リンク:TOPpage 新潟梧桐文庫集 新潟の風景 手記・雑記集
 

 

 

「社長の賭」 (その五)

 

                         佐 藤 悟 郎

 

 ( その一  その二  その三  その四  その五 )

 


 信司は大学を卒業して故郷に戻り、翌日に約束どおり社長の経営する会社に入社しました。信司は大学を首席で卒業し、また社交的な素養も身につけた立派な青年に成長していたのです。信司は会社のエリート社員として入社したのです。営業部員として一年間勤務し、その実績を買われ、直ぐに係長となりました。

 信司が最初に実績を上げたのは、鶴橋財閥との大きな取引があったのです。鶴橋先輩は、当局からガス管には、ポリエチレン管が安全性に優れているという通知を受けたのです。取り替えには数年かかる見込みであるが、その話を大西にしました。大西は、
「以前私が勤めていた、大川鋳鉄管株式会社に心当たりがあります。社長の大川市蔵さんは、ガス管についてはポリエチレン管が優れているとの情報を入手して、その研究製造に取りかかっていました。社長は大手企業から技術者を招いて製造施設を完成させ、私もその仕事に携わっていました。」
と答えました。鶴橋先輩は、笑みを浮かべ
「地元の工場であれば、経費も安くなる。」
と大川鋳鉄管株式会社の打診を依頼したのです。その取引について、誠実に信司は対応しました。瓦斯工事で使用する配管などについては、その製品について大川鋳鉄管株式会社に打診に行ったのです。会社の玄関、入って正面には彼が描いた工場の風景画が大きな額に入って飾られていました。信司の名前を聞くと、社長の大川市蔵が直接会ってくれました。
「鶴橋さんの瓦斯会社からの注文です。古い物を交換していくということです。私は大川さんの品物を推挙したところ、鶴橋さんから是非ということでした。数年にわたる注文となりますが、よろしくお願いします。」
信司が大川社長に言うと、大川社長は注文する製品の種類、価格、納期など尋ねたのです。信司は、決して損をするようなことはないと、大まかな製品購入価格を提示しました。大川社長は、
「鶴橋さんからの注文ですか。数年の注文となると大口となりますね。かねてより、鶴橋さんのところの仕事をしたいと思っていたのです。喜んで引き受けしましょう。」
信司は、大川社長に深く頭を下げました。
「大西君、こちらこそありがたい話をいただき、感謝をします。ところで、大西君がこの会社を辞めたとき、私はとても残念に思っていました。私の会社に高校の優等生が入社したと注目していたのです。素晴らしい絵を描く人だとも聞いており、会社の風景を描いてもらいました。しばらく社長室に飾っておいたのですが、玄関に張り出したところ、社員は勿論、この会社に訪れる人が目を見張ったのです。会社の印象が良くなり、社員は誇りを持ち、社を汚すようなことがなくなり、訪れる人の信頼を受けるようになったのです。感謝をしております。この仕事については、誠心誠意行いますので、よろしくお願いします。」
更に大川社長は、
「社に戻りましたら、鈴木社長にもよろしくお伝えください。裸一貫で築き上げた会社です。」
そう言って信司に丁寧に頭を下げました。話が終わると、社長を始め、彼を知っている人が玄関まで見送りに出ました。
 まもなく鶴橋財閥傘下の会社からの注文も多く寄せられるようになったのです。真島家から大口の株の買い付けがあり、鶴橋財閥の息がかかってきたのです。

 秋を迎え、信司は会社の仕事にも慣れて落ち着いたころ、食堂「かみやま」の奥さんから便りを受け取りました。
「息子の浩伸が大学を卒業して家業を継ぐことになりました。時間を見計らって絵の方も続けております。お別れの会で一緒に来た娘さんは、私の家に住み着いて家業の手伝いをしております。娘さんは隣の町内会の娘さんですが、親御さんも認め、時々店に顔を見せてくれます。」
との近況を綴ったものでした。信司は食堂の奥さんの面影を思い浮かべたのです。
「実に、私の母に似ている人だった。」
秋晴れの日、信司は母の遺品を片付けようと思いました。母は、父の遺品をまとめ、その隣に自分のものをきちんとまとめて置いてありました。信司はアルバムを取り出して見たのですが、父と結婚してからの写真ばかりでした。幼いころの写真、実家である田村の家の写真は見当たりませんでした。
 アルバムの入った箱の一番下に、古ぼけた二つの角封筒がありました。一つの角封筒には、「田村の養父母と写った写真」と書いてありました。中の写真を見ると、椅子に腰かけた母のセーラ服姿の少女時代の姿の写真で両側に年老いた養父母と思われる人が立っているものでした。信司は、封筒に書かれた養父母の意味が分かりませんでした。
 もう一つの封筒の中には、古い写真一枚と新しく書かれた便せんがあったのです。写真を見て信司は身震いがするほど驚いたのです。それは食堂の奥さんが見せてくれた写真と同じものだったからでした。写真の裏面には
「新宿荒木町の自宅にて父が撮影、右が私神山小夜子、左が妹の神山和子」
と小さな文字で書いてありました。信司は便箋を開いて読みました。
「信司は、きっとこの手紙を見てくれると思っております。写真の裏書のとおり、私の幼いころの名前は神山小夜子でした。戦後の混乱した時代に、私は田村の家に貰われ、田村幸子ということになりました。暗い時代を送り、お父さんに出会って、初めて明るい人生を送ることができたのです。
 私の本当の父がどうなったのか、妹がどうしているのか、今になっても分からないのです。信司が絵を好きなのは、私の父が画家だったからかも知れません。妹は、きっと生きているでしよう。妹に会ったらよろしく伝えてね。そして私が信司にやってあげられなかった分だけ甘えるようにね。
 信司のお父さんは、素性の知れない私との結婚を嫌い、大西家から勘当されたのよ。お父さんは、そんなことお構いなしに私を愛してくれたの。素晴らしい人だったのよ。」
信司は母の手紙を何度も読み返しました。自分の素性の大切な部分が分かり、そして母の人生を思うと目の裏が熱くなったのです。

