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「社長の賭」 (その一)

 

                         佐 藤 悟 郎

 

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 昭和の時代も終わり近くなった頃のことです。都会であっても朝は清々しいものです。その都会の中心部に大きな神社があって、傍には古い通りがあります。彼は会社に行くのに、いつもこの通りを歩いていました。それには理由があったのです。朝の清々しい空気を吸いながらその通りを歩いていると、決まって美しい娘の姿を見ることができたからです。すれ違いの束の間のことなのですが、彼は心豊かな気持ちになるのです。娘はいつも本を持っており、近くの女子大学の大学生のようでした。彼は、いつしかその娘と語り合いたい、交際をしたいと思うようになりました。

 彼の名前は大西信司です。信司は朝早く家を出て、娘が通る公園の道の脇にあるベンチに腰掛けて、A四版ほどの大きさのスケッチブックを取り出しました。公園の木々や草花、公園敷地内にある音楽堂や劇場などを描いていました。娘が通る頃になると、スケッチブックを閉じてリュックサックに入れて歩き出しました。娘とすれ違い、職場に向かうのでした。
 ある日、信司がスケッチをしている時でした。信司は、背後から誰かが覗き込んでいる気配を感じたのです。信司が後ろを振り向くと、そこには毎朝のようにすれ違う娘が、腰を屈めて覗いている顔が見えたのです。娘は微笑みを見せました。
「ご免なさい。お上手にスケッチしていますね。つい、見とれていました。」
そう言って、娘は信司の目を柔らかく見つめ、一礼をして立ち去っていきました。
 爽やかな香りを残して立ち去っていく娘、信司はその後ろ姿を見送りました。信司が暫く見送っていると、娘は立ち止まって振り向き、丁寧に一礼をしたのです。信司も思わず、上体を大きく屈め礼を返しました。
 このことがあってから、朝の通勤通学時、信司と娘がすれ違うとき、お互いに挨拶をするようになったのです。
 それから間もない日曜日の昼下がりに、二人は偶然に街の喫茶店で出会ったのです。二人は向かい合って座り、お互いを見つめ話し合いました。信司は娘の名前が鈴木澄子であることを知りました。二人は、思い思いに心を開いて話しをするのが楽しく、友達になったのです。朝の出会いの少しの語り合い、休日のデートと楽しい日々を重ねていったのです。

 社長は、近頃になって娘の澄子が、明るく生き生きとしているのに気付きました。化粧もし、一層美しさも増していると思いました。社長は、
「これには、何かあったのだろう。調べてみよう。」
と、生来の詮索好きが顔を出したのです。娘の澄子が日曜日になると出かけていくと、娘が出かけて少し遅れて社長は家を出たのです。時々に垣間見る娘は、笑顔を振り撒きながら繁華街へと向かって歩いていました。繁華街にある大きなデパートの前で娘は立ち止まり、腕時計を覗き見たのです。そして交差点に向かって大きく手を上げる娘、向かいの方から彼氏なのだろう娘に向かって手を上げているのを社長は見たのです。二人は一緒になると、楽しそうに海に向かう道を歩いて行きました。
「これは良いことだ。彼氏ができたのか。澄子が好きであれば、どんな男でも構わん。俺も叩き上げだからな。」
そう思うと社長は、心楽しく二人を見送りました。

 ある朝のことでした。社長は、いつもより遅れて出社のため家を出たのです。会社のある繁華街に向かって歩いていると、車道を挟んで反対の歩道を歩いてくる娘の彼氏の姿を見つけたのです。彼氏はリュックを背負った工員風の格好でした。
「職場に行くのだろう。」
社長は、そう思うと彼氏の後を追ったのです。彼氏は下町にある鋳物工場に入るのを見届けました。工場入口の門には、「大川鋳鉄管株式会社」と表記されていました。
「大川さんのところに勤めているのか。社長の大川市蔵さんは、しっかりした人だ。良い会社に勤めているな。」
社長は、そう思うと少しの心配もせずに、会社に出勤するため頷きながら歩き始めました。

