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「社長の賭」 (その二)

 

                         佐 藤 悟 郎

 

( その一  その二  その三  その四  その五 )

 

 

  信司は、社長の言葉を信じ、大学受験のための勉強をしました。そして東京の名のある私立大学の経済学部に合格したのです。信司は、元々高校の学力は相当なものでしたので、短い期間で大学入学試験に合格することができたのです。信司は家で合格の電報を受け取ると、仕事中の社長に電話をしました。社長は、大学名と学部名を確認すると、
「立派な大学じゃないか。仕事が終わったら君の家にお邪魔するよ。何も用意するんじゃないよ。私が持って行くから。」
そう言って電話を切りました。信司は社長が約束を覚えていたことに感謝したのです。
 夜になると、社長は酒瓶と抓みが入った袋をぶら下げて信司の家に姿を現しました。お互いに茶碗で酒を酌み交わしながら、社長は信司に言いました。
「大学に近いところに手頃なアパートがあったので決めた。私の知人が経営するアパートだ。家賃は毎月私の方から払い込んでおく。二間で、バス・トイレ付き、キッチンもある。それで良いだろう。」
信司は大きく頷いた。手回しの早い社長の配意に驚きと感謝を示した。更に、社長は入学金など入学時に必要な現金を彼に手渡したのです。
「月々の生活費については、毎月月初めに口座に振り込むので、口座が決まったら知らせてくれないか。」
と言い、付け加えるように、
「金が足りなかったら、知らせてくれ。理由を聞くなど野暮なことはしないから、遠慮するな。見たところ君には遺産が入ったと思うが、無駄に使うようなことはしないように。」
と言ったのです。信司は、何故、社長がそれ程までしてくれるのか尋ねました。
「大学を卒業すれば、我が社のエリート社員となるのだ。投資するのは、当たり前のことだ。」
と言ったのです。
「勉強ばかりするのも良いが、君には絵の才能がある。絵を描くことも忘れないで欲しい。」
と念を押すように言ったのです。申し分のないほどの社長の好意に、信司は未来が大きく広がっていくことを感じたのでした。
 四月、東京の桜の咲き始め頃、彼は東京に向かった。東京に向かう電車の中で、交際を止めた澄子の顔を思い浮かべました。大学を卒業したら、もう一度交際をすることを願っていたのです。

 大学に入って間もなく、大学の県人会がありました。信司は高校時代の同級生がいるのを知っており、会場に行くと同級生の真島英雄君の姿が見えました。真島君は信司に向けて手招きをしていました。信司は真島君の隣に座ると、軽く握手をしました。
「君の家、大変だったな。とにかく大学に入れて良かった。お互いに頑張ろう。」
真島君は、信司の家の状況を知っており、とにかく喜んでいたのです。真島君の家は旧家で資産家でした。
「とにかく困ったことがあったら、相談してくれ。」
信司は、真島君の言葉に喜び頷きを見せました。

 県人会も半ばを過ぎ、会場内ではざわめきが絶えませんでした。真島君は、席を外して知人に挨拶方々ビールを注ぎに回りました。信司は会場内を見渡しました。若い人の熱気が溢れ、生き生きとした言葉、動きが見えました。
 突然だった。後ろから肩を叩く者があったと感ずる否や、真島君が座っていた席に、笑顔を見せながら顔見知りの先輩がドサッと腰掛けたのです。
「いや、久し振りだな。美術部の部長君。一年遅れでこの大学に来た。絵を描くのを諦めたのか。」
腰掛けるなり、そう先輩が言うのだった。先輩というのは、高校時代の一年先輩で生徒会長をしていた鶴橋雄一先輩だった。信司は高校当時、二年生でありながら、部員の数が少なかったこと、彼が絵に優れた実力があることから美術部の部長となっていたのです。
「高校時代、美術部に多くの援助をいただき有難うございました。絵は描き続けています。私から絵を取ったら、何も残りませんから。」
と信司は答えた。
「実は、君の絵を新潟の自宅の居間に飾ってあるのだ。家の者全てが素敵な絵だと言っている。あるところから、手に入れたんだ。それも、相当な金を払ってだ。」
信司は、絵を売ったことはないし買い求められた覚えもなかった。ただ、描いた絵を盗まれることがあったことは確かだった。
「先輩、どのような絵なんですか。」
「林の木々があり、湖と山々がある絵だ。見ていると美しい詩が流れている絵だ。」
それを聞いて、信司は高校三年生の時、二科展に出品するために完成させた絵だと分かった。出品間際に、美術部の部室から盗まれたものだった。
「それは良かった。私の絵が気に入られて。」
信司は嬉しそうに微笑み、何回も頷きを見せた。