 そして信司は食堂の奥さんに便りを書きました。それは少し長いものでした。
「和子叔母様へ、一筆にてお知らせいたします。叔母様というのは、私の母と和子叔母様が姉妹だったと分かったからです。
 叔母様の手紙を読み、母の荷物を整理しなくてはと思いました。母は全てのものを整理しており、私が整理するものなど一つもなかったのです。母のアルバムを見ておりましたが、写真は全て父と結婚してからのものでした。ただ、箱の一番底に古い封筒があり、そこに一枚の写真と私宛の手紙がありました。写真は、私のお別れの席で叔母さんが見せてくれたものと同じものだったのです。写真の裏には、最近になって母がペン書きをしたのでしょう「新宿荒木町の自宅にて父が撮影したもの、右が私神山小夜子、左が妹神山和子」と書かれておりました。戦後の混乱期に、知らぬ間に田村の老夫婦に貰われ、名前を田村幸子となったと思います。戸籍は今更どうすることもできないでしょうが、和子叔母さんは私の母の妹であり、息子の浩伸さんとは従兄弟になります。
 母は田村の家のことを私に話すことはありませんでした。私も調べるつもりはありません。ただ叔母様が、近い身寄りと分かり、心から嬉しく思っております。これからは心置きなくお邪魔をするつもりです。よろしくお願いします。ご家族の皆様に、呉々もよろしくお伝えください。」
信司は書き上げると、読み返すこともなく便箋を封筒に入れ、投函しました。

 信司は翌日になって朝礼後社長室に入り、この話を社長に話しました。社長は
「本当に辛い話だな。君のことではない。君のお母さんのことを思うと本当の悲しみと苦しみをした人だと思えるからだ。貰いっ子は家の下働きと言われていたのだ。あの戦争は、国民を苦しめることでしかなかった。私も辛いことがあったからな、君のお母さんの苦しみはよく分かるのだ。苦しみはあったが、私は口に出さなない。私は生きているからだ。君のお母さんは、君を愛しているだろう。そしてこれからの君の人生の幸せを祈っているだろう。」
社長は、信司の話を聞いて信司の母の面影を思い出しながら言いました。信司の母の幼いころや若いころの思い出を話すことはありませんでした。そんな辛いことばかりの話をするのは、信司のためによくないと思ったからでした。
 鈴木商事の営業成績は、信司の力で何倍にもなったのです。営業課長は部長になり、数年で信司は営業課長へと昇進しました。それは、大学を卒業して四年目のことでした。部長会議で信司の躍進を妬み、讒言する者もおりました。
「五十億円の赤字を抱えていたのが、彼の手腕で負債が十億、それも返済と黒字の見通しがついたのだから。」
その事実の前に、誰も信司の異例の昇進について文句を言うことができませんでした。

 それからも信司の仕事ぶりは凄まじく、赤字続きの会社を立て直した信司の力量は、会社の内外に知られるようになりました。信司の実直な性格、柔和な心情は会社の誰からも好かれていくようになりました。
 そして、信司に縁談が持ち上がったのです。取り引き先の大きな会社の専務の娘でした。結婚をすれば将来社長になれる、結構な話だったのです。しかし、信司はすぐさま断りました。信司は、あの澄子のことを思い続けていたからでした。