 信司と澄子は、朝はベンチで隣り合って腰掛け、澄子は信司のスケッチを見ておりました。日曜になると、喫茶店で待ち合わせて、街中や海辺を歩きながら話を重ねました。澄子は信司が穏やかで、優しく清々しい人だと感じておりました。
 お互いを理解し、楽しく過ごし四か月ほど過ぎた頃でした。澄子は、大学で同じ学部の峰子に呼び止められました。峰子は、校舎の外れ、松林に近いところで澄子に言いました。
「先日、日曜日だけれど、彼氏と街の商店街を歩いていたでしょう。もう付き合いは長いの。」
「そうでもないわ。四か月くらいよ。何かあるの。」
「彼氏は、大西、信司君だよね。」
澄子は頷きました。峰子は確認するように言いました。
「付き合いは深いの。そう、深くないのね。」
そして、話を切り出したのです。
「私は、大西君の家の近くに住んでいて、大西君を知っているのよ。絵の上手な子で、頭も良いわ。彼の父は亡くなって五年、彼の母は、昨年病死したのよ。今は一人暮らしなのよ。大学へも行けず、下町の鉄工所で働いているわ。確かにしっかりしているわ。でも、澄子は、鈴木商事の社長の一人娘でしょう。将来を考えると、大社長の娘と小さな町工場の工員、どう見ても釣り合いが取れない。深い付き合いにならないうちに、別れた方が良いわ。出しゃばりでなく、貴女のことを思って言っているのよ。」
と大学の友人峰子に忠告めいたことを言われたのです。
「工員は工員でしかないのよ。所詮すぐ別れる運命よ。」
澄子は暗い気持ちになりました。思ってみれば、家庭環境も生活も、信司と結び付く要素がないと思われたのです。そう思い込んでしまうと、澄子はお互いの心の傷が深くならないうちに別れようと決心をしたのです。
「お互い、楽しく過ごしたわ。深い仲にならないうちに別れましょう。」
澄子は悲しく思いましたが、信司に言ったのです。
「貴女の思っていることは分りました。私は、澄子さんのような賢い方、美しい方と一生共に過ごしたかった。とても残念です。仕方のないことだったんですね。」
信司は澄子にそう言うと、彼女の前から寂しく去っていきました。

 澄子は、信司と別れてから神社の傍の古い道を歩かずに、バスで大学まで通うようになりました。車窓から、道端に佇む信司の姿を、毎日のように見つめていたのです。それは悲しみに沈んだ姿のように見え、澄子は心を痛めたのです。そして澄子は間もなく深く後悔をしたのです。
「私は幸せを捨てようとしている。あんなに楽しかったのに。仲直りをしよう。私はあの人を嫌いではなく、好きなんです。」
翌朝、澄子は神社の傍の古い道を歩きました。しかし、信司の姿を見つけることはできませんでした。その後、毎日のように澄子は古い道を歩きましたが、遂に信司と会うことができなかったのです。
「またいつの日か会える。その時、嫌われないような女になろう。」
澄子はそう固く心に誓ったのです。

 夏も終わろうとする頃のことです。娘の澄子が俯き加減で、力なく歩いている姿を社長が見かけたのです。家では平気を装っているのですが、何となく元気がない。いつもは歩いて大学へ通っている娘が、バスで通っている。社長は、娘が彼氏と別れたのだろうと思ったのです。そして娘のことを心配しました。失恋というものは、若い者にとっては重大な心の痛みなのだと思ったからです。秋になると、外でしょんぼり歩く娘の姿を見かけると、社長は堪え難く思ったのです。

