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「社長の賭」 (その三)
佐 藤 悟 郎
( その一 その二 その三 その四 その五 )
大西信司は大学三年生になりました。鶴橋雄一は大学を卒業し、鶴橋財閥主力の瓦斯会社に勤めました。それは表向きのことで、鶴橋財閥傘下の会社に出向き、会社の経営状態の実態を把握する役目を担っていたのです。真島英雄といえば、四年生となり卒業論文に着手して忙しそうに勉強に勤しんでいた。
信司は、それまでの姿勢態度を守り、勉強と絵を描くことに励んでいたのです。それは激しい生活で、夜遅くまで時間を費やすことがあり、そんな時には、アパート近くの食堂へ行くようになりました。その食堂は、入口に「かみやま」と書かれた提灯を掲げた夫婦二人でやっている小さな食堂だったのです。
信司が夜遅くなって食堂に入ると、食堂に客は二人ほどでした。食堂の奥さんが信司の注文を聞くために座っているテーブルに来たのです。信司は
「いつもの卵丼、お願いします。」 食堂の奥さんの顔を見つめ言いました。食堂の奥さんは、信司の顔を微笑みながら見つめ
「はい、分かりました。遅くまで大変ですね。」 頷きを見せると調理場に向かいました。 「死んだ私の母によく似た人だ。」
信司はそう思いました。顔が似ているばかりでなく、表情や仕草が似ていたのです。その食堂に行くようになったのは、大学三年生になってからのことでした。夜遅くなって一番近くの飲食店を探したところ、その小さな食堂に行き当たったのです。それまでは、時間的に余裕があり、食事は学友と町に出て食事をしていたのでした。
「この近所は学生さんが多いでしょう。夜遅くまでやっているの。でも夜遅くは酒は出さないの。」
最初に食堂の奥さんの言葉を思いだしました。それにも増して最初に奥さんを見たとき、死んだ母に似ているのに驚いたのです。それ以来食事の用意ができないときには、この小さな食堂に行くことになったのです。
「この店の卵丼、とても好きです。私の母もよく卵丼を作ってくれました。味がとてもよく似ています。」 と信司が食堂の奥さんに言ったことがありました。
「そうですか。嬉しいことです。卵丼だけは、私が作っているのよ。」
そう言って、優しそうな顔を見せて微笑んでいたのです。母に似たその表情を見て、信司は瞼の裏が熱くなったのを覚えていました。
信司は、食堂で遅い夕食を済ませアパートに帰りました。そして蒲団に潜り込んで、食道の奥さん、それが母の面影に変わりました。
信司は母が亡くなった当時、元気だった母が突然に亡くなったと思っていたのです。
「愛する信司、ご免なさい。私は、信司と同じようにお父さんを愛していました。お父さんも寂しく待っていると思います。父さんのところへ行きます。」
母の枕元にそう書かれた手紙が置かれていました。手紙と一緒に信司名義の貯金通帳と「母より信司へ」と表書きのされた一冊のノートがありました。
ノートには、遺産に関することや料理に関すること、家の中に何があるのかなど、細々としたことが書いてありました。信司はそれを見て、母が突然と亡くなったのではないことが分かったのです。
検死に立ち会ったかかりつけの医師から、母が腸の病を患っていたと説明を受けました。亡くなる前夜まで母は、微笑みを見せていたのです。母が苦しみを見せずに亡くなった姿を見て、信司は声を押し殺して涙を流しました。
母が亡くなる半年前の、或ることを思いだしたのです。母が、もの柔らかに 「信司も、もう大人になったね。口座でも作っておきましょう。」
と言ったのです。信司は、母に言われるがままに郵便局に行き、口座を作ったのです。信司は、貯金通帳があることは忘れていたのですが、枕元の貯金通帳を見て初めて思いだしました。貯金通帳には多くの金額が記載されていました。その頃既に、母は死期が迫っていることを知っていたと思いました。
信司は、母の思いを抱きながら眠りに陥りました。夢の中で信司は母の遺体の側で泣くのを堪えていました。急に空虚な思い、そして寂しさを覚えたのです。右を見ると、何故か目を悲しげに潤ませている澄子の顔が見えました。そっと澄子が信司の膝の上の手に手を重ね、澄子の温みを感じたかと思った時に目が覚めました。そしてすぐに澄子の温もりを感じながらまた眠りに陥ったのです。
夏のある晴れた日、信司はその暖かさに誘われるように多摩湖へ出かけました。夏の日差しを浴びながら暫く多摩湖の小さな道を散策しました。幸い大きな木の下に芝生のある場所を見つけました。暑さを凌ぐことができ、対岸の風景などが見える場所でした。芝生の上に腰を下ろし、周囲の風景を見つめていました。