 県人会が終わると、真島君と彼は、鶴橋先輩に誘われて夜の町へと繰り出した。鶴橋先輩は、新宿にあるビアガーデンを案内し、その後中野に向かい鶴橋先輩の顔見知りのスナックバーに連れて行ったのです。その店は雑居ビルにある「柊」という店で、中年も過ぎた夫婦が経営している店で、マスターとママは新潟出身の人でした。新潟の近況など、新潟の情報を多く話す人でした。一時間ほどいて、店を出ました。それぞれ方向が違うことから新宿駅で別れました。

 鶴橋先輩は、鶴橋家が経営する瓦斯会社の東京出張所の社員寮、真島英雄は東京の叔父の家で住んでおりました。信司は、授業が終わると真っ直ぐアパートに帰っておりました。夕食の支度をして夕食を済ますと、部屋の掃除をしました。勉強を段取りよく行い、絵の制作も欠かすことがありませんでした。一部屋の半分をアトリエのようにしておりました。
 休日や講義のないときなどは、公園や学校近くの街角でスケッチをしておりました。鶴橋先輩は、忘れた頃に真島と信司に連絡を取り、会うように配意しておりました。昼の食事会の時もあり、夜のスナックでの会合の時もありました。よく美術館、博物館、イベント等に連れて行くことあったのです。
 また、信司は、お盆や年末年始、それに季節の移り目に一日か二日ほど帰省をしました。それは家の掃除、空気の入れ換え、庭の整理などをするためでした。そしてお彼岸やお盆、父母の命日には墓参りをするようにしておりました。瞬く間に一年が過ぎ、信司は大学二年生となったのです。

 澄子が大学三年になった春のある日のことでした。大学の校庭に桜が咲き、空は晴れた日だったのです。澄子がサクラを見上げながら歩いていると、誰か呼びかける声したのです。澄子が目を向けると、峰子が手を振っているのが見えたのです。
「校庭の桜、綺麗ね。」
澄子と峰子は、並んでサクラを見上げながら歩いていました。峰子は、桜の下で休んでいる学生を指差しながら、
「彼、同じ学部なのよ。勉強一途なのに、やはり外の空気が吸いたいのね。」
峰子は、そう言って彼が下宿生活をしていること、博士を目指していると好意的に話しているのです。峰子は、突然に立ち止まって、話があるといって近くのベンチに二人で腰掛けたのです。
「澄子、大西君から便りある。」
澄子にとって、突然の問いかけだった。以前、峰子の忠告を受けて別れたのに、峰子は忘れたのだろうかと思ったのです。澄子は、首を横に振りながら、
「便りがある訳ないでしょう。別れたんだから。」
澄子は、素っ気なく答えました。峰子は、澄子の顔を覗き、何か怒っているように思ったのです。
「そう、でも話しておきたいの。大西君、鋳物工場を辞め、一年遅れで東京の大学へ入って、今二年生なのよ。年に数回帰って来て、家や庭の手入れをしているらしいの。大学卒業したら、家に戻ってくるらしいわ。」
そう言って峰子は、無表情で聞いている澄子の顔を見ていました。
「澄子、大西君って、とっても良い人なのよ。以前、私悪いことを言ったわ。謝るわ、ご免なさい。」
澄子が、無表情で頷きました。そして澄子は、
「大西君が、良い人だっていうこと、私、知っているわ。でも、別れたのよ。」
と答えました。峰子は済まなそうに、
「私に、責任があるわ。大西君に会ったら、寄りを戻すように言うわ。何か、大西君についての話を耳にしたら、貴女に伝えるわ。」
と言ったのですが、澄子は大きく首を横に振りました。寂しそうに笑顔を見せて、
「そんなことしなくたって良いわよ。別れましょうって、私が言い出したのよ。もう、考えたくないの。」
と峰子に言いました。言い終わると、自分を納得させるように何回も頷いたのです。そして二人の間には、会話も途切れてしまったのです。峰子は、講義が始まると言って立ち去りました。
 峰子を見送り、澄子は桜を見上げました。花の間から日の光が柔らかく射し込んでいました。
「峰子、私は大丈夫よ。大西君のこと、何時だって忘れたことないわ。大学を卒業して、この地に戻ってくる。それだけでも嬉しい話だった。会いさえすれば、すぐ仲良くなるわ。」
そう桜の花に向かって、澄子は小声で言いました。