 初秋の風は、まだ温いものです。社長は大川鋳鉄管株式会社の朝夕の様子を見に行ったのですが、彼氏の姿が見当りませんでした。
「工場を辞めたのか。」
そう思う社長の心に、寂しい風が吹き抜けました。娘が歩いて大学に行くようになりました。ある朝、娘が大学へ行くのを、社長は後を隠れながら追いました。娘は公園の道に入って間もなく、立ち止まって公園のベンチを見つめていました。ベンチには誰の姿もなかったのです。
 娘が再び歩き出し、姿が見えなくなりました。社長はベンチに腰掛け、考え込んだのです。ふと顔を上げて右にある社の方を見つめた時でした。彼氏が歩いてくる姿を見たのです。彼氏は、どこかで買ったのだろう真新しいロープを小脇に抱えていました。社長が彼氏の後を気付かれないように後を追いますと、彼氏が住宅街のこじんまりした家に入るのを見たのです。
 社長は、玄関脇の木戸を開けて、庭に忍び込みました。大きな松の木の陰に隠れ、家の中を覗いたのです。ガラス戸を通し、中の障子戸は開け放たれており、彼氏の姿が見えました。
 彼氏は鴨居にロープを縛り付けていました。使っている踏み台は、よろけているように見えました。その様子を見て社長は、彼氏が首吊り自殺をするつもりだと思ったのです。社長はガラス戸に近寄り、戸を叩きました。彼氏は驚いた顔で社長を見つめ、その拍子で踏み台が外れて倒れてしまったのです。彼氏は、両手がロープの輪の中に入ってしまい、輪が縮まって宙吊りの状態になってしまいました。

 社長が縁側の戸を引くと、簡単に戸が開きました。社長は部屋の中に入って、宙吊りになっている彼氏の足下に踏み台を置きました。彼氏は踏み台に両足を置き、両手のロープを解いて畳の上に降り立ちました。社長は言ったのです。
「君、若いのに、首を吊るのは良くない。とにかく話をしよう。さあ、座りたまえ。」
 彼氏は唖然として社長を見つめました。そして言われるがままに畳の上に腰を下ろしました。社長は、彼氏が意外と落ち着いていると思いながら、彼氏と向かい合って畳の上に腰を下ろしました。社長は、落ち着き払って言いました。
「君、若いのに、何があったのか分からないが、変な考えを持っちゃ駄目だよ。ロープを抱えて、考え込んで歩いていたじゃないか。心配だから後を付いてきたんだ。」
更に社長は言ったのです。
「人生、到るところに青山ありと言うではないか。君の命、私に預けてくれないか。私の会社で働くのも良いし、君の望むことを手助けしよう。」
彼氏は、首を吊ることなど考えてはいませんでした。突然家に入り込んできた社長と名乗る男に、悪意があると思いませんでした。社長に言われ、少し俯いて考え、顔を上げて言いました。
「私は、大西信司というものです。社長さん、私を使ってくれますか。ただ、会社に入る前に、大学で勉強したいのです。大学を卒業したら、社長さんの会社に勤めます。それまでの間、私の援助をしていただけますか。虫の良いことですが、お願いできますか。」
信司は、社長と名乗る男の目を見つめながら言ったのです。社長は、その時初めて彼氏が大西信司という名前であることを知ったのです。社長は少し考えました。
「娘のためだ。これは賭なんだ。」
そう思った社長は、にっこり笑みを浮かべて
「良いとも。そのくらいのことは約束するよ。余計なことは心配しないように。」
頷きながら答えました。
「信じても良いのですね。じゃあ、話は決まりました。少し手伝ってくれますか。この大きな絵を飾りたいのです。」
信司は、百号にもなる大きなカンバスを指差しました。上部側面に大きな釘が打ち込まれているのです。それを鴨居に吊り下げる手伝いでした。鴨居に掛け終わると、信司はカンバスを覆っていた幕を外したのです。そこには紛れもなく澄子の等身大の姿が、美しく描かれていたのです。社長は驚きを隠しながら
「う〜ん、見事な絵だな。君が描いたのか。」
「ええ、とても良い娘さんでした。大学生で、お付き合いをしていました。でも、別れました。」
信司はそう言うと、台所から冷えたビール瓶を右手にぶら下げ、盆にスナック菓子とガラスコップを載せてきました。それを畳の上に置き、コップを社長に手渡し、ビールを注ぎました。社長も承知したとばかり、信司にコップを渡してビールを注いだのです。社長は、親子で酒を汲み交わすように思われ、信司を愛しく感じたのです。
「社長、私の母は昨年の暮れに亡くなり、今は独り身です。この絵を飾って、この人に家の留守番をしてもらい、私は旅に出て、あちこちで働くつもりでした。先程の約束、よろしくお願いします。」
信司は、そう言って深く頭を下げました。

 

 

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