団を被ってしまった。私は仰向けとなって天井を見つめた。悲しい物語を読んでやったことに後悔の思いを感じた。
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