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「社長の賭」

 

                         佐 藤 悟 郎

 

 

 都会であっても、朝は清々しいものです。その都会の中心部に、大きな神社があって、傍には古い通りがあります。彼は、会社に行くのに、いつもこの通りを歩いていました。それには理由があったのです。朝の清々しい空気を吸いながら、その通りを歩いていると、決まって美しい娘の姿を見ることができたからです。すれ違いの束の間のことなのですが、彼は心豊かな気持ちになるのです。娘は、いつも本を持っており、近くの女子大学の大学生のようでした。彼は、いつしかその娘と語り合いたい、交際をしたいと思うようになりました。

 

 ある朝、彼がその娘の本を拾って渡したことがありました。それ以来、二人はお互いに挨拶をするようになったのです。それから間もない日曜日の昼下がりに、二人は偶然に街の喫茶店で出会ったのです。二人は、向かい合って座り、お互いを見つめ話し合いました。二人は、思い思いに心を開いて話しをするのが楽しく、友達になったのです。朝の出会いの少しの語り合い、休日のデートと楽しい日々を重ねていったのです。

 

 ところがその娘は、大学の友人に忠告めいたことを言われたのです。

「工員は、工員でしかないのよ。所詮、すぐ別れる運命よ。」

娘は、暗い気持ちになりました。思ってみれば、家庭環境も生活も、彼と結び付く要素がないと思われたのです。娘は、そう思い込んでしまうと、お互いの心の傷が深くならないうちに別れようと決心をしたのです。

「お互い、楽しく過ごしたわ。深い仲にならないうちに別れましょう。」

娘は、悲しく思いましたが、彼に言ったのです。

「貴女の思っていることは分りました。私は、貴女のような賢い方、美しい方と一生共に過ごしたかった。とても残念です。仕方のないことだったんですね。」

彼は、娘にそう言うと、彼女の前から寂しく去っていきました。

 

 娘は、彼と別れてから神社の傍の古い道を歩かずに、バスで大学まで通うようになりました。車窓から、道端に佇む彼の姿を、毎日のように見つめていたのです。それは悲しみに沈んだ姿のように見え、娘は心を痛めたのです。そして、娘は間もなく深く後悔をしたのです。

…私は、幸せを捨てようとしている。あんなに楽しかったのに。仲直りをしよう。私は、あの人を嫌いではなく、好きなんです。…

翌朝、娘は、神社の傍の古い道を歩きました。しかし、彼の姿を見つけることはできませんでした。その後、娘は、毎日のように歩きましたが、遂に彼と会うことができなかったのです。

…また、いつの日か会える。その時、嫌われないような女になろう。…

娘は、そう固く心に誓ったのです。

 

 彼は、娘と別れ、時が経つとともに、世の中が詰まらないと思うようになったのです。生きているのが空しく、会社も辞めてしまったのです。

…死んでしまおう…

彼は、そう決めてしまうと、幾らか心も和んでいきました。アパートの一室で遺書を書き終え、梁に吊した紐に向かい合いました。その時です、会ったこともない紳士が、いきなり彼の部屋に入ってきたのです。

「君…、君の命、私に預けてくれないか。決して悪いようにはしないから。」

彼は、驚いて、黙ってその紳士を見つめました。紳士は、彼に自分の会社に入ってもよいし、他にやりたいことがあれば自由にしてよいと言っておりました。命だけは捨てないように説得をしたのです。

「死のうと思うことは止めません。でも私のことを入り用でしたらどうぞ。」

彼は、過去を忘れ、その紳士に全てを任せようと思ったのです。

「貴方の会社に入ることにしましょう。その前に大学に入れて下さい。その方が貴方のためにもなると思います。それでも宜しいですか。」

紳士は、彼の言うことを微笑みながら、大きく頷いて聞き入れたのです。

 

