リンク:TOPpage 新潟梧桐文庫集 新潟の風景 手記・雑記集




「お囃子の新助」(その

 

                 佐 藤 悟 郎

 

その一)(その)(その三)(その)(その

 

 

 数日の間、時太郎は、稽古場と作業場、離れの住まいを隈無く見て回り、多賀良老人が書き記した横笛の譜と横笛を全て集めました。荷物をまとめると、その日の内に道場から姿を消したのです。上野近辺に侍達が集まり、大君の軍と戦になりそうだったからでした。戦で火災になったりして、多賀良老人が残したものが失われることを恐れていました。とにかく多賀良老人の残した譜面や横笛の多くを多賀良老人と親交のあった寺に預けました。時太郎は、江戸から離れ、しばらく故郷に帰っていようと思ったのです。

 上野での混乱は、そう広がることなく収まりました。幾日も経たないうちに、福田春太郎が多賀良横笛稽古場を訪れたのです。時太郎と話をして、時太郎を引き取ることが目的だったのです。稽古場の錠が掛かっており、家のぐるりを見て回ったのですが、人気が無くなっていました。春太郎が表に出ると、お寺の小僧が来て錠を開けようとしていました。春之助が小僧に住人がどうしたのか尋ねると、
「和尚様が言われるには、ここの新助さんは戦を避けるために生まれ故郷に帰ったということです。お寺に荷物を預け、この稽古場の留守を頼んで去ったとのことです。今和尚さんに言われて、お屋敷の様子を見に来たのです。」
との答えが返ってきました。春太郎は、小僧の言ったお寺に行き、和尚に会って訳を話して時太郎の生まれ故郷がどこなのか尋ねました。和尚は
「わしゃ、知らん。」
と言って教えてくれそうもありませんでした。春太郎は、とにかく時太郎を探さなければならないと決めたのです。

 ようやく村に帰った時太郎は、目的を失い何もやる気もなくなりました。夜は家に帰るのですが、ただ眠るだけでした。朝飯を食べると川原に行って、寝転んで空を見つめる毎日でした。
 梅雨の頃が過ぎ、青空が天高く見えるころになりました。雄大な川の水も澄み、滔々と流れる水も、岸辺に生える草に寄る波も、それは汚れのないものでした。
 広い平野の中の田圃は、稲で青波が揺れるようでした。田圃は、毎年の大水にも荒らされることがありませんでした。先代の領主様が、治水を上手く行ったからです。毎年のように豊作が続くこの村は、庄屋も地主も、小作人も豊かに、人情深く暮らしておりました。

 そんな平和な村に最近になって、川原で毎日ゴロゴロ寝転んでいる若者が現れたのです。他人に危害を加えるわけでもなく、のんびりしたこの村の人も悪くは言いませんでした。ただ、髪を乱し、汚れた長着と袴、埃だらけの姿でいるのを少し噂にするくらいのことでした。

 その若者が、村の長老と河原で話したことがありました。その日は、鬱陶しく、今にも雨が降りそうな頃合いの日でした。
「お前さん、時太郎と違うのか。」
時太郎、そうだとばかり頷きました。
「そう毎日ゴロゴロしていたんじゃ、体に悪かろう。」
と、長老が言ったところ、時太郎は
「いや、そんなことなんか構いやしない。俺の身も心も、もう終わってしもうたんじゃ。」
と答えたのです。時太郎は、そのむさ苦しい姿で、疲れ果てた笑いを見せました。
「なあ、お爺さん、私は長いこと江戸に出てきたんだ。そして村へ帰ってくるとき、身も心も、何もかも捨ててきたんだ。ただ生まれた土地で死にたいばかりにな。」
長老が、その頼りない時太郎の言葉を聞いて、心配そうに言った。
「お前さん、若いのに、どうして自分を悲しく思うんだね。」
若者は、鬱陶しい空の色を写した川面を見て、しみじみと言うのでした。
「私は、どうせ百姓の子でしかない。百姓なんか、どうにもできない。」
そう言うと、体をまたゴロッと川原の草の上に横たえてしまいました。長老は、雨が降ってきたので帰りましたが、時太郎は降る雨の中で身を委ねていました。