 縁談話がきっかけとなり、信司は過ぎ去った淡い恋を思い出すようになりました。時々あの澄子のことを思い、古い道にある緑に包まれた神社へ散歩に出かけるようになったのです。
 ある天気の良い昼下がり、信司は会社を抜け出し、神社へ散歩に出かけました。昔の自分の姿を思い出していたのです。現在の自分の姿と比べると、昔の姿は確かに暗いものだったと思いました。
 しかし、信司は人の心とは変わらないものだと信じておりました。澄子への思い出は、清々しく心から離れなかったのです。澄子は、工員として働いていた信司を見下げることなく交際してくれた心の美しい女性だと思い続けておりました。もう二十七歳になっただろう、何処かの好青年と結婚をしただろうと思いました。信司はそんなことを思いながら、池の端に佇み、鯉に餌を少しずつ与えていたのです。
「信司さん、信司さんでしょう。」
信司は、自分の名を呼ぶ女性の声の方に目を向けました。そして急に立ち上がり、鯉の餌を下に落してしまいました。池の中の島にある四阿に、紛れもなくあの澄子の姿があったのです。友達らしい女性が二人おり、揃って華やかな小袖の和服を着ていました。明るい日差しを受け、信司の目に澄子の笑顔が眩しく映りました。

 信司は澄子に誘われるまま、近くの喫茶店に入りました。信司と澄子は向かい合って座り、しばらくお互いの瞳を覗いておりました。
「随分探しました。でも、やっと会えた。本当に嬉しい。」
澄子はそう言うと、目が潤み、間もなく両頬に涙が流れてきました。信司は、澄子の深い愛情を感じました。信司はハンカチを取り出して澄子の左頬に当てると、澄子は信司の手を両手で包むように握りました。
「今日は、大学時代の友達の結婚式だったの。私だけが売れ残ったの。」
澄子はようやく微笑み、そう言いました。そして、信司のハンカチで涙を拭っていました。信司は、澄子が自分を求めていることを強く感じておりました。

 信司との再会を果たした澄子にとって、毎日の楽しみは信司と会うことでした。そして信司に嫌われないようにすることが生き甲斐にもなったのです。
 今日も賑やかな街を二人で腕を組んで仲良く歩く姿がありました。そして、その二人の姿を遠くから見ている者がいたのです。それは、彼が自殺と勘違いしたときに現れた紳士、すなわち信司の勤める会社の社長でした。
「私は、賭に勝ったようだな。会社も安泰だし、これで娘も安泰だ。」
その紳士はそう独り言をいうと歓楽街に姿を消していきました。いずれ娘の澄子が、信司から名刺を貰って名刺を見れば、父が経営する会社に勤めていることが分かるだろうと思っていたのです。だから社長は「賭」に勝ったと思いました。
 しかし、娘から結婚の話もなければ、信司からの話もありませんでした。社長は、どうにかしなければならないと思ったのです。

 信司と澄子が再会した年も暮れになりました。澄子は信司が一人で寂しく年を過ごすのではないかと思いました。
「大西君、私の家で年を越さない。両親もいるから、楽しく過ごせるわ。」
澄子は、そう言って信司を誘ったのです。信司は言いました。
「ありがとう。実は会社の社長から誘いがあって、社長の家で年を越す約束をしているのです。社長には、随分世話になっているので、断ることができないのです。」
そう答えたのです。澄子は寂しそうに姿を見せ、俯いたのです。
「社長には、大変お世話になったんです。私が澄子さんと別れて途方に暮れ会社を辞めました。どこか宛てもない旅に出ようとしていました。私の姿が哀れだったのでしょう。そんな私の後をつけて、家に来てくれたのです。社長は、社長の会社で社員として入社することを条件に、私が大学に入るのを受け入れ、全面的な支援をしてくれました。アパートの入居費、大学の入学金、授業料、それに生活費まで面倒をみてもらいました。卒業すると、エリート社員として迎えてくれたのです。社長には、言いあらわせないほどの恩があります。だからごめんね。新年早々に連絡をするよ。」
そう信司は言ったのです。
「そうなの。そんなに世話になったの。社長さんって、良い方なのね。」
澄子は、そう言って納得しました。そして新年になったら、澄子の家を訪問する約束をしたのです。

 大晦日も夕方、信司はうろ覚えの社長宅付近の道を探しながら歩いていました。すると向かいから買い物籠を手にした澄子が歩いてきたのに気付きました。信司が手を上げると、澄子は小走りで信司の前までやって来ました。
「近くのスーパーまで買い物に行くの。今夜、急にお客が来ると言うのよ。」
と澄子が言いました。信司は、
「澄子さんの家って、この辺なの。」
澄子が二度頷くのを見て信司が尋ねたのです。
「じゃ、教えてくれないか。鈴木信次郎さん、会社の社長の名前なんです。お住まい、教えてくれないか。」
澄子は、茫然として信司の顔を見つめました。そして急に笑顔を見せて言ったのです。
「信次郎は、私の父よ。社長の家って、私の家よ。お客様って信司君なの。嬉しいわ、私の家に来るのね。」
そう言って、澄子は手を信司の前に差し延べました。二人は手を握りあいました。
「信司さん、一緒に買い物に行きましょう。好きなものをいっぱい買いましょう。とても嬉しいんですもの。楽しいんですもの。」
そう澄子は言いました。そして二人は寄り添ってスーパーに向かって歩いて行きました。歩きながら信司は思いました。社長は信司と澄子との関係を始めから知っていたのだと思ったのです。

 

 

( その一  その二  その三  その四  その五 )