信司は風景を見定めたように、鞄を脇に放り投げるように置き、スケッチブックを広げました。先ず左に見える林と湖ををデッサンしました。その次に湖の対岸のやや右に見える森影や家の風景を、左の林の風景に合うようにデッサンをしたのです。一応デッサンが終わると、鞄から水性絵の具とパレットを取り出して、絵の具を水筒の水で薄くしてデッサンしたスケッチに色付けをしていきました。一息ついて、筆をパレットの上に置いたときでした。
「二期会の大西さんですね。」
と後ろから声がしたのです。信司が後ろを振り向くと、スケッチブックを抱えた青年が覗き見ている姿が見えました。信司は、青年の問いかけに
「ええ、大西です。貴方も絵を描きに来たのですか。」 と青年のスケッチブックに目を落として答えました。青年は頷きを見せ、
「鞄に大西と書いてあり、二期会の大西さんだと思いました。昨年、特選を受けられましたね。私も拝見させていただきました。とても良い絵だと思いました。」
と言いました。信司は、青年の話すのを聞きながら、林や対岸の色付け、空の色付け、最後に湖面の色付けをしました。青年は、信司が筆を置くのを確認して、また話しかけました。
「大西さん、話をしても良いですか。」 と問いかけると、信司から 「ええ、良いですよ。ここでのデッサンは終わりましたから。」
と、素直な返事を聞いたのです。青年は、 「私、美術大学に通っています。」
と言ったのです。二人は同じ年頃でもあり、気軽に話し合いました。青年は、信司が若いということに驚いたと言いました。そして今描き上げたスケッチはどこを描いたのか尋ねたのです。信司は指差しながら、
「左の林と右の対岸と湖の風景を合わせて描いたものです。」 信司はそう言って、更に
「中々、全て意に適った風景はないものですね。多くの好きな風景を一枚に描くようになり、その癖が付いてしまったのです。」
と思ったことを素直に話しました。青年は、納得したように頷きました。青年は、苦笑いを浮かべて
「私は、来年大学を卒業します。絵描きになろうと思っていたのですが、絵で食っていけないことが分かりました。絵描きになるのを止めようと思っています。まともに生活する方が大切だと思います。」
と言いました。信司は頷きを見せて言いました。
「そうですよね。絵で食っていけるなんて、難しいですよね。私も来年大学を卒業します。大学と言っても、経済学部です。卒業したら商事会社に勤めることに決まっています。私は絵を描くことが好きなんです。だから描いているのです。絵で生計を立てようとは思っていません。それで良いと思っています。」
そう信司は青年に言いました。青年は信司であれば、絵で十分食っていけると言ったのです。信司は、青年に首を横に振って見せました。信司と青年は、折角の出会いだからと言って、林の中にある小さな喫茶店に入りコーヒーを飲みました。その青年は西岡浩伸という名前を告げて、そして別れました。
大学三年の秋も暮れになったころ、社長から電話があり会うことになりました。社長は社用で東京に来ており、用件が早く済んだからと言って新宿駅で落ち合うことになったのです。信司が社長の指定した新宿駅の改札口で待っていたところ、後ろから社長が声をかけられたのです。社長は先に駅に着いていたのでしょう、笑顔を見せておりました。
「君は東京に出てから三年にもなるな。落ち着いて飲める店くらい知っているだろう。」
信司は社長に言われて少し戸惑いました。知っている店といえば、中野駅近くの雑居ビルの「柊」しか思い当たりませんでした。
「中野駅近くに「柊」という店があるのですが、小さな店です。他には知らないのです。」 信司が言うと、社長は
「君は真面目なんだな。じゃ、そこに行こうじゃないか。」
と言ったのです。二人は中央線に乗り中野で降りました。そして駅近くの雑居ビルにある「柊」のドアを開け中に入ったのです。
「お久しぶり、大西さん。本当に久しぶりですね。さあどうぞ。」
店のママは戸口に向かいながら言いました。店の中にはお客の姿がありませんでした。カウンター内にいるマスターは、親しそうに笑顔を見せ頭を下げました。ママは二人をマスターのいる前に案内しました。信司は椅子を引いて社長が腰かけてから、その隣に腰掛けました。社長はおしぼりを顔に当てると
「中々小奇麗で落ち着いた店ですね。」 と言いました。マスターは注文も言わないのに、棚から高級ウイスキーを取り出しカウンターに置き
「水割りにしますか。」
と二人を見て尋ねたのですが、返事を待つまでもなく水割りを作り、二人の前に出しました。社長と信司はグラスをかち合わせ、一口飲みこんだのです。
「このウイスキー中々美味い。大西くん、中々高級物を飲んでいるんだね。」
社長が信司に向かって言ったのですが、信司は首を横に振り困惑したのです。カウンターに入ったママが、信司の代わりに答えました。
「鶴橋さんが、大西さんへと入れていったものですよ。」 ママの言葉を聞いて、信司はそんな話は聞いていないと言いました。
「鶴橋さん、大学卒業する時店に来て、大西さんが来たら使ってくれと入れていったのですよ。」 信司は頭を掻きながら、社長を見つめた。