 信司が二年生となって、桜が散り始めた頃だった。鶴橋雄一先輩は四年生となっておりました。信司は、その鶴橋先輩から先輩の彼女の肖像画を描くことを依頼されたのです。信司は鶴橋先輩から日頃世話になり、多くの知識を得ました。鶴橋先輩は、彼女が将来結婚する相手で、記念にしたいと言って依頼したと言ったのです。彼は快く引き受けました。
「先輩、私は画家ではないので上手く描けるかどうか分かりません。でも一所懸命に描きます。できましたら五枚ほどの写真、角度を変えたものを貸していただきたい。描き上げたら写真はお返しいたします。それに一度でよいので、先輩の彼女にお目にかかりたいのですが、よろしくお願いします。」
鶴橋先輩は気さくに了解したとばかりに微笑みを浮かべて頷きを見せました。

 鶴橋先輩から連絡があり、先輩の彼女に会うため絵画館前で落ち合ったのです。鶴橋先輩は、噴水のところで彼女と一緒に待っていました。信司は、自分の名前を告げて彼女に丁寧に挨拶をしました。
「宇佐美百合子です。新潟生まれで新潟育ちです。鶴橋さんとは、家族ぐるみでお付き合いしており、幼い頃からの知り合いです。私の絵を描いていただけるのですね。よろしくお願いします。」
そう言って、バックの中から封筒を出し、その封筒から写真五枚取り出しました。
「私の写真五枚です。こんなもので良いでしょうか。他のものを用意しましょうか。」
そう言いながら、写真を信司に手渡しました。信司は一枚一枚写真をゆっくりと見つめていました。信司は絵の構成を考えていたのです。
「有難うございます。これで十分です。」
信司はそう答え、差し出された写真入れの封筒を受け取り、ショルダーバッグにしまい込みました。

 神宮の杜を三人でそぞろ歩き、小さな喫茶店に入りました。そこで彼は言いました。
「絵は、秋までに完成させる予定でいます。十分、精魂を籠めて描き上げます。気に入っていただければ良いのですが、少し不安も抱いております。」
信司は、そう言い残して鶴橋先輩と彼女を残して、喫茶店を後にしました。信司は百合子について、優しそうな美しい人だと思いました。

 百合子の肖像画も完成間近だった頃、鶴橋先輩は百合子を連れて信司のアパートを訪れました。カンバスの百合子の肖像画を見て、二人とも満足そうでした。
 百合子は、信司の部屋に飾ってある女性の絵が目に止まったのです。それは高校時代の同級生だった鈴木澄子にそっくりだったからでした。
「誰なの。」
と百合子が尋ねると、信司は
「夏の頃、外苑を散歩中に、モデルになってくれた人です。三十分ほどデッサンをして、それを描き上げたものです。何か?。」
と、百合子に信司が問い返しました。
「いえ、高校時代の同級生に、そっくりだったものですから。」
と百合子は答えました。

 それから間もなくして、鶴橋先輩が絵をもらい受けるため、信司のアパートを訪れました。何故か、百合子の肖像画がなくなっていたのです。どうしたのかと尋ねると、絵の価値を知るために、会員となっている二期会展に出品したとのことでした。信司は、入選でもすれば、箔が付くと言っていたのです。ただ、
「入選すれば、しばらく各所で展示されるので、絵が手元に帰ってくるのは暮れになるだろう。」
そう信司は、楽しげに言ったのです。
 絵は、特選に選ばれて、有名画廊から高値で買い取る話が持ち上がりました。信司は、絵の依頼主に渡すと言って断りました。

 鶴橋先輩が大学卒業近くなったころ信司は、百合子の肖像画を鶴橋先輩に届けました。鶴橋先輩は、信司のことが心配となったのです。信司は来年三年生となり、キャンパスも変わることになるのです。色々と出費も増えるだろうと思ったのです。信司の両親はなく、遺産相続があったにしろ、大学を満足に過ごすことができるだろうかとも思いました。また就職先についても心配だったのです。信頼できる友人として、身近にいて欲しいとも思ったからでした。手助けが必要であれば、支援を惜しまないとも思っていました。就職先が見つからなければ、鶴橋家の主力会社に迎えることも考えていました。
 信司と会って、それらについて話しました。信司は、大学に入学に到った経緯を語りました。それを聞いて、鶴橋先輩は安心したのです。
「鈴木商事か。中堅のしっかりした会社だ。社長は、鈴木信次郎、裸一貫から叩き上げた会社だ。やり甲斐があるだろう。」
鶴橋先輩は、信司が鈴木商事に入社したら、大いに取引を活発にすることを考えていました。
 信司は真島や鶴橋先輩に誘われて、時々外出をしました。食事方法やダンスなどを教わりました。勉強も熱心にやり、絵の制作にも精を出して過ごしておりました。

 

 

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