 ある日、その時太郎の体が弱り切っているときでした。疲れ果てて、深い眠りに陥っている耳に、自分の名前を呼ぶ声が聞こえたのです。
「時太郎さん、時さん、起きなさい。」
時太郎が目を覚ますと、四十も越えた年増の女が、自分の体を揺さぶっているのに気付きました。
「何ですか。私のような者に、何か用でもあるのですか。」
年増の女は、汚い物を触ったときのように、手を払いながら
「いえね、私は、浜という女ですがね、堤を歩いていたら、お前さんが寝転んでいるじゃありませんか。話に聞いておりましたが、高森の時太郎さんと思われませんな。高森の子供なら、もっと綺麗なはずじゃ。お前は、やっぱり時太郎かい。」
若者は、寝転んだまま、ただ目を開いて
「そうじゃ、俺は時太郎じゃ。今に、死んでしまう男じゃ。」
そう言って、時太郎はまた目を閉じました。年増の女は、堤の上に向かって
「お嬢さん、とても相手になりません。」
「そうかい。」
時太郎は、堤の上の方から聞こえてきた、澄んだ声に少し驚いたのです。そして堤から人が降りてくるのを感じました。
「この人、本当に時太郎さんかい。」
時太郎は、その声が近くに聞こえたので、驚いて目を開きました。そこには、目が澄み、唇が柔らかそうな、高島田が似合う娘が、屈み込んで覗いているのを認めたのです。丸み帯びた頬が、言いようもなく美しく感じさせる娘だったのです。
「本当に、俺は、時太郎じゃ。」
時太郎は美しい娘に言いました。娘は唇を丸めて
「違うわ。時太郎さんじゃない。時太郎さんは、貴方のように汚くないわ。」
時太郎は、目を閉じました。僅かに香りが漂う、この晴れた日の下で、ふと、また何かを思い起こすのでした。
「本当に、時太郎さんなの。」
時太郎は、黙ったまま、口も心も塞いでしまいました。
「どうなの。何か言いなさいよ。時ちゃん。」
時太郎は、若い娘に声を掛けられるのは、久しいことでした。ただ、それだけに清々しい気がしたのでした。時太郎の頭の中に、光明のような光が差してきました。
「あら、懐に錦の袋が。ね、ね、時さん、何が入っているの。」
さっきから黙っていた、年増の女が微笑みながら
「お嬢さん。男の人に、少し言葉が多すぎましょう。」
と言った。時太郎は、目を開いた。年増の女の言葉のためでしょう、娘は耳元まで赤くして恥じらいで俯いている姿が見えました。
「この錦の袋の中には、私の大切な横笛が入っているんだ。」
時太郎は、娘にそう言葉をかけました。娘は、恥じらう顔を、それでも澄んだ瞳を時太郎の上に落として言いました。
「知っていたわ。吹いてくださる。」
若者は、少し顔色を変えて言ったのです。
「どうして、知ってるんだ。」
時太郎は、跳ね起きた。そして屈んでいる娘に向かって、
「どうして、知っているの。」
と同じ言葉を娘に向かって言ったのです。娘は、俯いて、暫く黙っていました。娘は、静かに顔を上げて、時太郎の膝元から顔を覗きました。娘は、微笑んでいました。
「他ならぬ、時太郎さんからお聞きしました。ね、横笛を吹いて、お聞かせください。」
時太郎は、空を仰ぎました。何と、この村に、自分のことを知っている者がいるのかと思うと、それは腹立たしいことでもあったのです。突然、時太郎は娘をにらみ返し
「お前なんかに分かるか、帰れ。どっかへ行ってしまえ。」
娘は、すくっと立つと時太郎をにらみ返しました。美しく、悲しげな目をして
「江戸で、何があったか、私はちいっとも知らない。でも、私を叱らなくてもいいじゃない。」
そう言うと、娘は堤を駆け上り、走り去っていきました。後に残った年増の女は、時太郎に諭すように言いました。
「時太郎さん。庄屋様のお嬢様は、貴方が帰ってきたのを、とても嬉しく思っていらっしゃったのよ。」
時太郎は、また寝転ぶと
「やっぱり、庄屋のお千代さんか。」
と、呟くように言うと、楽しげに空をじっと見つめていました。
「お嬢様は、いつも無口でしたのよ。それがどう、時太郎さんに、あんなに話しかけて。お願い事までして。」
年増の女は、話を続けました。
「きっと、お嬢さんも年頃なのでしょう。若い男に、こんなに話しかけるなんて、初めてよ。若い男と言っても、こんな汚い、ゴロゴロしたのめしこきじゃ、どうにもならんと思うがね。お嬢さんのすることも分からん。」
年増の女は、腰を立てると、堤を上り始めました。時太郎の顔が、急に明るくなったのです。
「お千代さんに伝えてくれ。十日目に、ここに来たら、横笛を吹いてやるから、そう言ってくれ。」
時太郎は、年増の女の背後から言いました。

その一)(その)(その三)(その)(その