 彼は、翌年から大学に入り、その紳士の仕送りを受けて、四年間大学で真剣に勉強し、紳士の経営する会社に入社しました。彼は、大学を首席で卒業し、また社交的な素養も身につけた立派な青年に成長していたのです。

 彼は、会社のエリート社員として入社したのです。営業部員として一年間勤務し、その実績を買われ、直ぐに係長となりました。会社の営業成績は、彼の力で何倍にもなったのです。営業課長は部長になり、数年で彼は営業課長へと昇進しました。それは、大学を卒業して四年目のことでした。部長会議で彼の躍進を妬み、讒言する者もおりました。

「二百億円の赤字を抱えていたのが、彼の手腕で負債が二十億、それも返済と黒字の見通しがついたのだから。」

その事実の前に、誰も彼の異例の昇進について文句を言うことができませんでした。

 

 倒産寸前の会社を立て直した彼の力量は、会社の内外に知られるようになりました。彼の実直な性格、柔和な心情は、会社の誰からも好かれていくようになりました。そして、彼に縁談が持ち上がったのです。取り引き先の大きな会社の専務の娘でした。結婚をすれば将来社長になれる、結構な話だったのです。しかし、彼はすぐさま断りました。彼は、あの娘のことを思い続けていたからでした。

 

 縁談話がきっかけとなり、彼は、過ぎ去った淡い恋を思い出すようになりました。時々あの娘のことを思い、緑に包まれた神社へ散歩に出かけるようになったのです。

 ある天気の良い昼下がり、彼は、会社を抜け出し、神社へ散歩に出かけました。昔の自分の姿を思い出していたのです。現在の自分の姿と比べると、昔の姿は確かに暗いものだったと思いました。当時、勤めていた会社の社長ですら、彼に頭を低く下げているのです。

 しかし、彼は人の心とは変わらないものだと信じておりました。娘の思い出は、清々しく心から離れなかったのです。娘は、工員として働いていた彼を見下げることなく交際してくれた、心の美しい女性だと思い続けておりました。もう二十七歳になっただろう、何処かの好青年と結婚をしただろうと思いました。彼は、そんなことを思いながら、池の端に佇み、鯉に餌を少しずつ与えていたのです。

「眞司さん、眞司さんでしょう。」

彼は、自分の名を呼ぶ女性の声の方に目を向けました。そして急に立ち上がり、鯉の餌を下に落してしまいました。池の中の島にある東屋に、紛れもなくあの娘の姿があったのです。友達らしい女性が二人おり、揃って華やかな小袖の和服を着ていました。明るい日差しを受け、彼の目にその娘の笑顔が眩しく映りました。

 

 彼は、娘に誘われるまま、近くの喫茶店に入りました。彼と娘は、向かい合って座り、しばらくお互いの瞳を覗いておりました。

「随分探しました。でも、やっと会えた。本当に嬉しい。」

娘は、そう言うと目が潤み、間もなく両頬に涙が流れてきました。彼は、娘の深い愛情を感じました。彼は、ハンカチを取り出して娘の左頬に当てると、娘は、彼の手を両手で包むように握りました。

「今日は、大学時代の友達の結婚式だったの。私だけが売れ残ったの。」

娘は、ようやく微笑み、そう言いました。そして、彼のハンカチで涙を拭っていました。彼は、娘が自分を求めていることを強く感じておりました。

 

 彼との再会を果たした娘にとって、毎日の楽しみは、彼と会うことでした。そして彼に嫌われないようにすることが、生き甲斐にもなったのです。

 今日も、賑やかな街を、二人で腕を組んで仲良く歩く姿がありました。そして、その二人の姿を、遠くから見ている者がいたのです。それは、彼が自殺を思い立ったとき現れた紳士、すなわち彼の勤める会社の社長でした。

「私は、賭に勝ったようだな。会社も安泰だし、これで娘も安泰だ。」

その紳士は、そう独り言をいうと、歓楽街に姿を消していきました。