「鶴橋さんって、あの財閥の鶴橋さんの倅さんか。」 うなずく信司を見つめて、社長はにやりと微笑んだ。
ママは社長の顔を見つめながら、小首をかしげて 「もしや鈴木商事の社長さんではないですか。」
と社長に問いかけたのです。社長は驚きの表情を見せ、ママを見つめました。
「そのお顔、ズバリでしたね。私を覚えていますか。マスターと私をよく見てください。」 社長は二人を見つめて、手を叩きました。
「そうか「雪椿」のママとマスターだ。間違いないだろう。」 社長がそう答えると、ママは大きく頷き
「ご名答です。新潟を離れてもう十年にもなるわ。新潟では、大変お世話になりました。」 と、ママとマスターは深々と頭を下げました。
お互い正体を知ると、馴れ馴れしく昔話に花が咲いたのです。信司は、知らない話でしたが合いを打って、興味深く聞いておりました。社長は、信司が大学卒業したら鈴木商事に勤める約束ということも話したのです。
「君には大いに期待しているんだ。体だけは壊すなよ。体あっての人生なんだ。」 と唐突に信司の顔を見つめ社長は言いました。更に
「大学の勉強も大切だが、良い人と仲良くするんだよ。」 と言ったのです。それを聞いていたママは、
「社長さん、大丈夫よ。大西さん、鶴橋さんの他に、真島様の倅さんとも親しくなっているのよ。」 ママの言葉を聞くと、社長はにやりとして
「真島様は、うちの会社の大株主になってくれた人だ。」 と上機嫌で言いました。社長は少し酔いが回ったのでしょう、信司の手を強く握りしめました。
それからまたママやマスターと昔の苦労話や世間話をして時間が過ぎていったのです。夜も更け信司と社長は、タクシーを呼んでもらいママの見送りを受けて店を出ました。
タクシーの中で社長は 「随分遅くなった。今夜は君のアパートに泊めてもらうようにするよ。」
と言って、両手を頭の後ろに回すと眠っている様子でした。アパートの前に着くと、信司が声を掛けました。社長は目を開けて料金を支払い、タクシーを降りました。社長は、信司の様子を見て
「腹が空いた。どこか飯を食べる店がないか。」 と言ったのです。信司は食堂「かみやま」に案内しました。
「私は、よくこの店に来るんです。もう遅いので酒は出さないと思いますが、食べるものはあります。」 信司は、そう社長に言いました。
「おにぎりを握ってもらえるのか。」 社長が尋ねると、信司は 「ええ、大丈夫ですよ。私は卵丼にします。」
と答えました。店の中に入って、二人用のテーブルに腰掛け、食堂の奥さんが席に来たので、信司はおにぎりと卵丼を注文しました。社長は、注文を受けて立ち去っていく食堂の奥さんを見つめているのに信司は気付きました。
食事が終わって、信司はテーブルにあるポットから茶碗二つにお茶を注ぎました。一つを社長の前に出しますと、社長は一口飲んでから信司に尋ねたのです。
「大西君、まだ君の正体というものが分からんのだ。身の上話でも聞きたいな。」 信司は、一瞬俯いたのですが、顔を上げました。
「そうですね。履歴書も出していないのですね。私は新潟生まれで、県高を卒業しました。父は私が小学六年の時病死、母は私が高校卒業前の年の暮近くに病死、そして私は一人暮らしとなりました。」
そして信司は、話を続けました。
「父は真面目な公務員で、生活は安定していました。ただ、私は父の生家に行ったことはありません。新津の方だと聞いておりますが、勘当されたとも聞いておりますが、なぜ勘当されたのか分かりません。」
父のことを話し、次に母のことを話しました。
「母の方は、もっと分からないのです。長岡の田村家と言っておりますが、どこの田村なのか、高校入学の時戸籍を見て、母の旧姓が田村と分かった程度です。」
最後に、信司自身について話しました。
「私は、言うなれば、現在、天涯孤独ということになります。ご存じでしようが、小さいころから絵が好きでした。今でも描いています。勉強も嫌いではありません。大学の方も、一生懸命取り組んでいます。」
簡単に身の上と思われることを話しました。 「父と母のことは、よく分かりません。父も母も私に話してくれませんでした。」
社長は、信司の話をいちいち頷きながら聞いておりました。聞き終わると社長は
「そうか、それも人生だ。見たところ大西君は暗い影を引きずっていないようだ。」 と言ったのです。そして簡単に社長自身のことを話したのです。
「俺も大西君と同じく天涯孤独だったよ。長岡が空襲で私一人が生き残った。親戚のところに一時身を寄せたが、飛び出してやったのさ。大人はひどくこき使い、子供たちは生意気だった。新潟に出て働き、働きながら定時制を出て、働きに働いた。潰れそうな会社を引き継いで、今の会社までになった。」
そう話し終わると、二人は食堂を出て信司のアパートで遅い眠りについたのでした。
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